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【第四章】そして、ゼロになる【小説】【舞踏会での決戦】

今までのあらすじ📜


第一話:月光草と漆黒の宣告

辺境の師匠の工房。薬草調合中のデレシアに、師匠が「寄生型呪術爆弾」を仕掛けられた事実を告げる。タイムリミットは一年、感情の起伏でタイマーが加速し、解除には術者本人の殺害が必要という絶望的な条件が示される。犯人特定の手がかりから、王立魔法学園への潜入が決定する。


第二話:白亜の教室と距離感バグ

学園に転校生として潜入。隣席のルカ・アステリアが、香りと手の特徴からデレシアの正体(辺境の調合師)を瞬時に見抜く。放課後、裏庭への呼び出しを受ける。


第三話:路地裏の狩人と悲しき瞳

裏路地で魔法盗賊団に包囲され、勧誘を受ける。ルカを爆弾の犯人と疑い毒針を向けるが、彼の瞳に宿る「血を吐くような悲しみ」に手を止める。


第四話:泥の中の再生と同一の刻印

盗賊団のアジトで目覚める。ルカの額にも自分と同じ呪術の刻印があることを発見し、彼もまた被害者だと知る。真犯人は伝説の爆弾魔「ゼロ」だと判明する。


第五話:不純物と毒物学の逆算

王国の暗部(不正な帳簿・禁忌呪術)が絡んでいることを知る。「即死させず一年の猶予を与えた理由」を毒物学の視点から逆算し、自分たちが意図的に生かされている違和感を突き止める。


第六話:処方箋と冷たい覚悟

「王国とゼロは繋がっており、金庫を開けさせた後に口封じする気だ」という推理を完成させる。絶望する団員たちの前で「みんなで、ゼロを殺そう」と宣言し、正式に盗賊団へ加入する。


第七話:二重生活の調合室

学園での表向きの優等生生活が始まる。夜は特別棟の地下でルカと共に『魔力融解薬』の試作に着手し、第一フェーズの精製を進める。


第八話:既視感の香り(本文中未掲載・推定)

学園の廊下で、デレシアが「自分がここで焼け死んだことがあるような」既視感に襲われる。気のせいとして片付けようとするが、脳内の爆弾がかすかに脈打つ。


第九話:生徒会長の影

カフェテリアで生徒会長ジュリアスと接触。彼から禁忌呪術の匂いを嗅ぎ取り、勧誘を拒絶する。ルカから、ジュリアスが王国の暗部と繋がる「猟犬」であると明かされる。


第十話:試作薬の爆発と密室のスキンシップ

融解薬の試作中に小規模な爆発事故が発生。ルカがデレシアを庇い抱きすくめる。「二度と失いたくない」という彼の切実な言葉に、デレシアの心が揺れ始める。


第十一話:星屑の百合の栽培者

学園の温室に隠された爆弾の材料の栽培地を発見するが、正体不明の何者かに温室ごと焼かれる。学園内部にも敵の手が及んでいることを確信する。


第十二話:第一フェーズ完了の夜

不完全ながら融解薬の第一段階が完成。時計塔の屋上でルカと「生き残った後にやりたいこと」を語り合う。デレシアは小説を書くという夢を語り、二人で生存の約束を交わす。


第十三話:偽りの平和と決行日の決定

創星祭の準備で賑わう学園。ルカから極秘の指示が渡され、決行日が「創星祭最終夜の仮面舞踏会」に決定する。人混みと祭りの魔力ノイズを隠れ蓑にする計画が固まる。


第十四話:鎮静薬の代償と消えた匂い

生徒会役員による特別巡回でポケットの検査を迫られ、極度のストレスから爆弾が暴走しかける。鎮静薬を服用し嗅覚と魔力感知を失うが、その無防備な状態のデレシアをルカが身を挺して守る。

以下、本編です。

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第十五話

鎮静薬がもたらした「無臭の世界」は、まるで分厚いガラス瓶の中に閉じ込められたような、ひどく奇妙で空虚な感覚だった。

古い羊皮紙のカビ臭さも、インクのツンとした匂いも、窓の外から吹き込む秋風の香りも、何一つとして私の鼻腔を揺らさない。調合師にとって、それは世界の半分を剥奪されたに等しい。

だが、視覚と思考のロジックだけは、研ぎ澄まされた氷のように冴え渡っていた。

王立魔法学園、大図書室の最奥。

立ち入りが制限されている過去の資料保管庫に、私とルカは潜り込んでいた。

表向きは創星祭の出し物に関する過去の資料探しだが、真の目的は違う。金庫の構造や、特別棟の地下に関する手掛かりが、過去の学園の記録に紛れ込んでいないかを探るためだ。

私の感覚が戻るまで「絶対に一人にはしない」という誓い通り、ルカは私と肩が触れ合うほどの距離に座り、分厚い魔術史の文献をパラパラと捲っている。周囲に生徒会役員の気配はない。今の私のセンサーは彼の青い瞳と、その研ぎ澄まされた気配察知能力だけだった。

「……おかしいわね」

私は机に広げた数年前の『学園在籍者名簿』と『行事記録簿』を見比べながら、微かな違和感に眉をひそめた。

「ん? 何か見つけたか?」

ルカが顔を寄せ、私が指差しているページを覗き込む。彼のプラチナブロンドの髪が私の頬を掠めたが、シャンプーの匂いすら感じないことが、逆に私の理性を極度に冷静に保たせていた。

「これを見て。三年前の、錬金術専攻クラスの名簿よ。在籍者は二十九名となっているわ」

「それがどうした? 別に普通の人数だろ」

「名簿の上ではね。でも、こちらの『合同実技演習』の記録を見て。この演習は、必ず二人一組のペアで行う規定になっている。しかも、使用された錬金釜の稼働記録は『十五基』よ。二十九人なら、一人はペアを組めず、稼働する釜は十四基と半分になるはず。計算が合わないわ」

私はペン先で、名簿の不自然な空間を指し示した。

「出席番号十四番の次が、十六番に飛んでいる。単なる誤植や退学者なら、番号を詰めるか『欠番』として理由が記載されるはずよ。でも、これは違う。まるで最初から『十五番の生徒』が存在しなかったかのように、周囲の記録だけが無理やり辻褄を合わされている」

薬学のロジックで言えば、それは極めて不自然な現象だった。

薬を調合する際、もし完成した液体から特定の成分だけを完全に抜き取ろうとすれば、必ず全体のバランスが崩れる。抜き取った成分が占めていた質量、他の成分との結合痕。そういった「不純物としての矛盾」が、沈殿物となって底に溜まるのだ。

私はさらに別の資料、三年前の学園祭の集合写真が載った冊子を引き寄せた。

魔法で焼き付けられたその写真は、生徒たちの笑顔を鮮明に映し出している。だが、後列の右端。十四番の生徒と十六番の生徒の間に、不自然なほどの「隙間」が空いていた。

肩を組み合い、密集して笑っている生徒たちの中で、そこだけがぽっかりと、誰もいない空間を囲むようにして笑っているのだ。

「……気味が悪いだろ」

私の言葉に、ルカの声が一段低くなった。

「王国の暗部のやり方さ。反逆者や、知りすぎた人間を処分する時、奴らはただ殺すだけじゃない。その人間が最初から『この世に存在しなかったこと』にする。家族の記憶からも、公式の記録からも、徹底的に存在の痕跡を削り取るんだ」

ルカの言う通り、国家権力による徹底した情報統制と隠蔽工作だと考えれば、説明はつく。

生徒会長のジュリアスが纏っていた、あの禁忌呪術の匂い。記憶や認識を操作する魔法を使えば、一人の生徒の存在を歴史から丸ごと消し去ることも可能だろう。

しかし、私の脳内の「調合師のロジック」は、なおも警鐘を鳴らし続けていた。

「違うわ、ルカ。これは、ただの隠蔽工作じゃない」

私は集合写真の不自然な空白を見つめながら、背筋に這い上がるような悪寒を感じた。

「人間の手による隠蔽なら、もっと上手くやるはずよ。写真の構図そのものを歪めて空白をなくすとか、記録簿の釜の数を改ざんするとか。でも、これは……」

私は言葉を探し、やがて最も恐ろしい比喩に辿り着いた。

「まるで、世界という巨大なフラスコの中から、一つの成分だけが『システムのエラー』によって強制的に消去されたみたい。世界そのものが、慌てて残りの成分で辻褄を合わせようとして、処理しきれずに生じた『バグ』のようなズレよ」

数日前に廊下で体験した、自分が焼け死ぬという生々しい幻覚。

そして今、目の前にある「消された生徒の記録」。

この白亜の学園には、王国という国家の枠組みすら超えた、もっと根源的で、巨大な理不尽が横たわっているのではないか。

もし、この世界そのものが、誰かの手によって都合よく書き換えられ、修正され続けている「偽りの空間」なのだとしたら?

その思考に行き着いた瞬間、鎮静薬で押さえ込まれていたはずの恐怖が、分厚い氷の底から亀裂を入れるようにして湧き上がってきた。

チリッ。

脳髄の爆弾が、微かに、しかし確かな痛みを伴って脈打つ。

薬の効き目が切れ始めているのか、それとも、世界の真実に触れかけた私の精神の揺らぎが、薬効すらも凌駕し始めているのか。

「デレシア、顔色が悪いぞ。痛むのか」

ルカが身を乗り出し、私の冷え切った両手を、彼自身の大きな手で包み込んだ。

「……少し、考えすぎたみたい。薬のせいで感覚が鈍っているから、余計な論理まで組み立ててしまったわ」

私は震えを悟られまいと、強引に微笑みを作った。

「王国は、人を存在ごと消し去る。だからこそ、私たちもミスをすれば、あの十五番の生徒のように、最初からいなかったことにされる。そういうことよね」

私の言葉に、ルカはひどく複雑な表情を浮かべた。

彼の濁った硝子のような青い瞳の奥に、路地裏で見せたあの「血を吐くような悲しみ」が再び揺らめいたのを、私は見逃さなかった。

彼は、何かを知っている。

この消された生徒のことも、世界の奇妙なズレのことも。しかし、彼はそれを決して口にしようとはしない。

「……ああ、そうだ。だから俺たちは、絶対にしくじれない」

ルカは私の手を包み込んだまま、静かに、しかし刃のように鋭い声で言った。

「王国の連中がどれだけ記録を消そうが、世界をどう歪めようが関係ない。俺たちの手で、あの金庫の扉を溶かす。ゼロを引きずり出して、殺す。それだけだ」

彼の体温が、私の凍りついた指先からゆっくりと伝わってくる。

無臭の世界の中で、彼の存在だけが、私を狂気から引き留める唯一の重石だった。

そうだ。世界の構造がどうなっていようと、私に課せられたタスクは変わらない。

『魔力融解薬』を完成させ、爆弾の術者を殺し、生き残る。調合師は、目の前のフラスコの中にある真実だけを信じればいい。

「分かっているわ。決行日は、創星祭の最終日。泣いても笑っても、すべては仮面舞踏会の夜に決まる」

私は彼の手を握り返し、机の上の不気味な記録簿を力強く閉じた。

パタン、という乾いた音が、埃っぽい書庫に響き渡る。

迫り来る学園祭の足音。

監視の目を光らせる生徒会と、姿を見せない爆弾魔ゼロ。

そして、この世界そのものに漂う、得体の知れない修正力の気配。

これらすべての不純物を一つの釜に放り込み、極限の熱で溶かし切る夜が、もう目の前まで迫っていた。

私は失われた嗅覚の代わりに、生存への冷酷なまでの論理を研ぎ澄まし、ルカと共に図書室の暗がりを後にした。



第十六話

鎮静薬の副作用である「無臭の世界」が終わりを告げたのは、最悪のタイミングだった。

分厚いガラス瓶が割れたように、泥水が引くように感覚が戻る。最初に私の極めて繊細な鼻腔を突き刺したのは、あの甘ったるくも悍ましい腐臭だった。

死人花(しびとばな)と、黒曜石の灰の匂い。

王立魔法学園、特別棟の地下。

明日の創星祭に向けて、隠しておいた『魔力融解薬』のベース液の定着状態を確認しに来た私の背後で、分厚い鉄の扉が重々しい音を立てて閉ざされた。

ガチャン、と施錠の魔法陣が発光する音が、冷たい石室に響き渡る。

ルカは今、陽動のために地上で生徒会の巡回部隊を引きつけている。つまり、この完全防音の密室には、私と、私を待ち伏せていた「猟犬」しかいない。

「随分と不用心だな、転校生」

暗がりから歩み出てきたのは、白亜の制服を隙なく着こなした生徒会長、ジュリアス・フォン・アーベントロートだった。

彼の灰色の瞳には、昼間のカフェテリアで見せたような偽善的な笑みすら無い。ただ純粋な、有益な昆虫を解剖しようとする学者のような、冷酷な光だけが宿っていた。

「生徒会長……こんな所で奇遇ですね。私は教師に頼まれた備品を探しに……」

「猿芝居は終わりだ、デレシア」

ジュリアスが一歩踏み出すと、足元の石畳から黒い茨のような影が這い出し、私の足首に強く絡みついた。

「っ……!」

動けない。ただの幻術ではない。魔力そのものを物理的な質量と棘に変換する、極めて高度な拘束呪術。

「君たちがこの地下で、何かとてつもなく危険な劇薬を精製していることはとうに知っている。大温室を嗅ぎ回っていたこともな。王国の暗部を舐めるなよ、辺境のネズミ」

ジュリアスの声は、氷の刃のように私の鼓膜を切り裂いた。

「私は、君の持つ『知識』に興味があるのだ。絶対不可侵であるはずの王立金庫の扉。それを突破するための『鍵』を、君は造り出そうとしているのだろう? その薬の製法を、今ここで吐いてもらおうか」

(なぜ、彼が金庫の扉のことを……!)

私は戦慄した。彼が生徒会長としてではなく、王国の猟犬として私たちを監視していたことは分かっていた。だが、私たちが「金庫を狙っている」という具体的な目的まで完全に把握されていたとは。

第十五話で、消された生徒の記録から導き出した仮説が、確信へと変わる。

やはり、王国と爆弾魔ゼロは繋がっている。奴らは最初から、私たちに金庫を開けさせるために泳がせていたのだ。

だが、ジュリアスの今の言葉には僅かな矛盾がある。

王国が私たちに扉を開けさせる気なら、なぜ今、ここで私から製法を奪おうとするのか?

「……おかしいわね」

私は足首に食い込む棘の痛みに耐えながら、冷ややかに笑い返した。

「王国は、私たちが完成させた薬で扉を開けるのを待っているはずじゃなかったの? それとも、生徒会長個人の暴走かしら。自分の手柄にするために、私から製法を奪って、私たちを用済みにしようとしているのね」

図星だったのか、ジュリアスの灰色の瞳が微かに歪んだ。

「賢しい口を利く女だ。……だが、それもここまでだ」

彼が指先を軽く振ると、足首を拘束していた影の茨が、私の膝、太もも、そして胴体へと蛇のように這い上がってきた。

ギリギリと全身を締め付けられる。肋骨が軋み、肺から空気が強制的に押し出された。

「ガッ……、あ……」

「私の言う通りに製法を紙に書き記せ。そうすれば、君だけは私の直属の錬金術師として生かしておいてやろう。だが、拒むというのなら……この影の茨は、君の全身の骨を少しずつ砕き、最後には脳髄まで入り込んで知識を直接啜り取ることになる」

激痛。

そして、圧倒的な死の恐怖。

感覚が完全に戻ったばかりの私の身体に、これほどの強烈なストレスが襲いかかれば、どうなるか。

チリッ、チリチリチリチリッ!!

左目の奥で、かつてないほど強烈な青白い火花が明滅した。

脳髄に絡みついた『寄生型呪術爆弾』が、激痛と恐怖を極上の餌として喰らい、歓喜の悲鳴を上げながらタイマーを凄まじい速度で回転させ始めたのだ。

頭蓋骨の内側を、熱した鉄串で直接掻き回されるような激痛。

影の茨による外側からの圧力と、呪術爆弾による内側からの破壊。二つの死の苦痛が、私の理性を粉々に砕きそうになる。

(だめ、だめだめだめ……!)

ここでパニックになれば、一瞬で頭が吹き飛ぶ。

私は歯を食いしばり、口の中に血の鉄錆びた味が広がるのを感じながら、必死に思考のフラスコを冷却しようとした。

感情を殺せ。痛みを論理に変換しろ。

影の茨がもたらす圧力は、水深五十メートルの水圧と同等の物理エネルギー。

脳髄の熱は、摂氏八百度の魔力蒸気。

私はただの観測者だ。この痛みは私のものではない。ただの、化学反応の数値データに過ぎない。

「ほう、まだ意識を保っているか。辺境の魔女見習いにしては、随分と精神力が強い」

ジュリアスが冷酷に感嘆の声を漏らし、影の拘束をさらに一段階強める。

「ぐっ……、あはは……」

私は血塗れの唇の端を吊り上げ、彼を真っ直ぐに睨みつけた。

「……そんな、三流の拷問で……私が口を割ると、思っているの……?」

「強がりはよせ。君の体は限界だ。指一本動かせまい」

「物理的な動きなんて……調合師には必要ないのよ」

私は白衣の裏地に仕込んでいた、ある「仕掛け」を作動させた。

ポケットの奥底に縫い付けていた、ガラス製の極小の試験管。それを、影の茨に締め付けられる『圧力そのもの』を利用して、内側からパチンと押し割ったのだ。

中に入っていたのは『腐食の泥』の超高濃度希釈液。

私の白衣を溶かし、影の茨に直接触れた瞬間、ジュジューッという激しい音と共に、影の魔力構造がドロドロに溶け崩れ始めた。

「なっ……私の影を、溶かしただと!?」

ジュリアスが驚愕に目を見開く。

魔力融解薬の応用だ。私はこの日のために、自身の身を守る防具として、触れた魔力を無力化する酸を常に仕込んでいた。

拘束が緩んだ一瞬の隙を突き、私は床に転がりながら、もう一つの劇薬『白燐華の粉末』を彼に向かって投げつけた。

強烈な閃光と煙幕が、密室を真っ白に染め上げる。

「小賢しい真似を!!」

ジュリアスの怒号と共に、煙を切り裂くように不可視の風の刃が飛んできた。

避けきれない。私の肩を浅く切り裂き、鮮血が空中に舞う。

新たな激痛に爆弾のタイマーが再び加速しようとするのを、私は自らの腕を強くつねることで強引に意識を現実に繋ぎ止めた。

「無駄だ、デレシア。この部屋は完全に封鎖されている。誰も君を助けに来ることはない。煙が晴れれば、君の命は終わりだ」

煙の向こうから、ジュリアスの絶対的な死の宣告が響く。

肩から流れる血。限界を迎えている脳の呪術回路。

逃げ場のない密室。

論理的に計算すれば、私の生存確率は限りなくゼロに近かった。

だが、私は絶望していなかった。

なぜなら、私は知っているからだ。私の相棒は、どんな分厚い壁の向こうにいようとも、必ずこの「匂い」に気づくはずだと。

私が流した血の匂いと、密室で弾けた劇薬の匂い。

「俺がお前の鼻になってやる」と誓った、あの嘘つきで、距離感のおかしい少年のことを。

煙が徐々に晴れ、ジュリアスの右手に致命的な雷撃の魔力が集束していく。

私を完全に抹殺しようとする、その凶刃が振り下ろされようとした、その時だった。

ズドォォォォォンッ!!!

密室の分厚い鉄の扉が、外側から凄まじい物理的、否、魔力的な衝撃を受けてひしゃげ、部屋の内側へと吹き飛んだ。

舞い散る土煙と破片の向こう側に、プラチナブロンドの髪を逆立て、青い瞳に狂気的なまでの殺意を宿したルカ・アステリアが立っていた。

「てめえ……俺のデレシアに、何してくれてんだ」

地獄の底から這い上がってきたようなその低く冷たい声に、私は張り詰めていた意識の糸が、ふっと安堵に緩むのを感じた。

理不尽な罠と暴力に塗れた密室の闇に、最強の魔法盗賊が、ついに牙を剥いて飛び込んできたのだ。




第十七話

ひしゃげた鉄の扉の向こうから、黒い煤煙を纏って現れたルカの姿は、紛れもなく私の救世主だった。

だが、その安堵はほんの一瞬で冷徹な緊迫感へと塗り替えられる。

「ルカ、危ない……! そいつは、王国の暗部の猟犬よ!」

私は崩れかけた石壁に背中を預けながら、肩から鮮血を流す腕で警告を発した。

生徒会長ジュリアスは、不意打ちによって鉄の扉が吹き飛ばされたことに対する動揺を、わずかコンマ数秒で完璧に押し潰した。その灰色の瞳には、冷酷な光が再び宿っている。

「ほう……。外部の不審者(ネズミ)が、よくぞこの完全防音の地下室まで辿り着いたものだ。ルカ・アステリア、君が学園の裏でコソコソと悪事を働いていた魔法盗賊団のリーダーだったとはね」

ジュリアスは右手に残る雷撃の魔力をさらに高め、冷ややかな笑みを浮かべた。

「手間が省けた。ここで二人まとめて始末すれば、王国の憂いは一度に消える」

「大きなお世話だ、エリート坊っちゃん」

ルカは一歩、また一歩と石畳を踏み鳴らしながら前へ出た。

その足音は異常なまでに重く、そして静かだった。彼の周囲の空間が、極度の冷気によってみるみるうちに凍りついていく。彼の青い瞳は、もはや人間のそれではなく、幾度もの絶望を潜り抜けた野獣のように濁り、そして鋭く尖っていた。

「俺の仲間を傷つけたこと。そして、デレシアに手出ししたこと……。その代償、今ここでその首を置いて払ってもらう」

「威勢がいいだけの雑魚が……!」

ジュリアスが手を振りかざし、幾条もの致命的な雷の槍を空間に出現させた。

放たれた雷撃は、轟音と共に一直線にルカの心臓へと突き進む。回避不能の速度。

しかし、ルカは一歩も引かなかった。彼が振るった短剣から放たれた氷の奔流が、雷の槍と激しく衝突し、密室全体を眩い閃光と爆風の濁流へと変える。

バチバチバチッ!! と空気が裂ける音が響き、私の目の前で二人の圧倒的な魔力がぶつかり合う。

(すごい……。昼間の、あの飄々としたクラスメイトの姿なんてどこにもない。これが、幾度もの死線を越えてきた魔法盗賊団のリーダーの本当の力……!)

だが、ジュリアスの実力も王国の中枢で鍛えられた本物だった。雷撃の余波が、私のいる壁際へと容赦なく襲いかかる。

「きゃっ……!」

思わず声を上げた私を庇うように、ルカが瞬時に私の前に回り込み、自らの背中で爆風と破片を受け止めた。

「ルカ!」

「大丈夫か、デレシア!」

振り返った彼の顔に新しい傷が走り、血が滲んでいる。

「すまない、遅くなった。お前をこんな目に遭わせて……許さない。あいつだけは、絶対にここで殺す」

その声に込められた過剰なまでの怒りと、尋常ではない焦燥感。

それは、単なる「仲間を守るための怒り」の枠を明らかに超えていた。まるで、過去に一度、私の目の前で私を失った絶望の記憶が、彼の理性を内側から狂わせているかのような、痛々しいほどの執着。

「ルカ、落ち着いて……! 感情を波立たせたら、あなたの頭の爆弾が……!」

私が叫んだ瞬間だった。

ルカの額の皮膚の下で、黒い紋様が激しく脈打った。彼自身の怒りと殺意のストレスに反応し、彼の頭上のタイマーが急速な危険領域へと突入しようとしたのだ。

「フッ、馬鹿な奴らだ。私を倒そうと感情を高ぶらせれば高ぶらせるほど、お前たちの頭にある呪術爆弾が自ら命を削ることになるというのに!」

ジュリアスは冷笑を浮かべ、さらに強力な重力魔法の陣を足元に展開した。

「さあ、自滅するがいい!」

重力が何倍にも跳ね上がり、私たちの身体が石床へと押し潰されそうになる。

このままでは、ジュリアスにとどめを刺されるか、あるいは自分たちの爆弾のせいで自滅するかの二択しかなかった。

(だめだ、ここで二人とも倒れたら、すべてが終わる。……私が、何とかしなければ)

私は激痛に耐えながら白衣のポケットを探った。

失われていた嗅覚が戻った今、私には周囲の魔力の波長が手に取るように分かっていた。ジュリアスの足元にある重力魔法陣の核。そこから漂うのは『泥炭の匂い』と『高密度魔石の粉末』の混ざった独特の悪臭だ。

重力魔法の構造は、特定の鉱物成分に依存している。

私はポケットの奥から、先ほど拾った特殊な酸の破片と『中和の触媒』を取り出した。

指先を激痛が襲う。頭の中のタイマーがチリチリと危険な音を立てる。

それでも、私は感情の波を無理やり凪へと沈め、調合師としての精密な指先だけを動かした。

「ルカ、合図したら、あの足元の魔法陣に向かって渾身の氷を撃って……!」

「デレシア、お前……!」

「早く!」

私の叫びに、ルカは一瞬だけ迷ったが、すぐに私の意図を察知した。彼は自らの頭の爆弾から発せられる痛みを気力でねじ伏せ、全身の魔力を右手に集約させる。

「今だ!!」

ルカの短剣から放たれた絶対零度の氷の刃が、私の投げた中和触媒の粉末を巻き込みながら、ジュリアスの足元の魔法陣へと直撃した。

ドォォォンッ!!

化学反応と魔法の結合崩壊。

重力魔法の核となっていた高密度魔石が内部から見事に砕け散り、凄まじい逆流現象がジュリアスを襲った。

「ぐっ……! なんだと……!?」

自分の放った重力魔法の反動をまともに受け、ジュリアスは膝をつき、口元から鮮血を零した。彼の完璧な姿勢が崩れ、灰色の瞳に初めて焦りの色が浮かぶ。

「今よ、ルカ!」

「おうっ!!」

ルカの身体が弾けた。

彼は一瞬でジュリアスの懐に潜り込み、その首筋へと容赦なく麻痺毒の針を叩き込んだ。

「がはっ……! きさま……」

ジュリアスは白目を剥き、そのまま意識を失って冷たい石床へと崩れ落ちた。

静寂が、ひしゃげた特別棟の地下室に戻った。

荒い息を吐きながら、ルカは崩れ落ちたジュリアスを確認し、それからすぐに私の元へと駆け寄ってきた。

「デレシア……! 怪我は、どこをやられた?」

彼は震える手で私の肩の傷を確認し、自分のシャツの裾を乱暴に引き裂いて私の傷口に強く巻き付け、止血した。

その手は、先ほどまでの冷徹な盗賊のものではなく、まるで宝物を扱うかのように激しく、そして切なく震えていた。

「私は大丈夫……。それより、ルカ、あなたの頭……」

私は彼の額に手を伸ばした。そこには、まだ治まらない呪術爆弾の黒い刻印が脈打っていた。

「私を助けるために、そんなに感情を荒ぶらせたら……!」

「……馬鹿だな、俺は」

ルカは私の手を自分の額に当てたまま、ふっと自嘲気味に笑った。

「お前が目の前で殺されそうになってるのに、冷静でいられるわけねえだろ。俺は、お前を……」

彼はそこまで言いかけて、ハッと息を呑んだ。

その瞳に宿る深い絶望と、言い淀んだ言葉の裏にある途方もない重みが、私の胸を締め付ける。

なぜ彼は、そこまで私に執着するのか。私たちが本当に出会ってからまだ数週間しか経っていないというのに、彼の抱える感情は、まるで何十年もの後悔と愛着が入り混じったかのような深さを持っていた。

「……どうして、そんなに私に執着するの?」

私は震える声で尋ねた。

「まるで、私が死ぬことが、この世界で一番怖いことみたいに……。あなたにとって、私は何なの?」

ルカは答えなかった。

彼はただ、私の細い体をしっかりと抱きしめ、その耳元で掠れた声で呟いた。

「……行こう、デレシア。ここに長居は無用だ。ジュリアスの意識が戻る前に、ここから脱出するぞ」

彼は私の問いをはぐらかし、私を優しく抱え上げて立ち上がった。

その背中はあまりにも大きく、そしてどこか孤独で、切なかった。

王国の暗部の実力者である生徒会長を打ち破った。しかし、これで私たちの勝利ではない。

むしろ、王国の中枢に決定的な宣戦布告をしてしまったのだ。

迫り来る創星祭の仮面舞踏会。そして、その夜に待ち受ける王立金庫の最深部。

私たちが踏み込んでいる世界の闇は、想像を絶するほど深く、そして残酷だった。それでも、私は彼の腕の中で、この男と共に最後まで走り抜くのだという冷たい覚悟を新たにしていた。



第十八話

王立魔法学園の旧校舎。

その最も端にある、長年使われていない備品倉庫の冷たい床に、私たちは折り重なるようにして倒れ込んだ。

「ハァ……ッ、ハァ……」

「……ここまで来れば、ひとまずは追ってこないはずだ」

ルカが荒い息を吐きながら、厳重な封印の魔法陣を扉の内側に何重にも刻み込む。ジュリアスの意識が戻り、猟犬たちが本格的な捜索を始めるまでにはまだ少し時間があるはずだった。

完全な静寂と暗闇。

窓から差し込む青白い月明かりだけが、埃舞う室内と、互いの傷だらけの姿を照らし出していた。

私は壁に背を預けて座り込み、自らの左肩を押さえた。

ジュリアスの放った不可視の風の刃による裂傷。ルカが咄嗟にシャツを破って縛ってくれたおかげで致命的な失血は免れているが、熱を帯びた鋭い痛みが絶え間なく脳を刺激してくる。

「……見せてみろ、デレシア。血が止まってない」

魔法陣を敷き終えたルカが、這うようにして私の傍に寄り、血に染まった布に手を伸ばそうとした。

「触らないで。私がやるわ」

私は彼の手を軽く払い除け、白衣の無事だった方のポケットから、小さな軟膏の瓶を取り出した。

「『白亜草の練り薬』よ。細胞の結合を強制的に促進する。少し痛むけれど、すぐに塞がるわ」

私は自ら布を解き、傷口に直接その緑色のペーストを塗り込んだ。

「くっ……!」

焼けるような激痛に、思わず声が漏れる。脳髄の『寄生型呪術爆弾』が痛覚というストレスに反応し、チリチリと微かな警告音を鳴らしたが、私は強靭な理性でそれをねじ伏せた。数秒後には薬効が現れ、傷口が嘘のように塞がり始める。

「相変わらず、無茶苦茶な薬を使うな……」

ルカが顔を顰めながら呟いた。

「調合師は、自分の体を実験台にして痛みの致死量を測るの。これくらい、なんてことはないわ」

私は息を整えながら、今度はルカの顔を真っ直ぐに見据えた。

「それよりも、あなたの方よ。大温室の炎と、さっきの雷撃の余波で、全身が火傷と打撲だらけじゃない」

私の完全に戻った嗅覚は、彼から漂う血の匂いと、皮膚が焦げた不快な匂いを正確に捉えていた。

私は自分の傷の処置もそこそこに、残っていた軟膏を指に取り、彼の火傷に覆われた腕へと伸ばした。

「俺はいい。こんなの、放っておけば治る」

「強がらないで。ジュリアスに雷を撃ち込まれた時、あなたは私の盾になった。あのまま直撃していれば、あなたの内臓は黒焦げになっていたわ」

私が無理やり彼の手首を掴み、薬を塗り込むと、ルカは小さく息を呑み、抵抗するのをやめた。

至近距離で向き合う形になる。

冷たい月明かりの下、彼の透き通るような青い瞳が、私をじっと見つめ返していた。

地下室での激闘の最中、彼が私に見せたあの異常なまでの執着と、激しい怒り。

私は指先の動きを止め、静かに、しかし決して逃げ場を与えない声で問いかけた。

「……答えて、ルカ。特別棟の地下で、あなたは言ったわね。『お前をこんな目に遭わせて許さない』と」

ルカの肩が、微かにビクッと跳ねた。

「どうして、そこまで私に執着するの。私たちは、数週間前に出会ったばかりの、ただの共犯者よ。お互いの命を繋ぐための、打算的な関係のはず。それなのに、あなたが私を庇う時のあの目は……まるで、私の死が、この世界が終わることよりも恐ろしいと言っているみたいだった」

沈黙が、重く倉庫を満たした。

彼の脈拍が、私の握る手首越しに早くなっているのが分かる。

「教えて。あなたにとって、私は何なの? あなたは過去に、私を……」

「……仲間だからだ」

ルカが、私の言葉を遮るように低く呟いた。

彼はゆっくりと視線を逸らし、月明かりの差し込む窓の外へと顔を向けた。

いつもの飄々とした笑みが、不自然なほど完璧な形で彼の唇に貼り付けられる。

「魔法盗賊団のリーダーとして、自分のクルーを守るのは当然の義務だろ? 俺はただ、仲間を二度と死なせたくない。それだけさ」

彼は自嘲気味に鼻で笑った。

「昔、俺の判断ミスのせいで、大事な仲間を喪ったことがあるんだ。目の前で、理不尽な暴力に奪われていくのを、何もできずに見ているしかなかった。……だから、誓ったんだよ。俺の目の届く範囲では、もう絶対に、誰の命も奪わせないってな。特にお前は、あの金庫を開けるための超重要人物だしな」

それは、いかにも理にかなった、美しい過去のトラウマの告白だった。

普通の少女なら、彼の深い傷に同情し、その不器用な優しさに胸を打たれて納得しただろう。

だが、私は普通の少女ではない。

毒と薬理を解き明かし、人体の微細な変化から真実を抽出する、辺境の調合師だ。

(……嘘ね)

私の脳内のロジックが、彼の言葉というフラスコの中から、決定的な『不純物』を即座に検出した。

嘘には匂いがある。内臓の疾患が呼気に現れるように、心が抱える致命的な矛盾は、必ず身体的な症状として表面化するのだ。

もし彼が言うように、「過去に一度、大切な仲間を失った悲しみ」を語っているのだとすれば、その目に浮かぶべきは『後悔』や『哀悼』のはずだ。

しかし、今、私から視線を逸らしている彼の青い瞳の奥にあるものは、そんな綺麗な感情ではない。

もっと底なしの、ヘドロのように濁りきった『絶望』。

そして、数え切れないほどの死を見届けてきた者だけが持つ、精神が完全に摩耗しきった特有の『諦観』。

たった一度の喪失で刻まれるような傷ではない。何十回、何百回と、大切なものが理不尽に砕け散る様を強制的に見せられ続け、その度に心をすり下ろされてきたような、狂気的なまでの摩耗。

それに、彼は「二度と死なせたくない」と言いながら、私の目を見ることができなかった。

本当に仲間としての責任感から出た言葉なら、私を真っ直ぐに見据えて言うはずだ。

彼は何かを決定的に隠している。

私に関わる、世界の根幹を揺るがすような恐ろしい秘密を。

「……そう。あなたのリーダーとしての責任感の強さは、よく分かったわ」

私はあえて追及するのをやめ、彼の手首から静かに手を離した。

今、この嘘を力ずくで剥がしにかかれば、彼の精神が完全に決壊してしまうかもしれない。

彼がこれほどまでに分厚い仮面を被ってまで隠そうとしている真実を、今の私が無理に暴くことは、猛毒の入ったフラスコを素手で叩き割るようなものだ。

私たちは今、頭の爆弾と生徒会長の追撃という、二重の死のタイムリミットに追われている。彼をこれ以上追い詰めるのは、極めて非論理的な選択だった。

「ごめん、変な空気にして」

ルカがわざとらしく明るい声を出し、立ち上がった。

「とにかく、ジュリアスをぶっ倒しちまった以上、もう学園に俺たちの居場所はない。幸い、魔力融解薬の最終調整に使う設備は、アジトの方にも移してある。……明日からは、学園には来ない。完全に地下に潜って、創星祭の最終日を待つ」

「ええ、そうね。もう優等生のお芝居をする必要もないわ」

私も立ち上がり、白衣の埃を払った。

ルカは平然を装っているが、私には分かっていた。

彼が抱える絶望の深さは、ただの盗賊団のリーダーが背負うべきキャパシティをとうに超えている。

この世界には、私の知らない「何か」がある。

十五番の生徒の記録が消えていたように。私が廊下で見た、自分が焼け死ぬ幻覚のように。

そして、ルカの瞳の奥に広がる、底なしの墓場のように。

「行くよ、デレシア」

ルカが旧校舎の扉に手をかける。

彼の背中を見つめながら、私は自分のこめかみにそっと触れた。

チリッ、と規則的な痛みを放つ呪術爆弾。

死のカウントダウンは、私たちの嘘や秘密などお構いなしに、ただ冷酷に秒針を進めていく。

私は、真実を暴くための論理の刃を、今は深く胸の奥底に鞘打ちした。

すべては、あの王立金庫の最深部にあるという絶対不可侵の扉を開けた時に分かるはずだ。

この偽りの平和も、王国の闇も、そして彼が隠し続ける悲劇の正体も。

すべての毒が混ざり合う仮面舞踏会の夜に向けて、私たちは静かに、そして後戻りできない暗闇の中へと歩みを進めた。



第十九話

魔法盗賊団の地下アジト。外界の光も、学園の喧騒も一切届かない冷たい石室で、私は巨大な坩堝の前に立ち尽くしていた。

生徒会長ジュリアスの追撃を振り切り、学園から完全に姿を消して三日。

肩の傷が微かに疼く中、私たちは『魔力融解薬』の最終調整という、最も過酷で繊細な工程に突入していた。

魔術の結界とは、法である。

王立金庫を外界から隔絶しているのは、数百年前に初代筆頭魔術師が編み上げた『絶対不可侵の防衛呪術』。それは王国という国家が定めた、微小なエラーすらも許さない厳格な帳簿であり、憲法そのものだ。

物理的な衝撃や、異なる属性の強力な魔法を力任せにぶつけたところで、それは「違法な攻撃」として即座にシステムに検知され、攻撃者へと反発のペナルティが還元される。正面から挑めば、どれほどの力を持っていようと必ず弾き返されるようにできている。

だからこそ、暴力ではなく、論理の抜け穴を突かなければならない。

厳重に監査された帳簿の奥底に隠された、たった一つの矛盾した記述。強固な法典の中にある、解釈の隙間。

呪術のルールそのものに寄り添い、内側からその構造を矛盾させ、システム全体を『合法的に』瓦解させる極小のバグ。それこそが、私の創り出そうとしている魔力融解薬の正体だった。

「ルカ、魔力抑制をあと二パーセント引き上げて。熱量じゃない、波長の密度よ」

「……分かってる」

ルカの声はひどく掠れていた。彼の顔は土気色で、額には幾筋もの汗が伝っている。

無理もない。三日三晩、一睡もせずに私の要求する無茶な魔力制御を寸分の狂いもなく続けているのだ。強靭な精神力を持つ彼であっても、魔力の枯渇と肉体の限界はすぐそこまで迫っていた。

坩堝の中では、第二フェーズで完成した青黒い液体が、最後の触媒である『虚無の雫』を取り込み、激しく泡立っている。

空気の循環が悪い地下室には、触媒が発する微量な毒性ガスが薄く滞留しており、呼吸をするたびに肺が焼け焦げるような感覚があった。

薬草学と論理の極限。

私の脳内では、何万通りもの化学式と魔力波長の計算が猛スピードで構築されては破棄されていく。痛みを忘れ、疲労を忘れ、感情を完全に殺し、ただ一つの完璧な解を導き出すための冷徹な演算装置になり果てる。

水分の蒸発量、魔力の反射率、薬液の匂いの変化。

すべての条件が、私の想定した完璧な数値と合致した。

「今よ!」

私の叫びと同時に、ルカが坩堝への魔力供給を完全に、そして一瞬にして遮断した。

急激な冷却。

シュゥゥゥゥッという静かな音と共に、坩堝の中から立ち昇っていた禍々しい蒸気が嘘のように消え去る。

石室に、耳鳴りがするほどの静寂が訪れた。

私は息を詰め、震える手で坩堝の縁を掴み、そっと中を覗き込んだ。

底に僅かに残っていたのは、青黒い毒の色でも、銀色の輝きでもない。

完全な「透明」。

光の屈折すら起こさない、水よりもさらに透き通った、そこに存在していることすら知覚できないほどの純粋な虚無の液体だった。

「……完成したわ」

掠れた自分の声が、やけに遠く聞こえた。

「これが、王国の法を溶かす絶対的な矛盾。……魔力融解薬の完成形よ」

ルカが深々と安堵の息を吐き、壁にもたれかかってズルズルと座り込んだ。

私もまた、極度の集中状態から解放され、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れるのを感じた。

完成した薬を慎重に専用の特殊ガラス管に封入し、しっかりと蓋を閉めた、その瞬間だった。

ドクンッ!!

心臓が、肋骨を内側から突き破るほどの暴力的な拍動を打った。

「ガ……ッ、あ……!?」

突然の異変に、私はガラス管を握りしめたまま、石の床に膝をついた。

痛い。違う、痛いという次元ではない。脳髄そのものを引き千切られ、氷点下の水風呂に全身を叩き込まれたような、圧倒的な死の感覚が全身を駆け巡った。

「デレシア!?」

倒れ込んだ私の異常を察知し、ルカが弾かれたように飛び起きて肩を掴む。

だが、彼の声すらも膜越しのように遠のいていく。

私の左目の奥で、呪術爆弾の魔力回路が狂ったように明滅していた。今までチリチリと微かに痛む程度だったそれが、今は明確な「数字」のビジョンとして私の脳内に直接刻み込まれていく。

極度の疲労。睡眠不足。ジュリアスとの戦いで負った傷。そして何より、劇薬の完成によって引き起こされた、達成感と表裏一体の強烈な「虚脱感」と「死への反動」。

薬を完成させたことで、私の無意識は「これで金庫に行ける。つまり、死地に赴くのだ」という事実を完全に理解してしまったのだ。

感情をフラットに保つための理性の壁が限界を迎えて決壊し、呪術爆弾は、この巨大なストレスと精神の隙を逃さなかった。

視界が血のように赤く染まり、その中央に、無機質なカウントダウンが浮かび上がる。

三百日以上あったはずの猶予。

それが、崩れ落ちる砂時計のように、滝のような勢いで減少していく。

二百日、百五十日、百二十日……。

「やめ、て……止まって……!」

私は自分の頭を両手で抱え込み、床に額を擦り付けて懇願した。

数字の減少を食い止めるには、冷静にならなければならない。だが、死の恐怖がタイマーを加速させ、加速するタイマーがさらなる恐怖を呼ぶ。完全な悪循環。

論理もへったくれもない、ただの純粋な生存本能の悲鳴だった。

嫌だ。死にたくない。まだ、書きたい物語がある。辺境の工房に帰りたい。

無数の未練が、爆弾の回路にさらなる火を注ぐ。

カチリ。

狂ったように回転していた数字が、ようやく止まった。

脳内に焼き付いたその残日数は。

『残り 九十九日』

「ああ……ぁ……」

百日を切った。

一年という途方もないはずだった猶予は、たった数週間の潜入と数日の過酷な調合によって、四分の一以下にまで削り取られてしまった。

この先、さらに少しでも死の恐怖に直面すれば、この二桁の数字はあっという間に一桁になり、そしてゼロになる。

死の輪郭が、すぐ背後から私の首筋に冷たい息を吹きかけているのが分かった。

「デレシア、しっかりしろ! 息を吸え!」

ルカが私の頬を両手で挟み込み、無理やり自分と視線を合わせさせる。

彼の濁った青い瞳の奥に、かつてないほどの切迫した恐怖が浮かんでいた。私の命が削り取られていくのを目の当たりにして、彼自身の精神もまたギリギリのところで軋み声を上げているのだ。

「ひっ、はぁ、はぁ……」

私はルカの手のひらの体温にすがりつくようにして、必死に肺へ空気を送り込んだ。

九十九日。

もはや、立ち止まることも、休むことも許されない。

魔力融解薬は完成した。しかし、私自身の命の防波堤はすでに半壊している。

「……薬は、できたわ」

私はガタガタと震える手で、透明な液体が入ったガラス管をルカの胸に押し付けた。

「もう、後戻りはできない。私の命が尽きるのが先か、あの金庫を破るのが先か……」

ルカはガラス管をしっかりと握りしめ、私を抱き寄せるようにして深く頷いた。

地下アジトの冷たい空気の中、私たちは完成した最強の鍵と、極限まで削り取られた死の宣告を抱えたまま、間近に迫った仮面舞踏会の夜への震える一歩を踏み出した。



第二十話

魔法盗賊団の地下アジト。外界の光も、学園の喧騒も一切届かない冷たい石室の中、私の脳裏には常に「九十九」という残酷な数字がこびりついていた。

魔力融解薬の完成と同時に引き起こされた、強烈な虚脱感と死への反動。それによって削り取られた猶予は、もはや私の精神をギリギリのところで立たせているに過ぎなかった。

残された時間は、百日を切った。

少しでも恐怖に呑まれれば、この数字は滝のように崩れ落ち、私の頭蓋は木端微塵に吹き飛ぶ。私は息をするたびに、自分の心が極薄のガラス細工になってしまったかのような錯覚に陥っていた。

「デレシア。水だ、少し飲め」

冷たい石の壁に背を預けて座り込む私の頬に、冷えた金属のマグカップが押し当てられた。

ルカだった。彼の青い瞳には、隠しきれない疲労と、私への痛切な気遣いが滲んでいる。彼自身もまた、三日三晩の魔力制御と生徒会長ジュリアスとの死闘を経て、肉体の限界を迎えているはずだというのに。

「……ありがとう」

私は震える両手でマグカップを受け取り、冷たい水を喉に流し込んだ。

乾燥していた細胞に水分が染み渡っていくのを感じながら、私は深く息を吐き出し、どうにか感情の波を平坦な凪へと誘導する。

アジトの奥では、ローブ姿の盗賊団のメンバーたちが、明後日に迫った『創星祭』最終日の仮面舞踏会に向けて、武器の手入れや見取り図の最終確認を無言で行っていた。

誰もが、研ぎ澄まされた刃のような緊張感を纏っている。王国の暗部である生徒会長を退けた以上、もはや学園への帰還は不可能だ。私たちの存在は完全に露見し、王国側も金庫の防衛をかつてないレベルで固めているだろう。

退路は、完全に断たれた。

私たちが生き残る道は、完成した透明な劇薬を抱え、正面から王国の喉元へと食らいつくことだけだ。

その時だった。

――ヒュッ。

石室の空気が、不自然に鳴った。

まるで、真空の刃で空間そのものが切り裂かれたような、極めて異質な魔力の波長。

「なんだ!?」

見張りに立っていた大柄な団員が叫び、腰の短剣を抜く。ルカも即座に私の前に立ち塞がり、絶対零度の冷気を右手に展開した。

アジトには、ルカが幾重にも張り巡らせた高度な隠蔽と防衛の結界があるはずだった。しかし、その結界は一切の警報を鳴らすことなく、ただ「それ」を静かに通過させていた。

私の研ぎ澄まされた嗅覚が、即座にその異物の正体を捉えた。

むせ返るような、甘く腐敗した匂い。

そして、鉄が錆びたような血の匂い。

『星屑の百合』と『竜の血』の成分。間違いない。私の頭蓋に巣食う呪術爆弾と、全く同じ魔力の残滓だ。

「ルカ、気をつけて! ゼロの魔力よ!」

私が叫んだ瞬間、石室の中央の空間がグニャリと歪み、一枚の漆黒の封筒が、まるで泥水から浮かび上がるようにしてポツリと出現した。

封筒は誰の手にも触れられることなく、空中でひとりでに開封される。

中から滑り落ちたのは、血のような深い赤色をした一枚の羊皮紙だった。

羊皮紙が空中で静止すると、そこに書かれた文字が、青白い炎となって燃え上がり、石室の壁に巨大な文字の影を投射した。

『愚かな鍵よ、舞台へ上がれ』

声なき声が、脳髄に直接響き渡るようなおぞましい感覚。

文字はさらに続き、虚空に新たな炎の文脈を紡ぎ出していく。

『劇薬の完成、祝着至極。

猟犬を退け、真実に手を伸ばそうとするその足掻き、実に見事だ。

だが、盤面は常に私の掌の上にある。

さあ、狂乱の夜においでなさい。

王国の法が溶け落ちる様を、特等席で見届けてあげよう。

三百六十五日の命の果てに、君たちは何を暴くのか』

石室は、死に絶えたような沈黙に包まれた。

団員たちの顔から血の気が引き、ルカの放つ冷気が、怒りで制御を失いピキピキと周囲の床を凍らせていく。

(……知っているんだ)

私の奥歯が、カチカチと制御不能な震えを起こした。

ゼロは、私たちが特別棟の地下で『魔力融解薬』を完成させたことも、ジュリアスとの死闘を制してこの地下に潜伏していることも、すべてを知っている。

私たちの決死の足掻きは、この姿なき爆弾魔にとっては、透明なガラスケースの中で蠢く実験動物の生態観察に過ぎなかったのだ。

絶対的な情報格差。そして、逃れられない監視の目。

そのおぞましい事実に直面した瞬間、私の脳内の爆弾が、再び狂喜の叫びを上げた。

チリッ、チリチリチリチリッ!!

左目の奥で青い火花が炸裂し、先ほど九十九で止まったはずの数字が、再び暴力的な速度で減少し始める。

九十八、九十五、九十、八十五……!!

「ああぁッ……!」

頭蓋を万力で砕かれるような激痛に、私は床に倒れ伏し、自らの髪を掻き毟った。

恐怖だ。純粋で、圧倒的な死への恐怖が、私の理性を内側から喰い破っていく。

ゼロには敵わない。私たちがどれだけ知恵を絞り、毒を調合しようとも、彼はすべてを見透かし、安全な場所から私たちの破滅を笑っているのだ。

「デレシア!! 見るな、目を閉じろ!!」

ルカが私の頭を抱き抱え、その視界を彼自身の胸で完全に覆い隠した。

ドンッ!! という凄まじい破壊音。

ルカが放った氷の塊が、空中に浮かぶ羊皮紙を完全に粉砕し、残された炎の文字ごと空間を強引に凍結させたのだ。

「奴の悪意に呑まれるな! お前の頭のタイマーが奴の狙いだ、感情を殺せ!」

ルカの悲痛な叫び声が、鼓膜を震わせる。

彼の胸から伝わる激しい心音。そして、彼の体温。

そうだ。私は調合師だ。与えられた現象にただ怯えるのではなく、原因を解明し、中和剤を導き出さなければならない。

私は目を強く閉じ、激痛の中で必死に論理のフラスコをかき混ぜた。

ゼロのこのメッセージは、物理的な攻撃ではない。

これは、対象の精神を破壊し、恐怖によるタイマーの加速を狙った『心理的な猛毒』だ。

毒を中和するには、その成分を客観的に分析すればいい。

(なぜ、ゼロはわざわざこの警告を送ってきた?)

もし彼が本気で私たちを排除したいなら、このアジトの座標が割れている以上、ここに強力な爆弾を転送して吹き飛ばせば済む話だ。

しかし、彼はそうしなかった。

『愚かな鍵よ、舞台へ上がれ』

彼は、私たちを招いている。私という『鍵』が、王立金庫の扉を開けることを、彼自身が誰よりも望んでいるのだ。

だから、彼は私をここでは殺さない。殺せないのだ。

「……ははっ」

激痛と恐怖の底から、乾いた笑いが私の唇から漏れた。

「デレシア……?」

ルカが戸惑ったように私を見る。

私は震える腕で床を支え、ゆっくりと立ち上がった。

脳内の数字は、八十の日数を残して、ピタリと停止していた。恐怖という毒は、論理という中和剤によって完全に無害化されたのだ。

「……見え透いた挑発ね」

私は、粉々に砕け散った羊皮紙の残骸を冷ややかに見下ろした。

「ゼロは私たちが怖いから、わざわざこんな手品を使ってマウントを取りに来たのよ。私たちが金庫の扉を開けるまでは手出しできないという、自分自身の『縛り』を暴露したも同然だわ」

私の言葉に、絶望に沈んでいた盗賊団のメンバーたちが、ハッと顔を上げた。

「ゼロと王国は繋がっている。奴らは私に金庫を開けさせた後、その罪を私たちになすりつけて処刑するシナリオを描いている。だから、私たちが舞台に上がらなければ、奴らの計画は根底から頓挫するのよ」

私は白衣の襟を正し、先ほどまでの恐怖を微塵も感じさせない、氷のように冷たい声で宣言した。

「上等じゃない。私たちがただの便利な鍵かどうか、あの扉の前で思い知らせてあげる。ゼロのシナリオ通りに動くふりをして、奴の喉元に致死の毒を流し込んでやるわ」

それは、姿なき最悪の爆弾魔に対する、辺境の魔女見習いからの明確な宣戦布告だった。

ルカは私の横顔をしばらく見つめていたが、やがていつもの不遜な笑みを唇に蘇らせた。

「……全くだ。わざわざ招待状まで寄越すとは、随分と律儀な爆弾魔サマじゃねえか。俺たちが最高の絶望をプレゼントしてやるってのによ」

アジトの空気が、再び熱を帯びた。

恐怖は決意に変わり、絶望は反逆の炎へと変わる。

残された命の猶予は、わずか八十日。

だが、そのすべてを燃やし尽くすための準備は、すでに整っていた。

決行前夜の静寂が、すぐそこまで迫っている。

私たちは、王国の暗部と爆弾魔ゼロが待ち受ける、狂乱の仮面舞踏会という名の処刑台へと、自らの意思で歩みを進める覚悟を決めた。



第二十一話

魔法盗賊団の地下アジトは、深く、重い静寂に包まれていた。

地上では今頃、創星祭の前夜祭が行われ、王都中が熱狂と喧騒の渦に包まれているはずだ。しかし、太陽の光すら届かないこの冷たい石室には、微かな水滴の音と、私が羊皮紙にペンを走らせる摩擦音だけが響いていた。

『拝啓、師匠。

辺境の工房の煙突から昇る煙が恋しい今日この頃です。私の頭に仕掛けられた呪術爆弾のタイマーは、現在、残り八十日を指しています。驚かないでください。私はまだ生きていますし、あなたの教えを一つも忘れてはいません』

インク壺にペン先を浸し、私は少しだけ筆を止めた。

何をどこまで書くべきか。王国の暗部が生み出した禁忌の呪術のこと、爆弾魔ゼロからの不気味な招待状のこと、そして明日、私たちが王立金庫の絶対不可侵の扉を破ろうとしていること。

師匠が読めば、眉間を深く寄せて「馬鹿弟子が」と呆れるに違いない。

それでも、私は書き続けた。

『私は、あなたが編み出した理論を応用し、世界で最も透明で、最も恐ろしい劇薬を完成させました。魔力融解薬。あらゆる魔法の法典を内側から食い破る、論理の毒です。明日、私はこれを抱えて、死地へと向かいます。もし私が帰らなかった時は……』

「遺言書のつもりか?」

唐突に、背後から声が落ちてきた。

振り返ると、ルカが湯気を立てる木製のマグカップを二つ持って立っていた。彼は私の隣の

第二十七話

分厚い岩盤が崩落する轟音が、密室に仕組まれた完璧な処刑のシナリオを根底から粉砕した。


舞い散る土砂と石の雨。その向こう側から、ゆっくりと立ち上がる一つの影。 暗淵よりも深い漆黒のコート。顔を覆うのは、滑稽なほどに歪んだ道化師の仮面だった。


彼――最悪の爆弾魔ゼロは、数十メートルもの高所から飛び降りたにもかかわらず、着地の衝撃音すら周囲の空間に吸収させていた。まるで重力という世界の基本法則すら、彼の下では意味をなさないかのようだ。 滅菌されていたはずの地下空間に、ツンとしたオゾンの臭いと、極度に圧縮された魔力特有の焦げ臭さが急速に充満していく。


「なんだ、貴様は……! どこから侵入した!」


完璧な罠を張ったはずの生徒会長ジュリアスが、血相を変えて叫んだ。彼の整ったプラチナブロンドの髪は土埃にまみれ、先ほどまでの傲慢な支配者の面影は微塵もない。


仮面の男は答えない。 ただ、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、首をコトリと傾げた。その無言の動作は、この場にいる王国親衛隊の精鋭たちを「路傍の石」程度にしか認識していないという、絶対的な強者の証だった。


「構わん、殺せ! その不審者を一瞬で塵にしろ!」


ジュリアスの金切り声が響き渡った。 統率の取れた数十名の兵士たちが、私たちから矛先を逸らし、一斉にゼロへと向ける。 放たれたのは、先ほどまで私たちを焼き尽くそうとしていた致死の閃光の雨。雷撃、真空の刃、超高熱の火球。それらが一本の巨大な濁流となり、漆黒の影を完全に飲み込んだ。


石室全体が揺れるほどの着弾。 誰もが、侵入者の死を確信した。


だが、光が収まった直後、私の目は信じられない現象を捉えていた。 ゼロは無傷だった。回避したのではない。防御障壁を張ったのでもない。 彼を中心に半径数メートルの空間だけが、まるで初めから何も起きていなかったかのように静まり返っている。彼が指先を僅かに弾いた瞬間、王国親衛隊が放ったあらゆる属性の魔力構造が、極小の光の粒子に分解され、無害な霧となって霧散していたのだ。


私の頭の片隅で、調合師としての演算機能が悲鳴を上げた。 あれは防御魔法ではない。対象の魔法の構成要素を瞬時に読み取り、それを根本から分解する強制的な構造解体だ。 複雑な化合物を一瞥しただけで元の元素に還元してしまうような、神業としか呼べない現象。


兵士たちが次弾の詠唱に入るよりも早く、ゼロが動いた。 いや、移動のプロセスが見えなかった。 彼は音もなく数十メートルの距離を縮め、銀色の鎧を着込んだ前衛部隊のど真ん中に出現していた。


「踊りなさい」


仮面の奥から、ひどく歪んだ、金属が擦れるような低い声が響いた。 彼が右手を軽く薙ぎ払う。 ただそれだけで、空間そのものが爆発した。


凄まじい衝撃波が巻き起こり、大砲の直撃にも耐えるはずの親衛隊の重装甲が、まるで紙屑のようにひしゃげていく。 悲鳴を上げる間もなかった。屈強な兵士たちの身体が宙を舞い、防魔コーティングが施された石壁に激突して次々と崩れ落ちていく。


そこからは、一方的な蹂躙だった。 ゼロが歩みを進めるたび、彼の足元や指先から局地的な爆発が連鎖する。複雑な詠唱など一切ない。彼はこの空間に漂う微小な魔力残滓を、自らの意志一つで極めて不安定な爆発物へと変換し、起爆させているのだ。


あまりにも洗練された、無駄のない殺戮の軌跡。 私は恐怖で身体を震わせながらも、その身のこなしから目を逸らすことができなかった。 力任せの破壊ではない。ゼロの動きには、敵の攻撃の死角を正確に突き、最小の動きで最大の効果を叩き出す、恐ろしいほどの武術の洗練があった。 そして何より、その流れるような体術と魔力の使い方には、奇妙な既視感があった。私の記憶の奥底をざわつかせる、得体の知れない符合。


わずか数分。 ジュリアスが誇った数十名の親衛隊は、ただの一人も立っていなかった。 呻き声と、鎧の焦げる臭いだけが地下空間を支配している。


「馬鹿な……。我が王国の精鋭が、たった一人に……」


ジュリアスはへたり込み、震える手で黒い指揮杖を構えようとした。 だが、ゼロは歩みを止めず、彼の目の前まで距離を詰める。ジュリアスの手が震えながら放とうとした魔法の起点を、ゼロは容赦なく黒いブーツで踏み砕いた。 手首が潰れる嫌な音が響き、ゼロはそのまま無造作にジュリアスの胸ぐらを掴み上げると、至近距離で魔力の爆風を叩き込んだ。 吹き飛ばされた生徒会長は、壁に激突して完全に意識を失い、ボロ布のように崩れ落ちた。


静寂が戻った。 天井の大穴から降り注ぐ瓦礫の粉塵だけが、月光のような淡い光に照らされて舞っている。


私たちの頭に呪いを刻み込み、この狂ったゲームを仕掛けた張本人が、今、すべての障害を排除し終えて、私たちの目の前に立っている。 ゆっくりと、漆黒のコートが翻った。 道化師の仮面に空いた二つの暗い穴が、倒れ伏す兵士たちを一瞥した後、真っ直ぐにこちらを捉えた。


盗賊団のメンバーたちが、先ほどの圧倒的な光景に戦意を喪失し、後ずさりをする。 だが、一人だけ、全く退かない者がいた。


ルカ・アステリア。 彼は血の滲む唇を固く結び、右手に握った短剣の冷気を極限まで高めていた。周囲の石畳が凍てつく音を立てる。 ゼロの放つ灼熱の爆炎と、ルカの放つ絶対零度の冷気。 相反する二つの巨大なエネルギーが、この空っぽの地下室で静かに衝突し始めている。


「……てめえが、ゼロか」


ルカの声は、地の底から響くような深い怒りに満ちていた。 彼が一歩、前へ踏み出す。私を完全にその背中で庇うように。 仮面の男は何も答えない。ただ、ゆっくりとコートの中から、異様な形をした片刃の剣を引き抜いた。


逃げ場はない。 王国という偽りの脅威が排除された今、私たちは、私たち自身の命を直接脅かす真の絶望と対峙することになった。 私の呼吸は浅く、心臓は早鐘のように打ち続けている。 この圧倒的な力の差を前に、一体どんな解答を描けばいいというのか。 すべてを灰にする爆弾魔と、それに立ち向かおうとする傷だらけの少年の、決死の死闘が始まろうとしていた。



第二十八話

分厚い岩盤の天井が崩落した直後の地下空間には、不気味なほどの静寂が降り降りていた。

王国親衛隊の精鋭たちをほんの数分で全滅させた漆黒のコートの男は、瓦礫の山の上に立ち、道化師の仮面の奥から私たちを見下ろしている。

彼の周囲だけ、空間の温度や気圧といったあらゆる物理法則が歪んでいるように見えた。

ルカが一歩、前へ踏み出す。

彼の右手には極限まで圧縮された冷気が渦を巻き、鋭利な氷の刃を形作っていた。これまでの道中で見せていた焦燥や迷いは、今の彼の背中からは完全に消え失せている。ただ、目前の巨大な脅威を排除し、私を守り抜くという純粋な殺意だけが、研ぎ澄まされた刃となって彼の輪郭を縁取っていた。

「デレシア、下さがっていろ。瓦礫の陰から絶対に出るな」

背を向けたまま、彼が低く言い放つ。

「でも、相手は……」

「分かってる。規格外の化け物だ。だが、やるしかない」

ルカが床を蹴った。

次の瞬間、彼の姿が掻き消える。視界で追いきれないほどの爆発的な加速。残像すら置き去りにしたその踏み込みは、氷の魔力を足裏で瞬間的に炸裂させて推進力を得る、彼特有の高機動戦闘術だった。

金属と金属が激突する、鼓膜を劈くような甲高い音が響き渡った。

空間の中央。ルカの振り下ろした氷の短剣を、ゼロはコートの奥から引き抜いた片刃の剣で受け止めていた。

火花が散り、激しい冷気と熱波が衝突して猛烈な水蒸気が巻き起こる。

「オオオオッ!」

ルカが雄叫びを上げ、間髪入れずに連撃を繰り出す。

右、左、袈裟懸け、そして死角からの蹴り。流れるような体術と魔法の混合攻撃。それは、幾多の修羅場を潜り抜けてきた魔法盗賊団のリーダーに相応しい、無駄のない洗練された殺しの技術だった。

しかし。

私は瓦礫の陰からその攻防を凝視し、得体の知れない悪寒に全身を粟立たせていた。

当たらない。

ルカの刃が、ゼロの身体を捉えられないのだ。

それは、ゼロが圧倒的な速度や膂力で攻撃を弾き返しているからではない。

奇妙なのだ。ゼロの動きは、まるで水面に映った自分自身の影と戦っているかのように、ルカの攻撃の「終着点」に最初から武器を置いているように見える。

ルカがフェイントを入れて左脇腹を狙う。その刃が届くコンマ数秒前に、ゼロは最小限の手首の捻りだけで剣を縦に構え、攻撃を完全に無力化している。

力任せに弾き返すのではなく、相手の運動エネルギーをそのまま受け流し、次の一手へと転用する防御。

(何かがおかしい……)

私は調合師としての演算回路をフル回転させ、目の前で繰り広げられる死闘を、二つの化学物質が引き起こす反応式として分解し始めた。

戦闘とは、質量と速度、そして魔力波長のぶつかり合いだ。異なる二つの成分が衝突すれば、必ずそこに不規則なエネルギーの乱れが生じる。

だが、目の前の二人の動きには、その「乱れ」が存在しなかった。

ルカが放つ冷気の波長と、ゼロが防御に用いる微細な爆発の波長。相反するはずの二つの魔力が、まるでパズルのピースのように完璧に噛み合って相殺されている。

踏み込みの歩幅。剣を振るう際の重心の移動。呼吸のタイミング。

ルカが大きく跳躍し、空中から巨大な氷の槍を生成してゼロの脳天へと放つ。

同時に、ゼロは一歩だけ左へ半身をずらし、空中に局所的な爆発を生み出して氷の槍の軌道を逸らした。

その一連の動作を見た瞬間、私の脳裏に雷が落ちた。

左肩を微かに下げる癖。

大技を放つ直前、肺の奥で三度、短く息を継ぐ呼吸法。

そして、回避行動をとる際、必ず利き足のつま先を外側へ十五度開くという、極めてパーソナルな肉体の癖。

(同じだ……。嘘でしょう?)

すべてが、ルカと完全に一致している。

偶然で片付けられるレベルではない。師匠と弟子の関係であっても、骨格や筋肉の付き方が違えば、戦闘における微細な癖までは決して遺伝しない。

だが、あの道化師の仮面を被った男は、ルカ・アステリアという人間の肉体の使い方、魔力の練り上げ方、思考のプロセスまでもを、完全にトレースしている。

いや、トレースではない。

後から真似て合わせたというような不自然な遅延が、ゼロの動きには全くないのだ。彼はまるで、ルカが次にどう動くのかを「過去の自分の記憶」として知っているかのように、寸分の狂いもなく先回りしている。

「ハァッ……、ハァッ……!」

数分間の苛烈な攻防の末、ルカが大きく間合いを取り、肩で息をした。

彼の額からは大量の汗が流れ落ち、魔力の過剰な消費によって手足が微かに痙攣しているのが遠目にも分かった。

対照的に、ゼロは呼吸一つ乱していない。漆黒のコートに埃一つ付着しておらず、構えを解いて悠然と立ち尽くしている。

「どうした。もう魔力が底を突いたか」

仮面の奥から、ノイズ混じりの低い声が響く。

それは明らかな挑発だった。

「黙れ……! まだだ、俺はまだ倒れるわけにはいかねえんだよ!」

ルカが血を吐くような声で叫び、再び短剣を構える。

「ルカ、やめて!!」

私は瓦礫の陰から身を乗り出し、喉が裂けるほどの声で叫んだ。

「その男とまともに打ち合っちゃ駄目! 奴はあなたの攻撃のすべてを、完全に読み切っている! これ以上は犬死によ!!」

私の警告に、ルカは一瞬だけこちらを振り向いた。

その瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、自らの無力さに対する深い絶望だった。自分が全力で放つ殺意が、相手にとっては子供の遊戯のように処理されているという事実。それが彼のプライドと精神をゴリゴリと削り取っている。

「分かってる……。でも、ここで俺が奴を足止めしなきゃ、お前が死ぬだろうが!!」

ルカは私の制止を振り切り、今までで最も強大な魔力を自身の肉体に纏わせた。

全身から冷たい蒸気が噴き上がり、彼の輪郭が白くぼやける。

捨て身の特攻。防御を完全に捨て、自身の生命力を削って魔力に変換し、相打ち覚悟で放つ最後の一撃。

「馬鹿、やめなさい!!」

私の悲鳴に近い叫び虚しく、ルカの身体は砲弾のようにゼロへと向かって突進した。

ゼロは動かない。

彼は自暴自棄とも言えるルカの突進を前にしても、全く体勢を崩さなかった。

ただ、右手に持った剣を、ルカの突進の軌道上――心臓を正確に貫く位置へと、静かに、そして極めて自然に突き出した。

このままでは、ルカの氷刃がゼロに届くよりも早く、ゼロの刃がルカの胸を貫通する。

ルカの動きの癖を完全に熟知しているからこそ導き出せる、もっとも冷酷で最短のカウンター。

(させない……!!)

私は自分の限界を超えて動いた。

思考の檻に閉じ込めていた恐怖が爆発しそうになるのを強引にねじ伏せ、白衣の代わりであるドレスの裏地に忍ばせていた、最後の劇薬を掴み取る。

『星屑の百合』の成分を濃縮し、極限まで不安定化させた閃光弾。

戦闘のロジックが完全に一致している二人を引き剥がすには、盤面そのものをひっくり返すしかない。

私は渾身の力を込め、二人が激突する中間の空間に向かって、そのガラス瓶を力一杯投げつけた。

「ルカ、目を閉じて!!」

空中でガラスが砕け散る。

化学物質が外気に触れ、魔力と反応した瞬間。

地下空間のすべてを真っ白に塗り潰す、太陽を至近距離で直視したかのような圧倒的な閃光と、鼓膜を破壊するほどの衝撃波が爆発した。





第二十九話

視界のすべてを白く塗り潰す閃光が弾けた瞬間、私は反射的に目を焼かれる痛みごと呑み込んで、地面に身を伏せた。

鼓膜の奥がキーンと鳴り、次いで空気そのものが殴りつけてくるような衝撃波が肌を叩く。両手で耳を塞ぎながら、私はただその嵐が通り過ぎるのを待った。脳裏に刻まれた呪縛が不規則に脈打つが、恐怖よりも、目の前で起きている事態を掴み取ろうとする本能の方が勝っていた。

数秒後。

「……ゲホッ、ハァ……!」

すぐ近くで、聞き慣れた咳き込みの音がした。ルカだ。私の意図を間一髪で察し、突進の勢いを殺して後方へ跳んでいたらしい。石床を転がった痕跡が肩口の擦り傷になっていたが、命に別状はなさそうだった。

「ルカ、無事ね……!」

「ああ……なんとか、な」

視界はまだ、白く濃い煙に覆われている。防魔コーティングの施された石壁が、爆発の熱を吸収しきれずに軋んだ音を立てていた。

私は姿勢を低く保ったまま、視覚の代わりに全神経を鼻腔へと集中させた。硝煙。焦げた石。それらの匂いを一枚ずつ丁寧に剥がしていく。

そして、見つけた。

煙の向こうから漂ってくる、生々しい血の匂い。

私の身体が、理由も分からないまま先に反応した。ぞわり、と肌が粟立つ。それは単に「敵が負傷した」という戦況の変化に対する反応ではなかった。もっと根源的な、動物としての警報だった。

――知っている、この匂い。

思考が追いつくよりも早く、記憶の底から答えが引きずり出される。特別棟の地下で、震える手で処置をしたあの傷。あの時、私の指先に染み付いた匂いと、今、煙の向こうから漂ってくる匂いが、寸分違わず重なっている。


そんなはずがない。

理屈で否定しようとする自分と、絶対にそんなはずはないと確信している自分が、頭の中で音を立ててぶつかり合った。


「デレシア、下がるんだ……まだ、奴は立ってる」


ルカがふらつきながら立ち上がり、再び短剣を構える。彼の言う通りだった。


冷たい隙間風が、立ち込めていた煙をゆっくりと二つに引き裂いていく。


そこに、漆黒のコートを纏った男が立っていた。


倒れていない。だが、明らかに何かが違っていた。顔を覆っていたはずの道化師の仮面が、右半分から斜めに大きく砕け散っている。


カラ、カランと、仮面の欠片が乾いた音を立てて石畳に滑り落ちた。


その下から現れた素顔を見た瞬間、私の中で組み上がっていたはずのすべての言葉が、音もなく崩れていった。


隣にいる、ルカの顔だった。


ただし、同じではない。


頬から顎にかけての骨格が、わずかに鋭さを増している。あどけなさの残る輪郭が削ぎ落とされ、右の眉から頬にかけて、深い刃の傷跡が斜めに走っていた。プラチナブロンドの髪は伸び、艶を失って、くすんだ色合いに沈んでいる。


そして、その瞳。


硝子のように澄んでいたはずの青は、そこにはなかった。何も映していないのに、何もかもを見尽くしたような、底の見えない暗さだけがあった。


「……な、んだよ、それ」


隣で、掠れた声が漏れた。今のルカだ。彼は短剣の切っ先を震わせながら、目の前に立つ『自分自身』から目を逸らせずにいる。


私は喉の奥に貼り付いた声を、無理やり押し出した。


「あなた……」


続く言葉が、出てこなかった。


匂いも、顔立ちも、骨格の違い方さえも、私の知っている限りのどんな理屈にも当てはまらない。変装でも、幻術でもない。魔力の波長も、血の成分も、指紋のように個人を特定する情報のすべてが、目の前の男とルカとで、恐ろしいほどに一致していた。


一致しているのに、まるで違う。


それは、同一人物の若い時と老いた時を並べて見ているような、ひどく歪な既視感だった。


漆黒のコートの男は、頬を伝う一筋の血を、手袋越しに無造作に拭った。残った左半分の仮面を、自ら引き剥がす。


完全に露わになった顔が、私たちを見下ろした。


「お前たちには、まだ早かったな」


響いた声。仮面の変声機構を通していないその肉声は、隣にいるルカと寸分違わぬ声帯から出ていた。ただ、絶望と疲労で摩耗しきった、酷く低く冷たい響きだけが違っていた。


崩壊しかけた石壁の向こうで、瓦礫がまた一つ、音もなく落ちた。


私は、答えの出ない問いを抱えたまま、ただその『顔』を見つめ続けることしかできなかった。



第三十話


「ふざけるな……」


隣で、ひび割れたような声が漏れた。ルカだ。彼は氷の短剣を握る手を小刻みに震わせながら、目の前に立つ『自分自身』から視線を逸らせずにいる。


「時間を遡る魔術なんて、この世のどんな魔術書にも載ってない。過去へ戻る術式は、物理法則そのものが弾き出すはずだ。お前が未来から来た俺だなんて――」


「ああ、その通りだ」


短く、遮るように答えが返った。頬に刻まれた傷跡を歪め、男は酷く疲れたように吐き捨てる。


「時間を遡る魔術など存在しない。俺は過去へ飛んできたわけじゃない」


「じゃあ、なんだよ」


「動いたのは、俺じゃない」


男の視線が、崩れかけた天井へと向けられた。


「世界の方が、勝手に巻き戻っている」


その一言だけが、静寂の中に落ちた。


私は、思考が空回りするのを感じながら、必死にその言葉の輪郭を掴もうとした。世界が巻き戻る。時間ではなく、世界そのものが。


――それなら。


私の脳裏に、これまでの潜入生活で感じてきた小さな「異変」が、次々と繋がっていく。


学園の廊下で嗅いだ、自分が焼け死んだ時の肉の焦げる匂い。


大図書室の名簿に空いていた、十五番の生徒の不自然な欠番。


「……バグ」


口から、乾いた声が漏れた。


「あの幻覚も、消えた生徒の記録も。全部、この世界が繰り返される中で処理しきれなかった、綻びの痕跡だったのね」


男は、答える代わりにわずかに顎を引いた。それだけで十分だった。


「この王都も、学園も、ジュリアスも、親衛隊も。全部、俺たちを閉じ込めておくための書割だったってのか」


ルカの声から、怒りの熱が急速に失われていく。代わりに満ちてきたのは、底の見えない絶望だった。


「そうだ。お前たちは、あの金庫の扉に辿り着くたび、必ずどこかで殺される。俺は、それを何度も見てきた」


男はそれだけを言い、あとは黙った。


その沈黙が、かえって私の背筋を凍らせた。何度も、という言葉の重さを、彼はこれ以上説明する気がないらしい。


「なら……」


ルカが、両膝を石畳につき、崩れ落ちるように項垂れた。


「なら、なんで俺に――お前は俺なんだろ。デレシアをあんな目に遭わせる意味が、俺にはどうしても分からない」


男は、少しの間だけ黙り込んだ。


答えを探しているというより、答えたくないものを無理やり喉から押し出そうとしているような沈黙だった。


「……理由は、いずれ分かる」


それだけを言い、男は目を伏せた。


「今、話すべきことじゃない」


その拒絶が、かえって私の中に不穏な確信を育てた。彼は隠している。まだ何か、決定的に重いものを。


「答えろよ!」


ルカが叫んだ。だが、男は動かなかった。ただ、痛みを堪えるように、片方の拳をきつく握りしめただけだった。


その反応に、ルカの中で何かが決壊した音がした。


「……俺のせいだ」


搾り出すような声。


「俺が弱かったから、お前はそうなるしかなかったんだろ。デレシアに、あんな爆弾を仕掛けてまで……全部、俺の無能さのせいなんだろ……!」


ガタガタと、ルカの身体が痙攣し始めた。


その瞬間だった。


私の左目の奥で、経験したことのない強烈な青白い光が炸裂した。


「アァァッ……!」


自分の恐怖ではない。ルカの精神が壊れていく、その圧倒的な絶望の波が呪術回路と共鳴し、タイマーを物理的な限界を超えて叩き起こしていた。


七十、五十、三十――


数字が、狂ったように減っていく。


「ルカ、だめ、自分を責めないで……!」


私は石床に手をつき、彼に向かって腕を伸ばした。だが、自己嫌悪の底に沈んだ彼の耳には、私の声は届かない。


その時、地下空間の空気が、耳障りなノイズと共に微かに歪んだ。


ジジジッ。


床の輪郭がブレ、倒れている親衛隊の兵士たちの姿が、砂嵐のように不規則に明滅している。


「……世界の限界が近い」


男が、崩壊しつつある空間を静かに見渡した。


「予定調和が壊れた分、飽和が早まった。このままでは、お前たちはまた一年間の地獄からやり直すことになる」


ノイズが激しさを増し、足元の感覚が薄れていく。


もう、時間がない。


真実の欠片を握りしめたまま、私たちはまた、何も知らない一日目へと突き落とされようとしていた。



第三十一話


空間が、耳障りなノイズを立てて剥がれ落ちていく。


石壁が水に溶けた絵の具のように滲み、その向こうの虚無を覗かせていた。崩れた破片は床に落ちる前に細かな粒子となって消えていく。足元の感触すら、深い泥の上に立っているように頼りない。


「この箱庭の寿命が尽きかけている」


男は崩壊の光景を涼しい顔で見下ろしていた。その落ち着き払った声だけが、狂い始めたこの空間で唯一の確かな輪郭を保っている。


「箱庭……。ここが、偽物だっていうの」


私は荒くなった呼吸を整えながら、視線で彼を射抜いた。


「王都の姿を精巧に真似ているだけだ。現実じゃない」


「誰が、こんなものを」


問いには、すぐには答えが返らなかった。


男は倒れ伏すジュリアスと兵士たちの残骸を一瞥し、それから、意味不明な幾何学模様が渦を巻く異様な虚空へと目を細めた。


「……王、と呼ばれている」


それだけだった。


私は歯噛みした。名前を知りたいのではない。だが、これ以上問い詰めても、彼が語る気になるまで何も出てこないだろうことは、その口の重さから察せられた。


「なぜ、俺たちを」


床にうずくまったままのルカが、掠れた声で訊ねた。


「お前たちが、知りすぎたからだ」


男の答えは短かった。


「盗賊団が嗅ぎ回っていた王国の闇。あれは本物の、氷山の一角に過ぎない。その奥にある本当の禁忌に、お前たちは近づきすぎた」


「だから、閉じ込めた……?」


「処刑するだけじゃ、飽き足らなかったんだろうな」


私は、彼の言葉を自分の理論に置き換えようとした。巨大なフラスコの中に、都市の機能ごと人間を隔離し、蓋を閉める。外界からの干渉を完全に遮断された、閉じた実験系。


「死んでは、また最初から」


「そうだ。三百六十五日で必ず終わる。そして、また同じ場所から始まる」


「学園も、生徒たちも、ジュリアスも――」


「大半は、システムの一部だ。お前たちを追い詰め、確実に処刑するための」


背筋が凍った。あの喧騒に満ちた教室も、カフェテリアの笑い声も。全部が、私たちを閉じ込めるための舞台装置だったというのか。


「なぜ、お前だけが憶えてる」


うずくまったままのルカが、絞り出すように問うた。


「巻き戻るなら、全員忘れるはずだろ。なんでお前だけ」


男の顔に、深い疲労の色が浮かんだ。


「……罰だからだ」


それ以上は言わなかった。


私はその沈黙の中に、彼が語らなかった何百回、何千回という重さを感じ取った。仲間が死ぬ瞬間を、彼だけが繰り返し覚えている。それがどれほどの地獄か、想像することしかできない。


「逃げる方法は、あるの」


私は声を絞り出した。


「本物の扉が、どこかにある」


男が、初めて私を真っ直ぐに見た。


「決まった筋書きをなぞっている限り、絶対に見つからない場所に」


その一言だけを置いて、男は再び黙り込んだ。


聞きたいことは、まだ山ほどあった。だが、崩れていく空間がそれを許さなかった。


ジジジッ、と不協和音が強まり、頭上を覆っていた岩盤が完全に消え失せる。むき出しになったのは夜空ではなく、赤と黒の斑模様が渦を巻く、システムの裏側のような虚空だった。


足元の石畳も、次々と透けて底なしの暗闇へと変わっていく。


このままでは、誰も救われない。


私はうずくまるルカと、崩壊を見据える男を交互に見つめた。


聞くべきことより、今しなければならないことがある。


そう思った瞬間、私は動いていた。





第三十二話


崩落の足音が、静かに、しかし確実にこの空間を侵食していた。


岩肌は薄い紙が水に透けるように、その向こうの虚無を覗かせている。剥がれた破片は床に落ちる前に粒子となって霧散し、この世界がいよいよ終わりを迎えつつあることを告げていた。


私は、崩れゆく足場の上で立ち上がった。


「聞いて」


私の声に、うずくまっていたルカが、そして漆黒のコートの男が、同時に顔を上げた。


「あの黒鋼の扉。私たちが命懸けで溶かしたあれは、偽物ね」


男の眉が、わずかに動いた。図星だという反応だった。


「なぜ、そう思う」


「王国親衛隊が、あんな都合よく待ち構えていたから。もし本当に本物の出口だったなら、あなたは何百回もの周回のどこかで、絶対に開けているはずよ。それが未だに開いていないということは――」


「――それは、開けても意味のない扉だからだ」


私は言葉を継いだ。男は答えなかったが、その沈黙が肯定だった。


「本物の扉は、どこにあるの」


「お前が今、立っている場所とは、別の階層にある」


短い答え。それ以上は語らない構えだった。


私は苛立ちを呑み込み、思考を薬学の言葉に置き換えた。


物理法則や魔法理論で干渉できない場所。だとすれば、それを溶かせるのは魔法でも物理でもない何かだ。


「……私の薬」


呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「あの融解薬は、最初からこっちのために作らせたのね。金庫の扉を開けるためじゃなく」


男は何も言わなかった。だが、その沈黙の質が変わったのを、私は確かに感じ取った。


「なら、なぜ最初から言わなかったの。事情を話せば、私だって薬を作った」


「作れなかったはずだ」


男の声に、初めて僅かな熱が混じった。


「あの薬は、次元の断層すら溶かす。生ぬるい精神状態で作れる代物じゃない」


私は、その先を自分で埋めた。


調合とは、成分の掛け合わせだけではない。極限の化学変化を起こすには、それに見合う圧力と熱が要る。


「……私自身を、坩堝にしたのね」


声が震えた。


「死の恐怖。いつ頭が吹き飛ぶか分からない緊張。あなたという、正体不明の悪意。それを触媒にしなければ、私はあの薬を精製できなかった」


男は、肯定も否定もしなかった。ただ、その目に浮かんでいた凍りついた無表情が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


それで、十分だった。


「そんな……」


床にうずくまっていたルカが、両手で頭を抱え込んだ。


「俺が、デレシアを……」


「ルカ」


私は、彼の名を強く呼んだ。


「今はそこじゃない」


「でも……!」


「聞いて。今、必要なのは謝罪じゃなくて、扉の場所よ」


私は男に向き直った。


「教えて。私の薬を、どこへ向けて使えばいいの」


男は、崩れかけた空間の奥、赤と黒の斑模様が渦を巻く虚空を指し示した。


「あの歪みの中心だ。そこにだけ、システムが処理しきれない綻びがある」


「距離は」


「今の状態なら、あと数十秒で届く」


十分だった。私は白衣の代わりのドレスの裾を握りしめ、まだ手元に残る最後の触媒を確かめた。


「ルカ、立って」


「デレシア、俺は……」


「立ちなさい。あなたが、あなた自身を責めている時間はもうないの」


ノイズが激しさを増し、足元の感覚が薄れていく。


このまま何もしなければ、私たちはまた、何も知らない一日目へと突き落とされる。


私は崩れゆく足場を踏みしめ、虚空の歪みへと向かって、最初の一歩を踏み出した。



第三十三話 崩れる少年

空間の歪みが激しさを増し、足元の石畳が砂のように崩れ落ちていく中、現在のルカはその場に膝をついたまま微動だにしなかった。

「……俺が、爆弾魔だったのかよ」

その声は、自分自身の耳を疑う子供のように震えていた。

王立金庫の地下深く、冷たい闇の中で、プラチナブロンドの髪を乱した彼は、両手で頭を抱え込み、床に額を押しつけている。

未来の自分が辿ってきた絶望の歴史。幾千回ものループを繰り返し、大切な仲間を救うために選んだ手段が、他ならぬ「自らが仲間を脅かす爆弾魔(ゼロ)になること」だったという残酷な真実。

今のルカにとって、それは自らの存在そのものを全否定されるに等しい絶罰だった。

誰も死なせたくない。ただ、平穏な日常の中で笑い合いたいと願っていただけの少年が、皮肉にも、最も恐れていた「仲間を怯えさせる怪物」そのものだったのだ。

「う、あ……ぁあッ……!」

ルカの喉から、押し殺したような嗚咽が漏れた。

彼は自分の頭を強く叩き、己の肉体を罰するかのように爪を立てる。自己嫌悪の毒が彼の精神を内側から猛烈な勢いで腐食させていくのが、調合師である私には手に取るように分かった。

自責の念、絶望、そして自分が今まで抱いていた正義感への裏切り。そのすべての負の感情が、彼の内部で制御不能な爆発を引き起こしている。

そして、その精神の崩壊は、直に私の頭蓋へと跳ね返ってきた。

チリッ、チリチリチリッ!!

「がっ……!」

私は衝撃に耐え切れず、その場に膝をついた。

ルカの頭にある呪術爆弾の刻印が、彼の絶望の深さに共鳴し、狂ったように激しい熱を放ち始めたのだ。その魔力回路で繋がっている私の頭の中でも、左目の奥で青白い火花が激しくスパークする。

耐え難い頭蓋の激痛。

ルカの心が壊れていくのと完全に連動するように、私の命のタイマーが命を削る速度で加速していく。

十日、五日、三日――。

(だめ……このままだと、彼の絶望が私を先に殺してしまう……!)

私は歯を食いしばり、自分の太ももを爪で強く引っ掻いて痛覚で意識を繋ぎ止めながら、崩れゆく足場を這うようにしてルカの側へと近づいた。

周囲の空間はもはや原形をとどめておらず、王都の景色や学園の回廊の残骸が、ノイズまみれの幻影として明滅を繰り返している。

「ルカ……! 聞いて、私を見て……!」

私は彼の震える肩を両手で掴み、無理やりその顔を上げさせた。

そこに映っていたのは、かつて白亜の教室で軽口を叩き、私の距離感をバグらせていた少年の姿ではなかった。光を失い、自らの罪の重さに押し潰された、ただの傷だらけの子供だった。

彼の頬には、止めどなく涙が伝っている。

「俺は……お前を脅して、あんな怖い思いをさせて……お前を殺しかけてたんだぞ、デレシア……! そんな俺が、お前の隣にいる資格なんて……!」

「そんなこと、関係ないわ!」

私の声は、空間を切り裂くような強い響きを持って彼の耳に届いた。

私は彼の両頬を包み込み、決して視線を逸らさせないように強く見据えた。

「何度失敗したから何よ! 過去に何千回間違えたって、今のあなたが何をしたっていうの! あなたが一人で、誰にも言えずにその地獄を背負い込んできたなら……今度は、私がその運命を調合し直してやる!」

私の叫びが、崩壊する地下空洞にこだました。

調合師のロジック。

不純物が混ざり、フラスコの中ですべてが台無しになったように見えても、配合の比率を変え、新たな触媒を投入すれば、別の完璧な薬へと生まれ変わらせることができる。

運命だって同じだ。いくら間違った過去があろうと、今ここから新しい処方箋を書き直せばいい。

私の言葉を聞いたルカの瞳が、微かに揺らいだ。

彼の頭上で狂い狂っていた呪術爆弾の鼓動が、その瞬間、嘘のようにピタリと勢いを緩めた。

私の頭蓋を焼いていた激痛も、スーッと凪のように引いていく。

彼は息を呑み、涙に濡れた青い瞳で私を見つめ返した。

「デレシア……」

ゼロが少し離れた場所から、その光景を静かに見守っていた。その仮面のない素顔には、かつてないほど複雑で、しかしどこか救われたような微かな光が宿っているように見えた。

だが、感傷に浸る時間は残されていなかった。

ジジジッ、と現実世界そのものを拒絶するような最後のノイズと共に、私たちの足元の床が完全に抜け落ち、空間はさらなる深淵へと私たちを引きずり込もうとしていた。


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