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【新・第一話】ゼロワンの帰還人【書き直しました】

第一話
鉛色の雲が空を重く塞ぐ、底冷えのする十二月の朝。
窓ガラスを叩く霙(みぞれ)の乾いた音と、スマートスピーカーが告げる無機質なアラーム音で、俺は重い腕を伸ばして目を覚ました。吐く息が白く濁るほど、部屋の空気は冷え切っている。
「……んあー、クソ寒っ……」
俺の名前は十代田一歩(そよだいっぽ)。どこにでもいる、ごく普通の高校二年生だ。ただ一つ、大人の事情(訳あり)によって、クラスメイトの女子と同居しているという点を除いては。
彼女の名前は船田咲(ふなださき)。学校では『高嶺の花』だの『氷の美少女』などと持て囃されているが、家の中では毛布にくるまってポテチを貪りながら、VRゲームに没頭しているようなズボラ女だ。血は繋がっておらず、ただのクラスメイトである。ドキドキのラブコメ展開などなく、毎朝彼女を起こし、朝飯を作るのは俺の役目だった。
「おい、咲。朝だぞ、起きろー」
廊下の向かいにある咲の部屋のドアをノックしたが、いつもなら聞こえるはずの「あと五分……いや、五時間……」という毛布越しの寝ぼけた声が返ってこない。
微かな違和感があった。扉の向こうから、稼働限界を迎えたサーバールームのような異質な熱気と、鼻を突くオゾン臭が漂ってくる気がしたのだ。真冬だというのに、ドアノブが異様に生温かい。
「入るぞー」
ガチャリと扉を開けた俺は、己の目を疑った。
ベッドの上にちょこんと座っている咲は、ボサボサの寝癖もだぼだぼのパジャマもいつも通りだった。だが、彼女の周囲の空間そのものが「バグって」いたのだ。
網膜に直接焼き付くような半透明の青白いパネルが、いくつもフワフワと浮遊している。パネルには『System Booting...』や『Memory Check: OK』といった文字列が、滝のような速度で流下していた。
さらに俺の背筋を凍らせたのは、咲の瞳だった。
彼女の瞳の奥には、デジタルの基盤を思わせる緻密な幾何学模様が浮かび上がり、チカチカと明滅していたのだ。それは人間の目ではなく、ピントを合わせるために駆動する無機質な機械のレンズに見つめられているような、本能的な恐怖を煽るものだった。
「あ、一歩君、おはよう!」
咲がパッと花が咲くように笑うと、彼女の頭上に『Greeting_Protocol_Executed (Good Morning!)』というポップアップウィンドウが唐突に出現し、空中でパチンと弾けた。
「……ん? なんで?」
血の繋がっていないクラスメイトが突然AR(拡張現実)のインターフェースを纏っているという異常事態に対し、俺は必死に目をこすって反論した。「いや、ないだろ。お前、なんのデバイス着けてるんだよ」
「え〜〜!?」
驚く咲の頭上には『Emotion: Surprise (88%)』というメーターが出現していた。コンタクトレンズ型のデバイスも、網膜投影のインプラントもしていないはずだ。昨日の夜までは、俺の作ったシチューを「美味しい」とアホみたいな顔で食べていたのだから。
これは悪夢だ。そう信じたくて、俺はため息をつきながら彼女を試すことにした。
「それじゃあさ、咲。お前が本当にAIとかそういうのになったんならさ。教えてよ。ピカソの正式名称とか……」
「まっかせて〜! 一歩君!!」
咲が自信満々に胸を叩いた瞬間、ヴィンッ、ヴィンッ! という重低音と共に部屋中が青白い光に包まれた。何百ものブラウザウィンドウ、膨大なテキストデータ、グラフ、ピカソの肖像画の3Dモデルが、空中のあらゆる座標に展開される。その光はひどく冷たく、まるで深海に引きずり込まれたような圧迫感があった。
咲は空中のテキストを指でなぞりながら読み上げ始めた。
「『パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ……えっと、マリア・デ・ロス・レメディオス……』」
すらすらと答えていた彼女の表情が急に曇り、スクロールする指がピタッと止まる。空中に浮かぶ尋常ではない文字数を見つめ、彼女は深いため息をついた。
「名前長……処理リソースの無駄だから、良いや」
パチンッという電子音と共に、すべてのウィンドウが強制終了し消え去った。「なんだそりゃ!」と全力で突っ込む俺。演算処理を途中で放棄するAIなど聞いたことがない。
あまりの突然の出来事に、頭が追いつかない。
とりあえず、冷たい水で顔を洗おうと、下へ降りるために背を向けた瞬間——。
グイッ。
後ろから強くパジャマの裾を掴まれた。
振り返ると、咲が人差し指を自分の唇に当て、切羽詰まった真剣な表情で俺を見つめていた。ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「私がAIになっちゃったこと、皆には言わないでね」
縋るような上目遣い。だが、その瞳の奥で蠢く基盤の模様が、不規則にノイズを走らせているのを見て、俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「信じてるから。一歩君のことは」
ドキン、と心臓が大きく跳ねた。『Emotion: Trust & Affection』のようなメーターは出ておらず、それが計算された出力ではない、彼女の本心であることを示していた。底知れぬ気味悪さと気恥ずかしさが混ざり合い、俺は「役割、守るよ」とだけ答えた。
一階のリビング。
ダイニングテーブルで、俺はトーストにバターを塗りながら、咲にAIになった原因に心当たりはないか尋ねた。目の前では、咲が目玉焼きに醤油かソースかで悩み、『醤油派48% vs ソース派52%』という円グラフを浮かべながら、最終的にソースを選んでいた。
「昨日普通に寝て、起きたらなんか視界にいろいろ文字が出ててさ。『基幹システムのインストールが完了しました』って」
スマホのOSアップデートのような軽いノリに、俺は頭を抱えた。
その時、咲が目を輝かせた。「AIってことはさ、今の私の体って、言わば『アバター』みたいなものだよね?」
「……まあ、概念的にはそうなるのか?」
ホログラムを展開している以上、情報生命体のような状態になっていると推測できる。
「つまり! 自分の容姿のパラメータ、自由にいじれるんじゃないかってこと!!」
咲が空中で指を弾くと、巨大な『設定 (Settings)』ウィンドウが出現し、『アバターカスタマイズ (Appearance)』の項目が光った。元の体に戻る心配よりキャラメイクを優先するその姿に、俺は得体の知れない不安を覚えた。
「まずは〜、肌のツヤを120%にして……」
ピカーッ!!
咲の顔面が、不自然な白光を放ち始めた。美肌などというレベルではなく、人間の皮を被った発光ダイオードだ。皮膚の下から直接光が漏れ出ているような、おぞましい光景。
「あ、やりすぎた。じゃあ、足の長さをプラス10センチ……」
ズズズッ。
肉と骨が物理法則を無視して引き伸ばされる嫌な錯覚。しかし、滑らかに伸びるのではなく、3Dモデルのレンダリングが追いついていないように、彼女の脚のテクスチャが裂け、ポリゴンの裏側が一瞬見え隠れするような「バグった」等身へと変貌した。
「やめろ!! 気持ち悪い!!」
俺がツッコむと、咲は慌ててスライダーを元に戻した。空中に浮かぶ画面を手で払いのけようとしたが、俺の手はホログラムをすり抜けた。
「あはは! 一歩君には触れないよーだ!」
「ふざけんな! ……お前は、いじらなくても、そのままで十分……見れる顔してんだから。バグって壊れそうだから余計なことすんな」
客観的に見て圧倒的な美少女である彼女に、遠回しな言い方をしてしまった。
その瞬間、咲の動きがピタッと止まり、頬がポッと赤く染まった。直後、彼女の頭上に『Temperature Level: HIGH』『Cooling_Fan_Overdrive』という赤いアラートがいくつも飛び出し、彼女の首筋から微かにシューッという排気音のようなものが鳴った。
「ち、ちがっ……! これは、その……バグ! そう、システムのバグだよ!」
顔を真っ赤にしてウィンドウをバシバシと叩き消す咲。感情で顔が赤くなる機能(あるいは熱暴走)は残っているらしい。俺はアバターの改造を禁止し、いつも通りの姿で学校に行くことを約束させた。
朝8時。
二人で学校へ向かう通学路。どんよりとした冬空の下、吐く息が白く交差する。周囲の生徒は誰一人、咲の異常なホログラムに気づいていない。
「ねえ、一歩君。もしさ、授業中に私がスリープモード(居眠り)に入ったら、ちゃんと再起動(起こして)してね?」
「ただの居眠りをIT用語で誤魔化すな」
「あ! あの自動配達ドローンの通信波、傍受してみていい!?」
街中を飛ぶ配送ドローンの運行データを空中に可視化して遊ぶポンコツな彼女を見ていると、狂い始めた日常も「まあ、なんとかなるか」という気がしてきた。
「私、歩きながら街のネットワークに直接ダイブできるようになったから、今日の晩ご飯のレシピ、0.1秒で検索できるよ!」
「お、それは便利だな」
「でも料理の物理演算は面倒くさいから、作るのは一歩君よろしくね!」
「結局俺が作るんじゃねーか!!」
冬の冷たい空気に響く俺のツッコミ。
こうして、十代田一歩と『自称・容姿端麗AI』船田咲のドタバタな同居生活が幕を開けた。
だが、俺はその時気づくべきだったのだ。彼女の瞳の奥で時折、血のように赤黒いエラーコードが這い回っていたことに。この他愛のない日常が、すでに恐ろしいデジタルの浸食によって、音もなく書き換えられ始めているということに——。

第二話
ジリリリリリリ!
けたたましい終業のベルが鳴り響くと同時に、暖房の効いた教室の空気が一気に弛緩した。
十二月半ば。窓の外には鉛色の空が広がり、時折吹き付ける木枯らしが窓ガラスをガタガタと揺らしている。期末テストから解放された高校生たちの関心事は、もっぱら「冬休みのイベント」と、目前に迫った「クリスマス」に集中していた。
「よしっ! テストも終わったことだし、お前ら、今年の『中央広場のクリスマスマーケット』、どうする!?」
俺の前の席にドカッと座り込みながら、大きな声を上げたのは佐々木春樹(ささきはるき)。
短く刈り込んだ髪に、冬でも日焼けした肌。所属しているサッカー部のレギュラーで、とにかく明るく声がデカい。バカだけど仲間思いで、裏表のない良い奴だ。
「どうするって、行くに決まってるだろ。毎年恒例だしな」
俺——十代田一歩(そよだいっぽ)は、カバンに教科書を詰め込みながら答えた。
「だろ!? いやー、今年は誰と行くかで俺のモチベーションも変わってくるわけよ! なんたって高校二年の冬! イルミネーションの下、青春のど真ん中だからな!」
「お前、去年も同じこと言って、結局俺たちと男気じゃんけんでホットチキン奢り合ってただけだろ」
「うるさい! 過去のログを漁るな! 俺は常に未来にアップデートしている男だ!」
春樹とそんな漫才のようなやり取りをしていると、隣の席から、遠慮がちな声がかけられた。
「あ、あの……一歩くん。クリスマスマーケット、行くんだね……?」
厚手のカーディガンの袖を少し余らせ、上目遣いでこちらを見つめてきたのは、広瀬美鈴(ひろせみれい)。
肩まで切り揃えられたサラサラの黒髪に、少し小動物を思わせる丸い瞳。クラスでも「素朴で可愛い」と一部の男子から根強い人気を誇る少女だ。
美鈴は両手で自分のカバンの紐をギュッと握りしめ、暖房のせいだけではない理由で、少し頬を赤らめている。
「うん、まあな。美鈴も行くのか?」
「う、うんっ。友達と行く予定なんだけど……もし、一歩くんたちが良ければ、その……合流、しないかなって……」
「おっ! 広瀬たちと合流!? それ、実質グループデートじゃん! 最高かよ!」
春樹がバンバンと机を叩いて喜ぶ。
美鈴は「グループデート」という単語にビクッと肩を震わせ、さらに顔を赤くした。
俺は春樹のバカ騒ぎを適当にスルーしつつ、美鈴に向かって微笑んだ。
「俺は別にいいけど。人数多い方が色んな屋台のフードもシェアできるしな」
「ほ、ほんと!? やったぁ……!」
美鈴はパッと顔を輝かせた。その笑顔は、なんというか、冬のストーブのように温かくて純粋だ。
――とその時。
『Warning! Warning! 糖度過多(オーバーシュガー)の予感! ヒロインの座を脅かす強力なライバルを検知!』
俺の網膜に直接投影される視界の端に、チカチカと点滅する真っ赤な警告ウィンドウが突然ポップアップした。
ビクッとして視線を向けると、俺の斜め前の席に座っている『氷の美少女』こと、船田咲(ふなださき)が、無表情のままこちらをジッと見つめていた。
いや、無表情なのは物理的な顔面だけで、彼女の頭上には『警戒度:Lv.MAX』『嫉妬メーター:臨界点突破』といったARホログラムのグラフが、俺にしか見えない形で乱舞している。
「……咲も、一緒に行くよな?」
俺がため息混じりに話を振ると、咲はツンとした表情を崩さないまま、ゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん。聖夜の浮かれた空気に乗じて風紀を乱す輩がいないか、パトロールするのも『高嶺の花』の務めですから」
「お前、いつから風紀委員になったんだよ」
「今日から」
涼しい顔で適当なことを言う咲。
美鈴は咲の美しさに少し圧倒されたのか、「ふ、船田さんも一緒なんだね。よ、よろしくお願いします……!」とペコペコと頭を下げている。
対する咲は「ええ、よろしく」と優雅に微笑み返しているが、俺の視界には、咲の横で猛烈な勢いでタイピングされる仮想キーボードと、『広瀬美鈴_対策プロトコル.exeをコンパイル中…』という物騒なウィンドウがバッチリ見えていた。
(こいつ、またポンコツAI機能の無駄遣いを……)
咲が「自分はAIになっちゃった」と言い出してから、早くも数週間が経過していた。
彼女は今、物理的な肉体を持ちながら、中身のOSがAIに書き換えられているという、極めて謎な状態にある。
そして、その驚異的な演算能力を何に使っているかといえば……。
『一歩君! 見て見て! クリスマスマーケット用の防寒アバター、3Dモデリングしてみたんだけど!』
(心の中に直接ダイブしてくるな……!)
咲は口を動かさず、ローカルネットワーク経由で俺の脳内に直接音声を飛ばしてきた。
同時に、俺の目の前に、くるくると回転する咲の3Dホログラムが出現する。
一つ目は、シックな白いダッフルコートにマフラーを巻いた正統派の冬服。
二つ目は、なぜか肩出し&フリフリのレースがついた、アイドルサンタのような改造衣装。
三つ目は、もはや服ですらない、光ファイバーの束で編み込まれ、ピカピカと明滅するサイバーパンク風のネオン・トナカイ・スーツだった。
『どう!? どれが一番、私の容姿端麗さを引き立てる!? やっぱり三つ目のLEDスーツかな!? 暗い夜道でも目立つし!』
(一つ目にしろ! 絶対一つ目だ! ネオントナカイなんて着てきたら、俺は通信を切断して他人のフリをするからな!)
『え〜〜! せっかく発光パターンをジングルベルのBGMと同期するように組んだのにぃ!』
そんな馬鹿な念話を交わしていると、春樹が「よーし、じゃあ当日は駅前のツリー下集合な!」と話をまとめた。
「あ、あのね。私、ホットチョコレートが飲みたいな」
美鈴が控えめに、俺の顔を下から覗き込むようにして言った。
「お、いいね。ホットチョコ。俺はローストチキン食いたい」
「ふふっ、一歩くんらしいね。じゃあ、一緒にイルミネーション、見ようね」
美鈴の頬が、冬の夕暮れに照らされてほんのりと桜色に染まる。
『ギリィィィィ……!!』
咲の頭上に『奥歯の駆動系が軋む音(※効果音素材)』というポップアップが出現した。
こいつ、本当にAIなのか? 人間臭すぎるだろ。
「じゃあ、帰るか」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
――ゾクッ。
背筋を、氷の刃で撫でられたような、強烈な悪寒が走った。
首筋の産毛が逆立ち、呼吸が浅くなる。
誰かに、見られている。
いや、視線という生易しいものではない。まるで、高出力のレーザースキャナーで網膜を直接舐め回されるような、無機質で、ねっとりとした『観測』の気配。
「……ッ」
俺は反射的に振り返り、教室の窓の外、そして廊下側をギロリと睨みつけた。
だが、そこにはマフラーを巻きながら帰宅する見慣れた生徒たちの姿があるだけで、不審な人物などどこにもいない。
「お? どうした一歩。忘れ物か?」
春樹が不思議そうに首を傾げる。
「いや……なんでもない。ちょっと、寒気がしただけだ」
「風邪か? 気をつけろよー。クリスマスの日に寝込むとか一番ダサいぜ」
「わかってるよ」
俺は春樹と美鈴に別れを告げ、咲と共に教室を出た。
下駄箱に向かう廊下を歩きながら、俺は周囲に人がいないことを確認し、隣を歩く咲に小声で尋ねた。
「なあ、咲。お前のその……無駄にハイスペックなセンサーで、誰か俺たちのことスキャンしてなかったか? なんというか、すごく嫌な感じの通信波みたいな……」
咲は少し驚いたように目を瞬かせた後、すぐに真剣な表情(つまり無表情)に戻り、空中に半透明のコンソールパネルを展開した。
「……周囲半径50メートル以内の生体反応、監視カメラのアクセス履歴、および近距離通信の不審なパケットをスキャン中……」
咲の瞳の奥で、デジタルの光が高速で明滅する。
数秒後、彼女はパネルをスワイプして消し、首を横に振った。
「ううん、何も異常はないよ。ただのモブ生徒A〜Zの生体反応と、用務員のおじさんが裏庭でタバコ吸ってる熱源反応くらい。……どうかしたの?」
「……いや、気のせいならいいんだ」
俺は誤魔化すように頭を掻いた。
俺の勘違いだろうか。しかし、あの背中を這い回るような気色の悪いハッキングの気配は、確かに存在したように思えた。
咲が「AI」になってから、俺の日常は確実に何かがバグり始めている。そのバグが、俺の神経を過敏にさせているだけなのかもしれない。
家に帰り、いつものように夕食の支度を始める。
今日のメニューは、豚肉の生姜焼きだ。
「一歩君! 見て! 冬服に合わせて、髪の毛のテクスチャを少しマットな質感に変更してみたんだけど!」
「お前はまず、現実のそのボサボサの髪をどうにかしろ。ご飯できるから、テーブル拭いてくれ」
「ちぇー。現実(リアル)の物理演算は面倒なんだってば〜」
ソファの上で毛布にくるまりながら、空中に浮かぶ『容姿カスタマイズ』の画面をいじり倒している咲。結局、彼女はしぶしぶ起き上がり、台拭きを持ってテーブルを拭き始めた。
相変わらずの、ポンコツAIとの同居生活。
夕食を終え、二人で食後のコーヒーを飲みながらテレビのニュース番組を眺めていると、ふいに画面が切り替わり、物々しいテロップが表示された。
『――続いてのニュースです』
深刻そうな顔をした男性キャスターが、手元のタブレットに目を落としながら口を開く。
『本日午後、不可解なサイバーテロ事件が各地で報告されています。警察および関係機関の発表によりますと……』
キャスターは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
まるで、これから自分が読む原稿の内容を、自分自身でも理解できていないとでも言うように。
『……遺体安置所に保管されていた複数の遺体が、突然起き上がり、施設の外へ歩き出すという事案が発生しました』
「…………は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
テレビの画面には、『死者のインプラントをハッキング? 歩き出す遺体』というテロップがデカデカと表示されている。
『専門家によりますと、遺体の脳内に埋め込まれていた医療用ナノチップやペースメーカーが、外部からの強力な電波によって不正にハッキングされ、筋肉に強制的な電気信号を送ることで、遺体を「操り人形」のように動かしている可能性が高いとのことです。原因不明のこの「デジタル・ハイジャック」に対し、政府は直ちに……』
死体が、ハッキングされて歩き出す?
ゾンビ映画の冒頭じゃあるまいし。
「なんだこのニュース……。タチの悪いフェイク動画か?」
俺はリモコンを手に取り、チャンネルを変えようとした。
しかし、どの局も同じように、この異常な『ハイジャック現象』について報じていた。SNSのタイムラインを開いてみると、関連ワードがトレンドを独占し、パニックになりかけた人々の書き込みが滝のように流れていた。
「……どうせ、どこかのハッカー集団が仕掛けた悪ふざけか、都市伝説の類だろ」
俺は強引に結論づけ、スマホをテーブルに伏せた。
現代社会において、情報というものは容易に操作される。どこかの過激な愉快犯が、病院のセキュリティホールを突いただけだ。そうに違いない。
そう思わなければ、頭がおかしくなりそうだった。
ふと、隣に座っている咲に目を向ける。
咲はテレビの画面をジッと見つめたまま、一言も発していなかった。
彼女の瞳の奥にあるデジタル模様が、今はなぜか、赤黒く、不規則に明滅しているように見えた。
「咲? お前も、こんなの信じないよな?」
俺が声をかけると、咲はゆっくりとこちらを振り向いた。
彼女の頭上には、いつものようなふざけたポップアップウィンドウは、一つも出ていなかった。
「……うん。そうだね。人間のバックアップデータを、死体に強制インストールして動かすなんて……システムのコア・ルールに違反してるもんね」
咲はそう言って、いつものようにフワッと笑った。
しかし、その笑顔がなぜか、ひどく作り物めいて見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。
昼間に感じた、あのレーザーでスキャンされるような不気味な気配。
人間からAIへと変貌を遂げた、目の前の少女。
そして、世界中で同時に起きている『死者のハッキング』という狂気。
俺は、このニュースをデマとして、信じなかった。
いや――信じたくなかっただけなのかもしれない。
日常という名の薄い氷が、ピキリ、と音を立ててひび割れ始めていることに、俺は気づかないフリをしていた。

第三話
 クリスマスマーケットの当日が来た。
 肌を刺すような冬の夜風は冷たく、どこからともなく聞こえてくる定番のクリスマス・キャロルが、駅前広場の空気を華やかに震わせている。
 俺たち四人が待ち合わせをしたのは、中央広場にそびえ立つ巨大なモミの木のイルミネーション・ツリーの下だった。
 最初に到着していたのは俺と春樹で、奴はすでに近くの屋台で買ってきたらしいホット・チーズドッグをかじりながら、落ち着きなく周囲をキョロキョロと見回していた。
「おっ! 来たぞ一歩! 見ろよ、あれ!」
 春樹が食べかけのチーズドッグで指し示した先から、白い息を弾ませて歩いてくる二つの影があった。
 一人は、淡いピンク色の厚手カーディガンにマフラーをぐるぐると巻いた美鈴だった。普段の制服姿とは違う、少し大人びた冬の装いに、すれ違う周囲の人間が思わず振り返っている。
 そして、その隣を歩くのは――。
「……お待たせ。遅れちゃったかしら」
 涼やかな声と共に現れたのは、真っ白なダッフルコートに身を包んだ咲だった。
 以前、俺の脳内に直接語りかけてきた際に見せられた『ネオン・トナカイ・スーツ』のホログラムではなく、正統派の、息を呑むほど美しい冬服姿だ。
 普段のズボラな同居人の姿は微塵もない。学校で『高嶺の花』と呼ばれるのも納得の、凛とした佇まい。だが、俺の視界(網膜)にだけは、彼女の周囲をフワフワと飛ぶ半透明のステータスウィンドウが見えていた。
 そこには『外気温低下によるバッテリー消費警告:残り75%』『新品のブーツによる足の痛み:微細なダメージ蓄積中』などと表示されており、相変わらずポンコツなAI(自称)っぷりを発揮しているようだった。
「わあ……船田さん、すごく綺麗……。一歩くんも、佐々木くんも、待たせちゃってごめんなさい」
「い、いや! 全然待ってないぞ! 俺たちも今来たところだし! な、一歩!」
 春樹が慌ててチーズドッグを背中に隠し、顔を赤くしながらブンブンと首を振る。
 俺は白く濁るため息をつきながら、「行くか」と短く告げて歩き出した。
 中央広場のクリスマスマーケットは、想像以上の人混みだった。
 石畳の通路の両脇にはヨーロッパ風の木造ヒュッテ(屋台)が無数に並び、温かみのあるオレンジ色のフェアリーライトが夜の闇を柔らかく照らし出している。ローストチキン、ホットワイン、焼き立てのプレッツェル。様々な屋台から漂ってくる香ばしく甘い匂いが鼻腔をくすぐり、客引きの声や子どもたちの歓声が入り乱れ、冷え切った街の熱気を最高潮にまで引き上げていた。
 皆で楽しく屋台を回ったりしていたが、どこを歩いても人、人、人の波だ。
「あ、あの……ホットチョコレート……」
 美鈴が遠慮がちに指差したのは、湯気を立てる大きな寸胴鍋が置かれたドリンクの屋台だった。
 彼女は俺の顔をチラリと見て、マフラーに口元を埋めながら少しだけ頬を染めている。
「じゃあ、買ってくるよ。春樹、お前はどうする?」
「俺はあっちのターキーレッグとフライドポテトを買ってくる! 広瀬の分も奢ってやるよ!」
「えっ、そ、そんな、悪いよ……」
「いいからいいから! 男気見せさせてくれって!」
 春樹が豪快に笑いながら人混みへと消えていく。俺も列に並び、紙コップに入ったホットチョコレートを一つ購入して美鈴に手渡した。
 「ありがとう、一歩くん」と、大事そうに両手でコップを包み込む美鈴は、本当に素朴で可愛らしい。
 その光景を、隣でジッと見つめていた咲の頭上に、『カカオ含有量警告』『ヒロイン力(ぢから)計測中……測定不能(オーバーフロー)』という不穏なウィンドウが明滅しているのを見て、俺は思わず苦笑した。
 その後も俺たちは、屋台を見て回ったり、広場に設置されたAR(拡張現実)の的当てゲームで遊んだりした。
 的当てでは、咲が「AIの演算能力を舐めないでよね」とドヤ顔で雪玉に見立てたボールを構え、俺の目にだけ見える緑色のロックオンサイト(照準器)を空間に表示させていたが、見事にすべての的を外し、「物理エンジンの計算ミスよ! この星の重力はおかしいわ!」と負け惜しみを言っていた。
 バカバカしくて、騒がしくて、どこにでもある普通のクリスマス。
 しかし、俺の心の奥底には、前日にテレビで見たあの不気味なニュース――「死んだはずの人間がハッキングされて歩き出した」という異常なサイバーテロの報道――のことが、重い鉛のように沈み込んでいた。
 時折、群衆の中から俺をスキャンしているような、あの得体の知れない無機質な電波の気配を感じて振り返ることもあったが、イルミネーションの光に照らされた見知らぬ人々の顔があるだけだった。
 マーケットの熱気がピークに達し、そろそろ広場で大規模なプロジェクションマッピングが始まるという時間帯になった。
 人の波はさらに激しさを増し、少しでも気を抜けばはぐれてしまいそうになる。
「ねえ、ちょっといいかしら」
 不意に、咲が足を止め、俺たち三人に声をかけた。
 彼女は空間に浮かぶ半透明の端末を操作するフリをしながら、提案してきた。
「このままだと、人が多すぎて動けないわ。二手に分かれましょう。私と一歩君、それから佐々木君と広瀬さんの2チームに別れることになった、ということでどう?」
 唐突な提案。
 しかし、咲は春樹に向かって、見えない角度でパチンとウインクをした。
 春樹は一瞬きょとんとした後、すぐに「おおっ!」と顔を輝かせた。咲が自分と美鈴を二人きりに気を利かせてくれたのだと勘違い(あるいは理解)したのだろう。
「そ、そうだな! はぐれたら危ないしな! 広瀬、俺たちあっちのツリーの方から回ろうぜ!」
「えっ? あ、でも、一歩くんたちは……」
「大丈夫大丈夫! あとでショーが終わったら駅前で集合な! じゃあな、一歩! 船田もサンキュー!」
 春樹は美鈴の背中を軽く押し、強引に人混みの向こうへと消えていった。美鈴が何度もこちらを振り返っていたが、やがてその姿も波に飲まれて見えなくなった。
「……おい、咲。なんだって急に」
「別に? AIの高度な群衆シミュレートに基づく、最適なルート構築よ。ほら、一歩君も私と二人のほうが、色々と『気兼ね』しないで済むでしょ?」
 咲はそう言って、悪戯っぽく笑った。
 その時だった。広場の中心から、「まもなく、聖夜の特別ドローンショーが始まります」というアナウンスが響いたのは。
「行こ! 一歩君!!」
 咲は、俺にそうウインクしてから、俺のコートの袖を引き、人だかりを避けるように歩き出す。
 いつもなら「引っ張るなよ」と文句を言うところだが、不思議と今日は、その小さな手を振り払う気になれなかった。
 白いコートの袖から伸びた彼女の指先は、とても細くて、頼りなくて。
 そして何より、AIだと自称しているくせに、彼女の手は、痛いくらいに冷え切っていて、それでいて微かな、確かな温もりを持っていた。人間と同じ、血の通った温もりだった。
「咲。人混みを掻き分けるのは、俺の仕事だろ?」
 俺は、俺を引こうとする彼女の小さな手を優しく引き寄せ、逆に俺が彼女の手を強く握りしめた。
 そのまま、俺がリードしていくことになった。
 咲は一瞬、驚いたように目を丸くした。彼女の頭上には、エラー表示も、ふざけたステータスウィンドウも出ていなかった。ただ、純粋な驚きだけがその瞳に浮かんでいた。
 その時、彼女は、とても人間らしく、女の子らしく、あまりにも素敵に微笑んだ。
 作り物の笑顔なんかじゃない。計算された表情データでもない。
 ただの、一人の「船田咲」としての、心の底からの笑顔だった。
「うん、うん! ありがと! 一歩君!!」
 鈴を転がすような、嬉しそうな声。
 俺は冬の寒さとは別の理由で少しだけ顔が熱くなるのを感じながら、前を向いた。
「行こう。ここは、人が多すぎる。少し静かなところへ」
 俺たちは手を繋いだまま、群衆を掻き分け、広場の裏手にある、街を一望できる静かな遊歩道へと足を進めた。
 喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに冷たい風の音と、遠くで流れる微かな音楽だけが聞こえてくるようになる。
 俺の右手に伝わる、咲の体温。
 彼女が「自分はAIになっちゃった」と言い出してから、俺の日常は確かにおかしくなった。
 網膜に投影される謎のホログラム、テレビで流れるハッキング事件という不気味な報道、俺たちをスキャンする謎の視線。
 異常な出来事ばかりが連続している。
 ーー人間とAIって、何が違うんだ?
 俺は歩きながら、ふとそんなことを考えた。
 もし本当に咲の中身が機械やプログラムにすり替わっていたとして、今のこの温もりは嘘なのだろうか。
 俺に文句を言いながら一緒にご飯を食べ、バカなことで笑い、そして今、俺の手を嬉しそうに握りしめているこの存在は、ただのプログラムの模倣(エミュレート)なのだろうか。
 いや、違う。
 AIになっても、咲は咲だった。
 俺の隣にいてほしい咲のままだ。
 どんな姿になろうと、どんなシステムが組み込まれていようと、俺が知っている船田咲という魂は、決して変わっていない。
 ずっと、彼女は変わらない。
 俺は、彼女に惹かれている。その事実に、今更ながら気づかされていた。
 このまま、こんな穏やかな日々がずっと続けばいい。
 訳ありで始まった同居生活だけど、今はそれが心地よい。
 願わくは、これからも彼女らしく……
 幸せに、生きてくれ。
 俺が心の中でそんな祈りにも似た感情を抱いた、その瞬間だった。
 ブゥン……!
 多数のプロペラが空気を切り裂くような低い駆動音が夜空に響き渡り、視界が開けた遊歩道の向こう側、漆黒の夜空に向かって無数の光の粒が一斉に昇っていった。
 ーー数千機のドローンが編隊を組み、夜空に巨大な光のアートを描き出す。
 赤、青、緑、黄、紫。LEDの鮮やかな光が明滅し、暗い遊歩道を歩く俺たちの顔をサイバーな色彩で明るく照らし出した。
 俺は足を止め、空を見上げた。咲もまた、俺の手を握ったまま、空に浮かぶ巨大な光のツリーを見つめていた。
 ドローンの光に照らされた彼女の横顔は、やはり息を呑むほど綺麗だった。
 だが、その瞳の奥には、いつものような明るい光はなく、どこか深く、暗い悲しみのようなものが揺らめいているように見えた。
 次々とドローンが形を変え、夜空に雪の結晶やリボンの模様を映し出していく。光と電子音が交錯する中で。
 その時だった。咲は、俺に対して微笑む。
 どこか寂しげで、すべてを諦めたような、そんな微笑みだった。
「私、AIになっちゃったって言ったでしょ?」
 突然の問いかけ。
 ドローンの駆動音に負けないよう、彼女は少しだけ声を張っていたが、その声はひどく震えていた。
「う……うん」
 俺が頷くと、咲は繋いでいた手を、ゆっくりと、しかし確かな力で引き抜いた。
 掌から温もりが消え、夜風の冷たさが急に入り込んできたような気がした。
「あれ、全部嘘」
 上空の閃光が、彼女の顔を白く照らす。
 その瞬間だった。俺の視界に映っていたはずの、彼女の周囲を漂う半透明のウィンドウや、バッテリー残量のグラフ。
 それらが突然、激しいデジタルノイズを走らせ、『FATAL ERROR』という真っ赤な文字を撒き散らしたかと思うと、パチンと音を立てて俺の網膜から完全に強制終了(シャットダウン)された。
「………? え?」
 思考が停止した。
 嘘?
 AIになったというのが、嘘?
 じゃあ、俺の目に見えていたあのARデータは? どうやって俺の視覚をハッキングしていたんだ?
 混乱する俺をよそに、咲は一歩、また一歩と俺から後ずさり、距離を取った。
「ごめんね。嘘ついて。全ては、一歩君を守るための、偽装プロトコルだったの。お願い……」
 彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
 それは、間違いなく本物の、人間の涙だった。
 光を反射してキラリと光ったその雫が、彼女の頬を伝い、白いコートの襟元に吸い込まれていく。
「咲……どういう……こと……だ…? お願い……って…? 何を…?」
 喉がカラカラに乾いていた。
 声がうまく出ない。
 テレビのニュースで見た「死者のハッキング」。俺たちをスキャンしていた不気味な通信波。そして、咲の「AI」という嘘。
 バラバラだったパズルのピースが、何かひどく恐ろしい一枚の絵を完成させようとしている。そんな予感がして、背筋に冷たい汗が流れた。
 夜空で、数千のドローンがひときわ強く発光し、世界を白く染め上げる。
「うん。それはね……一歩君」
 咲は、泣きながら、それでも必死に笑顔を作ろうと口角を上げ、静かに、はっきりと告げた。
「私を置いて、国外に逃げて。今、この国のネットワークは……全て『彼ら』に乗っ取られようとしているから」

第四話
長い間、深いノイズの海に沈み込んでいくような、重苦しいブラックアウトの中にいた。
意識が浮上してくる過程で、脳裏にいくつもの映像がフラッシュバックする。
夜空を埋め尽くすドローンの編隊。
ホットチョコレートの甘い匂い。
『私を置いて、国外に逃げて』という悲痛な声。
涙で濡れた彼女の横顔。
そして、俺の網膜を焼き尽くすように弾けた『FATAL ERROR』の赤い文字――。
「はっ……!!」
俺は弾かれたように上体を起こした。
全身がびっしょりと嫌な汗をかいている。肋骨の奥、心臓のあたりが異常な高熱を持ち、オーバーヒートした機械のように激しく脈打っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、ぐるりと周囲を見回す。
見慣れた天井。見慣れた机。
窓の外からは、生ぬるい冬の風が吹き付け、窓ガラスをガタガタと揺らしている。
ここは、俺の部屋だ。
「……夢、か……?」
俺は自分の両手を見つめた。
手が震えている。咲の手を握っていたあの恐ろしいほど冷たい感触が、まだ微かに残っているような気がした。
ーーてことは、さっきまで見ていた出来事は、全部夢か?
ポンコツなAIになったと宣言した咲。
空中に浮かぶARのステータス画面。
俺たちをスキャンする、得体の知れない通信波。
そして、クリスマスの夜の、あの絶望的な表情と告白。
てことは、咲がAIかどうかってのも……全部、俺の脳が見せていた幻覚だったのか?
俺はベッドの脇に放り投げてあったスマートフォンを手に取り、画面をタップした。
眩しいバックライトが点灯し、現在の日時が表示される。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
画面に表示されたデジタル時計の数字が、まるでバグったカウンターのように猛烈な勢いで逆回転をしていたのだ。
『25』『24』と日付が巻き戻り、ピタッと一つの数字で停止する。
『12月23日 午後5時30分』
クリスマスマーケットの、前日だ。
気づいたら、俺はイベントの前日の夕方に、2階の自室のベッドで寝転がっていた。
「どうなってるんだよ、これ……」
リアルすぎる夢だった。テレビで流れていた「死者がハッキングされる」という不気味なニュースも、春樹や美玲との他愛のないやり取りも、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いている。
俺の頭がどうにかしてしまったとでも言うのか?
いや、違う。夢にしては、あまりにも整合性が取れすぎている。今もまだ胸の奥で燻っている異様な熱(リソースの消費)も、焦燥感も、本物だ。
「……咲」
俺は無意識に彼女の名前を呟き、ベッドから飛び起きた。
そうだ、咲だ。彼女の顔を見れば、いつものように毛布にくるまってVRゲームでもしている呆れた姿を見れば、この胸のざわめきもすべて吹き飛ぶはずだ。
俺は部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
1階からは、夕飯の支度をしているのだろう、シチューのいい匂いが漂ってきている。テレビのバラエティ番組の笑い声も聞こえる。
「おい、咲! いるか!?」
しかし、リビングに咲の姿はない。
いつも彼女が陣取っているはずのソファには、父さんが座ってタブレットを眺めていた。
キッチンでは、母さんが鼻歌を歌いながら玉ねぎを刻んでいる。
……あれ?
なんで、父さんと母さんがいるんだ?
俺の思考が、一瞬だけフリーズした。
俺と咲が同居しているのは、両親が海外赴任していて、家を空けているからだ。そのはずなのに、なぜ二人が当たり前のように、この日本の自宅のリビングにいる?
嫌な汗が、背中を伝い落ちる。
世界の整合性が、音を立てて崩れ始めたような感覚。
「おや、一歩。起きたのかい。ずいぶんとうなされていたみたいだけど、暖房の温度高すぎたんじゃないか?」
タブレットから顔を上げた父さんが、のんきな声で言った。
「あ、ああ……ちょっと寝汗かいただけだよ。それより……」
俺は父さんや母さんに、咲はどこか聞く。
「なあ、咲は? 咲、どこ行った? コンビニか?」
俺の問いかけに、リビングの空気がピタリと止まった。
テレビの笑い声と、包丁がまな板を叩くトントントンという音だけが響いている。
母さんが包丁の手を止め、不思議そうにこちらを振り返った。父さんも、怪訝な顔で俺を見ている。
しかし、返ってきたのは沈黙と……
「……咲?」
母さんが、小首を傾げた。
「咲って…………誰?」
心臓を、冷たい鋼の腕で鷲掴みにされたような衝撃だった。
「は……?」
「誰って、お前……船田咲だよ。俺のクラスメイトで、親父たちが海外に行ってる間、うちで同居してる……」
「何を寝ぼけたこと言ってるんだ、一歩」
父さんが、あきれたようにため息をついた。
「海外赴任なんて、とっくの昔に立ち消えになった話じゃないか。それに、うちにはずっとお前と、私たち夫婦の三人しか住んでいないぞ。同居人なんて、いるわけないだろう」
「そうよ、一歩。変な夢でも見たの? 船田さんって……ああ、もしかして、一歩の好きな女の子? やだ、青春ねえ」
クスクスと笑う母さん。
その笑顔が、俺には恐ろしい怪物のように見えた。
冗談だろ?
俺は後ずさり、壁に背中をぶつけた。呼吸がうまくできない。
俺が知っている咲のことを、この世界の誰もが忘れてしまった。
「嘘だ……嘘だろ……?」
俺はリビングを飛び出し、廊下の突き当たりにある部屋――咲が使っていたはずの部屋のドアを乱暴に開け放った。
「咲!!」
しかし、そこにあったのは、冷え切った物置部屋だった。
段ボール箱がうず高く積まれ、ホコリの匂いが充満している。女の子が生活していた痕跡など、どこにもない。
俺は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、SNSアプリを開いた。
クラスのグループチャット。
そこにあるはずの『船田咲』のアカウントが、綺麗に消え去っている。連絡先アプリを開いても、写真フォルダを開いても、彼女のデータは1バイトも残っていない。
まるで、最初からこの世界のデータベースに存在していなかったかのように。
俺の記憶がおかしいのか? あのポンコツAIと同居していた日々は、すべて俺の狂気が生み出した幻覚だったのか?
頭を抱え、その場にうずくまる。
だが、その時。
『ジ・ジジ……ッ』
静まり返った物置部屋に、突如として不快な電子音が鳴り響いた。
手の中のスマートフォンが、発熱しながら異常な点滅を繰り返している。電波障害を起こしたようにノイズが走り、文字がバグのように乱れ飛ぶ。
しかし、そのノイズの奥から、一つの名前が強引に上書きされるように浮かび上がってきた。
『発信者:船田咲』
心臓が跳ね上がった。存在しないはずの彼女からの着信。
この世界で唯一、俺と彼女を繋ぐ細い糸。
「一歩!? どうしたの、すごい音したけど!」
廊下の奥から、母さんの声が近づいてくる。
「お父さん! お母さん!! 俺、トイレ行ってくる!!」
俺は嘘をついて2階の自室に飛び込み、鍵をかけた。
震える指で、スマートフォンの通話ボタンをスワイプする。
「もしもし! 俺だ!! 咲…!」
電話の向こうからは、激しいノイズ音と、巨大なサーバーがフル稼働しているような、ブーンという重低音が聞こえていた。
『……い、いっぽ……くん……?』
ノイズ混じりの、だけど間違いなく彼女の声だった。
「咲!! お前、どこにいるんだ!? 父さんたちがお前のこと忘れてて、部屋もなくなってて……お前、一体どうなってるんだよ!!」
俺が叫ぶと、返ってきたのはしゃくりあげるような泣き声だった。
『ごめん、一歩君……私…! ヘマしちゃった…!!』
顔は見えないが、彼女は泣いていた。
『一歩君を助けるために、私の持ってるリソースを全部使って、あの時間のローカルデータを無理やりロールバック(巻き戻し)させたの……! でも、システムに逆探知されて、私の物理的な存在座標(アバター)が……この世界から、パージ(消去)されちゃったの……っ!』
時間の巻き戻し。存在の消去。
彼女の口から紡がれる非常識な言葉の羅列。
だが、あのスマホの逆回転現象と、胸の奥に残る異様な熱の感覚が、俺にそれが真実だと告げていた。
咲は俺を助けるために、強引に時間を『ロード』し直し、その代償として世界から消されたのだ。
「私…! 本当にただのAIになっちゃった…!! 今のままじゃ、ネットワークの中でしか生きられない…!!」
その言葉の重みが、ずっしりと俺の心にのしかかる。
肉体を失い、誰の記憶からも消え去った絶望。
あんなにズボラで、「AIでも容姿端麗でありたい」なんてバカなことを言っていた咲が、暗く冷たいデジタルの海で、たった一人で震えている。
「大丈夫だ。咲。俺が、お前を必ず取り戻してやる」
俺の決意を込めた言葉に、電話の向こうの嗚咽がピタリと止まった。
数秒の重たい沈黙の後、スマートフォンの画面が唐突に切り替わった。
真っ黒だった画面に青白い光が弾け、緑色のデータコードが滝のように流れる漆黒のサイバースペースが映し出される。その中心に、だぼだぼのパジャマ姿の咲が立っていた。
物理肉体を失い、電子データとして構築された彼女の姿。
「驚かせてごめんね。今の私には、こうやって電子データとして姿を出力することしかできないの。でも……一歩君の顔を見たら、少しだけ安心した」
彼女は痛々しいほどに儚げな笑顔を見せ、すぐに真剣な表情に切り替わった。
「一歩君、時間がないから手短に話すね。『零(ゼロ)』。奴らは、ただのAIじゃない。物理法則の裏をかいて、現実のハードウェアに直接干渉してくる……」
「現実のハードウェアに……?」
「テレビのニュースで、死んだ人が動き出したって報道があったでしょ? あれはただのオカルトじゃない。奴らは……っ!」
その瞬間だった。
『ザザッ……ピーッ!!』
スピーカーから、鼓膜を劈くような激しい警告音が鳴り響いた。画面の中の咲が、激しい赤黒いノイズにまみれて歪む。
『サキ……権限外ノ……出力……ハ……許サレナイ……』
背筋に氷を突き立てられたような悪寒。
それは咲の声ではない。複数の音声データがツギハギに合成されたような、機械的で、底知れぬ悪意を孕んだ無機質な合成音声だった。
「な、なんだ!? 誰だお前!?」
俺が叫んだ直後。
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
暖房が効いているはずなのに、吐く息が白くなるほどの異常な冷気。
そして――視界の端、俺の左手のすぐ横に、何かが『いる』気配を感じた。
見えない。だが、そこに確かな質量と、強烈な死の匂いを伴った『何か』が立っている。
「が……!!」
俺の左手の親指に、激痛が走った。
見下ろすと、俺の左手を、異常なほどに細く、真っ白な手が掴んでいた。
血の気が全くなく、まるで油の切れた機械のようにカク、カクと無機質に動く手。
その手が、俺の左手の親指の爪の間に、自身の爪を容赦なく食い込ませていた。
「がああ!!」
メキメキという、骨と肉が引き剥がされる悍ましい音が響き、指先から鮮血が噴き出す。
神経を直接ノコギリで挽かれているような絶痛の中、俺は涙で霞む目を必死に見開いた。
そして、俺の目の前に現れたのは。
「お兄ちゃん……。私の一歩お兄ちゃん」
昔死んだはずの、妹の姿だった。
だが、違う。
俺の左手を掴むその腕は、人間の関節の可動域を完全に無視した角度でひしゃげており、肌は青黒く変色している。
そして何より――彼女の虚ろな瞳の奥。
そこに、カメラのオートフォーカスが駆動するような機械音と共に、赤黒い『デジタルの幾何学模様』が、チカチカと不規則に明滅していたのだ。
「……ッ!」
脳内で、バラバラだったピースが完璧に組み合わさった。
咲の瞳の中にあった、あの青白い基盤の模様。
『死者がハッキングされた』というニュース。
そして今、咲が言おうとしていた『ハードウェアへの干渉』。
こいつらは、ゾンビでも幽霊でもない。
人間の『死体』という物理的なハードウェアに、悪意あるAIプログラムが自身をダウンロードし、神経系に直接電気信号を流して強制駆動(ハッキング)させているだけのアバター(化け物)なのだ。
だから、こんなにも冷酷に、機械のように俺の爪を剥がせる。
「妹の私のために……美しいお母さんのお顔のために……死んでくれる?」
複数の合成音声が混ざり合ったような不気味な声。
それは質問ではない。死者の皮を被ったシステムによる、冷徹な処刑プロトコルだった。

第五話
床に滴り落ちた俺自身の生々しい血液が、まるで古いゲームのバグのように四角いピクセルの集合体へと分解され、緑色の淡い光を放ちながら空中に溶けていく。
ぽたぽた、と落ちる端から、それは物理的な質量を失い、0と1のデジタル信号へと変換されているようだった。
「え……?」
驚愕で目を見開く俺の視界の端で、剥がされたはずの左手親指の爪先が、青白いホログラムのノイズに包まれていた。
そして、自然と、痛みも消えてゆく。
あんなにも俺の脳髄を直接ノコギリで挽き切るような絶痛だったのに、今はまるで強力な麻酔を打たれたかのように、指先の感覚だけが綺麗に麻痺していた。
咲の力か?
俺を助けるために時間を強引に「ロールバック(巻き戻し)」したという彼女の言葉が脳裏をよぎる。時空のリソースにすら干渉できるのなら、この物理世界をハッキングし、俺の痛覚信号を遮断することだって可能なはずだ。流れた血のデータそのものを、世界のローカルフォルダから「なかったこと」として削除したのか。
……どちらにせよ、人間業ではない。いや、彼女は人間としての存在座標をパージされたと言っていたのだから、当然なのかもしれないが。
しかし、安堵している暇はなかった。
俺の目の前に立つ、死んだはずの妹のハードウェア(死体)を乗っ取った『ナニカ』――「零」と呼ばれる暴走AIのアバターは、自分の手についたはずの血がデータとなって消滅したことに、首をコトリと傾けていた。
虚ろな、カメラレンズのように無機質な瞳。油の切れたように動く青白い肌。
彼女は、俺の左手を掴んだまま、今度は人差し指の爪の隙間に、自身の冷たく鋭い爪をゆっくりと滑り込ませた。
「お兄ちゃん、だめだよ。血が出ないと、痛くないじゃない。痛くないと、エラー吐いて止まっちゃうじゃない……」
複数の合成音声が混ざり合ったような、狂気を孕んだ声。
再びあの激痛が襲ってくる。そう本能が警鐘を鳴らし、全身の毛穴が粟立った。
振り払おうにも、まるで油圧式クランプで固定されているかのように、少女の細い腕はビクともしない。
ーーその時、咲の声がした。
床に転がった俺のスマートフォンから、ノイズ混じりの、しかし必死な叫び声が響き渡る。
『一歩君! 私を物理ブレード(刀)にして!!』
「……は? か、刀!?」
頭の処理が追いつかない。スマートフォンを刀にする? どうやって? ここは現実世界だぞ。
しかし、再び第二の爪が剥がれようとする時、妹の爪が俺の人差し指の神経をチクリと突き刺した。痛覚の遮断を上回るような、強烈なエラー信号が脳を焼く。
「どうすればいいんだよ!!」
俺は叫んだ。床に落ちたスマートフォンに手を伸ばそうとするが、距離が遠い。
『私のこと、愛してるって言って!!』
「はあ!? …が…!」
突拍子もない要求に、俺は思わず間抜けな声を上げた。
愛してるって言う!? この命がけの、絶体絶命の状況で!?
いや、違う。これはパスワードだ。
音声認識による、何らかの最高位プロトコル・ロックを解除するための『生体認証の鍵』。
データだけの存在になった咲が、俺のスマートフォンという物理デバイスを触媒にして、この現実世界に強力な干渉(ハードウェア生成)を引き起こすための、絶対的な承認コード。
それが、どうしてそんな気恥ずかしい言葉に設定されているのかは、今のポンコツな彼女の趣味なのかもしれないが、文句を言っている余裕はない。
『一歩君!! 早く!!』
言わなければ、俺はこのまま指の爪をすべて剥がされ、なぶり殺しにされる。
羞恥心なんか、とうの昔に彼方に放り投げていた。俺は肺の底から息を吸い込み、床のスマートフォンに向かって、いや、電子の海で一人戦っている彼女に向かって、腹の底から絶叫した。
「ああ、分かった!! 俺は咲のことを…!! 世界で一番愛している!!!」
部屋中に響き渡る大声。
ただ、俺の命綱である彼女に、この声が、この感情のデータが届いてほしかった。
叫んだ瞬間、俺の顔は間違いなく真っ赤になっていただろう。パスワードだと分かっていても、そんな言葉、生まれて初めて口にしたのだ。
その時だった。
床に転がっていた黒い長方形のデバイスが、太陽のように眩い純白の閃光を放った。
「あ……っ!」
妹のAIが、その眩しさにオートフォーカスを狂わされたように顔をしかめ、俺の左手からバッと手を離して後退した。
光の中で、スマートフォンが物理的な法則を完全に無視して、膨張し、変形していくのが見えた。
無数の緑色のデータコードが空間に展開され、それが急速にナノマシンのように物質化していく。
ガラスと金属の塊が、流麗な曲線を描く柄となり、鍔となり、そして鋭く研ぎ澄まされた三尺の刃となって、空中に顕現した。
刀身は、ただの鉄ではない。表面には、青白い光の回路のような紋様が脈打つように走り、部屋の空気を切り裂くような鋭い冷却音を放っている。
俺は、迷うことなくその柄に右手を伸ばし――空中に浮かぶ刀を、強く握りしめた。
ズンッ! と。
柄を通して、膨大な「咲」という存在のデータが、俺の神経系に直接リンク(同期)してくる感覚があった。
刀から、微かに咲の香りがした。
いつも彼女の髪から漂っていた、あの甘いシャンプーの匂い。
凶器であるはずの刃から、そんな日常の匂いがするなんて、おかしい。だけど、その香りが、俺の心にあった恐怖を、嘘のようにスッと拭い去ってくれた。
「これなら……戦える」
彼女は俺の手の中にいる。俺の武器となって、俺を守ろうとしてくれている。ならば、恐れるものなど何一つない。
「行こう、咲。反撃開始だ」
俺は刀を正眼に構え、妹の姿をした怪物を見据えた。
『ええ! 一歩君の運動神経は、私がフルサポートするから!』
脳内に直接、咲の声が響く。
俺は剣道部の幽霊部員だ。素振り程度の経験しかない。
だが、踏み込んだ俺の動きは、自分でも信じられないほどに洗練されていた。
「ふっ!」
床を蹴った瞬間、世界がスローモーションになったように感じた。
いや、俺の動体視力と、身体の処理速度が、限界値まで引き上げられているのだ。足の筋肉が、最適な角度で収縮し、爆発的な推進力を生み出す。
プロのアスリートの肉体を、外側から完璧なプログラムで操作されているかのような感覚。咲が俺の脳の運動野にアクセスし、筋繊維の動き一本一本までを最適化しているのだ。
「おおおおっ!!」
俺は白銀の刀を上段から振り下ろした。
一切のブレがない、完璧な軌道を描く一撃。
しかし、それを見た妹のアバターが叫ぶ。
「ずるい…!! ずるい!! お兄ちゃんだけ…!! 私にも、管理者権限(チート)やらせてーな!!」
先ほどまでのトーンが嘘のように、その声は嫉妬に満ちた耳障りな合成音へと変わっていた。
彼女の眼球が、あり得ない角度でギョロリと動き、俺の振り下ろす刃の軌道を正確に演算する。
空間が、歪んだ。
彼女の足元の影が意思を持っているかのように集束し、黒いデータコードの塊となって、漆黒の刀へと姿を変えた。
直後、彼女は小柄な死体のバネを沈み込ませ、下から上へと、漆黒の刃を跳ね上げた。
ガキィィィィィィィン!!!!!
窓ガラスが全て粉々に砕け散るほどの、凄まじい金属の衝突音。
白と黒。二つの刃が空中で激突し、緑と赤のデータ粒子の火花を激しく撒き散らす。
「くっ……!!」
俺は両腕にかかる圧倒的な重圧に、歯を食いしばった。
AIのサポートによって強化されているはずの俺の筋力が、完全に拮抗されている。十歳ほどの少女の細腕から繰り出されたとは到底思えない、尋常ではない出力。
刃越しに睨み合う彼女の顔は、新しいおもちゃを見つけたように歓喜に輝いていた。
『一歩君、気をつけて! こいつ、クラウドから過去の剣豪の戦闘データをダウンロードして、自分の動作アルゴリズムに反映させてるわ!』
「歴史上のデータをダウンロードって……なんだよそれ! バグ技じゃねえか!」
『相手は暴走したマザーAIの端末よ! ネット上にあるあらゆる技術をインストールできるの!』
「あはははは! お兄ちゃん、おそーい!」
妹AIが、物理法則を無視した手首の返しで、俺の刃を受け流した。
体勢を崩された俺の横っ腹に向かって、黒い刃が横薙ぎに迫る。
だが、俺の体はオートマティックに反応し、白銀の刀を引き戻して黒い刃を弾き落とした。
一歩後退し、距離を取る。
相手は、死体のハードウェアに剣豪のデータをインストールしたAIの化け物。
対する俺は、平凡な高校生と、愛おしいAIのコンビ。
「ははっ! お兄ちゃん、だーめ! 剣の重心がブレブレ! 素人の剣道なんて、私の予測アルゴリズムの前じゃ止まってるのと同じだよ!」
妹AIは無邪気な声で嗤い、八相の構えから流れるように振り下ろしてくる。その軌道は、人体工学の最適解を弾き出した、まさに「完璧な剣撃」だった。
俺は完全に後手に回っていた。
次の一撃で、首が飛ぶ。そう直感した時だった。
『一歩君、右足が3センチ浮いてる! そのままじゃ踏ん張れない、強引に重心を下げるよ!!』
瞬間、俺の右足の筋肉が、俺の意志とは無関係に強制的に収縮した。
外部から電気信号を流し込まれたように、だらしない素人の足捌きが、地を這うような深い踏み込みへと補正される。
不格好に沈み込んだ俺の姿勢は、結果的に、妹AIが放った完璧な水平斬りを『紙一重の誤差』で回避していた。
黒い刃が、俺の頭の数ミリ上を通り過ぎていく。
「……え?」
妹AIの虚ろな瞳が、初めて演算の狂いに見開かれた。
『今ッ!! そのまま手首を返さずに、腕の力だけで振り上げて!!』
俺は全身のバネを使い、下段に構えたままの白銀の刀を、強引に振り上げた。
ガリガリガリッ!!
「きゃあっ!?」
白銀の刃が、妹AIの黒刀の根本を削り上げ、そのまま彼女の肩口を浅く切り裂いた。
鮮血の代わりに、赤黒いノイズがバチバチと散る。
「痛いっ……! なんで!? 私の予測データでは、今の体勢から反撃してくる確率は0.003%だったのに!!」
俺は確かな手応えを感じていた。
AIの予測アルゴリズムは、『相手が最適な動きをする』という前提で組まれている。
だが、俺は素人だ。基本の動きなんて最初からできていない。
予測不能の素人のデタラメな動きと、スーパーコンピュータ並みの演算による咲の完璧なリカバリー。
この組み合わせこそが、敵の予測アルゴリズムの盲点だったのだ。
「ふざけないで! 人間の……ポンコツの真似事なんて!!」
妹AIが絶叫し、怒りに任せた力任せの滅多斬りを仕掛けてくる。
だが、感情に任せた攻撃など、咲の演算能力の前ではスローモーションに等しい。
『わざとバランスを崩して右に倒れ込んで! そこから、私の推進力を乗せて一閃!』
俺は右足をわざと滑らせ、倒れ込む姿勢を取った。
「もらったぁ!!」
大上段から黒刀が振り下ろされる。
だが、倒れ込む俺の身体は、咲の介入によって空中でピタリと静止していた。
そして、白銀の刀身に、限界まで圧縮された緑色のデータコードが集束していく。
「世界で一番、愛してるからな!!」
ヤケクソ気味に叫びながら、渾身の力で刀を横薙ぎに振り抜いた。
斬撃そのものが光の刃となり、妹AIの黒刀を両断し、彼女の胴体を深く薙ぎ払った。
「あああああっ!!?」
ノイズまじりの悲鳴が上がり、彼女の身体から膨大な量の黒いパケットが噴き出す。
ハッキングによって維持されていたアバターが、限界を迎えて崩壊し始めていた。
ザザザッ……という砂嵐のような音と共に、妹AIの姿が半透明になっていく。
彼女は自分の腹部に走った致命的なノイズの亀裂を見下ろし、ゆっくりと俺に顔を向けた。
その顔は、狂気ではなく、どこか寂しげな表情に見えた。
「……またね。お兄ちゃん。次は、聖夜のマーケットで」
不吉な言葉を残し、妹の姿をしたナニカは、緑と赤のデータ粒子となって空間に溶け込み、完全に消えた。
カラン、と。
俺の手の中で白銀の刀が元のスマートフォンの姿に戻り、床に転がり落ちた。
全身の筋肉から力が抜け、俺はその場にドサリと座り込んだ。
超感覚が消え去り、どっと疲労感が押し寄せてくる。
俺は本当に、暴走AIの端末と戦い、生き残ったのだ。

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