【創作大賞2026】反転する世界で、君と【ファンタジー小説】【9万文字】
【物語の全体のあらすじ】
かつて、魔王の軍勢によって闇に覆われた世界を救った勇者エミールは、最愛の妻リリアと共に辺境のカリム村で穏やかな日々を送っていた。戦いの記憶に苛まれることもあるが、リリアの存在が彼の心を癒やしていた。ある嵐の夜、エミールの家の玄関先に、傷つき倒れた一人の少年が保護される。漆黒の瞳を持つその少年は、自らを「ウオ」と呼ぶこと以外、すべての記憶を失っていた。大預言者レイザーはウオの瞳に底なしの闇を見出し、「世界の平穏を喰らい尽くす災厄の種だ」と手放すよう警告するが、エミールは彼を息子として守り抜くことを力強く宣言する。ウオもまた、自分を信じてくれたエミールとリリアを自らの命に代えても守ると心に誓い、いじめられていた村の少女レシアを助けるなど、優しい心を持つ少年として成長していく。
しかし、そのささやかな幸福は、王都における「大魔王」の復活によって唐突に終わりを告げる。瞬く間に王都を壊滅させ十万人を虐殺した大魔王を討つため、エミールは家族を村に残し、単身で死地へと旅立つ。エミールを守りたい一心で、ウオはレシアから手作りのお守りである青いバンダナを受け取り、父の背中を追って過酷な旅へと踏み出した。
ウオが魔王軍最後の砦「ファイナルタワー」の最上階に辿り着いた時、そこでは満身創痍のエミールが魔王軍最強の魔剣士にして新四天王のゲルニカと対峙していた。しかし、そのゲルニカの正体は、エミールの盟友であり人類の未来を憂いていたはずの大預言者レイザーであった。信じていた者の裏切りに激昂したエミールは、限界を超えた死闘の末に聖剣アスカロンでレイザーの胸を貫く。だが、レイザーは漆黒の片翼を生やした異形の悪魔として復活し、エミールの心臓を無慈悲に貫いた。父の危機を前に絶望と怒りで理性を焼き切られたウオは、隠し持っていた獣のような戦闘本能を爆発させ、常軌を逸した神速の動きと純粋な殺意でレイザーを圧倒し、両足の腱と翼を破壊して死の淵へと追い詰める。ウオがとどめを刺そうとしたその刹那、自らの魔力で擬似的に心臓を動かし生き延びていたエミールが背後から彼を抱きしめた。「人殺しになってほしくない」という父親としての血を吐くような懇願と深い愛情に触れ、ウオは正気を取り戻して慟哭する。互いの絆を確かめ合った二人は、「父と子」から共に魔王を倒す「相棒」として誓い合い、真の元凶が待つ王都へと向かうのだった。
王都に到着した二人は、信じがたい光景に愕然とする。魔王に支配されているはずの街は活気に満ち、市民たちは魔王を「救世主」と崇め、逆に人々を守るために来た勇者エミールたちを「平和を乱す悪魔」として迫害し、罵声を浴びせてきたのだ。広場の壇上に現れた魔王は、自らを革命家と称し、民衆の熱狂的な支持を背景にエミールたちを処刑しようとする。しかし、ウオは魔王の絶大な魔力を意に介さず、神速の跳躍で背後に回り込み、瞬く間に魔王の心臓を聖剣で貫いた。
血の海に倒れ伏した魔王は、驚愕するエミールに対し、この狂った世界の真実を告げる。それは、光と闇、善と悪など、世界のあらゆる概念を強制的に入れ替える大魔法「反転魔法」が進行しているという事実だった。民衆が勇者を悪とみなし魔王を崇拝するのもその不完全な影響であり、やがて魔法が完成すれば、勇者の聖なる心も破壊衝動へと反転してしまうというのだ。魔王自身もまた反転魔法に抗えず、破壊の本能に支配されてしまったのだと懺悔し、エミールに「理性を失う前に息子を連れて逃げろ」と懇願する。魔王が魔法を完成させようとする黒幕の名を口にしようとした直後、突如現れた黒いローブの女が紅蓮の炎で魔王を跡形もなく焼き尽くした。
フードを外したその黒幕の正体は、エミールの最愛の妻であり、ウオの養母であるリリアだった。リリアはエミールの首筋に手刀を打ち込んで一撃で気絶させ、広場の民衆をも瞬時に昏倒させる圧倒的な力を見せつける。そして、混乱するウオに対し、冷酷な微笑みを浮かべて恐るべき真実を告げる。「ウオ」を逆さにすると「オウ(王)」。ウオの正体は、悪虐の限りを尽くした真の『大魔王ダイマ・オウ』が記憶を失った姿だったのだ。
リリアが古代の言語で詠唱を完了させると、反転魔法が発動し、世界の理が完全に書き換えられる。その影響により、気絶から目覚めたエミールは、生命への底なしの憎悪と破壊衝動に支配された「悪の権化・勇者ルーミエ」へと反転してしまった。助けを求めて駆け寄るウオに対し、エミールは何の躊躇いもなく禍々しい魔剣へと変貌した聖剣を突き出し、息子の腹を深々と貫く。
致命傷を負い、死の淵に立ったウオの精神に、大魔王ダイマ・オウの膨大な記憶が濁流のように流れ込む。しかしその記憶の中で、大魔王は悪を裁き弱き者を守る『正義の執行者』として、悪の勇者たちと戦っていた。魂に刻まれた防衛本能が覚醒し、ウオの無意識から放たれた闇の刃もまた、エミールの腹を無慈悲に貫通した。
互いの体を貫き合う地獄のような光景の中で正気を取り戻したウオは、自らの手で最愛の父を刺してしまったという罪悪感と絶望に発狂しそうになる。激しい後悔と恐怖に苛まれる中、ウオは残された全ての力を振り絞り、死にゆく父の冷たい頬に自分の頬をすり寄せ、「愛してる」と魂の底から告げた。その純粋な息子の愛が反転魔法の絶対的な呪縛に亀裂を入れ、エミールの瞳から底なしの闇を後退させる。激しい精神のせめぎ合いの末、エミールはついに正気を取り戻した。リリアは「愛という不確定な感情が魔法に干渉するとは計算外だった」と不満げに吐き捨て、次の企みを暗示しながら黒い霧の中に姿を消した。
呪縛から解放されたエミールだったが、反転魔法に抗うために全ての魔力を使い果たしており、頼みの綱であった自己治癒魔法はもはや使えない状態となっていた。自らが父を刺したせいで命を奪ってしまったと罪の意識に溺れるウオに対し、エミールは凄絶な痛みに耐えながら静かに立ち上がる。そして「俺はお前には殺されない。俺以外の大切な人を見つけて幸せになれ」と愛する息子に告げると、ウオの腹から引き抜いた聖剣を自らの心臓に突き立てて命を絶った。息子に「父親殺し」という最も重い十字架を背負わせないための、命を懸けた究極の愛情表現だった。父の壮絶な死を前に、ウオの心にはただ空っぽの虚無感だけが残された。
音も色も感情も失われた灰色の世界を、腹に穴の空いた生ける屍のような状態のまま、ウオは一人で歩き続けた。やがて故郷カリム村に帰還したウオを、村人たちは「英雄の息子」として温かく迎え入れる。しかし、王都での惨劇のトラウマと罪悪感に苛まれるウオの心は少しも癒えておらず、彼は村人たちを安心させるために偽りの笑顔を貼り付け、孤独に痛みを隠し続ける日々を送るようになる。
そんなウオの心の奥底に澱む深い闇を見抜いていたのは、幼馴染の少女レシアだけだった。一年が過ぎたある日、夜の丘で悪夢に震えるウオに寄り添ったレシアは、「たまには遠くに行ってみない?」と、隣領の港町アクアリアの夏祭りへと彼を連れ出す。活気に満ちた祭りの喧騒や、射的や金魚すくいで見せるレシアの無邪気な笑顔に触れるうち、ウオの灰色の世界に徐々に色が戻り始める。
夜空を彩る花火の下で、レシアは「ずっとウオが好きだった。あの時、いじめから私を守ってくれたウオは、私にとって本物の勇者だった」と涙ながらに告白する。自分が何者であるかに苦しみ、自己嫌悪に陥っていたウオにとって、その言葉は魂を救済する光となった。大魔王ダイマ・オウではなく、勇者エミールの息子であり、ただの「ウオ」として生きていく決意を固めた彼は、レシアを力強く抱きしめ「たとえ命に代えても、あなたは俺が守る」と誓う。レシアもまた涙ながらに微笑み返し、二人は互いの存在を生きる希望として歩み出すことを決めた。
しかし、二人が心からの平穏を取り戻したのも束の間、巨大な漆黒の鳥が彼らの頭上に一通の黒い封筒を落としていく。それは、母リリアが所属する謎の組織「愛眼」からの果たし状であった。
手紙には、この欠陥だらけの世界をリセットする「世界反転計画」の全貌が記されていた。そして、ウオを真の大魔王として覚醒させる最後の儀式として、200日後にカリム村を焼き尽くし、ウオが最も愛し執着しているものを奪って絶対的な絶望を与えるという残酷な宣告が書かれていたのだ。それを阻止する条件はただ一つ、200日以内に世界に散らばる「愛眼」の執行者を全て見つけ出し、リリアを含めて皆殺しにすること。
絶望的な状況を前に、ウオはレシアを巻き込むまいと遠ざけようとする。しかしレシアは「命に代えても守ってくれるなら、私も一緒に戦う。お揃いの覚悟だ」と一歩も退かなかった。その強靭な意志に打たれたウオは、彼女を護るべきか弱い存在としてではなく、共に背中を預け合うパートナーとして信じることを決意する。
村長や村人たちに全てを打ち明け、手製の剣や短剣、保存食、お守りといった温かい支援と見送りを受けた二人は、理不尽な運命と狂気の計画を打ち砕き、自分たちの未来を掴み取るための希望への旅路へと踏み出すのだった。
第一部第一章 「魔王と勇者」
かつて、世界が、空を覆い尽くすほどの闇に覆われ、魔王の軍勢が人類を蹂躙した時代があった。
人々が絶望の淵に沈む、暗黒時代の到来。
しかし、その暗黒時代は、永久には続かなかった。
その闇を切り裂き、一筋の光を空に灯したのが、聖剣アストロンに選ばれし勇者、エミールだった。
壮絶という言葉で表現出来ないほどの旅路。
その果てにあったのは、光だった。
エミールは仲間たちと共に魔王を討ち滅ぼし、世界に眩い閃光を取り戻した。
人々は、暁光に照らされし勇敢なる者――勇者エミール――を讃え、その名と彼の生き様は、英雄譚としてだけでなく、王国のプロパガンダとして、永遠に語り継がれることとなった。
――それから、十年。
「エミール、あなた。また眉間に皺が寄っていますよ」
穏やかな陽光が差し込む。
その光に照らされながら、エミールの妻のリリアが柔らかい唇で、微笑む。
艶やかなだけでなく、儚さまで感じさせる、しとやかな髪や二重の瞳を持つ彼女は、エミールにとって、何よりも大切な、平和な日々の象徴だった。
テーブルには焼きたてのパンと野菜のスープが並んでいる。
その光景に、エミールは違和感を覚えることは、もうない。
何故なら、彼は、もう血塗られた勇者ではない。
王国の希望と威信を一身に背負って、戦う彼の姿は、もういない。
勇者としての彼は、もう死んだのだ。
「ああ、すまない。少し考え事をしていた」
エミールは、少し腰抜けた苦笑いを浮かべた。
彼の顔は、あまりにも優しく、戦いの痕跡である左目の上の傷跡でさえも、今やただの、何の意味を持たないアクセサリーにすぎない。
十年という時を妻と共に過ごした、その日々の経験によって、彼は真の幸福を手に入れた。
もう、戦わなくていいのだ。
――本当に?
………本当に、もう……俺は、勇者として、戦わなくても、良いのだろうか?
「また昔のことですか?」
リリアは心配そうに、エミールの顔を覗き込む。
いつもの蒼い瞳で、エミールは安心した。
リリアは、時々、何を考えているのか、分からなくなる。
まるで、自らが世界の真の支配者である大魔王であるかのような……そんな直感が、時々、エミールの背筋を伝う。
そして、そういった時に限って、彼女の瞳は……
"赤黒く"、揺れていた。
****
その日の午後、空は反転した。
天から注がれるあの日差しは、もう降り注がなくなってしまった。
お日様は厚い雲に覆われ、大粒の冷たい雨が、まるでリリアに対する、この俺エミールの杞憂を表しているかのように、降り始めてきた。
「嫌な天気ね」
「ああ、嵐になるかもしれないな」
俺は微かに赤黒くなっているような曇天を見上げ、眉をひそめる。
ただの嵐ではない。
大気に満ちる、質の高い闇の魔力の残滓が、僅かに肌をピリつかせる。
――まさか、魔王……いや、大魔王か?
かつての勇者の血が警鐘を鳴らすが、十年という平和な歳月は彼の警戒心を鈍らせていた。
やがて、雨はあまりにも激しい豪雨へと変わり、稲妻が、何度も何度も、空を走る。
俺達は暖炉の前に仲良くちょこっと座り、暖炉の少し遠くにある窓を横目にしながら、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
ドンッ、という鈍い音が、屋敷の玄関扉から響いた。
怪しい、と思った俺は、辺りを見渡す。
「……誰か、いるのか?」
俺は慎重に玄関へと向かう。
覗き窓を覗くと、激しい雨でよく見えないが、扉のすぐ下に何か黒い塊がうずくまっているのが見て取れた。
「……何か、倒れている」
それが魔物や盗賊である可能性もよぎったが、俺の直感は、もっと無力で小さな何かだと告げていた。
俺は意を決し、リリアの制止も聞かず、勢いよく扉を開け放った。
吹き荒れる風雨の向こう、びしょ濡れの石畳の上に、男の子供が倒れていた。
年の頃は十二か一三か。
泥と雨に汚れた服をまとい、痩せこけた体でぐったりとしている。
かろうじて上下する小さな胸の鼓動だけが、彼がまだ生きていることを示していた。
「リリア! 暖炉の前に毛布を! お湯とタオルも頼む!」
エミールは子供を抱きかかえ、屋敷の中へ急いだ。
驚くほど軽く、氷のように冷たい。
暖炉の前で静かに寝かせ、濡れた体を拭いてやると、その小さな体にはいくつもの赤黒い擦り傷や青黒い痣があった。
――かわいそうに。
そう思った俺は、その子供の体を、温かい毛布で包んでやり、口元をぬるま湯で濡れたタオルで湿らせてやると、子供の眉が微かに動いた。
「……う……」
小さな子供の声が、漏れる。
エミールが恐る恐る顔を近づけると、子供のまぶたがゆっくりと持ち上がった。
現れたのは、夜の闇をそのまま溶かし込んだような、深く、吸い込まれそうなほど黒い瞳だった。
まるで、魔王のような。
……いや、そんなことを考えるな、と俺は自らの頬を引っ叩く。
しかし、そんな奇妙なおじさんである俺を見ても、この子は一切動じない。
「坊や、大丈夫? 名前は言える?」
リリアが優しく、彼に問いかける。
子供の唇が、かさかさに乾いた音を立てて、わずかに開く。
「……ウオ……」
それが、彼の名前らしかった。
「ウオ、だな。……これまで、辛かっただろうに。 でも、もう大丈夫だ。俺の名前はエミールだ。ここは俺の家だから、もう安心しなさい」
俺は穏やかに語りかけたが、ウオと名乗った少年は、それ以上何も答えず、再び固く瞳を閉ざした。
そして、それを見ていたリリアの瞳が、また赤黒くなっているのを、俺は見逃さなかった。
翌朝。
ウオという名の少年の熱は下がり、意識も回復していた。
「どこから来たの? ご両親は?」
リリアが温かいミルクを、ウオに差し出しながら尋ねる。
その言葉を聞いた瞬間。
ウオの瞳が大きく揺らいだ。そして、やがて彼は、小さく首を横に振った。
「……わからない」
絞り出すような、か細い声だった。
「……僕の名前は、ウオ。……それだけ、わかる。……でも、これは、僕が自分で呼んでる名前。……お父さんと、お母さんがつけてくれた名前は……わからないんだ」
その言葉は、俺の胸に重く突き刺さった。
彼は自分の出自に関する、一切の記憶を失っていた。
****
その日から、ウオは俺達の家で保護されることになった。
ウオは驚くほど物静かな子供だったが、俺とリリアの愛情に触れ、少しずつその表情に生気が戻り始めていた。
しかし、その数日後、リリアは、心配そうな雰囲気のある蒼い瞳で、エミールに今後のことを尋ねてきた。
「あなた、この子をどうするつもり? 役場に届けて、王都の孤児院に……」
「孤児院、か……」
俺の脳裏に、子供たちの生気の無い目が並ぶ、王都の孤児院の光景が浮かんだ。
あの場所に、心を閉ざしたウオを送ることが、本当にウオのためになるのだろうか。
「リリア。俺は勇者と呼ばれ、世界を救ったことになっている。だが、実際は違うんだ。多くの人々や仲間が俺を助けてくれ、そして、多くの仲間が犠牲になった。俺は、その屍の上に立って、今の平和を享受しているに過ぎない」
俺の声には、深い自責の念が込められている。
「俺は、もう誰も見捨てたくないんだ。目の前で助けを求めている、か細い命を見て見ぬふりなんてできない。……もう、あの子は、俺の大切な一部なんだよ」
リリアは夫である俺の揺るぎない決意を前に、何も言えなくなった。
彼女は知っていた。
そんな彼の不器用なまでの優しさを、誰よりも愛しているのだった。
「……わかったわ。あなたがそこまで言うのなら」
その日の彼女は、蒼い瞳のままだった。
****
翌日、俺はウオに告げた。
「君の記憶が戻るまで、あるいは、君の家族が見つかるまで、ここで一緒に暮らさないか?」
ウオは何も答えなかった。
ただ、その大きな黒い瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。
それは悲しみの涙ではなく、安堵と、そして生まれて初めて感じる温かい感情に、心が追いつかずに溢れ出た涙だった。
俺は何も言わず、その小さな体を優しく抱きしめた。
こうして、元勇者の俺とその妻リリア、そして記憶を失った謎の少年ウオとの、奇妙な共同生活が始まった。
第一部第二章「レシアとレイザー」
ウオが来て一月が過ぎた頃には、彼はすっかり村の生活に馴染んでいた。
最初は怯えた小動物のようだった少年も、今では村の子供たちと元気に駆け回り、エミールから木の剣で剣術を習うまでになっていた。
その日、ウオは一人で村はずれの森に来ていた。
エミールに教わった素振りを繰り返していると、森の奥から聞き慣れない声が聞こえてきた。
それは、女の子の泣き声と、数人の男の子たちの嘲るような笑い声だった。
(誰か、いじめられてる……?)
ウオが恐る恐る声のする方へ近づくと、そこには村のガキ大将たちが、一人の女の子を取り囲んでいる光景があった。
女の子は亜麻色の髪を二つに結んだ、そばかすのある少女、ミカ・レシアだった。
彼女は村でも少し内気で、いつも一人で本を読んだり絵を描いたりしている子だ。
ガキ大将の一人が、彼女の大事にしているスケッチブックを取り上げ、高々と掲げている。
「なんだよこのヘタクソな花火の絵! こんなの、破ってやろうぜ!」
「やだ! 返して!」
レシアは泣きながら手を伸ばすが、背の低い彼女の手は届かない。
その光景を見た瞬間、ウオの胸の奥で何かが燃え上がった。
怖い。
年上の彼らは、いつも威張っていて、ウオも苦手だった。
でも、嵐の夜に倒れていた自分を助けてくれたエミールとリリアの顔が浮かんだ。
あの時の自分と、今泣いているレシアの姿が重なった。
「……やめろよ」
気づけば、ウオはそう呟き、木の剣を握りしめて少年たちの前に立ちはだかっていた。
「なんだぁ、ウオか。勇者様のところで拾われた、得体の知れない奴がでしゃばるなよ!」
ガキ大将はウオを突き飛ばした。
ウオは無様に尻餅をつく。
「女の子一人を大勢でいじめるなんて、卑怯だぞ!」
ウオは震える声で叫んだ。
それは、エミールが読んでくれた冒険譚に出てくる勇者のセリフだった。
「生意気な!」
少年たちが一斉にウオに殴りかかってくる。
ウオは為す術もなく殴られ、蹴られた。
だが、彼は必死にレシアのスケッチブックだけは胸に抱きしめ、決して手放さなかった。
ボロボロになりながらも抵抗するウオの姿に、さすがのガキ大将たちも気味が悪くなったのか、「気色悪い奴だ」と悪態をつきながら去っていった。
後に残されたのは、泥だらけで倒れているウオと、呆然と立ち尽くすレシアだけだった。
「……大丈夫?」
レシアがおずおずと声をかける。
「……うん。これ、君の花火? 綺麗だね」
ウオは痛む体を起こし、少し皺になってしまったスケッチブックを彼女に差し出した。
レシアはそれを受け取ると、『そう言ってくれて嬉しい。ありがとう』、と小さな声で言った。
彼女の大きな翠色の瞳が、キラキラと涙で濡れながら、まっすぐにウオを見つめていた。
その瞳の輝きを、ウオはなぜか忘れることができなかった。
****
三人の穏やかな生活は、ある日の午後、一人の老人の来訪によって破られる。
その男は、かつてこの俺エミールの旅を幾度となく助けた伝説の大預言者、レイザーだった。
「久しいな、勇者エミールよ」
百歳を超えているのに、俺よりも生き生きとした体つきのレイザーは、リビングに通される。
そして、そうするやいなや、リリアの後ろに隠れるウオを、全てを見透かすような鋭い視線で射抜いた。
ウオは、そのあまりの視線の鋭さに、本能的な恐怖を感じ、体を震わせる。
エミールと二人きりになったレイザーは、単刀直入に切り出した。
「エミールよ。お前は、あの子供を孤児院に預けたほうが良い」
そのあまりに唐突で残酷な言葉に、エミールは絶句する。
「どういう意味ですか! 彼は記憶を失って倒れていたんです。俺たちが保護しなければ、死んでいたかもしれない!」
「情に流されるな、エミール。あの子供を信じるな。あの子は、お前の、そしてこの世界の平穏を喰らい尽くす、災厄の種だ」
その会話を、ウオは扉の隙間から聞いてしまっていた。
(やっぱり、僕は……ここにいちゃいけないんだ)
捨てられる。
また一人になる。
その恐怖に足が震える。
だが、彼は逃げ出さなかった。
エミールがどう答えるのか、聞かなければならなかった。
「やめてください!」エミールの叫びが聞こえた。
「ウオは、そんな子じゃない! ただの、記憶を失った無力な子供だ!」
エミールが自分のために怒ってくれている。
その事実に、ウオの胸が締め付けられるように痛んだ。
「本当にそうか?」レイザーの冷たい声が続く。
「お前には、あの子の瞳の奥に巣食う、底なしの闇が見えぬのか?」
闇。
その言葉に、ウオは自分の中に存在する、何か黒くて冷たい塊を自覚させられる。
もう駄目だ。
エミールも、この人の言葉を信じてしまうに違いない。
だが、エミールの口から発せられたのは、彼の予想を完全に裏切る言葉だった。
「レイザーさん。あんたの助言がなければ、俺は魔王を倒すことなどできなかった。……だが! それとこれとは話が別だ。俺は、あんたの言うことだけを信じて、あの子を手放したりはしない」
エミールの毅然とした声が響き渡る。
「愚かで結構! 俺は、あの子供を信じます。なぜなら……!」
エミールは一度言葉を切り、震える拳を強く握りしめた。
「ウオは……俺にできた、初めての子供なんです」
その言葉は、扉の向こうのウオの心に、雷鳴のように突き刺さった。
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
それは絶望の涙ではなかった。
今まで感じたことのない、温かくて、胸が張り裂けそうになるほどの、歓喜の涙だった。
(信じて、くれてる……!)
この人の子供でいたい。
この人のために、何かをしたい。
ウオの小さな胸の中に、生まれて初めて、誰かを守りたいという強い感情が、確かな光となって灯った。
エミールの決意を聞いたレイザーは、深いため息をついた。
「……覚悟は、出来ているんだな? これから起こる全てに対する……覚悟は」
「出来ている」エミールは即答した。
「ウオがどんな子であろうと、俺はこの手で彼を守り抜く」
レイザーはそれ以上何も言わず、去り際に不吉な言葉だけを残していった。
「……大魔王には気をつけろ、とな」
その夜、ウオは固く誓っていた。
(僕が、エミールを守る)
不吉な預言の影が、静かに、しかし確実に、元勇者とその家族の未来を覆い始めていた。
第一部 第三章「悪夢の復活」
レイザーが去ってから、一ヶ月。
家族三人の生活は、幸福そのものだった。
ウオは日に日に明るくなり、エミールとの剣の稽古にも熱が入っていた。
「エミールとリリアを守るんだ」その一途な想いが、彼の剣筋を子供とは思えぬほど鋭くさせていた。
この幸せが永遠に続けばいい。
誰もがそう願っていた。
だが、その奇跡の時間は、唐突に終わりを告げる。
その日の朝、遥か東の王都の方角の空が、薄気味悪い紫色に染まっていた。
その瞬間、ゴゴゴゴゴゴ……ッ!! 突き上げるような激しい揺れが襲った。
遠くから、世界そのものが引き裂かれるような轟音が響き、東の空には天を突くほどの巨大な黒い柱が立ち昇っていた。
「嘘だ……あんな魔力……十年前の魔王ですら、ここまでの規模ではなかったぞ……!」
エミールは絶望に目を見開いた。
数時間後、王都から命からがら逃げてきた騎士が、悪夢の如き事実を伝えた。
「ま、魔王が……! 魔王が、復活した……ッ!!」
騎士の口から語られたのは、魔王が復活と同時に王都を一瞬で壊滅させ、十万もの民を虐殺したという、信じがたい報せだった。
十年前の魔王とは、格が違う。
あれは、レイザーの言っていた『大魔王』なのだ。
エミールは本能でそれを理解した。
「勇者様、どうか、我々をお救いください!」
村人たちの懇願の声が、波のようにエミールに押し寄せる。
彼には、もう選択肢はなかった。
旅立ちの準備は、静かに進められた。
夜が明ける頃、エミールは旅の装束に身を包み、玄関の前に立った。
「必ず、帰ってきてくださいね。ここは、あなたの帰る場所なのですから」
リリアは気丈に微笑んでいたが、その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「ああ、必ず帰る。君とウオのいるこの場所に。……約束だ」
エミールはリリアを強く抱きしめた。
次に、彼はウオの前に跪いた。
「ウオ。父さんは、少し悪い奴を懲らしめに行ってくる。俺が帰ってくるまで、リリアのこと、そしてこの家を頼んだぞ。お前は、この家の男だ」
「……うん。僕が、リリアを守る。この家も、守る。だから……だから、死なないで……!」
嗚咽混じりの苦しい叫びに、エミールは微笑むと、二人をまとめて力強く抱きしめた。
「愛している」
村の外れには、馬が用意されていた。エミールは馬に跨(またが)ると、「行ってくる」とだけ言い残し、死の匂いの跋扈(ばっこ)する都へと一人旅立っていった。
その背中が見えなくなった後も、ウオはずっと手を振り続けていた。
旅立ちの朝、エミールを見送る村人たちの中に、レシアの姿もあった。ウオが、父のもう見えなくなってしまった背中を、ただ不安そうに見つめていると、レシアがてくてくと彼に駆け寄ってきた。
「ウオくん……」
彼女は、小さな手で何かを固く握りしめている。
「これ……」
差し出されたのは、一枚の、青い布だった。丁寧に刺繍が施された、手作りのバンダナだ。そのハンカチは、まるで平和だった時のあの空のように、青く澄んでいた。
「私が、作ったの。お守り……みたいなものだから。これを持ってたら、きっと、ウオくんも、エミールおじさんも、守ってくれると思うから……」
レシアは顔を真っ赤にしながら、そう言った。
赤面症だからではない。
そだって、れは、ウオにしか見せない表情なのだから。
そんなこともつゆ知らずのウオは、そのバンダナを受け取った。布地から、彼女なりの温もりが伝わってくるようだった。
「……ありがとう、レシア」
それが、彼が彼女に言えた、最後の言葉だった。
****
その夜、ウオは、ハンカチを握りしめながらも、ベッドの中で眠れずにいた。
(駄目だ。父さんを、エミールを、一人にしちゃ、駄目だ)
強い衝動が、彼の全身を突き動かした。エミールを守らなければ。
彼は精神不安に揺れるリリアへの置き手紙を書くと、パンと水筒、そしてエミールが作ってくれた鉄の剣を鞄(かばん)に詰め込んだ。腰には、レシアからもらった澄み渡る青のバンダナを、固く結びつける。
夜の空気は冷たく、森の闇は深い。しかし、ウオの黒い瞳には、その深淵は映らなかった。その純黒の瞳には、恐怖よりも遥かに強い決意の光が宿っていた。
彼は、エミールが出発した東へと無限に続いてそうな街道を、小さな足で必死に走り出した。
(待ってて、エミール。僕が必ず、君を守るから)
運命の歯車は、もう誰にも止められない速度で、大きく、そして狂おしく回転し始めていた。
第一部 第四章 父の背中と最後の塔
父の背中を追い始めてから、早くも、二週間が過ぎようとしていた。
僕のこの旅は、想像を絶するほど過酷を極めた。父の歩みはあまりにも速く、僕は必死にその足跡を追い続けるので精いっぱいだった。
道中、父は何度も魔物の群れと遭遇した。だが、その度に、僕の理解を超えた光景が繰り広げられた。父が剣を抜いたことすら、認識できない。ただ、純白の閃光が一度走ったように見えたかと思えば、次の瞬間には魔物たちが悲鳴を上げる間もなく綺麗に斬られ、崩れ落ちているのだ。
父の常軌を逸するほどの『勇者としての強さと格』。僕はそれを目の当たりにするたびに、誇らしさと同時に、父がどんどん遠い存在になっていくような胸の痛みを感じていた。
だが、父の肉体は確実に消耗していた。野営の夜、遠くの木陰から隠れて見る父の背中は、ひどく疲弊して見えた。時折、激しく咳き込み、血混じりの痰を吐き出した後、その口元を抑える姿も見た。彼は、僕の知る優しい父親であると同時に、自らの命を削りながら戦う、あまりにも孤独な戦士だった。
ーー僕は、僕の無力さを、呪った。
*****
そして、ついに僕たちの目の前に、それが姿を現した。
天を突き抜けるかのような、巨大な黒い塔。魔王軍最後の砦、『ファイナルタワー』。
その最上階に、最後の四天王にして、魔王軍歴代最強の魔剣士と謳われる男、『魔剣』のゲルニカが待っている。
父は、その塔を静かに見上げていた。傷だらけの満身創痍の体。しかし、その瞳に宿る光は、これまでで最も強く輝いていた。
父は、一度も振り返ることなく、塔の闇の中へと一人で消えていった。
第一部 第五章 約束と裏切り
父、エミールがファイナルタワーの闇に消えた後、僕はどれくらいの時間、その場に立ち尽くしていたのだろうか。数分だったかもしれないし、一時間以上が経過していたのかもしれない。僕の感覚では、永遠にも等しい時間だった。
重く巨大な黒鉄の扉は、父を飲み込んだ後、完全に沈黙していた。あの向こう側で、今、何が起きているのか。父は生きているのか。最後にして最強の四天王、ゲルニカとの死闘は、既に始まっているのかもしれない。
このままここで待っていても、何も変わらない。父が勝って出てくるのを、ただ黙って祈るだけなのか? それとも、最悪の結末を、この扉が開くことで知ることになってしまうのか?
それで、いいわけない。
嫌だ。
どちらも、絶対に嫌だ。
ほかの四天王との戦いで、僕は学んだ。無力な傍観者でいることが、どれほど歯痒く、どれほど深い後悔と懺悔を生むかを。
今回こそは、僕に何かできることがあるかもしれない。いや、たとえ何もできなくてもいい。ただ、父と同じ空間にいたい。父が一人で戦っているという、耐え難い孤独から、目を背けたくないんだ。
だから僕は、行かなきゃならない。震える足に力を込めて立ち上がった。そして、あの黒鉄の扉へと向かう。
父が押し開けた時、あれほど重々しい音を立てた扉だ。僕一人の力で動かせるとは到底思えない。それでも、諦めるわけにはいかなかった。扉に手をかけ、全体重を預けて押してみる。
びくともしない。まるで、冷たい岩の壁を押しているようだ。
「くそっ……!」
何度も、何度も体当たりを繰り返す。肩が砕けそうな衝撃が走るが、扉は冷たい沈黙を守るだけだった。
僕は、無力だ。
涙が滲み、絶望が心を覆い尽くそうとした、その時だった。
扉に、ほんのわずかな隙間が空いていることに気づいた。
父が入った後、完全には閉まりきっていなかったのだ。おそらく、父自身が、あるいは塔の仕掛けが、すぐには閉じないようにできていたのだろう。その隙間は、子供である僕の体が、やっとのことで滑り込めるかどうかという、絶望的な細さだった。
でも、僕にとっては、天から差し伸べられた蜘蛛の糸だった。希望の光だった。
これしかない。
そう思った僕は、鎧とリュックサックを脱ぎ捨て、護身用のナイフだけを腰に、その隙間に体をねじ込んだ。鉄の冷たさが肌を削り、骨が軋む。息を止め、必死に体を細くして、暗闇の中へと進もうとする。
そして、数分にも感じられる格闘の末、僕の体は、ついに塔の内部へと滑り落ちた。
ひんやりとしていて、生温かい墓場のような空気が僕を包んだ。光は一切なく、完全な闇が支配している。鼻をつくのは、濃密な魔力の匂いと、微かな血の匂い。そして、長い間使われていない石造りの建物の、カビ臭い匂いだけだった。
僕は壁に手をつき、慎重に立ち上がる。目がこの闇に慣れるまで、しばらくじっとしていなければならない。心臓の音が、静かで凍てつく空気とは対照的に、やけに大きく耳に響く。
やがて、目が慣れてくると、ぼんやりと周囲の様子が見えてきた。そこは広大なエントランスホールのようだった。天井は遥か高く、深淵の闇に溶けて見えない。そして、ホールの奥に、上階へと続く巨大な螺旋階段が、まるで巨大な毒蛇のようにとぐろを巻いているのが見えた。
父は、もうこの階段を登っているはずだ。
僕は、足音を極限まで殺しながら、階段へと向かった。塔の内部は、不気味なほど静まり返っていて、魔物の気配が全くしない。それは、二つのことを示唆していた。この塔には元から魔物が配置されていないか、あるいは、先行している父が、全て片付けてしまったか。
階段を数段登ったところで、僕は後者であることを確信した。
階段の脇に、巨大なミノタウロスの骸(むくろ)が転がっていた。その体は、一刀のもとに、綺麗に両断されている。血さえも、ほとんど流れていない。あまりに鋭利な斬撃は、傷口を瞬時に焼き切ってしまうのだと、父が前に、教えてくれたことがあった。
父の消耗は、疲労は、一体どれほどのものだろう。三人の四天王と戦い、満身創痍のはずの体で、さらにこれほどの強敵を倒しながら進んでいる。僕は、父の身を案じながら、ただひたすらに螺旋階段を登り続けた。
一段、また一段と登るたびに、上階から伝わってくる魔力が濃くなっていくのを感じる。それは、これまで僕が感じてきたどんな魔族のものとも違う、底知れない、深く、そして静かな魔力だった。まるで、深海のように、穏やかに見えるのに、その底には想像を絶する圧力が渦巻いている。
これが、四天王最強、ゲルニカの魔力。
どれくらい登り続けたのか、もうわからなかった。肉体的な疲労よりも、精神的な緊張が僕の体力を奪っていく。
そして、ついに僕は、螺旋階段の終点にたどり着いた。
そこには、最上階へと続くであろう、一枚の荘厳な扉があった。これまでの道のりで見てきたどの扉よりも大きく、複雑な魔術的な文様が刻まれている。
扉は、固く閉ざされていた。しかし、その向こう側から、二つの強大な気配が伝わってくる。一つは、間違いなく父のもの。傷つき、消耗しているが、それでもなお、燃え盛る炎のような闘志を放っている。
そして、もう一つが、あの深海のような魔力。ゲルニカだ。
どうやら、まだ戦いは始まっていないらしい。僕は安堵の息をつき、扉の脇にある巨大な石柱の陰に身を潜めた。ここからなら、中の会話が聞こえるかもしれない。
心臓を落ち着かせ、壁に耳を澄ます。
やがて、父の、疲労と緊張が入り混じった声が聞こえてきた。
「ここが、貴様の待つ場所か、ゲルニカ」
扉が、重い音を立てて開く音がした。父が、ついに最後の部屋へ足を踏み入れたのだ。
僕も、固唾を飲んで、その瞬間を待った。父と、魔王軍最強の魔剣士との、最後の戦いが始まる。
しかし、次に僕の耳に届いたのは、剣戟の音ではなかった。
父の、心の底からの驚愕と、戸惑いに満ちた声だった。
「なんで……」
その声は、震えていた。これまでのどの強敵と対峙した時とも違う、信じられないものを見た人間の声だった。
「なんで……お前が、ここにいるんだ……レイザー……」
レイザー?
その名前に、僕の思考は一瞬停止した。
預言者、レイザー。僕も知っている名前だ。父が勇者として旅立つ前、何度も僕たちの村を訪れ、父に助言を与えていた人物。白髪に、いつも穏やかな笑みを浮かべた好々爺。彼が語る未来のビジョンは、いつも希望に満ちていて、父も彼を深く信頼していた。その彼が、なぜ、魔王軍の最後の砦である、このファイナルタワーの最上階に?
「やあ、エミール。久しぶり、と言うべきかな。こんな場所での再会になるとは、俺も思っていなかったがね」
聞こえてきたのは、紛れもなく、僕の記憶にあるレイザーの声だった。だが、その声色には、かつての温厚さのかけらもなかった。冷たく、乾いていて、どこか嘲るような響きがあった。
「どういうことだ……説明しろ、レイザー! ゲルニカはどこだ! お前は、魔王軍に捕らわれていたのか!?」
父の声は、まだ目の前の現実を受け入れられていないようだった。
次の瞬間、レイザーが放った言葉は、父の、そして僕の最後の希望を打ち砕くのに十分すぎた。
「言い忘れていた……というより、あの方に口止めされていてね。言えていなかったが、俺は預言者と魔王軍の新四天王ゲルニカを兼任してたってことだよ。つまり、俺は本当は魔王側で、あんたらの陣営で言えばスパイっていうのかな?」
時間が、止まった。
世界から、音が消えた。
僕の頭は、レイザーの言葉を理解することを拒絶した。ゲルニカ。彼が、ゲルニカだと? あの、いつも優しかったレイザーさんが? 父の、唯一無二の協力者だった彼が?
そんな、馬鹿なことがあるはずがない。何かの間違いだ。
だが、父の絶叫が、それが紛れもない事実であることを、僕の脳髄に叩きつけた。
「なんで…!! あんたが…!! 誰よりも人類の未来を憂いていたあんたが…!!! 魔王側についてんだ!!! 答えろ!!! レイザァー!!!!!」
父の叫びは、怒りだけではなかった。裏切られた悲しみ、信じていたものに足元をすくわれた絶望、その全てが込められた、魂の慟哭だった。
僕は、石柱の陰で、自分の口を両手で必死に塞いでいた。嗚咽が漏れそうになるのを、奥歯を食いしばって堪える。父の、あんなに苦しそうな声を、僕は聞いたことがなかった。
レイザーは、そんな父の叫びを、鼻で笑うかのようにあしらった。
「そんなに大声を出すなよ、エミール。理由は……そうだな。いずれわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。ただ一つ言えるのは、俺は俺の信じる正義のためにここにいる。それだけだ」
その言葉を合図に、部屋の空気が一変した。深海のように静かだった魔力が、牙を剥き、父へと襲いかかる。
まずい!
僕がそう思った時には、もう遅かった。
甲高い、肉が断ち切られる生々しい音が響き渡った。
「ぐ……あ……っ!」
父の、短い呻き声。
何が起きたのか、僕には全く見えなかった。ただ、扉の隙間から、父の体がゆっくりと前に傾ぎ、その胸から腹にかけて、一本の赤い線が走っているのが見えた。血が、泉のように噴き出し、床の石畳を濡らしていく。
レイザーは、いつの間にか父の間合いの内側、ゼロ距離に踏み込んでいた。その手には、これまで見たこともない、黒く、禍々しい輝きを放つ剣が握られていた。そして、その剣は今、父の体を深々と切り裂いた後だった。
「……速い……」
父が、信じられないといった様子で呟いた。
「おしゃべりに夢中だったな、勇者エミール。戦場で、最も警戒すべき相手に背を向けたまま、感傷に浸るとは」
レイザーは冷たく言い放つと、父の体を蹴り飛ばした。父の体は、なすすべもなく床を転がり、壁に叩きつけられてようやく止まった。
「父さん……!」
僕は叫びそうになるのを、唇を噛み切るほどの力で堪えた。父の傷は、深い。どう見ても、致命傷だった。内臓まで達しているかもしれない。血が止まらない。
もう、終わりなのか。こんな、あっけない幕切れなのか。
絶望が、僕の視界を黒く塗りつぶそうとする。
しかし、レイザーは、倒れた父に追撃をかけようとはしなかった。ただ、警戒を怠らない様子で、ゆっくりと距離を取りながら言った。
「早く直せよ、勇者エミール。お前の自己治癒魔法では、この程度の傷なんて数秒で治せるだろ? ……化け物め」
その言葉に、僕は耳を疑った。自己治癒魔法? 父に、そんな力が?
壁際でうずくまっていた父が、ゆっくりと身を起こした。その顔は苦痛に歪み、脂汗が噴き出している。だが、その瞳は、まだ死んでいなかった。燃えるような怒りの光が、レイザーを射抜いていた。
「……魔力の消費が激しいから、普通は使わないけどな!!」
父が叫ぶと同時に、その全身から、淡い金色の光が溢れ出した。光は、父の胸の傷口へと集まっていく。すると、信じられない光景が僕の目の前で繰り広げられた。
裂かれた皮膚が、筋肉が、内臓が、まるで映像を逆再生するかのように、みるみるうちに繋ぎ合わさっていく。噴き出していた血は止まり、深々と刻まれた傷は、数秒後には薄い傷跡すら残さず、完全に消え失せていた。
床に広がった血の海だけが、今の出来事が現実だったと証明していた。
僕は、あまりの衝撃に言葉を失った。これが、勇者の力。これが、僕の父の、本当の姿。人間を超えた、まさに『化け物』と形容されるべき、奇跡の力。
父は、完全に回復した体で、ゆっくりと立ち上がった。その体からは、先ほどまでの消耗が嘘のように、再び闘気がみなぎっている。
「どうした。何故、傷を直してる間に攻撃しない」
父は、聖剣アスカロンを構えながら、静かに問うた。
レイザーは、肩をすくめて答えた。
「お前とは一度やってみたかったんだ。万全の状態のお前と、俺と。どちらが上か、決着をつけてみたかった。正々堂々の男の戦いってやつを、な」
その言葉を聞いた父の口元に、自嘲的な笑みが浮かんだ。
「最初、俺が喋ってる間に不意打ちしてきた奴が、何を偉そうなことを!」
「うるさい……続けるぞ」
レイザーの言葉は、まるで子供の言い訳のようだった。だが、その瞳は、もう笑ってはいなかった。純粋な、剣士としての闘争心が、その瞳の奥で燃え盛っている。
次の瞬間、二人の姿が、僕の視界から消えた。
鼓膜が破れるかと思うほどの、凄まじい衝撃音。
僕の目には、何が起きたのか全く捉えられなかった。ただ、二人が立っていた場所の中間点で、空間そのものが爆発したかのような衝撃波が発生し、部屋の壁や柱に亀裂が走った。火花ではない。それは、剣と剣が、人間の認識できる速度を超えて激突した際に発生する、純粋なエネルギーの衝突だった。
気づけば、二人は部屋の両端に、再び対峙する形で立っていた。まるで、最初からそこにいたかのように。
「……ははっ、速いな、エミール! 全盛期のお前よりも、さらに磨きがかかっている!」
「お前こそ、いつの間にこれほどの剣技を身につけた、レイザー! 預言者の修行とやらは、剣の修行も兼ねていたのか!」
二人は、互いに言葉を交わしながらも、その全身の神経を極限まで集中させているのがわかった。ほんの僅かな瞬きすら、命取りになる。そんな、張り詰めた空気が部屋を支配していた。
再び、二人の姿が消える。
今度は、一度ではない 。轟音を立てながら、断続的に部屋のあちこちで金属音と衝撃音が発生する。僕の目には、ただ銀色と黒色の閃光が、部屋中を無軌道に乱れ飛んでいるようにしか見えない。
僕の動体視力が全く追いつかない、異次元の速度で。
柱が砕け、床がめくれ上がり、天井から瓦礫が降り注ぐ。その全てが、二人の剣が交差した余波によるものだ。僕は、降り注ぐ瓦礫から身を守るために、柱の影で身を丸くするしかなかった。
恐ろしい。
心の底から、そう思った。これが、この世界の頂点で戦う者たちの、本当の戦い。今までの四天王も、確かに強かった。だが、この二人の戦いは、次元が違う。彼らは、もはや人間という枠組みを超えた、神々の領域に足を踏み入れていた。
父は、こんな化け物と、たった一人で戦っていたのか。
僕は、自分の無力さを改めて痛感した。ここにいても、僕にできることなど何もない。下手に飛び出せば、二人の戦いの余波に巻き込まれて、一瞬でミンチにされてしまうだろう。
それでも、僕はここから離れることができなかった。父の戦いを、その結末を、この目で見届けなければならない。
僕は、必死に目を凝らした。
最初は、ただの光の乱舞にしか見えなかった。しかし、その異常な光景に、僕の目が、僕の脳が、必死に適応しようとしているのを感じた。
まず、光の軌跡が、残像として見えるようになった。銀色の聖剣の軌跡と、黒色の魔剣の軌跡。それらが、複雑な幾何学模様を描きながら、空間を切り裂いていく。
次に、その軌跡の先に、二人の姿が一瞬だけ、コマ送りのように見えるようになった。剣を振り抜く父の姿。それを紙一重で受け流すレイザーの姿。蹴りを放つ父。バックステップで回避するレイザー。
見えてきた。遅い。まだ、遅すぎる。でも、確かに、僕の目は彼らの動きを捉え始めている。
なぜだろう。僕はずっと、父の背中を追いかけてきた。オークを斬る時も、四天王の三体の魔族を撃退する時も、僕はその一部始終を見てきた。僕の脳裏には、父の、勇者エミールの、ありとあらゆる戦闘データが、無意識のうちに蓄積されていたのかもしれない。
そして今、その蓄積されたデータが、目の前の超高速の戦闘を理解するための、鍵となっている。
僕の視界は、さらにクリアになっていく。
二人の動きの『予備動作』が見え始めたのだ。
父が剣を振るう、ほんのコンマ数秒前。その肩の筋肉が、微かに、しかし確かに隆起する。足を踏み込む、その瞬間。腰の捻りが、体重移動の方向を示唆する。呼吸。深く息を吸い込むのは、大技を放つ兆候。
レイザーも同じだ。彼の剣は変幻自在だが、その動きの起点となるのは、常に手首の僅かな角度の変化だ。彼の視線が、父のどこを狙っているのか。重心が、どちらの足にかかっているのか。
見える。
見える。
見える!
僕の脳は、猛烈な勢いで回転し、二人の動きを分析し、次の展開を『予測』し始めていた。
父の聖剣は、一撃一撃が必殺の威力を持つ『剛』の剣。その太刀筋は、まさに光の奔流。対するレイザーの魔剣は、相手の力を利用し、予測不能な軌道で急所を狙う『柔』の剣。その剣筋は、まるで闇に潜む毒蛇のようだ。
剛と柔。光と闇。二つの対極にある剣が、互いの全てを懸けてぶつかり合っている。
消耗が激しいのは、明らかに父の方だった。これまでの連戦による疲労。そして、自己治癒魔法による、膨大な魔力の消費。その動きには、徐々に、しかし確実に、陰りが見え始めていた。
一方のレイザーは、万全の状態だ。彼の剣は、少しも衰えを見せない。むしろ、父の剣に適応し、さらにその精度を増しているようにすら見えた。
「はぁ……はぁ……っ!」
父の呼吸が、荒くなっていくのが聞こえる。聖剣を握る腕が、僅かに震えている。
「どうした、エミール! もう終わりか! 勇者の力も、その程度か!」
レイザーが、畳み掛けるように連撃を繰り出す。黒い斬撃の嵐が、父を襲う。
父は、それを必死に防ぐ。だが、全ての攻撃を捌ききれず、鎧のあちこちが切り裂かれ、浅い傷から血が滲み始める。自己治癒魔法を使うほどの深手ではないが、確実に父の体力と集中力を奪っていく。
まずい。このままでは、ジリ貧だ。
僕がそう思った、その時だった。
父は、レイザーの猛攻を受け止めながら、あえて一歩、大きく前に踏み込んだ。
「なっ!?」
それは、レイザーにとっても予想外の動きだったのだろう。彼の顔に、一瞬の驚きが浮かんだ。
父は、防御を捨てたのだ。自らの体に、レイザーの剣が数本、突き刺さるのを覚悟の上で、懐に潜り込んだ。
相打ち覚悟の、捨て身の攻撃!
「もらったァ!!」
父の咆哮と共に、聖剣アスカロンが、下から上へと、天を衝くように振り上げられた。
「聖剣技――『天衝』!」
それは、父の持つ技の中でも、最大級の威力を誇る一撃。僕の予測でも、このタイミングで、この距離で放たれれば、レイザーは回避できない。
しかし、レイザーの顔には、焦りの色と同時に、不敵な笑みが浮かんでいた。
「待っていたぞ、エミール! その一撃を!」
レイザーは、父の渾身の一撃を、避けようとしなかった。それどころか、自らの魔剣を、まるで盾のように、その斬撃の軌道上に差し込んだ。
そんなことをすれば、剣ごと両断されてしまう。一体何を考えて……?
次の瞬間、僕は信じられないものを見た。
父の『天衝』が、レイザーの魔剣に触れた瞬間、その凄まじいエネルギーが、まるで渦に巻き込まれるように、魔剣の中へと『吸収』されていったのだ。
「馬鹿な……!?」
父の驚愕の声が響く。
「俺の魔剣『ネメシス』は、あらゆるエネルギーを喰らう。お前が力を込めれば込めるほど、俺の力となるのだ!」
レイザーが哄笑する。彼の持つ魔剣が、父の聖なる力を吸い尽くし、禍々しい紫色の光を放ち始めた。
「喰らった力は、倍にして返してやろう! 魔剣技――『反転虚無(リバース・ゼロ)』!」
レイザーが、父の聖剣技を吸収した魔剣を、そのまま父へと叩きつけた。
父の『天衝』が、闇の力として、父自身に襲いかかる。
絶体絶命。
誰もがそう思っただろう。
だが、勇者エミールは、まだ終わっていなかった。
「……それも、読んでいたさ」
父の口元に、血に濡れた笑みが浮かんだ。
彼は、レイザーが魔剣を振り下ろす、その刹那。自らの体を、僅かに、本当に僅かに、横にずらしていたのだ。
レイザーの『反転虚無』は、父の左肩を抉り、鎧と肉を派手に吹き飛ばしたが、心臓を貫くには至らなかった。
そして、父の右手は、空いていなかった。
聖剣を振り抜いた反動を利用し、体を回転させ、その遠心力を全て乗せた、第二撃を準備していたのだ。
それは、剣技ではない。ただ、純粋な、極限まで鍛え上げられた、勇者の拳。
籠手が砕け散るほどの威力で、父の右ストレートが、無防備になったレイザーの胸に、深々と突き刺さっていた。
「ご……ふっ!?」
レイザーの顔から、笑みが消えた。信じられないといった表情で、自らの胸に突き刺さる父の拳を見下ろしている。彼の胸骨が砕け、内臓が破裂する、鈍い音が僕の耳にまで届いた。
勝負は、まだ終わらない。
父は、拳を引き抜くと同時に、がら空きになったレイザーの体に、今度こそ、聖剣アスカロンを突き立てた。
今度こそ、回避も、吸収もできない。
銀色の刃が、レイザーの胸の中心を、背中まで貫いた。
「……が……はっ……」
レイザーの口から、大量の血が溢れ出す。彼の瞳から、力が失われていくのがわかった。
長い、長い激闘だった。しかし、その決着は、あまりにも静かに、そして唐突に訪れた。
父は、聖剣を引き抜くと、レイザーの体は糸の切れた人形のように、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……っ……」
父もまた、立っているのがやっとの状態だった。左肩からは、おびただしい量の血が流れ、右の拳は骨が砕けているだろう。全身に負った無数の傷、そして、渾身の一撃を放ったことによる極度の消耗。その顔は、死人のように青ざめていた。
それでも、父はよろめきながら、倒れたレイザーに歩み寄った。
そして、最後の問いを投げかけた。その声は、怒りではなく、深い、深い悲しみに満ちていた。
「どうして……!! こんなことを……!!!」
レイザーは、血の泡を吹きながら、それでも笑おうとしているかのように、口の端を歪めた。
「……言ったろ? ……お前に言えることは、何もない……。それに……」
レイザーは、途切れ途切れの声で、続けた。
「……戦いは、まだ終わってない……」
その言葉が、僕の脳天に警鐘を鳴らした。
嫌な予感がする。
何かが、おかしい。
次の瞬間。
レイザーの背中から、何かが突き破るように生えてきた。
それは、漆黒の、鳥の翼のようだった。
だが、片方だけ。
彼の右肩のあたりから生えた、一枚の、不気味で禍々しい片翼。
翼が生えた瞬間、レイザーの体から、これまでとは比較にならないほどの、邪悪な魔力が噴き出した。
死にかけていたはずの彼の体が、まるで有り得ない力で、再び立ち上がろうとしている。
父は、その光景に愕然としていた。
満身創痍の体で、最後の力を振り絞って敵を倒した、その直後の、絶望的な光景。
父の体に、致命的な隙が生まれていた。
そして、僕の、進化した視界は、その先を見てしまった。
片翼のレイザーが、父の心臓を貫く、未来の光景を。
彼の動き出し、剣の軌道、到達時間。
その全てが、僕の脳内でスローモーションで再生される。
間に合わない。
父は、反応できない。
「あ……」
僕の口から、声にならない声が漏れた。
駄目だ。
父が死ぬ。
思考よりも早く、僕の体が動いていた。
僕は、石柱の影から飛び出し、ありったけの声で、絶叫していた。
「父さん!!! 危なぁい!!!!」
僕の声に、父がはっとしたように、こちらを向いた。
その驚愕の表情。
しかし、父が僕の声に反応し、レイザーの方を向き直る、そのコンマ数秒が、運命を分けた。
時、すでに遅し。
覚醒したレイザーの黒い魔剣は、僕の声よりも速く、父の胸の中心――その心臓を、正確に貫いていた。
ザシュッ、という、聞きたくなかった音。
父の体が、大きく跳ねた。
聖剣アスカロンが、カラン、と乾いた音を立てて、手から滑り落ちる。
父の目が、大きく見開かれ、信じられないといった様子で、自らの胸を貫く剣を見下ろした。
そして、僕の顔を見て、何かを言おうとしたかのように、その唇が、微かに動いた。
「あ……!! お父さぁぁん!!!!」
僕の、二度目の絶叫が、崩れ落ちる塔の最上階に、虚しく響き渡った。
世界が、赤と黒に染まって見えた。
父の胸から噴き出す血の赤。
そして、僕の心を塗りつぶす、絶望の黒。
父の体は、ゆっくりと、スローモーションのように、後ろへ倒れていく。
その瞳から、光が消えていくのが、はっきりと見えた。
死んだ。
父さんが、死んだ。
僕の目の前で。
僕の声が、かえって父の注意を逸らし、とどめを刺されるきっかけを作ってしまった。
僕が、父さんを殺したんだ。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!」
僕の喉から、獣のような叫び声が迸った。
悔しさと、悲しみと、自分への怒りと、レイザーへの憎悪が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、僕の理性を焼き切っていく。
レイザーは、父の体から魔剣を引き抜くと、まるで汚物でも払うかのように、その血を振るった。
「……ふぅ。
ようやく、終わったか。
全く、手間をかけさせおって」
片翼を生やしたその姿は、もはや僕の知る預言者レイザーの面影はどこにもなく、邪悪な悪魔そのものだった。
だが、彼は次の瞬間、信じられないものを見るかのように、目を見開いた。
「……まだ…!! 息をしているのか!!! 信じがたし!! この男!!!」
僕も、その声にはっと我に返り、父を見た。
父は、倒れていなかった。
心臓を貫かれ、常人なら即死しているはずの傷を負いながら、膝をつき、辛うじて片手で床を支え、まだ、生きていた。
その胸の穴からは、血が流れ続けている。
だが、その傷口の周りに、金色の魔力が、まるで蛍のように集まり、必死に出血を抑えようとしていた。
心臓は、もう動いていないはずだ。
それなのに、父は、自らの魔力だけで、壊れた心臓の機能を擬似的に再現し、無理やり全身に血液を送っている。
それは、もはや生命力という言葉で表現できる現象ではなかった。
それは、執念。
ただ、生きるという、純粋で、狂気的なまでの執念だった。
「……自らの魔力で擬似的に壊れた心臓を無理やり動かしつつ、止血と回復を行っているのか!!? ……まあいい。
どうせ、それも数分と持つまい」
レイザーは、驚愕から、やがて冷酷な嘲笑へと表情を変えた。
そして、僕の方へと視線を向ける。
「見ておけ、小僧。
お前の父親が死ぬ様……を」
その言葉が、僕の中で、最後の何かが切れる音だった。
恐怖は、もうなかった。
悲しみも、怒りも、憎しみも、全てが昇華され、一つの、冷たく、鋭利な感情へと変わっていた。
殺意。
僕の思考も、体も、全てがその感情に支配された。
レイザーが、僕に意識を向けた、その一瞬。
彼の足元に伸びる影が、僅かに揺らいだ。
僕は、その影から、音もなく飛び出した。
これまでの人生で、これほど速く動いたことはなかった。
まるで、風になったかのように、僕の体はレイザーとの距離をゼロにする。
レイザーは、僕の存在に気づいていたはずだ。
だが、彼の意識は、まだ僕を「勇者の息子」という、無力な子供としてしか認識していなかった。
その油断が、彼の命取りになる。
僕が手にしていたのは、護身用の、何の変哲もない小さなナイフ。
だが、そのナイフは今、僕の殺意の全てを乗せて、レイザーの首筋――頸動脈へと、最短距離で迫っていた。
「!?」
レイザーが、僕の殺気に気づき、驚愕に目を見開いた。
咄嗟に、左腕を盾にするようにして、僕の攻撃を防ごうとする。
ザクリ、という鈍い手応え。
僕のナイフは、彼の左腕に深々と突き刺さった。
狙いは外れた。
だが、それで終わりではない。
僕は、ナイフを突き刺したまま、体重をかけて、無理やり横に引き裂いた。
「ぐっ……あぁっ!?」
レイザーの腕から、鮮血が噴き出す。
彼の顔が、信じられない痛みと、子供に傷つけられたという屈辱に歪んだ。
僕は、すぐに後方へ跳躍し、距離を取る。
そして、床に転がっていた父の聖剣――アスカロンを拾い上げた。
子供の僕には、重すぎる剣だ。
だが、不思議と、今の僕にはそれを扱うことができるという、絶対的な確信があった。
「うるさい」
僕は、静かに、しかしはっきりと、レイザーに告げた。
「父さんは、死なせない」
僕の声は、自分でも驚くほど、冷たく、落ち着いていた。
もう、泣き叫ぶ子供の僕はいなかった。
そこに立っていたのは、父を殺させないという、ただ一つの目的のためだけに存在する、一人の戦士だった。
レイザーは、血を流す自らの腕を押さえながら、僕を睨みつけた。
その瞳には、もはや侮りはない。
明確な、敵意と警戒が宿っていた。
「……面白い。
あの男の息子もまた、『化け物』というわけか」
僕とレイザー。
膝をつき、か細い命を繋ぎとめている父の背後で。
勇者の息子と、勇者を裏切った預言者。
究極の、命の取り合いが、今、始まろうとしていた。
第六章 獣と人、そして父と子
僕の手の中に、聖剣アスカロンがあった。
父の、勇者エミールの魂とも言うべき、伝説の剣。
子供の僕にはあまりにも不釣り合いな、重く、長大な剣。
だが、不思議なことに、その重さは苦にならなかった。
まるで、この剣が僕自身の一部であるかのように、しっくりと手に馴染んでいる。
刀身から伝わる微かな温もりは、まるで父の温もりのようであり、同時に、僕自身の燃え盛る感情に呼応しているかのようでもあった。
目の前には、レイザーが立っていた。
片腕から血を流し、その顔には驚愕と警戒の色を浮かべている。
その背に生えた漆黒の片翼が、彼の存在がもはや人のものではないことを雄弁に物語っていた。
背後には、父がいる。
心臓を貫かれ、魔力だけでかろうじて命を繋ぎとめている、僕のたった一人の父親が。
僕の思考は、驚くほど単純だった。
目の前の敵を、殺す。
父を傷つけた、あの男を、殺す。
それ以外の感情も、思考も、僕の世界からは消え失せていた。
悲しみも、怒りも、今はもうない。
ただ、目的を遂行するための、氷のように冷たい衝動だけが、僕の全身を支配していた。
『……面白い。
あの男の息子もまた、『化け物』というわけか』
レイザーが吐き捨てるように言ったあの言葉。
その声には、先ほどまでの余裕は微塵も感じられなかった。
彼は、僕を子供としてではなく、明確な『敵』として認識し、その全身から禍々しい魔力を放ち始めた。
僕は、答えない。
言葉を交わす必要など、どこにもなかった。
ただ、聖剣を構え、一歩、前に踏み出した。
その瞬間、僕の体は、思考よりも速く、レイザーへと向かって駆け出していた。
僕の戦い方は、父のそれとは全く異なっていた。
父の剣は、鍛え上げられた剣技と経験に裏打ちされた、王者の剣。
一振り一振りに無駄がなく、力と速さ、そして技が完璧な調和をもって繰り出される。
それは、芸術の域にまで達した『武』だった。
対して、僕の動きは、ただの『暴力』の奔流だった。
剣技の型など、知らない。
防御という概念も、僕の頭にはなかった。
ただ、僕の進化した視界が捉える、敵の急所。
喉、心臓、目、腱。
そこに、最短距離で、最大の威力を叩き込む。
そのためならば、どんな不格好な体勢になろうと、どんな無謀な動きになろうと、一切の躊躇はなかった。
それは、まるで飢えた獣の動きだった。
レイザーは、僕の初撃を、魔剣ネメシスで受け止めた。
キィン、と甲高い金属音が響き、火花が散る。
「ぐっ……!?」
レイザーの顔が、驚きに歪んだ。
子供の腕力ではない。
聖剣アスカロンが持つ本来の力に、僕の純粋な殺意が上乗せされ、とてつもない質量を持った一撃と化していたのだ。
僕は、一撃目が受け止められると、即座に聖剣を手放し、がら空きになったレイザーの懐に潜り込んだ。
そして、腰のナイフを引き抜き、彼の脇腹を深々と抉る。
「がっ……この、ガキがァ!」
レイザーが苦痛に顔を歪め、僕を蹴り飛ばそうとする。
僕は、その蹴りを、転がるようにして回避し、その勢いのまま、床に落ちた聖剣を再び拾い上げた。
一連の動作に、淀みは一切ない。
生き残るため、そして殺すためだけに最適化された、効率的な動き。
「クク……クハハハハ!」
傷を負ったレイザーは、しかし、何故か狂ったように笑い始めた。
「そうだ……これだ! この、躊躇いのない暴力! 純粋な破壊衝動! なんと美しい!」
彼の瞳は、狂気に満ちた輝きを放っていた。
僕の攻撃を受けながら、まるで恍惚とした表情すら浮かべている。
「光の勇者エミール! 奴の剣は、あまりに綺麗すぎた! 慈悲があり、情があり、守るべきもののために振るわれる剣! そんなものでは、この腐った世界は救えんのだよ!」
レイザーは叫びながら、その漆黒の片翼を大きく広げた。
翼から、闇の力が溢れ出し、彼の傷がみるみるうちに塞がっていく。
先ほど僕が負わせた腕と脇腹の傷が、黒い煙と共に消え失せた。
「真の救済には、破壊が必要なのだ! 全てを一度更地に戻す、圧倒的な破壊が! 偽りの平和も、欺瞞に満ちた秩序も、全てを喰らい尽くす、絶対的な闇が!」
彼の言葉の意味を、僕は理解しようともしなかった。
僕の目には、傷を再生させた厄介な敵、という情報しか映っていない。
僕は再び突進する。
今度は、真正面からではない。
部屋の柱や瓦礫を巧みに利用し、三次元的な軌道で、彼の死角を狙う。
壁を蹴り、天井から奇襲をかける。
彼の視線が上を向けば、足元の瓦礫を蹴り上げて注意を逸らす。
常識にも、剣術のセオリーにも囚われない僕の攻撃に、さすがのレイザーも翻弄され始めた。
「素晴らしい! その戦い方! その瞳! お前には恐怖というものがないのか! 命のやり取りに対する、生物としての根源的な恐怖が!」
レイザーは、僕の猛攻を捌きながら、嬉々として叫び続けた。
「そうだ、それでいい! お前こそが、我らが……いや、あの方がずっと待ち望んでおられた、『救世主』の姿だ!」
救世主。
その言葉が、僕の耳に奇妙な不協和音として響いた。
僕が? 救世主? ふざけるな。
僕はただ、父の仇を討ちたいだけだ。
「お前は、光ではない! まばゆい光の勇者の息子でありながら、その魂に宿すのは、何よりも深く、そして純粋な闇! 光を喰らう闇! 世界をリセットする、どす黒い救世主だ!」
レイザーの狂気は、頂点に達していた。
彼はもはや、僕を殺そうとしているのではない。
僕という存在の誕生を、心から祝福し、その力を試しているかのようだった。
だが、僕の心は、そんな彼の狂気に微動だにしなかった。
僕は、彼の言葉の隙間を縫って、その防御の僅かな綻びを見逃さなかった。
彼が、大きく口を開けて叫んだ、その瞬間。
僕は、聖剣アスカロンを、槍のように投げ放った。
「なっ!?」
聖剣を投擲するなど、常軌を逸した行動。
レイザーの予測の、さらに外側を行く一撃。
彼は咄嗟に、魔剣でそれを弾こうとした。
しかし、聖剣は彼の魔剣に触れる寸前で、まるで意思を持っているかのように、僅かに軌道を変えた。
僕が、投げる瞬間に、回転を加えていたのだ。
聖剣の切っ先は、レイザーの魔剣を掠め、その勢いのまま、彼の片翼の付け根に深々と突き刺さった。
「ぐ……あああああっ!」
レイザーの絶叫が響き渡る。
翼は、彼の魔力の源の一つだったのだろう。
そこを破壊され、彼の体から力が抜け、魔力の奔流が乱れるのがわかった。
僕は、その隙を見逃さない。
聖剣を失った僕の右手には、再びあの小さなナイフが握られていた。
レイザーが翼の痛みに悶え、体勢を崩した、その一瞬。
僕は、彼の足元に滑り込み、アキレス腱を、躊躇なく両足とも断ち切った。
「ぎっ……!?」
悲鳴すら上げられず、レイザーはその場に崩れ落ちた。
両足の腱を切られ、彼はもう立つことすらできない。
翼を破壊され、魔力の制御もままならない。
戦闘能力は、完全に奪った。
僕は、ゆっくりと立ち上がり、彼の翼に突き刺さった聖剣アスカロンを引き抜いた。
翼が根本から引き千切られ、レイザーの背中から大量の血が噴き出す。
彼は床に突っ伏し、荒い息を繰り返している。
もはや、抵抗する力は残っていない。
僕は、そんな彼を、冷たい目で見下ろした。
狂喜に満ちていた彼の顔は、今は苦痛と、そしてなぜか、満足げな表情が入り混じった、奇妙なものになっていた。
「……はぁ……はぁ……見事だ……。
やはり、お前は……本物だ……」
彼は、僕を見上げ、途切れ途切れに言った。
「俺の負けだ……。
これで、預言は……成就する……。
どす黒い救世主の手によって、古い世界は……終わる……」
僕は、彼の言葉を黙って聞いていた。
そして、聖剣を、ゆっくりと振りかぶる。
その切っ先を、彼の首筋に、正確に狙い定めて。
これで、終わりだ。
父さんの苦しみも、僕のこの訳のわからない衝動も、全て。
僕は、感情のこもらない、ただ事実を告げるだけの声で、呟いた。
「殺す」
聖剣アスカロンが、レイザーの首筋めがけて、振り下ろされる。
その、刹那だった。
背後から、温かい何かが、僕の体を強く、しかし優しく包み込んだ。
「……っ!?」
驚いて動きを止めると、僕の肩に、ぽた、ぽたと生温かい雫が落ちてきた。
それは、血だった。
「もう……いいんだ……ウオ……」
聞こえてきたのは、父の声だった。
か細く、途切れ途切れで、血の混じった咳をしながらも、それは間違いなく、僕の父さんの声だった。
いつの間に、僕の背後に。
あれほどの重傷で、動けるはずが……。
父は、僕が振り下ろそうとしていた剣ごと、僕の体を、後ろから抱きしめていた。
その体は、ひどく震えていた。
「お前が……強いのは、よくわかった……。
父さんを……守ってくれて、ありがとう……。
本当に……ありがとう……!!」
父の言葉が、氷のように凍てついていた僕の心に、小さなひびを入れる。
ありがとう? 違う。
僕のせいだ。
僕が叫んだから、父さんは……。
「でも……」
父は、僕を抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
「お前には……人を殺してほしくないんだ……」
その言葉が、僕の脳天を、鈍器で殴られたかのように揺さぶった。
「確かに……こいつは、魔族に魂を売ったのかもしれない……。
俺を裏切り、殺そうとした……。
許されないことをした……。
でも、元は……人なんだ……。
俺たちが、村で会った、あのレイザーさんなんだ……」
父の言葉が、僕の記憶の扉をこじ開ける。
そうだ。
彼は、レイザーさんだった。
村に来ては、僕の頭を撫でて、「大きくなったな」と笑ってくれた。
父と、人類の未来について、夜通し語り合っていた。
その瞳は、いつも優しさに満ちていた。
目の前で血を流し、死にかけているこの男と、記憶の中の優しい預言者が、どうしても結びつかない。
「だから……お前は、そいつを殺さないでくれ……!! 頼む……!!!」
父の懇願は、もはや叫びに近かった。
それは、勇者としてではなく、ただ一人の父親としての、魂からの叫びだった。
自分の息子に、人殺しになってほしくない。
その、当たり前で、切実な願い。
その願いが、僕の心を支配していた獣の衝動を、少しずつ、しかし確実に、溶かしていく。
僕の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
これまで見えていた、敵の急所、力の流れ、殺意のベクトル。
そんな、戦闘のためだけの色を失った世界が、元の、ただの崩れた部屋へと戻っていく。
聖剣を握っていた僕の手から、力が抜けていく。
カラン、という軽い音を立てて、アスカロンが床に滑り落ちた。
その瞬間、僕の目から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
「う……うわあああああああああああああああああああん!!」
僕は、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
父の腕の中で、これまで張り詰めていたものが、全て切れてしまったかのように。
怖かった。
父さんが死んでしまうのが、本当に怖かった。
レイザーが憎かった。
自分が何をしているのか、わからなかった。
ただ、目の前のものを壊すことしか考えられなかった。
「父さん……ごめん……ごめんなさい……っ!」
僕は、何度も何度も謝った。
何に対して謝っているのかも、もうわからなかった。
ただ、涙と嗚咽が止まらなかった。
僕の顔に、僕の心に、失われていたはずの『光』が、ゆっくりと戻ってくるのがわかった。
それは、父の温もりという名の、光だった。
新たな約束
父は、僕が泣き止むまで、何も言わず、ただ黙って僕を抱きしめ続けてくれた。
その背中を、優しく、何度も何度もさすってくれた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕の涙がようやく枯れかけた頃、父はゆっくりと僕の体から腕を離した。
そして、僕の前に回り込み、膝をついて、僕と視線を合わせてくれた。
「……よく、頑張ったな、ウオ」
父は、そう言って、優しく僕の頭を撫でた。
その手は、血と汗にまみれ、酷く震えていたが、僕が知っている、父さんの、大きくて温かい手だった。
父の顔は、死人のように青ざめていた。
心臓の傷は、彼の自己治癒魔法で塞がってはいたが、失った血と魔力は計り知れない。
今も、時折、口の端から血が滲んでいる。
立っていることすら、奇跡に近い状態だった。
「父さん、もう大丈夫なの……?」
僕は、しゃくりあげながら尋ねた。
「ああ……なんとかな。
お前が、時間を稼いでくれたおかげだ」
父は、そう言って、力なく笑った。
僕たちの背後では、倒れたレイザーが、浅い息を繰り返していた。
彼は、僕たちのやり取りを、ただ静かに見つめているようだった。
その瞳に、もう狂気の色はなかった。
ただ、深い、深い疲労と、何かを諦めたような、空虚な色が浮かんでいるだけだった。
父は、そのレイザーに一瞥をくれると、再び僕に向き直り、そして、ゆっくりと立ち上がった。
その足取りは、ひどくおぼつかなかった。
満身創痍という言葉ですら、生ぬるい。
それでも、父の背筋は、確かに、まっすぐに伸びていた。
彼の瞳に、新たな決意の光が宿るのを、僕は見た。
「ウオ」
父は、僕の名前を呼んだ。その声には、もう迷いはなかった。
「お前の力は、よくわかった。お前は、強い。俺なんかよりも、ずっと、強く、なれるかもしれない」
父は、僕の強さを、真っ直ぐに認めてくれた。それは、僕が心のどこかで、ずっと求めていた言葉だったのかもしれない。
「だが、その力は、ただの暴力であってはならない。憎しみのために、振るうものであってはならない」
父は、僕の目を、じっと見つめて言った。
「お前が守ってくれた、この命。俺だけのものじゃない。お前や、母さんや、村のみんな。そして、この世界の人々のためのものだ。俺は、そのために戦うと誓った。勇者として」
父の言葉が、僕の胸に、じんわりと染み込んでいく。
「そして、その戦いは、まだ終わっていない。こいつら四天王を操り、世界を闇に陥れようとしている、本当の悪がいる」
父は、天を仰ぐように、この塔のさらに上――遥か彼方を見据えた。
「悪の権化、『魔王』だ」
その名を聞いた時、僕の背筋に、ぞくりとした悪寒が走った。おとぎ話の中でしか聞いたことのない、絶対的な悪の象徴。
父は、今から、その魔王と戦いに行くというのか。この、死にかけの体で?
「無理だよ、父さん! 今の父さんの体じゃ……!」
僕が叫ぶと、父は静かに首を振った。
「一人じゃない」
父は、そう言って、僕に手を差し伸べた。
「お前も、一緒に来てくれるか」
その言葉の意味を、僕は一瞬、理解できなかった。
「俺と、お前、二人で。王都に行こう。情報を集め、仲間を探し、体勢を立て直す。そして、今度こそ、魔王の息の根を止める」
それは、僕に対する、命令ではなかった。対等な、仲間としての、誘いの言葉だった。
獣のように暴走し、父に止められた、この僕を。
守られるべき子供ではなく、共に戦う戦士として、認めてくれた。
「行こう。王都に。俺とお前、2人で。悪の権化”魔王”を殺す為に」
僕の目の前に差し出された、父の大きな手。
それは、僕にとって、どんな言葉よりも嬉しい、最高の信頼の証だった。
僕は、溢れそうになる涙を、今度は必死でこらえた。そして、力強く、頷いた。
「……うん!」
僕は、その手を、僕の小さな両手で、固く、固く握り返した。
絶望の頂点だと思っていた、このファイナルタワーの最上階。
そこで、僕と父さんは、初めて、本当の意味で『父と子』から、『戦友』になった。
僕たちの、本当の戦いは、ここから始まる。
僕と父さん、二人の、長くて、そして過酷な旅が。
第一部
第七章 狂った王都
ファイナルタワーの頂で、父と子が新たな約束を交わしてから、五日の月日が流れた。
僕と父、エミール。たった二人の、新しい「勇者パーティー」は、魔王の支配する王都を目指して、ひたすらに歩き続けていた。
あの塔での死闘は、僕たちの全てを変えた。父は心身ともに限界を超えた傷を負い、僕は僕の中に眠る、得体の知れない獣の存在を自覚した。僕たちは、ボロボロで、不完全で、そして途方もない絶望を背負っていた。
だが、不思議と心は折れていなかった。
隣に、父がいたからだ。僕の隣を、同じ歩幅で歩いてくれる父が。
最初の二日間は、過酷という言葉ですら生ぬるかった。父の体は、自己治癒魔法で致命傷こそ塞いだものの、失われた血液と魔力はすぐには戻らない。歩いているだけで眩暈を起こし、何度も膝をついた。そのたびに、僕は父の体を支え、なけなしの食料と水を分け与えた。
夜は、岩陰や廃墟で火を熾し、身を寄せ合って眠った。父は、眠っている間も、悪夢にうなされているのか、苦しそうな呻き声を上げた。レイザーとの戦い、そして裏切りが、彼の心にも深い傷を残しているのは明らかだった。僕は、そんな父の額の汗を拭い、ただそばにいることしかできなかった。
僕は、旅の道中で、父から多くのことを学んだ。
魔物に遭遇すれば、まず僕が先行して奇襲をかけ、動きを止める。そして、父が最小限の動きで、的確にとどめを刺す。僕の野性的な勘と、父の老練な経験が組み合わさることで、僕たちは驚くほど効率的に、そして安全に敵を排除することができた。
「ウオ、今の踏み込みは良かった。だが、殺意が昂ぶりすぎだ。相手の動きを見切る冷静さを失うな」
「父さんこそ、今の斬撃は浅い。もっと深く踏み込まないと、硬い鱗を持つ相手には通用しないよ」
「……むぅ。手厳しいな、相棒」
そんな会話を交わしながら、僕たちは互いの戦い方を補い合い、磨き上げていった。僕は、僕の中にいる獣を、ただ暴走させるのではなく、制御する方法を学び始めた。父もまた、満身創痍の体で戦うための、新たな戦闘スタイルを模索しているようだった。
食料が尽きれば、父が教えてくれた薬草や食べられる木の実を探し、僕が罠を仕掛けて小動物を捕らえた。最初はぎこちなかった僕のナイフ捌きも、五日目にもなると、皮を剥ぎ、肉を切り分けるくらいは、手際よくこなせるようになっていた。
夜、揺らめく焚き火を囲みながら、僕たちはたくさんの話をした。
それは、これまで僕が全く知らなかった、父の物語だった。
「俺が、なぜ勇者になったか、話したことがあったか?」
ある夜、父は静かに切り出した。
「村では、ただの強い剣士ってことになってるけど……本当は、違うんだ」
父の話は、僕の生まれるずっと前、彼がまだ僕と同じくらいの年の頃に遡った。当時、先代の魔王が世界を恐怖に陥れており、それを討伐するために、一人の勇者が立ち上がった。父は、その勇者に憧れ、故郷を飛び出し、弟子入りを志願したのだという。
「まあ、結果から言えば、弟子にはなれなかったんだがな。その方には、もう立派な仲間たちがいた。俺なんかが入る隙はなかったよ」
父は、少し寂しそうに笑った。
「だが、その旅に、俺はこっそりついて行ったんだ。ちょうど、今のお前みたいにな」
その言葉に、僕は少し驚いて、そしてなんだか嬉しくなった。
「その勇者様は、魔王を倒した。世界に平和が戻った。俺は、その方のようになりたいと、ただひたすらに剣を振るった。そんな時だ、聖剣アスカロンが、俺を選んでくれたのは」
父は、傍らに置いた聖剣を、愛おしそうに撫でた。
「この剣は、ただの武器じゃない。歴代の勇者の魂が宿っている。そして、次の勇者を選ぶ、意思のようなものがあるんだ。俺は、この剣に認められた時、心に誓った。この力は、人々を守るために使おう、と」
父の瞳は、焚き火の炎を映して、静かに、そして強く輝いていた。
僕は、母さんのことも尋ねた。不器用で、朴訥な父が、どうやって母さんと結婚したのか、ずっと不思議だったからだ。
「はは……それは、まあ、なんだ。母さんの方から、声をかけてくれたんだよ」
父は、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺が、魔物退治で大怪我をして、村で寝込んでいた時だ。母さんが、毎日看病に来てくれてな。その……シチューが、あまりにも美味しくて……。気づいたら、俺の方から、『毎日、君のシチューが食べたい』なんて、プロポーズみたいなことを言っていた」
その時の光景が目に浮かぶようで、僕は思わず笑ってしまった。父も、つられて笑った。
そんな穏やかな時間の中で、僕は、ずっと胸につかえていたことを、勇気を出して打ち明けた。
「父さん……僕、怖いんだ」
「何がだ?」
「僕の中の……僕じゃないみたいな、何か。レイザーと戦った時、僕は、ただあいつを殺すことしか考えられなかった。楽しくて、気持ちよくて……まるで、獣になったみたいだった。あのまま父さんが止めてくれなかったら、僕は、きっと……」
僕の告白を、父は黙って聞いていた。そして、僕の言葉が途切れると、大きな手で、僕の頭をわしわしと撫でた。
「力そのものに、善悪はないんだ、ウオ」
父は、諭すように言った。
「火が、人の体を温め、料理を作ることもできれば、家や森を焼き尽くすこともできるのと同じだ。お前のその力も、使い方次第で、人を救う盾にもなれば、傷つける剣にもなる。それを決めるのは、お前自身の心だ」
「僕の……心……」
「そうだ。お前は、俺を助けるために、その力を使った。人を殺す寸前で、俺の言葉に、踏みとどまってくれた。お前の心は、獣じゃない。ちゃんと、人の心だ。俺は、それを信じている」
父の言葉は、僕の中に巣食っていた不安を、温かく溶かしてくれた。そうだ。僕は、自分で選べるんだ。この力を、何のために使うのか。
僕と父の関係は、この五日間で、確かに変わった。
以前は、ただ大きくて、遠い存在だった父。今は、隣に立ち、背中を預けられる、最高の『相棒』だった。
魔王領の荒涼とした大地を抜け、徐々に緑豊かな人間の生活圏へと入っていく。道中、魔王軍から逃げてきたのであろう、疲れ果てた避難民の一団とすれ違うこともあった。彼らは、僕たちの姿を見ると、怯えたように道を譲り、決して目を合わせようとはしなかった。世界が、深く傷ついていることを、肌で感じた。
そして旅の五日目の夕暮れ。僕たちの目の前に、ついに巨大な城壁が見えてきた。
王都。この国の中心にして、今や魔王が支配する、最後の決戦の地。
「今日は、あの麓の町で宿を取ろう。決戦の前だ。少しでも体を休めておきたい」
父の提案に、僕は頷いた。久しぶりの、屋根のある場所での休息。温かい食事と、柔らかいベッド。その響きは、疲労困憊の僕たちにとって、何よりも魅力的に聞こえた。
最後の夜、不吉な忠告
王都の城壁の麓にある宿場町は、僕が想像していたよりも、活気があった。いや、活気があるというよりは、どこか病的な熱気に包まれている、と言った方が正しいかもしれない。道行く人々の顔は、誰もが強張り、その目には不安と、そして奇妙な高揚の色が浮かんでいた。
僕と父は、なるべく目立たないように、フードを深く被り、一軒の宿屋の扉を叩いた。
「へい、いらっしゃい!」
恰幅のいい女将さんが、愛想の良い笑顔で僕たちを迎えてくれた。久しぶりに触れる、人の温かさに、僕の心は少しだけ和んだ。
通された部屋は、簡素だったが、清潔で、窓からは王都の城壁が見えた。僕たちは、何日かぶりに、熱い湯を浴びて体の汚れを落とし、階下の食堂で、温かいシチューとパンを食べた。
母さんのシチューには敵わないけど、それでも、五日ぶりのまともな食事は、涙が出るほど美味しかった。
「美味いか、ウオ?」
「うん。すごく」
僕たちは、ほとんど会話もせず、夢中で食事を胃袋にかきこんだ。周囲の席からも、様々な声が聞こえてくる。
「王都は、今や魔王様のおかげで、楽園になったらしいぞ」
「ああ。
税金は安くなり、食い詰めた者には仕事と食事が与えられるそうだ」
「勇者なんて、もう必要ないんじゃないか?」
そんな、信じられないような会話が、あちこちから聞こえてくる。
僕は、耳を疑った。
楽園? 魔王が作った? みんな、何を言っているんだ?
父は、そんな周囲の声には耳を貸さず、ただ黙々とシチューを口に運んでいた。
だが、その眉間には、深い皺が刻まれていた。
部屋に戻ると、父はすぐに地図を広げた。
それは、王都の古い地図で、父が勇者として活動していた頃に使っていたものらしかった。
「魔王がいるのは、おそらく、王城の玉座の間だろう。
問題は、そこまでどうやってたどり着くかだ」
父は、僕にも意見を求めてくれた。
「王城の警備は、以前とは比べ物にならないほど厳重になっているはずだ。
正面から突入するのは、自殺行為に近い」
「それなら、夜に紛れて、城壁を登るのはどうかな? 僕なら、身軽だから、父さんを先導できると思う」
僕は、ファイナルタワーでの経験を元に、意見を言った。
あの時、僕が塔に潜入できたように、王城にも、きっと死角があるはずだ。
「なるほど……。
それも一つの手だな。
あるいは、この古い地下水道を使うか……」
父は、僕の意見を真剣に聞き、地図に記されたいくつかの経路を指でなぞった。
僕たちは、まるで秘密基地で作戦会議をする子供のように、頭を突き合わせて、ああでもない、こうでもないと議論を重ねた。
議論の中心は、常に「王都の生存者をどう救うか」という点にあった。
「俺たちが派手に動けば、魔王は、市民を人質にする可能性がある。
できるだけ、戦闘は避け、市民を巻き込まないように、魔王の元へたどり着くのが最優先だ」
父の考えは、一貫していた。
あくまで、人々を救うこと。
それが、彼の勇者としての根幹だった。
僕は、その考えに、少しだけ疑問を感じていた。
レイザーの一件以来、僕の中には、人間そのものに対する、漠然とした不信感が芽生えていたからだ。
「でも、父さん。
もし、王都の人たちが、自分から魔王に協力していたとしたら? さっき、食堂で話してた人たちみたいに……」
僕の問いに、父は少しだけ黙り込んだ。
そして、僕の目を真っ直ぐに見て、言った。
「それでも、だ。
彼らは、騙されているだけかもしれない。
あるいは、魔王の力で、無理やり従わされているのかもしれない。
どんな理由があれ、俺たちは、彼らを守るために戦うんだ。
そうでなければ、勇者じゃない」
父の瞳には、一切の迷いがなかった。
その、あまりにも真っ直ぐな正義感に、僕は何も言い返せなくなってしまった。
僕たちは、いくつかの潜入プランを立て、明日、王都の様子を実際に見てから、最終的な作戦を決めることにした。
久しぶりの、柔らかいベッド。
隣からは、父の穏やかな寝息が聞こえる。
僕も、すぐに深い眠りに落ちていった。
この夜が、僕たちが享受できる、最後の平穏な夜になることなど、まだ知らずに。
翌朝。
僕たちは、決戦に向けて、心身ともに、最高の状態にあった。
宿の料金を払うために、帳場へ向かうと、昨日の女将さんが、にこやかに僕たちを迎えてくれた。
「おはよう、坊やたち。
よく眠れたかい?」
「はい、おかげさまで」
僕が答えると、女将さんは、僕と父の顔を、じっと見比べた。
そして、声を潜めて、尋ねてきた。
「あんた達……もしかして、勇者パーティーかい?」
その言葉に、僕はドキリとした。
僕たちの正体が、なぜわかったのだろう。
父は、無言で僕の肩を抱いた。
肯定も、否定もしない。
僕は、少しだけ誇らしいような、照れくさいような気持ちになって、正直に答えた。
「ああ、まあ……一応、そうですけど」
その答えを聞いた瞬間、女将さんの顔から、笑顔が消えた。
そして、その目に、深い、深い憂いの色が浮かんだ。
「……そうかい。
やっぱり、そうかい」
女将さんは、周囲を気にするように、さらに声を潜めると、僕たちに、懇願するように言った。
「王都に行くのは、辞めときな」
その言葉は、僕たちの心に、冷たい楔を打ち込んだ。
「あそこは……あそこは、もう、昔の王都じゃないんだよ。
今は、『異常者』の集まりになってる」
「異常者……?」
父が、訝しげに聞き返す。
「ああ……。
魔王が来てから、何もかもがおかしくなっちまった。
最初は、魔王を倒そうと立ち上がった騎士団も、貴族も、みんな殺されたり、どこかへ連れて行かれたり……。
なのに、今じゃ、残った市民が、こぞって魔王様、魔王様って、崇め奉ってるんだ」
女将さんの声は、恐怖に震えていた。
「まるで、集団で狂っちまったみたいに……。
魔王に逆らう者は、魔族じゃなくて、周りの人間たちが、寄ってたかって吊し上げる。
そんな場所になっちまったんだ。
だから、お願いだよ。
あんた達みたいな、まともな人間が行く場所じゃない。
命が、いくつあっても足りやしないよ……」
女将さんの言葉は、あまりにも具体的で、切実に響いた。
僕と父は、顔を見合わせた。
異常者。
その正体は、魔族が市民に化けているのか、あるいは、魔族の魔法で、人々が洗脳されているのか。
どちらにせよ、王都が、僕たちの想像以上に、危険な場所になっていることだけは、間違いなかった。
僕たちは、女将さんに礼を言うと、黙って宿を出た。
女将さんの警告は、僕たちの心に、重い影を落としていた。
しかし、僕たちの決意を揺るがすには至らなかった。
むしろ、その逆だった。
王都の人々が、本当にそんな状況に陥っているのなら、一刻も早く、助け出さなければならない。
魔王を倒し、彼らを呪縛から解放する。
僕たちの使命は、より明確になった。
僕たちは、朝日を浴びて輝く王都の城壁を見据え、最後の決戦の地へと、足を速めた。
王都の巨大な城門の前に立った時、僕は、思わず息を飲んだ。
近くで見上げる城壁は、圧倒的な威圧感があった。
しかし、僕を驚かせたのは、その大きさではなかった。
城門は固く閉ざされているわけではなく、開け放たれ、人々が自由に行き来している。
城壁の上には、槍を持った衛兵が立っているが、その動きには緊張感がなく、どこか気だるげですらあった。
一見すると、それは、信じられないほど平和な光景だった。
「……おかしいな」
父が、低い声で呟いた。
「魔王が支配している都市ならば、もっと厳重な警戒態勢が敷かれているはずだ。
まるで、誰でも歓迎しているかのようだ」
宿の女将の言葉が、僕の脳裏をよぎる。
異常者の集まり。
この平和に見える光景そのものが、異常だというのか。
「着いたな。
ここが、王都か」
僕は、目の前の光景を、まだどこか信じられない気持ちで見つめていた。
すると、父が、僕の肩に、ぽん、と手を置いた。
「感心してる場合じゃないぞ。
行くぞ、俺のたった一人の息子……ウオ」
その言葉に、僕は少しだけむっとして、言い返した。
「そこは、『相棒』だろ? 父さん」
僕の言葉に、父は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、その口元に、優しい笑みを浮かべた。
「……そうだったな。
すまん、相棒」
「……まあ、いいけど。
行こう!! 突入だ!!!」
僕たちは、互いの顔を見て、頷き合った。
そして、覚悟を決め、開かれた城門の中へと、足を踏み入れた。
王都の内部は、外から見た印象と同じく、活気に満ち溢れていた。
大通りには露店が並び、子供たちの笑い声が響き、行き交う人々の顔には、笑顔があった。
しかし、その笑顔は、どこか貼り付けたような、不自然なものに見えた。
目の奥が、笑っていない。
誰もが、同じような、空っぽの笑顔を浮かべている。
そして、僕たちが足を踏み入れた瞬間、その場の空気が、ぴたり、と凍りついた。
全ての視線が、僕と父に、一斉に突き刺さる。
露店の店主も、井戸端会議をしていた主婦たちも、追いかけっこをしていた子供たちでさえも。
全ての動きを止め、その虚ろな目で、僕たちを、じっと見つめていた。
空っぽだった彼らの目に、徐々に、ある感情の色が宿り始めた。
それは、敵意だった。
純粋で、何の混じり気もない、剥き出しの敵意。
「……見ろよ」
「あの格好……まさか……」
「勇者……気取りの、偽物だ」
ひそやかな囁きが、波紋のように広がっていく。
そして、それは、やがて、明確な罵声へと変わった。
「偽物だ!」
「魔王様を、我々の平和を乱しに来た、悪魔め!」
「出ていけ!」
一人の男が、手に持っていた腐った野菜を、僕に向かって投げつけた。
それは、僕の頬を掠め、べちゃり、と汚い音を立てて地面に落ちた。
それを皮切りに、事態は一気にエスカレートした。
「殺せ!」
「魔王様のために、あの二人を殺すんだ!」
群衆が、僕たちに向かって、一斉に殺到してきた。
その目は、憎悪と、そして狂信的な光で、ギラギラと輝いていた。
彼らは、魔族じゃない。
普通の、どこにでもいる、ただの人間だ。
僕たちが、守るべきはずの、市民だった。
「父さん!」
「手出しはするな、ウオ!」
父は、僕を背中にかばいながら、叫んだ。
「彼らは、操られているだけだ! 決して、攻撃してはならない!」
父は、聖剣を抜こうともせず、ただ、迫りくる暴力から、僕を守ることだけに専念した。
石が投げつけられ、父の額を打ち、血が流れる。
棒で殴りつけられ、父の鎧がへこむ。
女たちは、僕の髪を掴み、引き倒そうとする。
僕たちは、ただ、無抵抗に、その暴力の嵐に耐えるしかなかった。
痛い。
苦しい。
でも、それ以上に、僕の心を支配したのは、理解できないという、絶望的な混乱だった。
おかしい。
何かが、根本的に、狂っている。
僕らは、勇者パーティーのはずなのに。
世界を救うために、人々を守るために、ここまで来たはずなのに。
悪いのは、魔王側のはずなのに。
なのに、なぜ。
なぜ、僕たちは、守るべき人々に、こんな仕打ちを受けなければならないんだ。
こんなの……。
まるで、僕らが、悪者みたいじゃないか!!!
僕の心が、悲鳴を上げていた。
信じていた正義が、足元から、ガラガラと崩れ落ちていく。
僕と父は、群衆に押され、引きずられ、やがて、王城へと続く、中央広場へと連れてこられた。
そこには、既に、おびただしい数の人々が集まっており、僕たちの姿を見ると、割れんばかりの罵声と嘲笑を浴びせてきた。
広場の中央には、即席で作られたのであろう、巨大な壇上が設けられていた。
僕たちは、その壇上の下に、罪人のように、無理やり膝をつかされた。
群衆の狂気は、最高潮に達していた。
誰もが、僕たちを指差し、罵り、その死を望んでいるようだった。
その、異常なまでの熱気の中で。
突然、全ての罵声が、ぴたり、と止んだ。
そして、次の瞬間。
それは、地鳴りのような、拍手喝采へと変わった。
群衆が、モーゼの海割りように、左右に分かれる。
その先から、一人の人物が、ゆっくりと、壇上へと歩みを進めてきた。
その人物がまとっているのは、この国の王だけが着ることを許された、豪奢な衣装と、威厳に満ちた王冠だった。
しかし、その顔は、人間のものではなかった。
浅黒い肌。
鋭く尖った耳。
そして、額から生えた、二本のねじれた角。
その顔を、僕は知っていた。
父から、何度も、絵姿で見せられていた。
世界を恐怖に陥れる、全ての悪の根源。
魔王、その人だった。
魔王は、僕たちの前に立つと、僕たちを、値踏みするように、上から下まで、じろりと見下ろした。
そして、僕の隣で、憎悪の目で彼を睨みつけている父に、語りかけた。
その声は、悪の化身というイメージとは程遠い、穏やかで、知的な響きを持っていた。
「久しぶりだな、勇者エミール。
ボロボロの姿だが、息災そうで何よりだ」
「……貴様……っ!」
父が、歯ぎしりしながら、唸る。
魔王は、そんな父を意にも介さず、集まった群衆に向き直り、両手を広げた。
割れんばかりの歓声が、再び広場を支配する。
魔王は、その歓声が収まるのを待って、ゆっくりと、しかし、広場の隅々にまで響き渡る声で、語り始めた。
その言葉は、僕の、そして父の、信じてきた世界の全てを、粉々に打ち砕く、衝撃的なものだった。
「静粛に。
我が愛すべき、王都の民たちよ」
魔王は、穏やかな口調で言った。
「今、我々の前に、古き時代の遺物がいる。
自らを『勇者』と名乗り、我々と諸君らが築き上げようとしている、新しい世界を破壊しに来た、愚か者たちだ」
群衆から、再び、僕たちへの罵声が飛ぶ。
「諸君らの中には、まだ、我々魔王軍に対して、誤解を抱いている者もいるやもしれん。
無理もないことだ。
諸君らは、長きにわたり、腐敗した王族と貴族によって、偽りの情報で洗脳され続けてきたのだからな」
魔王は、悲しそうな表情で、首を振った。
「彼らは言っただろう。
『魔王軍は、残虐非道な侵略者だ』と。
『我々が、人間を、数万人規模で虐殺した』と。
だが、それは、全て、彼らが作り上げた、デマだ」
その言葉に、広場が、ざわめいた。
僕も、父も、息を飲む。
魔王は、そのざわめきを楽しむかのように、続けた。
「我々は、現に、人間を、数千人しか殺していない」
その言葉は、あまりにも、さらりと放たれた。
数千人『しか』?
僕の頭は、混乱した。
それは、決して少ない数ではない。
だが、僕たちが聞かされていた数とは、確かに、桁が違う。
「そして、その数千人とは、誰か? 我々の掲げる、種族間の平等を拒み、既得権益にしがみつき、民から搾取を続けていた、旧王国の王族、貴族、そして、その手先となって、悪事に加担していた者たちだけだ。
我々は、無辜の民を、一人たりとも、その手にかけてはいない」
魔王の言葉に、群衆は、熱狂的に、頷いていた。
「それどころか、我々は、この国を、より良くするために来たのだ。
重税に喘いでいた諸君らの税を軽くし、飢えていた者には食料と仕事を与え、不当に差別されていた者たちを解放した。
そうだろ?」
「「「そうだー!!」」」
群衆の、熱狂的な声が、地響きとなって返ってくる。
「我々は、侵略者ではない。
革命家だ。
そして、そんな我々の理想に共感し、この国の未来を託してくれたのは、他の誰でもない。
そこにいる、諸君ら自身なのだ」
魔王は、高らかに宣言した。
「我々は、諸君ら人間たちとの間に、新しい世界の秩序を築こうとしている。
その理想の世界の実現のために、諸君らが、私を、この国の新しい『国王』として、持ち上げてくれたのではないか! 全く、困ったものだ。
私には、王の器など、ないというのに」
魔王は、そう言って、芝居がかったように、肩をすくめてみせた。
広場は、爆笑と、そして、魔王を称える、万雷の拍手で、包まれた。
僕は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。
嘘だ。
何もかも、嘘だ。
こいつが言っていることは、全部、デマだ。
そう、頭ではわかっているのに。
目の前の光景が、ここにいる全ての人々が、魔王の言葉こそが『真実』なのだと、僕に突きつけてくる。
彼らは、洗脳など、されていなかった。
自らの、自由な意思で、魔王を、国王として選び、支持していたのだ。
僕が、父が、命を懸けて守ろうとしていた人々が、僕たちを『悪』だと断じ、魔王を『正義』だと、信じきっていた。
隣にいる父の顔を、恐る恐る盗み見る。
父の顔から、表情が消えていた。血の気も、怒りも、悲しみも、全てが抜け落ち、ただ、真っ白な抜け殻のように、呆然と、魔王と、熱狂する群衆を見つめていた。
彼の信じてきた、勇者としての、数十年の人生の全てが、今、この瞬間、根底から、否定されたのだ。
壇上の上で、魔王が、僕と父を見下ろし、嘲るかのように、その唇の端を、歪めて、微笑んだ。
僕たちの、本当の絶望は、ここから始まるのだと、その笑みが、告げていた。
第一部 第八章 観測者
私の人生は、一つの、揺るぎない信念によって支えられてきた。
『勇者として、人々を守り、悪を討つ』
それは、若き日に聖剣アスカロンに選ばれて以来、片時も忘れることのなかった、私の存在理由そのものだった。幾多の魔物を屠り、幾多の困難を乗り越え、そして四人の四天王を打ち破ってきた。その道のりは、決して平坦ではなかったが、私の心に迷いはなかった。私が戦うことで、救われる人々がいる。平和な世界が、未来の子供たちのために築かれる。そう、信じて疑わなかった。
だが、今、私の目の前に広がる光景は、その数十年にわたる私の人生の全てを、根こそぎ否定するものだった。
王都の中央広場。私と息子ウオを取り囲むのは、憎悪と狂信に満ちた、おびただしい数の人間の顔、顔、顔。彼らは、私たちが守るべきはずの民。しかし、その瞳は、私たちを『悪』だと断じ、壇上に立つ魔王を『救世主』だと崇め奉っていた。
魔王の演説は、悪魔の甘言そのものだった。虐殺を「数千人しか殺していない」と言い放ち、それを「腐敗した権力者の一掃」だと正当化する。侵略を「革命」と呼び、民衆からの支持を盾に、自らを「国王」と称する。
何という、倒錯。何という、欺瞞。
だが、最も恐ろしいのは、この広場を埋め尽くす民衆が、その欺瞞を、心からの歓喜をもって受け入れているという事実だった。彼らは騙されているのではない。洗脳されているのでもない。自らの意思で、魔王を選んだのだ。
私の足元が、崩れていくのを感じた。
私がこれまで斬り伏せてきた魔物たちは、一体何だったのだ。私が流してきた血と汗は、一体何のためだったのだ。この、目の前の光景こそが、人々の望んだ『答え』だというのなら、私の勇者としての人生は、滑稽で、無意味な、ただの独り善がりだったということではないか。
聖剣を握る手に、力が入らない。膝が、笑っている。
壇上の魔王が、私とウオを見下ろし、嘲るかのように、その唇を歪めた。そして、まるで舞台役者のような、芝居がかった仕草で両手を広げ、言った。
「さて、古き時代の遺物たちよ。言い残すことはあるかな? 諸君らの処刑を以て、我が治世の輝かしき第一歩としようではないか」
その言葉に、民衆は「殺せ!」「殺せ!」と熱狂の渦に包まれた。
私は、動けなかった。
絶望が、鉛となって私の四肢に絡みつき、思考を停止させる。戦う意味を見失った剣士ほど、無力なものはない。
だが、私の隣で、同じように膝をつかされていた息子は、違った。
ウオは、静かだった。
民衆の罵声にも、魔王の挑発にも、一切動じることなく、ただ、真っ直ぐに魔王を見据えていた。その横顔には、恐怖も、絶望も、怒りすらも浮かんでいない。まるで、目の前で起きている全てを、他人事のように観察しているかのような、不気味なほどの静寂が、彼を支配していた。
魔王は、そんなウオに興味を惹かれたようだった。
「ほう。そちらの小僧は、なかなか肝が据わっていると見える。勇者エミールの息子か。その若さで、父親と共に死に場所を見つけに来るとは、健気なことだ」
そして、魔王は、さらに私たちを嬲るかのように、言った。
「良いだろう。最後の慈悲だ。二人同時に、私にかかってくるがいい。一矢報いるチャンスくらいは、与えてやろう」
その言葉が放たれた瞬間、魔王の体から、これまでとは比較にならないほどの、濃密な魔力が溢れ出した。
それは、圧力だった。
ファイナルタワーで対峙した四天王たちの魔力など、児戯に等しい。この魔王の魔力は、質が、次元が、根本的に違っていた。それは、まるで宇宙そのものだった。どこまで行っても底が見えず、全ての光を飲み込み、触れただけで存在が消し飛んでしまいそうな、絶対的な虚無。
私の、歴戦の勇者としての経験と本能が、警鐘を乱れ打つ。
勝てない。
これは、戦いにすらならない。
生物としての、根源的な恐怖が、私の背筋を駆け上り、私は思わず、尻餅をつくように、後ずさった。
情けない。だが、これが現実だった。勇者エミールは、この魔王を前にして、戦う前から、完全に心を折られていたのだ。
しかし、ウオは違った。
彼は、その絶対的な魔力の奔流を、まるで涼風でも受けるかのように、平然と受け止めていた。
そして、彼はゆっくりと立ち上がった。
「ウオ……?」
私が、か細い声を漏らす。
ウオは、私の方を一度も振り返らなかった。ただ、魔王だけを、その感情の読めない瞳で見据え、静かに、一歩、前に踏み出した。
その瞬間、世界から音が消えた。
ウオの体が、陽炎のように揺らめいたかと思うと、次の瞬間には、壇上の魔王の目前に、肉薄していたのだ。
速い、とか、そういう次元の話ではなかった。
まるで、空間を跳躍したかのようだった。
私が止める間も、魔王が驚く間も、民衆が瞬きをする間すら、なかった。
そして、ウオの手には、いつの間にか、私が落としていたはずの聖剣アスカロンが握られていた。
神々の戯れ
キィィィィィィン!!!!
鼓膜を突き破るかのような、甲高い金属音。
ウオが振り抜いた聖剣を、魔王が、いつの間にか抜き放っていた漆黒の剣で、受け止めていた。
二つの剣が激突した中心点から、凄まじい衝撃波が円状に広がり、広場の石畳を粉々に砕き、周囲の建物の窓ガラスを、一斉に吹き飛ばした。
民衆から、悲鳴が上がる。
壇上にいたはずの二人の姿は、もうそこにはなかった。彼らは、広場の上空、数十メートルの高さで、再び剣を交えていた。
「ほう……面白い!」
魔王の、楽しげな声が、空から響き渡る。
「私の動きに、追いついてくるとはな、小僧! 名は何という!」
「……」
ウオは、答えない。ただ、無言で、嵐のような連撃を魔王に叩き込んでいく。
一振り、また一振り。その全てが、音速を超えている。私の目には、もはや剣の軌道は見えない。ただ、空間に、銀色の閃光が、無数に走り抜けていくようにしか見えなかった。
そして、魔王は、その神速の連撃の全てを、笑みを浮かべながら、完璧に捌ききっていた。彼の黒い剣は、まるで生き物のように、最短距離でウオの剣を受け流し、時には、カウンターを狙って鋭い突きを繰り出す。
空中で繰り広げられる、異次元の攻防。
それは、もはや、戦いというよりも、神々の戯れのようだった。
私は、その光景を、ただ、呆然と見上げることしかできなかった。
観測者。
今の私は、ただそれだけの存在だった。
あの戦いに、私が割って入る隙など、微塵もない。不用意に近づけば、二人の剣が巻き起こす真空の刃に、一瞬で斬り刻まれて終わるだろう。
私の知っている剣技は、そこにはなかった。私が積み上げてきた経験も、信念も、あの領域の前では、何の意味も持たない。
彼らは、私とは、違う生き物だった。
魔王が、人間を超越した存在であることは、理解できる。だが、ウオは?
私の息子、ウオは、一体、何なのだ?
ファイナルタワーでの、レイザーとの戦い。あれが、彼の初陣だったはずだ。あの時のウオの戦い方は、確かに常軌を逸してはいたが、まだ荒削りだった。獣のような、本能と衝動に任せた、危うい暴力。
だが、今のウオは、違う。
その剣捌きは、獣の獰猛さに加え、老獪な剣聖のような、完璧なまでの『技術』と『読み』が備わっていた。魔王が次にどこを狙うのか、どう動くのか。その全てを、完璧に予測し、そのさらに先を行く一手を、繰り出している。
まるで、何百年、いや、何千年も、剣だけを振るい続けてきた、求道者のような動き。
ありえない。
この、わずか数日の間に、一体何があったというのだ。
いや……違う。これは、成長などという、生易しいものではない。
何かが、おかしい。
まるで……そう、まるで、忘れていた何かを『思い出し』てでもいるかのように。
本来のウオの強さを、取り戻しつつある……のか?
その考えが、私の脳裏をよぎった瞬間、背筋に、ぞくりとした悪寒が走った。
私の息子は、本当に、私の息子なのだろうか。
私が育ててきた、あの、少し気弱で、優しい少年は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
いや……!!
何を考えているんだ、俺は!
私は、力なく垂れていた両手に、無理やり力を込めた。爪が食い込むほど、強く、強く、拳を握りしめる。
そんなこと、どうだっていい!
あいつが、何者であろうと、関係ない!
あいつは、私の息子だ!
そして、ファイナルタワーで、命を懸けて、共に戦うと誓った、たった一人の『相棒』だ!
その相棒が今、たった一人で、あの化け物と戦っている。
私が、父親が、ここで呆然と見ているだけで、どうする!
たとえ、足手まといになろうとも。
たとえ、この命を失うことになろうとも。
助けに行かないと!!!
息子を!! 相棒を!!!
「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
私は、腹の底から、雄叫びを上げた。
失いかけていた闘志が、心の奥底から、再び燃え上がる。私の体から、金色の闘気が、炎のように噴き上がった。
私は、地面を蹴った。
砕け散った石畳を踏みしめ、空中の二人へと、一直線に駆け出す。
今、行くぞ、ウオ!
一人で、背負い込むな!
しかし。
私が、壇上へと駆け上がろうとした、まさに、その瞬間だった。
空中で響き渡っていた、けたたましい剣戟の音が、ぴたり、と止んだ。
時間が、止まったかのような、静寂。
私は、思わず足を止め、空を見上げた。
そして、私の目に映ったのは、信じられない、光景だった。
ウオが、魔王の背後に、回り込んでいた。
そして、ウオが握る聖剣アスカロンの切っ先が、魔王の背中から、その心臓を、深々と、貫いていた。
魔王の動きが、完全に、止まっている。
その顔には、何が起きたのか、全く理解できないといった、純粋な驚愕の色が浮かんでいた。
そして、ウオは、そんな魔王の耳元で、まるで、作業が終わったことを報告するかのように、淡々と、静かに、告げた。
「はい。終わり」
ウオの、あまりにも淡々とした、残酷なまでの宣告が、静まり返った広場に響き渡った。
次の瞬間、魔王の体から、黒い魔剣が、カラン、と力なく滑り落ちる。
そして、その巨体は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと、空中から、地上へと、落下していった。
ドッシャアアアン!!!
凄まじい音を立てて、魔王の体は、広場の中央に叩きつけられた。衝撃で、石畳が、さらに大きく砕け散る。
静寂。
誰もが、目の前で起きたことを、理解できずにいた。
この広場を埋め尽くしていた、数千の民衆も。
そして、私、エミールも。
魔王が、負けた。
あの、絶対的な存在としか思えなかった、魔王が。
私の息子、ウオに。
たった、一人に。
しかも、ほとんど、一瞬で。
圧勝、という言葉ですら、生ぬるい。それは、もはや、戦いですらなかった。大人が、子供の腕を捻るかのような、一方的な、蹂躙。
やがて、その信じがたい現実を、民衆の脳が理解し始めた。
そして、広場は、新たな、別の種類の喧騒に、包まれ始めた。
「ま……魔王様が……」
「嘘だろ……」
「あ、あの子供は……一体……」
それは、先ほどまでの熱狂とは、全く質の違う、恐怖と、混乱からくる、ざわめきだった。
彼らが信じていた、絶対的な救世主が、目の前で、得体の知れない子供に、赤子のように捻り潰されたのだ。彼らの価値観が、再び、音を立てて崩壊していく。
「に、逃げろ!」
「あいつは、悪魔だ!」
「本当の魔王は、あの子の方だ!」
誰かが叫んだのをきっかけに、民衆は、パニックに陥った。我先にと、広場から逃げ出そうとし、将棋倒しが起き、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
私は、その混乱の中心で、ただ、立ち尽くしていた。
ゆっくりと、空から降りてきたウオが、私の隣に着地する。
その体には、傷一つついていなかった。呼吸の乱れすら、ない。まるで、散歩でもしてきたかのような、涼しい顔だった。
彼は、血に濡れた聖剣アスカロンを、無造作に肩に担ぐと、倒れて微かに痙攣している魔王を一瞥し、そして、私に向き直った。
その顔には、先ほどまでの、無機質な表情はなかった。
代わりに浮かんでいたのは、純粋な、子供のような、無邪気な笑顔だった。
そして、彼は、まるで、母親に、今日の出来事を報告する子供のような口調で、私に、尋ねた。
「エミール」
その呼び方に、私の胸が、ちくり、と痛んだ。いつから、彼は、私のことを『父さん』と呼ばなくなったのだろうか。
「こいつ、殺していい?」
ウオは、親指で、倒れている魔王を指し示した。
「こいつは、魔族だから、良いよね? レイザーの時みたいに、元は人間、とかじゃないもんね?」
その言葉に、私は、ハッと我に返った。
そうだ。
ウオの精神は、まだ、ひどく危ういバランスの上で、成り立っている。
彼の強さは、あまりにも純粋で、そして、あまりにも、無垢なのだ。善と悪の区別も、命の重みも、彼の中では、まだ、明確な形を結んでいない。ただ、目の前の事象を、『敵』か、そうでないか、で判断しているに過ぎない。
このまま、彼に、殺戮を続けさせてはならない。
それは、勇者としてではなく、彼の父親としての、私の、最後の責務だった。
私は、ウオの前に、一歩、踏み出した。そして、彼の肩に、優しく、しかし、力強く、手を置いた。
「待て」
私の、静かな、しかし、有無を言わさぬ声に、ウオは、きょとんとした顔で、私を見上げた。
「どうして? 早く殺さないと、また何か、厄介なことになるかもしれないよ? レイザーみたいに、翼が生えたりとか」
「その前に、こいつに、聞いておかなければならないことがある」
私は、ウオの隣を通り過ぎ、倒れている魔王の前に、膝をついた。
魔王は、まだ、生きていた。心臓を貫かれているが、その強靭な生命力で、かろうじて、意識を保っている。その瞳には、もはや、先ほどの傲慢さはない。ただ、敗北という、初めて味わうであろう感情に、戸惑っているかのようだった。
私は、彼の、血走った目を見据え、言った。
「お前を、殺す前に、いくつか、質問に答えてもらう」
魔王は、何も答えない。ただ、荒い息を繰り返すだけだ。
「なぜ、お前は、民達に愛されている? お前が、彼らに、何をした?」
私の問いに、魔王は、答えなかった。
「どうして、我々との間に、これほどの認識の齟齬が生まれている? 我々が信じてきた正義と、この王都で起きていた現実。何が、真実なんだ?」
私は、畳み掛けるように、問うた。
これが、今、私が、最も知りたいことだった。力では、もはや、息子に遥か及ばない。だが、この真実を追求することこそが、今の私にできる、唯一の、そして最大の戦いだった。
私は、魔王の胸倉を掴み、その顔を、自分の目の前まで、引き寄せた。
そして、できるだけ、冷徹な声で、最後の言葉を、告げた。
「質問次第では、生かしてやる。言え」
私の言葉に、魔王の瞳が、僅かに、揺らめいた。
絶望的な状況の中で、初めて見えた、生存への、僅かな光。
彼は、血の泡を吹きながらも、かすれた声で、何かを、答えようとしていた。
この狂った王都の、全ての謎が、今、解き明かされようとしていた。
第一部第九章 反転する世界
私の問いかけは、静まり返った広場に、重く響き渡った。
『質問次第では、生かしてやる。言え』
それは、命乞いの機会を与えてやるという、勝者の傲慢からくる言葉ではなかった。私自身の、崩壊しかけた精神を、勇者としての矜持を、かろうじて繋ぎとめるための、最後の問いだった。この狂った世界の真実を知ることなくして、私は、もはや一歩も前に進むことなどできそうになかったからだ。
私の胸倉を掴まれたまま、倒れ伏していた魔王の瞳が、僅かに揺れた。その巨躯を貫く聖剣の傷口からは、絶えず黒い血が溢れ出し、彼の命の灯火が、今まさに消えようとしていることは明らかだった。
しかし、彼は死の恐怖に怯える代わりに、私の目を、じっと見つめ返してきた。その瞳に宿っていたのは、驚くべきことに、安堵の色だった。まるで、私のこの問いを、待ち望んでいたとでも言うかのように。
血の泡を吹きながらも、魔王は、かすれた、しかし確かな意志のこもった声で、語り始めた。
その第一声は、私の理解の範疇を、あまりにも、そして唐突に、超えていた。
「私は、ただ……罪滅ぼしが、したかったのだ……」
罪滅ぼし?
その言葉の意味を、私の脳は、処理することを拒絶した。
こいつが? 魔王が? 全ての悪の化身であるはずのこいつが、一体、何を、誰に対して、『罪滅ぼし』をするというのだ。民を虐げ、世界を恐怖に陥れることこそが、魔王の存在理由ではなかったのか。
「……何を、言っている……?」
私は、思わず、問い返していた。
魔王は、苦しげに顔を歪めながら、続けた。
「確かに……私は、『今回』も、反乱分子を数千人も殺してしまった……。許されることではない……。だが、あれは……私の本意では……」
『今回も』。
その、何気ない一言が、私の心に、鉛の杭のように打ち込まれた。まるで、過去にも、同じようなことを繰り返してきたとでも言いたげな口ぶり。そして、数千人もの命を奪っておきながら、それを『本意ではなかった』と、彼は言うのだ。
「ふざけるな……!!」
私は、激昂し、彼の胸倉を、さらに強く掴み上げた。
「貴様の意思でなければ、一体、誰の意思だというのだ! 言い訳は聞き飽きたぞ、魔王!」
「言い訳ではない……!」
魔王は、叫んだ。その声は、もはや絶命寸前とは思えぬほどの、悲痛な響きを帯びていた。
「『あの反転魔法』が、完全でない以上……私には、抗うことができなかった……。この身に宿る、破壊の本能に……逆らえなかったのだ……!」
反転魔法。
まただ。ファイナルタワーで倒したレイザーも、それに類する言葉を口にしていた。いや、彼が口にしたのは『どす黒い救世主』だったか。だが、今、魔王の口から、はっきりとその名が告げられた。
反転魔法。
その言葉の響きは、不吉で、禍々しく、そして、この王都に渦巻く、全ての狂気の根源であるかのように、私には思えた。
「だが……!! せめて、この王都の、私の声に耳を傾けてくれた人々だけは……幸せにしようとした!! 貧しい者には富を分け与え、不当に虐げられていた者たちを解放し、誰もが笑って暮らせる国を、作ろうとした! 幸せに、したかった……!!」
彼の独白は、もはや、私に向けられたものではなかった。天を仰ぎ、己の無力さを嘆く、一人の男の、懺悔のようだった。
私は、混乱していた。
目の前の男が、わからない。彼が語る言葉の、一つ一つが、私の知る『魔王』のイメージから、かけ離れていく。彼は、悪の化身などではない。むしろ、歪んだ、あまりにも歪んだ理想を追い求めた、一人の革命家のようだった。
だが、彼は、次の瞬間、その懺悔を中断し、再び、私へと、その血走った視線を向けた。
そして、その瞳に、今度は、明確な『懇願』の色を宿して、言った。
「勇者よ!! どうか、頼む!!」
彼は、私の腕を、その巨大な手で、掴み返してきた。その力は、死にかけとは思えぬほど、強かった。
「この、呪われた地から、今すぐ、逃げ出してくれ!!」
「……何を、言っている?」
「頼む! 息子と共に、どこか遠くへ!! この魔法の影響が、及ばない場所へ!!」
魔王の懇願は、常軌を逸していた。勝利した私に、敵であるはずの彼が、逃げろ、と訴えている。
「お前が……お前が、この地を、破壊し尽くす前に!!」
その言葉は、私の混乱を、頂点へと押し上げた。
私が、この地を、破壊する?
勇者である私が?
何を、言っているんだ、こいつは。
「どういうことだ……? 全く、意味がわからん……! 説明しろ!」
私は、魔王の肩を掴み、激しく揺さぶった。彼の言葉は、支離滅裂にしか聞こえない。しかし、その瞳は、狂人のそれではない。真剣に、心の底から、私の身を案じている。それが、かえって、私の恐怖を煽った。
魔王は、激しく咳き込み、さらに大量の血を吐き出した。もう、彼に残された時間は、いくらもないだろう。彼は、最後の力を振り絞り、この世界の、そして、私の未来に関わる、絶望的な真実を、語り始めた。
「……反転魔法は……まだ、完成していない……。だが、完成の時は、近い……」
「その魔法が、一体、何だというのだ!」
「あれは……世界の理を、覆す魔法……。光と闇、聖と魔、善と悪……存在する、全ての対極にある概念を、強制的に、入れ替える、大魔法だ……」
世界の、理を、覆す。
その、あまりにも壮大で、馬鹿げた言葉に、私は、一瞬、思考が追いつかなかった。
「そんな、馬鹿なことが……」
「現に、起きているだろう……」
魔王は、私の背後、逃げ惑いながらも、遠巻きに私たちを見つめている民衆へと、視線を向けた。
「彼らが、私を『救世主』と崇め、君を『悪』だと断じる……。それこそが、反転魔法の、不完全ながらも、強力な効果の表れだ……。この地の人間は、既に、善悪の価値観が、反転しかけているのだ……」
その言葉は、雷となって、私の脳天を撃ち抜いた。
宿の女将が言っていた、『異常者』の集まり。民衆の、あの狂信的な瞳。全ての辻褄が、今、合わさっていく。
彼らは、狂っていたのではない。彼らにとっての『正義』が、私たちとは、全く別のものに、すり替わってしまっていたのだ。
「そして……」
魔王は、再び、私へと視線を戻した。その瞳には、深い、深い憐れみの色が浮かんでいた。
「この地に張られた反転魔法が完全になり……勇者であるお前にも、その魔法が及ぶようになると……」
彼の言葉は、そこで、一度、途切れた。まるで、その先の未来を、口にすることを、躊躇うかのように。
「……なると、どうなる?」
私は、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
魔王は、意を決したように、言った。
「お前は……勇者では、いられなくなるのだ……!!!」
その言葉は、宣告だった。私の存在そのものを、否定する、死刑宣告。
「勇者の持つ、聖なる光の力は、邪悪な闇の魔力へと……。人々を守ろうとする正義の心は、全てを破壊し尽くさんとする、邪悪な衝動へと……。その全てが、反転する……!」
私は、息をすることが、できなかった。
目の前が、真っ暗になっていく。
「理性を、失う!!」
魔王の叫びが、私の耳の中で、木霊する。
「かつての、私のようになってしまう!! だから……!!!」
かつての、彼のように?
その言葉は、あまりにも衝撃的な、一つの可能性を示唆していた。
目の前で死にかけている、この魔王も。
かつては、私と同じ……。
いや、それ以上、考えるな。私の脳が、そのおぞましい結論に、蓋をしようとする。
「逃げろ、勇者……。君が、君で、いられるうちに……。息子を連れて……。私のような、化け物を、これ以上、増やしては……」
魔王の懇願は、もはや、懇願ではなかった。それは、同じ道を歩んだ、あるいは、歩まされるであろう、後続の者に対する、先輩からの、血を吐くような、最後の忠告だった。
私が、理性を失い、破壊の化身となる。
ウオや、妻や、村の皆を、この手で……。
その、おぞましい光景を想像し、私の全身から、血の気が引いていくのがわかった。ウオを守る。そう誓ったばかりなのに。その私が、ウオにとって、最大の脅威になるというのか。
私は、無意識のうちに、隣に立つ、ウオの顔を見上げていた。
ウオは、この、絶望的な会話を、黙って聞いていた。その表情は、相変わらず、何も読み取ることができない。彼は、この、世界の根幹を揺るがすような真実を、理解しているのだろうか。それとも、ただ、無関心なだけなのだろうか。
その、凪いだ水面のような瞳が、今は、ひどく、恐ろしいもののように、私には思えた。
炎の幕引き、最悪の再会
魔王は、最後の力を振り絞り、何かを、さらに私に伝えようとしていた。
「魔法を、完成させようとしている、黒幕が……いる……。そいつは……」
しかし、彼が、その黒幕の名を口にするよりも、早く。
一つの、冷徹な声が、私たちの間に、割り込んできた。
「喋りすぎです。魔王殿」
その声は、女の声だった。
凛として、美しく、しかし、絶対零度の氷のように、冷たい響きを持っていた。
ハッとして、私は周囲を見回す。だが、声の主の姿は見えない。民衆は、遠巻きに私たちを見ているだけだ。一体、どこから……?
その答えは、私の想像を、遥かに超えた場所から、示された。
魔王の、すぐ、背後。
そこに、いつの間にか、一人の女が、音もなく、立っていたのだ。
黒い、フード付きのローブを、深く被っている。その姿は、まるで、影そのものが、人の形をとったかのようだった。
「……貴様……は……」
魔王が、信じられないものを見るかのように、目を見開き、呻いた。彼も、女の接近に、全く気づいていなかったのだ。
女は、魔王の言葉を、鼻で笑うかのように、あしらった。
「ええ。ご苦労様でした。貴方には、勇者をここまで誘い込み、反転魔法の贄とするための、素晴らしい『駒』として、働いていただきました。ですが、もう、役目は終わりです。余計なことまで話してくれましたしね」
駒。
その一言で、私は、全てを理解した。
魔王ですら、ただの、捨て駒に過ぎなかったのだ。この狂った世界の本当の支配者は、この女。魔王が、最後にその名を告げようとしていた黒幕。
「さようなら。出来損ないの、先代様」
女が、優雅な仕草で、指を、パチン、と鳴らした。
次の瞬間。
ゴウッ!!!!
魔王の巨体が、何の前触れもなく、紅蓮の炎に、包まれた。
「ぐ……ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」
魔王の、断末魔の絶叫が、広場に響き渡った。
それは、どんな高熱の炎なのか。彼の、魔族としての強靭な肉体も、強大な魔力も、何の意味もなさず、ただ燃え盛る人の形をした、松明と化していた。
肉の焼ける、おぞましい匂い。
黒い煙が、天へと昇っていく。
遠巻きに見ていた民衆から、悲鳴が上がる。彼らが『国王』と信じた存在が、目の前で、あまりにも無惨に、焼き尽くされていく。その光景は、彼らの、最後の正気すらも、焼き切ってしまったようだった。彼らは、蜘蛛の子を散らすように、泣き叫びながら、逃げ惑い始めた。
私は、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。
炎は、数十秒も経たないうちに、勢いを失い、やがて、消え失せた。
後に残されたのは、人の形をした黒い炭と、僅かに残った魔王の角の残骸だけだった。
魔王の「罪滅ぼし」も、私への「警告」も。その全てが、今、完全な形で、無に帰した。
静寂が、戻る。
逃げ惑う人々の、遠ざかっていく悲鳴だけが、BGMのように、響いていた。
黒いローブの女は、魔王がいた場所を一瞥すると、興味を失ったかのように、ゆっくりと、私たちの方へと、向き直った。
一歩、また一歩と、近づいてくる。
その足音は、聞こえない。まるで、地面の上を、滑るように、移動してくる。
私は、咄嗟に、ウオの前に立ち、彼を背中にかばった。聖剣は、ウオが持ったままだ。私は、素手だった。だが、それでも、この得体の知れない存在から、息子を守らなければならない。
女は、私たちの数メートル手前で、足を止めた。
そして、ゆっくりと、その顔を覆っていたフードを、自らの手で下ろした。
その瞬間、私の時間は、完全に停止した。
風が、彼女の髪を、優しくなびかせる。
夕陽に照らされた、その横顔。
白い肌。
通った鼻筋。
長い睫毛に縁取られた、大きな瞳。
そして、慈愛に満ちた、優しい微笑み。
その顔を、私は、知っていた。
知っているどころではない。
この世の、誰よりも、何よりも、愛した顔。
忘れるはずがない。
毎朝、「おはよう」と、私に微笑みかけてくれる顔。
私が作った不格好な木彫りの人形を、「宝物よ」と言って、喜んでくれた顔。
ウオを拾った時、幸せそうに、涙を流していた顔。
「……あ……」
私の喉から、声にならない、空気が漏れた。
思考が、停止する。
心臓が、止まったかと思った。
目の前にいるのは。
魔王を、指先一つで、塵へと変えた、この、残虐非道な女は。
「どう……して……」
なぜ、お前が、ここにいるんだ。
「……リリア……」
私の、最愛の、妻だった。
リリアは、私の絶望に満ちた表情を、楽しむかのように、見つめていた。
そして、その私が愛したはずの唇から、私が、一度も聞いたことのない、氷のように冷たい声で、言った。
「久しぶりだね。ウオ」
彼女の視線は、私を通り越し、私の背後にいる、息子へと、注がれていた。
「……そして、私の夫、『エミール』」
その声は、かつて、私の全てを癒してくれた、優しい声色ではなかった。
まるで、路傍の石でも見るかのような、何の感情もこもっていない、冷徹な響き。
愛する妻が、敵として、目の前に、立っている。
しかも、魔王すら、容易く葬り去るほどの、圧倒的な力を持って。
第一部第十章 違う
僕の時間は、完全に停止していた。
目の前に立つ、女。
魔王を、指先一つの戯れで、塵芥へと変えた、絶対的な強者。
その顔は、僕の、母だった。
僕が、この世で最も愛し、そして、僕を最も愛してくれていると信じていた、たった一人の母親、リリア。
彼女は今、僕の知る、どんな表情とも違う、見たこともないような、冷たい、氷のような微笑みを浮かべていた。
「久しぶりだね。ウオ……そして、私の夫、『エミール』」
その声は、かつて、子守唄を歌ってくれた優しい声ではなかった。熱を出した僕の額を撫でてくれた、温かい響きでもなかった。
まるで、遠い星の出来事でも語るかのような、何の感情も、温度も感じられない、無機質な音の羅列だった。
僕の背後で、父が、か細く、震える声で、その名を呼んだ。
「……リリア……なぜ……どうして、お前が、ここに……」
それは、勇者の声ではなかった。ただ、愛する妻の、信じがたい裏切りに、打ちのめされた、一人の男の、悲痛な呻きだった。
父は、震える足で、一歩、前に踏み出そうとした。満身創痍の体を引きずり、それでも、夫として、目の前の妻に、問いただそうとしたのだ。その、あまりにも痛々しい姿に、僕は、思わず父の服の裾を掴んでいた。
だが、父のその、英雄としての、そして、夫としての、最後の気概は、母――リリアの、あまりにも無慈悲な一言によって、粉々に打ち砕かれた。
「遅い」
その言葉が、僕の耳に届いた時には、もう全てが終わっていた。
母の姿が、陽炎のように揺らめいた。そう、認識した瞬間には、彼女は、既に父の懐、ゼロ距離に、踏み込んでいたのだ。
速い。
あの魔王との戦いですら、霞んで見えるほどの、神速。
父の目が、驚愕に見開かれる。彼もまた、母の動きを、全く捉えられていなかった。
そして、母の、白魚のように美しい手が、まるで、愛しい者の頬を撫でるかのような、優しい軌道で、振り上げられた。
トン。
という、あまりにも軽い音。
母の手刀が、父の首筋に、そっと触れただけ。
まるで、戯れに、小突いたかのように。
それだけだった。
しかし、次の瞬間、父の巨体から、全ての力が、抜け落ちた。
その瞳から光が消え、膝が、がくり、と折れる。そして、まるで、糸の切れた操り人形のように、その場に、崩れ落ちた。
気絶したのだ。
勇者エミールが。
この世界の、希望の光が。
僕の、たった一人の、父親が。
あまりにも、あっけなく。
子供の遊びのように、無力化された。
僕は、その光景を、声も出せずに、ただ、見つめていた。
父の体が、石畳の上に、ぴくりとも動かずに横たわっている。
「さて」
母は、まるで、床の埃でも払ったかのような、気軽な仕草で、自分の手を、パン、と叩いた。
そして、その氷のような視線を、広場の隅で、この異常な事態を、恐怖に顔を引き攣らせながら見つめていた、逃げ遅れた民衆へと向けた。
「少し、舞台が、騒がしいわね」
彼女がそう呟いたかと思うと、その姿が、再び、掻き消えた。
いや、消えたのではない。
僕の、父の戦いを見続けて進化したはずの動体視力ですら、もはや残像すら捉えることができない速度で、彼女は、広場を、駆け巡っていたのだ。
トン。トン。トン。トン。トン。
軽い音が、広場のあちこちで、連続して響き渡る。
その音が、一つ、響くたびに、一人の人間が、悲鳴を上げる間もなく、その場に、崩れ落ちていく。
数秒。
本当に、瞬きをするほどの、わずかな時間だった。
その間に、広場に残っていた、数十人の人間、その全てが、父と、全く同じように、首の裏に手刀を打ち込まれ、意識を失っていた。
広場は、再び、完全な静寂に包まれた。
後に残されたのは、意識のない人々の骸が、無数に転がる、悪夢のような光景と。
そして、その中心に立つ母と、僕だけだった。
「これで、邪魔者はいなくなったわね」
母は、満足げに、頷いた。
そして、ゆっくりと、僕の方へと、向き直る。
僕は、後ずさった。
目の前にいるのは、僕の知っている、母親ではない。
それは、人の皮を被った、何か、別の、恐ろしい生き物だった。
「ウオ」
彼女は、僕の名を呼んだ。
その声は、相変わらず、冷たい。
「………いや」
そして、彼女は、その言葉を、訂正した。
まるで、これから、この世で最も重要な、真実を告げるかのように、その声に、僅かな、しかし、確かな、儀式的な響きを込めて。
「ウオ……いいえ。その名は、偽りの器」
母は冷酷に微笑み、呪文のような言葉を紡いだ。
「逆さに読みなさい。貴方のその、空っぽな名前を」
何を言っているんだ、この人は。
僕の名前は、ウオだ。ただの、ウオだ。
「……何故、僕の名前の真実について、知っている?」
僕は、震える声で、問い返していた。
自分でも、なぜ、そんなことを口走ったのか、わからなかった。
その名前は、知らないはずなのに。
僕の、本名などでは、ないはずなのに。
それなのに、僕の口は、まるで、それが当然の事実であるかのように、言葉を紡いでしまったのだ。
母は、僕のその問いに、深く、そして、恍惚とした笑みを浮かべた。
「それは、勿論」
彼女は、その場で、優雅に、片膝をついた。
まるで、王に、傅く、騎士のように。
「貴方様が、私達、魔族の、主君であらせられるからですわ」
主君?
魔族の?
僕が?
母の言葉は、意味不明な、単語の羅列にしか聞こえなかった。
僕の頭は、完全に、混乱の渦に飲み込まれていた。
父の敗北、母の裏切り、そして、この突拍子もない告白。
現実が、僕の理解できる速度を、遥かに超えて、暴走している。
「……どういう……ことだ……」
僕は、かろうじて、それだけを、絞り出した。
母は、膝をついたまま、その顔を、ゆっくりと上げた。
ウオ…
逆さにすると、王(オウ)。
その真実を告げる母の瞳は、狂信的なまでの輝きに満ちていた。
「そう。貴方こそが『大魔王(ダイマ・オウ)』。我らが悲願の王」
「貴方様は、今までは、ご自分が『大魔王』であることを、お忘れになられていました」
大魔王。
その言葉が、雷鳴のように、僕の頭蓋に響き渡った。
「悪虐の限りを尽くす、破壊の化身。それが、記憶を失う前の、貴方様の、お姿。ですが、それも、もう終わりです」
違う。
違う違う違う違う違う!!!
僕は、大魔王なんかじゃない!
僕は、ウオだ!
勇者エミールの、息子だ!
人々を守るために、父さんと一緒に、ここまで来たんだ!
そう、心の中で、必死に叫ぶ。
だが、声にはならなかった。
母の放つ、圧倒的な存在感が、僕の喉を、見えない力で、締め付けているかのようだった。
「私の、この『反転魔法』によって、善悪の立場が逆転した、これからの、新しい世界では、違うのです」
母は、まるで、美しい詩でも詠むかのように、うっとりと、続けた。
「……は?」
僕の口から、間抜けな声が漏れた。
「つまり、こういうことですわ、マイダ・ウオ様。貴方様は、今、記憶をなくしておられる。ですが、この世界の善悪の立場が、完全に反転した時……貴方様は、『正義の味方』である、大魔王としての、本当の記憶を、取り戻されるはずなのです」
正義の、味方?
大魔王が?
「そして、貴方様の、今の、仮初の名も、反転する。ウオ、という名前は、反転し、貴方様の、真の名前である、『ダイマ・オウ』を、取り戻されるのですよ」
ダイマ・オウ。
その響きが、僕の魂の、最も深い部分を、激しく、揺さぶった。
知らないはずの名前。
聞いたことも、ないはずの名前。
なのに、なぜ。
その名前は、まるで、ずっと昔に失くしてしまった、自分自身の、半身を、見つけ出したかのような、恐ろしいほどの、懐かしさと、親密さを、伴って、僕の心に、染み込んでくる。
「あああああああああああああああああああああああっ!!!!」
僕は、ついに、絶叫していた。
両手で、自分の頭を、かきむしる。
やめろ。
やめてくれ。
そんな、馬鹿な話があるか。
僕が、大魔王?
僕が、ダイマ・オウ?
僕が、今まで、悪虐の限りを尽くしてきた?
嘘だ。
全部、嘘だ。
この女は、狂っている。
僕の頭を、おかしくさせるために、デタラメを、並べ立てているだけだ。
そうだ。
そうに、決まっている。
なのに。
なのに、なぜだ。
僕の脳裏に、見たこともないはずの、光景が、次々と、フラッシュバックしてくるのは。
燃え盛る、街。
天を突く、黒い城。
無数の、魔物たちに、傅かれる、巨大な、影。
その影は、紛れもなく、僕自身だった。
僕が、天から、炎の雨を降らせている。
僕が、大地を割り、山を砕いている。
僕が、人々の悲鳴を、歓喜の歌のように、聞いている。
幻覚だ。
これは、幻覚だ。
母の、魔法か何かに、かかっているんだ。
「違う……僕は、ウオだ……父さんの、息子で……村で、母さんと、三人で……」
僕は、必死に、自分の記憶を、たぐり寄せた。
自分の、アイデンティティを、繋ぎとめるために。
村での、穏やかな日々。
父さんが、剣を教えてくれた、森。
母さんが、作ってくれた、温かいシチューの味。
友達と、川で、魚を捕った、夏の日の思い出。
それらは、全て、確かに、僕が経験してきた、僕自身の、記憶のはずだ。
だが、その、温かい記憶の、さらに奥底。
魂の、もっと、深い場所から、別の、記憶が、濁流のように、溢れ出してくるのを、止められない。
破壊。
殺戮。
絶望。
恐怖。
そして、それらを、支配する、至上の、快感。
「やめろ……やめてくれ……っ!」
僕は、その場に、うずくまった。
二つの、全く相容れない記憶が、僕の中で、互いを喰らい合い、僕という、存在そのものを、引き裂こうとしていた。
僕は、誰だ?
僕は、一体、何なんだ?
僕が、ウオであるという、確信が、急速に、薄れていく。
足元が、崩れ、奈落の底へと、落ちていくような、感覚。
そんな、葛藤の極致にある僕を、母は、冷たい……しかし、どこか慈愛に満ちた(ように見えてしまう)瞳で、見下ろしていた。
「何故、大魔王が、『悪』だと、お決めになるのですか?」
彼女は、静かに、問いかけた。
「それは、人間側が、自分たちの価値観で、勝手に、作り上げた、解釈に過ぎないのではなくて?」
その言葉は、悪魔の囁きだった。
それは、僕の、最後の、抵抗を、打ち砕く、あまりにも、強力な、一撃だった。
王都で、見た光景が、再び、僕の脳裏に、鮮明に、蘇る。
魔王を『救世主』だと、崇め奉っていた、人間たちの、あの熱狂的な瞳。
彼らにとって、魔王は、確かに、『善』だった。
そして、勇者である、父と僕は、『悪』だった。
正義とは、何だ?
悪とは、何だ?
父さんの、教え。
『人々を守るのが、勇者の正義だ』
その言葉が、今や、ひどく、空虚で、独り善がりな、偽善のように、聞こえてしまう。
守るべき、人々が、その守護を、望んでいないとしたら?
勇者がもたらす平和が、彼らにとっての、不幸だとしたら?
その正義は、一体、誰のためのものなんだ?
わからない。
もう、何もわからない。
父さんが、教えてくれた世界。
母さんが、語りかける世界。
どちらが、本当で。
どちらが、嘘で。
僕が、信じるべき道は、どちらで。
僕は、僕という名の空っぽの器の中で、ただ、泣き叫ぶことしか、できなかった。
僕の悲痛な葛藤を、母は、静かに、見守っていた。
その瞳は.まるで、孵化の時を待つ雛鳥を見守る、親鳥のようだった。
あるいは、新しい蝶が、蛹から生まれ出るのを、待っているかのようだった。
彼女は、待っているのだ。
古い、『ウオ』という殻を、僕が自ら、打ち破り。
新しい『ダイマ・オウ』として、生まれ変わるのを。
「……そろそろ、最後の仕上げといきましょうか」
僕の精神が、崩壊と再生の境界線上で、危うく揺れ動いているのを見計らったかのように、母はゆっくりと立ち上がった。
そして、彼女は両腕を天に掲げた。
「さあ、お聞きなさい。世界の理よ」
彼女が詠唱を始めた。
それは、僕がこれまで聞いたこともない古代の失われた言語だった。
一つ一つの言葉が、空間を震わせ、大気を歪ませていく。
「光あるところに、影は生まれ、影あるところに、光は差す。表裏一体の、二つの貌。今こそ、その仮面を剥がし、真実の姿を、現す時」
詠唱が進むにつれて、周囲の景色が、ぐにゃりと歪み始めた。
空の色が、紫とオレンジの毒々しいマーブル模様に、変わっていく。
地面は、まるで呼吸をしているかのように、隆起と沈降を、繰り返している。
ここは、もう僕の知っている、王都の広場ではなかった。
世界の法則そのものが、書き換えられていく、混沌の中心だった。
「聖は、魔に。
秩序は、混沌に。
愛は、憎悪に。
そして、勇者は――」
母の詠唱が、クライマックスに達しようとしていた。
僕は、動けなかった。
その……おぞましくも、荘厳な光景から、目を、離すことができなかった。
これから、何が起きるのか。
僕は、それを見届けなければならないと、魂が叫んでいた。
詠唱が、終わる。
母が掲げていた腕を、ゆっくりと下ろす。
歪んでいた世界の景色が、元に戻っていく。
静寂。
嵐が過ぎ去ったかのような、完全な静寂。
その静寂を破ったのは、一つの呻き声だった。
「……う……ぅ……」
僕のすぐ足元。
そこに転がっていた父が、身じろぎをしたのだ。
そして、父はゆっくりと、その身を起こした。
「父さん……!!」
僕は思わず、叫んでいた。
父が正気に戻ったのだ。
あの恐ろしい女――母から、僕を助けに来てくれたんだ。
全ての混乱も、葛藤も、その瞬間、僕の頭から、吹き飛んだ。
希望。
そうだ。
父さんさえ、いれば。
この悪夢のような状況から、抜け出せる。
「父さん!!」
僕は泣きながら、父の元へと、駆け寄った。
そして、そのたくましい胸に飛び込もうと、両腕を広げた。
しかし。
僕と父との間に、母が静かに、割り込んだ。
そして、彼女は、立ち上がった父を、まるで、初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、見つめて、言った。
その声は、淡々としていて、感情が読めない。
「悪の権化、『勇者ルーミエ』……」
ルーミエ?
何を、言っているんだ?
父さんの名前は、エミールだ。
「……大魔王ダイマ・オウ様に、試練を与えてくれるのね?」
試練?
大魔王?
母の意味不明な言葉に、僕の足がもつれた。
駆け寄る勢いが、鈍る。
そして、僕は、見てしまった。
立ち上がった、父の、その、瞳を。
そこには、もう僕の知っている優しい父の面影は、どこにもなかった。
その瞳に、宿っていたのは、光ではなかった。
全ての、生命に対する、底なしの、憎悪と、破壊衝動だけを、映し出す、絶対的な、闇。
それは、僕がファイナルタワーで、レイザーと戦った時の、自分自身の瞳に似ていた。
いや、それ以上に深く、そして、救いようのない闇だった。
父は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、僕と母を交互に見ると、その唇から、低い獣のような唸り声を、漏らした。
「………殺す」
その一言は。
かつて、父があれほど僕に、言ってほしくないと願った、言葉。
「……どいつも、こいつも」
父は、床に転がっていた自らの愛剣を、拾い上げた。
聖剣アスカロン。
歴代の勇者の魂が宿る、光の象徴。
しかし、今の彼の手に握られた、の剣は、禍々しい、紫色のオーラを、放っていた。
もはや、それは聖剣ではなかった。
ただ、純粋な破壊のためだけに存在する、呪われた魔剣だった。
僕の足が、完全に止まる。
希望が、絶望へと、再び反転する。
父と僕の距離は、あと、数歩。
抱きしめられるはずだった、その距離。
僕は、父の……その変わり果てた姿を見て、金縛りにあったように、動けなくなった。
そして。
父――いや、『勇者ルーミエ』と呼ばれた、その化け物は。
駆け寄ってきた息子の僕に向かって。
何の、躊躇いもなく。
その愛用していたはずの、剣を。
水平に、突き出した。
ザシュッ。
その音とともに現れる……
生々しくて残酷な生温かい感触。
僕の視界が、ぐらりと揺れた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
ただ、お腹のあたりに、焼けるような激痛が走った。
ゆっくりと、視線を下げる。
僕の、腹には。
大きな穴が、空いていた。
その穴から、見慣れた剣の切っ先が、突き出ている。
父さんが、いつも手入れをしていた、聖剣アスカロン。
その剣が、今、僕の体を、貫いていた。
「……あ……」
僕の口から、血の泡と共に、空気が漏れた。
信じられないという、感情すら、湧いてこない。
ただ、空白。
僕の頭の中は、真っ白だった。
抱きしめて、くれるはずだった。
助けて、くれるはずだった。
父さんの、腕の中で。
剣を貫かれたまま、僕の体は、前のめりに、倒れ込む。
そして、父の胸に、もたれかかった。
父の冷たい、鎧の感触。
血の、鉄臭い匂い。
僕は、薄れゆく意識の中で、父の顔を、見上げた。
その瞳は、相変わらず、空っぽの、闇だった。
息子を貫いたというのに、その表情には、何の変化もない。
そして、僕の視界の端で。
母が、その光景を。
父親が息子を貫くという、この地獄の光景を。
満足げに、微笑みながら、見つめていた。
ああ、そうか。
これが、試練。
これが、僕が、大魔王として、生まれ変わるための、儀式。
僕の愛した、世界が。
僕の愛した、父と、母の……手によって。
完全に、破壊されていく。
意識が、闇に、沈んでいく。
その最後の、瞬間に。
僕の耳の……奥で。
知らないはずの、声が響いた。
――よくやった、我が息子よ。そして、我が妻よ。
――これで、ようやく、本当の、お前が、目覚める。
その声が、誰のものだったのか。
それを、確認する前に。
僕の世界は、完全に、終わった。
第一部第十一章 愛している
焼けるような、激痛。
僕の腹を貫いた父の剣。それが、僕の体の中で、まるで灼熱の鉄塊と化して、内臓を、骨を、魂そのものを、無慈悲にかき混ぜていく。
熱い。痛い。苦しい。
視界が、赤と黒のノイズで、明滅している。
父の冷たい鎧の感触。
僕自身の、生暖かい血が、その鎧を伝って、石畳へと滴り落ちていく音。
遠ざかっていく、母の、満足げな微笑み。
ああ、死ぬのか。
僕は、そう、思った。
父さんに、殺されるのか。
母さんに、見捨てられて。
これが、僕の、ウオという、少年の、人生の、終わりなのか。
意識が、闇の底へとゆっくりと沈んでいく。
体の感覚が、なくなっていく。
痛みすらも、遠のいていく。
これで、楽になれる。
もう、何も考えなくていい。
僕が誰なのかなんて、苦しい問いに、答えを探さなくてもいい。
そう思った、瞬間だった。
僕の魂の最も、深い、深い、底。
僕自身ですら、今まで、一度も、触れたことのなかった、その場所で。
何かが、 弾け飛んだ。
激痛が、引き金だった。
死の、淵に立ったことが、鍵だった。
閉ざされていた記憶の水門が、轟音と共に、破壊された。
そして、僕の矮小な器には、到底、収まりきらないほどの、膨大な情報の濁流が、僕の精神世界へと、雪崩れ込んできたのだ。
――それは、光景だった。
今の僕が見ている、この青い空とは、違う。
紫色の、双子の月が浮かぶ、血のように赤い空。
ガラスの破片のような、鋭利な岩山が、大地から、無数に突き出している、荒廃した世界。
――それは、音だった。
人々の、悲鳴。
建物の、崩れる音。
そして、それらを、蹂躙する、禍々しい、オーラを纏った、異形の者たちの、雄叫び。
――そして、それは、感情だった。
怒り。
純粋で、神聖なまでの、怒り。
弱き者を、虐げる、不条理な『悪』に対する、断罪の、意志。
この、歪んだ世界を、正すのだという、絶対的な、使命感。
その、記憶の中心に、僕は、いた。
いや、それは、僕ではなかった。
今の、この、小さな、ウオという、少年ではない。
もっと、遥かに巨大で。
遥かに、荘厳で。
遥かに、力強い何か。
漆黒の黒曜石を削り出したかのような、美しい鎧を、その身にまとい。
背には夜空そのものを、切り取ったかのような、六対の、翼を生やし。
その手には、宇宙の、闇よりも、深い、漆黒の、大剣を、握りしめている。
その姿は、紛れもなく、『大魔王』と、呼ばれるに、相応しいものだった。
だが、その大魔王は、破壊の限りを、尽くしてはいなかった。
彼は、泣き叫ぶ人々を、その巨大な翼で、庇い。
異形の者たち――その額に、歪んだ聖印を刻んだ、『悪の勇者』たちに、敢然と、立ち向かっていたのだ。
『我が名は、ダイマ・オウ』
僕の、頭の中に、直接、その声が、響き渡る。
それは、僕自身の声でありながら、僕のものではない、重く、威厳に満ちた声だった。
『この世界の、調停者にして、悪を裁く、正義の執行者なり』
記憶の中の、ダイマ・オウは、悪の勇者たちを、次々と、その漆黒の大剣で、屠っていく。
その剣技は、苛烈で、無慈悲。
しかし、その瞳には、深い、悲しみの色が、浮かんでいた。
『何故、お前たちは、その力を、民を虐げるために、使うのか』
『勇者とは、光とは、弱き者を、守るためのものではなかったのか』
その光景は、母リリアが語った、「悪虐の限りを尽くした大魔王」とは、全く、正反対の姿だった。
彼は、紛れもなく、『正義の味方』として、戦っていたのだ。
そして、その、記憶の中の、光景と。
目の前の、現実が、重なり合った。
闇の、オーラを、その身にまとい。
虚ろな、瞳で、僕を、見下ろす、この男。
『勇者ルーミエ』と、呼ばれた、僕の、父。
その姿は、記憶の中の、ダイマ・オウが、斬り伏せてきた、『悪の勇者』たちと、寸分、違わなかった。
瞬間。
僕の意識は、まだ、闇の底にあった。
だが、僕の体は、魂に刻み込まれた本能によって、動いた。
目の前の『悪』を、排除せよ。
僕の腹を、貫いている聖剣。
その、冷たい、鉄の感触。
それを、握りしめている、父の腕。
その、腕を、掴んだ。
そして、僕のもう片方の、自由な手から、黒い、光が、溢れ出した。
その光は、瞬時に、鋭利な、闇の、刃へと、形を変える。
それは、思考よりも、速い反射だった。
魂が、下した、無意識の、裁きだった。
ザクリ。
という、鈍い、手応え。
僕の、闇の刃が。
僕を、抱きかかえるような形で、密着していた、父の、腹部を。
深々と、貫いていた。
自分の手が、父の体を貫いた、その生々しい、感触。
それが、引き金となって、僕の意識は、濁流のような記憶の奔流から、現実へと、引き戻された。
フラッシュバックが、消える。
紫の月も、荒廃した大地も、悪の勇者も、全てが、霧のように晴れていく。
そして、僕の目に、再び、映し出されたのは。
絶望的な、現実だった。
僕の腹には、父の剣が。
父の腹には、僕の闇の刃が。
互いの体を、互いの武器が、貫き合っているという、あまりにもグロテスクで、悲劇的な光景。
「あ……」
目の前にいるのは、記憶の中の憎むべき、『悪の勇者』ではない。
「……あ……あ……」
僕の、大好きな、父さんだ。
不器用で、優しくて、僕のたった一人の、英雄。
「父さん……!!!!!」
僕の喉から、絶叫が、迸った。
何て、ことを。
僕は、何て、ことを、してしまったんだ。
僕が、父さんを。
この手で。
刺した?
血に濡れた、自分の、右手を見下ろす。
そこから、まだ黒いオーラが、陽炎のように、立ち上っていた。
父の温かい血の感触が、べっとりと、こびりついている。
「あああああああああああああああ!!!」
僕は、再び、絶叫した。
腹を貫かれた痛みなど、もうどこかへ、吹き飛んでいた。
それよりも、遥かに痛い心の痛みが、僕の全身を、苛んでいた。
自己嫌悪。
後悔。
そして、絶対的な、恐怖。
父さんが、死んでしまう。
僕の、せいで。
パニックに、陥った、僕の脳裏に、一つの記憶が、閃光のように、蘇った。
ファイナル-タワーでの、光景。
レイザーに、致命傷を負わされた、父さんが、金色の光に包まれて、一瞬で、その傷を治してしまったあの奇跡。
自己治癒魔法。
そうだ。
あれが、ある。
あれさえ、あれば、父さんは、助かる。
この程度の、傷、なんて。
僕は、父の、鎧に、必死に、しがみついた。
「父さん!!! 早く、直せよ!!!」
僕は、泣き叫んでいた。
まるで、駄々をこねる、幼子のように。
「この程度の、傷!!! 父さんなら、数秒で、直せるんだろ!!!?」
だが、父は、答えない。
その瞳は、相変わらず、虚ろな、闇を、映しているだけだった。
僕のことなど、見えていないかのように。
腹を、貫かれた、痛みすら、感じていないかのように。
「なんでだよ!!! なんで、直さないんだよ!!!」
僕は、父の体を、がくがくと揺さぶった。
涙と、鼻水と、そして、僕自身の、腹から流れ出る血で、ぐちゃぐちゃになりながら。
「早くしろよ!!! このままじゃ、父さんが、死んじゃうだろ!!!」
懇願は、やがて、命令じみた、叫びへと変わる。
それは、まるで、壊れた、レコードのようだった。
同じ、言葉を、何度も、何度も、意味もなく、ただ、繰り返す。
「直せよ……早く、直せよ……父さん……お願いだから……死なないでくれ……」
僕の声は、徐々に、力を失っていく。
大量の、出血が、僕の体温と意識を、奪っていく。
目の前が、霞んでいく。
父さんの、顔が、ぼやけていく。
ああ、駄目だ。
僕も、もう、終わりだ。
父さんと一緒に、ここで、死ぬんだ。
僕が殺した、父さんと、一緒に。
その絶望が、僕の心を、完全に黒く、塗りつぶそうとした、その最後の、瞬間に。
僕の、心の奥底から。
最後の、最後の、本音が、言葉となって、溢れ出した。
それは、懇願でも、命令でも、絶叫でもなかった。
ただ純粋な、魂の告白だった。
「…………父さん」
僕は、残った、全ての力を、その言葉に、込めて。
父の冷たい頬に、自分の頬を、すり寄せた。
「愛してる……!!」
それは息子として父に伝える愛の言葉。
それは相棒として相棒に伝える信頼の言葉。
それは一人の人間としてもう一人の人間へと伝える魂の繋がり。
その言葉が放たれた瞬間。
奇跡は起きた。
僕の涙が父の頬を伝い。
僕の体の温もりが父の冷たい鎧に伝わり。
僕の言葉が父の閉ざされた魂へと届いたその瞬間に。
父の虚ろな瞳の奥で。
ほんの僅かに何かが揺らめいた。
それは闇の中に灯った小さな小さな光の粒だった。
反転魔法の絶対的な呪縛に僕の愛が小さな亀裂を入れたのだ。
闇が揺らぐ。
光が抗う。
父の瞳の中で闇と光の壮絶な戦いが始まったのが僕にはわかった。
憎悪の化身である『勇者ルーミエ』と。
僕の愛する父親である『エミール』の人格が互いの存在を懸けて激しくせめぎ合っている。
その光景は一瞬のようでもあり永遠のようでもあった。
そして。
最終的にその長い長い戦いに終止符を打ったのは。
やはり僕の愛だった。
父の瞳の中から底なしの闇がゆっくりと後退していく。
そしてその後に残されたのは。
僕がずっと知っているあの温かくそして優しい光だった。
父の瞳に僕の顔が映った。
焦点が合った。
「……う……お……」
父の唇が震え僕の名を呼んだ。
それは紛れもないエミールの声だった。
「父さん……!?」
「……すまない……ウオ……俺はお前に……」
父は自分と僕の腹に突き刺さった互いの武器を信じられないといった表情で見下ろした。
そして事態を完全に把握したのだろう。
その顔が苦痛と後悔に歪んだ。
「……しっかりしろウオ! 今治す! 俺の治癒魔法で……!」
父の体から金色の光が溢れ出そうとした。
その時だった。
「……まだ完全な反転は無理みたいね」
冷たい声が広場に響き渡った。
ハッとそちらを見るといつの間にか少し離れた場所に母リリアが腕を組んで立っていた。
彼女はこの僕と父の一部始終をまるで観劇でもするかのように冷めた目で見ていたのだ。
彼女は僕たちの奇跡を嘲笑うかのように小さく舌打ちをした。
「愛ですか。くだらない。そんな不確定な感情ごときが世界の理を覆す私の大魔法に干渉するとは。……計算外でしたわ」
彼女は少し不機嫌そうに呟いた。
その言葉の意味を僕はまだ正確には理解できなかった。
だが彼女が何らかの目的を達成し損ねたことだけはわかった。
「まあ良いでしょう。今回はほんの実験でしたから。データは取れました」
実験?
僕たちはこの女の実験に付き合わされていただけだというのか。
僕たちの絶望も苦しみもこの女にとってはただのデータでしかないというのか。
怒りが僕の胸の奥から込み上げてくる。
だが今の僕にはもうそれに抗うだけの力は残っていなかった。
「ではごきげんよう。私の可愛い大魔王様。そして哀れな勇者」
リリアはそう言い残すとその姿を黒い霧の中へと溶かしていった。
そして霧が晴れた時にはもう彼女の姿はどこにもなかった。
まるで最初からそこに誰もいなかったかのように。
嵐は過ぎ去った。
後に残されたのは。
互いの腹を互いの武器で貫き合ったまま血の海に倒れ伏す父と息子。
そしてその周囲に転がる無数の意識のない人々。
「ウオ……!」
「父さん……!」
僕たちは互いの名を呼び合った。
そして傷の痛みと失血による眩暈の中でかろうじて意識を繋ぎとめる。
絶望的な状況の中で。
それでも僕の心にはほんの僅かな安らぎがあった。
父さんが戻ってきた。
僕の知っている優しい父さんが。
それだけで今はもう十分だった。
僕たちの本当の戦いはまだ始まったばかりなのだということをこの時の僕はまだ本当の意味では理解していなかった。
第一部第十二章 お前には
僕の腹を貫く冷たい鉄の感触。
父の腹を貫く僕の闇が生み出した刃の、ぬるりとした感触。
血の匂いがむせ返るような鉄の匂いが、僕たちの間に満ちていた。
広場には僕と父、そして母リリアによって意識を奪われた数多の人々が転がっている。世界から音が消えただ互いの荒い息遣いと傷口から命が流れ出す微かな音だけが聞こえていた。
母は去った。
嵐のように現れ僕たちの世界を根こそぎ破壊しそしてまるで何もなかったかのように消え去った。
後に残されたのはこの地獄のような光景だけ。
だがそんな絶対的な絶望の只中にあっても。
僕の心にはほんのほんの僅かなしかし確かな光が灯っていた。
父さんが戻ってきた。
反転魔法の呪いが解け僕を見下ろすその瞳にはかつての僕が知る優しくて温かい光が宿っていた。憎悪の化身『勇者ルーミエ』は消え僕の父親『エミール』が僕の目の前に帰ってきてくれたのだ。
それだけで十分だった。
腹の傷がどれだけ痛もうと。
この状況がどれだけ絶望的であろうと。
父さんと一緒ならきっと乗り越えられる。
そう信じていた。
「父さん……大丈夫……?」
僕はか細い声で問いかけた。
「……馬鹿野郎。お前こそ大丈夫か……ウオ」
父さんは苦しげに顔を歪めながらも僕の頭を力なく撫でてくれた。その無骨で大きな手の感触が僕の心をじんわりと温める。
そうだ。希望はある。
僕たちはまだ終わっていない。
「早く……治癒魔法を……」
僕は父さんに懇願した。
ファイナルタワーで見せたあの奇跡の光。あれさえあれば僕たちのこの傷もきっと塞がるはずだ。
「父さんの魔法ならこんな傷すぐに……」
しかし父さんは僕の言葉を遮るように静かに首を振った。
その目に深い深い哀しみの色が浮かぶ。
そして彼はまるで幼子に残酷な真実を言い聞かせるかのようにゆっくりとそしてはっきりと告げたのだ。
「ウオ……よく聞け」
そのあまりにも真剣な声色に僕の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「あの反転魔法から抜け出すのに全魔力を使っちまってな」
父さんの言葉が続く。
「父さんはもう……自己治癒魔法を使えないんだ」
……え?
今父さんはなんて言った?
自己治癒魔法を使えない?
僕の思考が完全に停止した。
父さんの言葉が音として耳には入ってくるのにその意味を僕の脳が理解することを拒絶した。
「そん……な……の……」
僕の唇が震える。
「嘘……だよね……? 父さん……冗談でしょ……?」
僕は笑おうとした。
こんな最悪の状況で父さんがらしくない冗談を言っているのだと。
そう思おうとした。
だが父さんの顔に浮かんでいるのは絶望的なまでの真剣さと僕に対する申し訳なさだけだった。
そこには一片の嘘も冗談も存在しなかった。
「……ごめんなウオ……」
父さんのその謝罪の言葉が僕の最後の希望を粉々に打ち砕いた。
光が消えた。
僕の世界から最後の一筋の光が音を立てて消え失せた。
色彩が失われる。
世界が急速に色褪せてモノクロームの冷たい景色へと変わっていく。
使えない?
あの奇跡の魔法が?
父さんの命綱とも言えるあの力がもうない?
じゃあこの傷は?
僕の腹を貫くこの剣は?
父さんの腹を貫く僕の刃は?
このまま塞がらなければ僕たちは……。
死ぬ。
その一言が絶対的な事実として僕の脳髄に突き刺さった。
「そんなの……!!!」
僕は叫んだ。
声にならない叫びだった。
「そんなの……!!!!!」
嘘だ。
何かの間違いだ。
こんなことあっていいはずがない。
僕の心はただひたすらに目の前の残酷すぎる現実を否定し続けた。
父さんが死ぬ?
僕のたった一人の英雄が?
こんな場所で?
こんな形で?
ありえない。
あってはならない。
僕は父さんの言葉が信じられなかった。
信じたくなかった。
「そんなことないよね……? 父さん魔力がなくても気合でなんとかなるっていつも言ってたじゃないか……!」
僕は必死に過去の父さんの言葉を引っ張り出してきた。
それは僕が訓練でへばった時に父さんがよくかけてくれた励ましの言葉だった。
「そうだ……気合だよ父さん! 気合さえあれば傷なんて治るよ!」
僕は支離滅裂なことを口走っていた。
自分でも馬鹿なことを言っているのはわかっていた。
でもそうでもしないと僕の心は張り裂けてしまいそうだった。
父さんはそんな僕の痛々しい姿をただ黙って見つめていた。
その目に憐れみの色が浮かぶ。
その憐れみが僕には耐えられなかった。
それは僕の最後の悪あがきが完全に無意味であると告げているようだったからだ。
やがて僕の否定のエネルギーが尽きた。
そしてその後にやってきたのは第二の波だった。
なぜ?
なぜ父さんは魔力を使い果たしてしまったんだ?
答えはわかっていた。
父さん自身がそう言っていた。
『あの反転魔法から抜け出すのに』
ではなぜ父さんは反転魔法にかかってしまったんだ?
答えはわかっていた。
母リリアがあの忌まわしい詠唱を唱えたからだ。
ではなぜ母はあんな魔法を使ったんだ?
答えはわかっていた。
僕を『大魔王ダイマ・オウ』として完全に覚醒させるための『試練』として。
ではなぜ僕が大魔王なんだ?
なぜ僕はこんな忌まわしい宿命を背負っているんだ?
思考が巡る。
巡って巡って巡って。
そして全ての問いは一つの結論へと収束していく。
全ての原因は。
全ての元凶は。
僕自身だ。
僕がいなければ。
僕が『大魔王』でさえなければ。
こんな悲劇は起きなかった。
父さんは勇者としてもっと別の輝かしい未来を歩んでいたはずだ。
母さんも魔族としての本性を隠したまま父さんと村で幸せに暮らせていたのかもしれない。
僕だ。
僕が全てを壊したんだ。
そして、その自己への憎悪の行き着く先に、一つの鮮明な光景がフラッシュバックした。
ザクリ。
という鈍い手応え。
僕の手が父さんの腹を貫いたあの瞬間の光景。
あの時、僕は確かに大魔王としての記憶に支配されていた。
目の前の父を『悪の勇者』だと誤認していた。
だがそれは言い訳にはならない。
現に父さんを刺したのは、この僕の手なのだから。
もしも。
もしも僕があの時父さんを刺してさえいなければ。
父さんは致命傷を負わずに済んだのではないか?
自己治癒魔法が使えない状態だったとしても、この程度の傷なら助かったのではないか?
いや違う。
違う。
僕のこの傷だって父さんの剣が貫いている。
僕が刺さなかったとしても、父さんは僕の腹を貫いたままでそのうち力尽きていたかもしれない。
わからない。
もう何もわからない。
だが一つの揺るぎない事実だけがそこにあった。
僕の攻撃が父さんの死期を早めた。
それは紛れもない事実だった。
つまり。
僕が父さんを殺したんだ。
その結論に達した瞬間、僕の精神は完全に決壊した。
罪悪感という名の黒く冷たい濁流が、僕の魂を根こそぎ飲み込んでいく。
「う……う……ああ……っ」
僕の喉から嗚咽が漏れた。
「ごめん……なさい……父さん……ごめんなさい……っ」
僕は泣きじゃくりながら何度も何度も謝った。
何に対して謝っているのか、もはやそれすらも曖昧になっていた。
ただ僕という存在そのものが罪なのだと魂が叫んでいた。
「僕が……僕が父さんを……刺さなければ……っ!」
「違う、ウオ……お前のせいじゃ……」
父さんが力なく僕を慰めようとしてくれる。
だがその優しさすらも今の僕にとっては鋭い刃となって心を抉った。
こんな僕に優しくしないでくれ。
もっと罵ってくれ。
「お前のせいだ」と、断罪してくれ。
でなければ僕のこの張り裂けそうな罪悪感の行き場がない。
頭の中で幻聴が聞こえ始めた。
『そうよ。お前が殺したのよ』
母リリアの冷たい声。
『見てみなさい。お前のその汚れた手を』
僕は恐る恐る自分の右手を見下ろした。
そこには父さんの血がべっとりと付着していた。
その赤黒い色は僕の罪の色だった。
決して洗い流すことのできない呪いの刻印だった。
『お前が生まれなければ、エミールは死なずに済んだのよ』
「ああ……ああああ……っ」
僕は自分の髪をかきむしった。
その声から逃れるように。
だが声は内側から聞こえてくる。
逃げ場などどこにもない。
『そもそもお前は何なんだ?』
今度は自分自身の声が問いかけてきた。
『ウオか? ダイマ・オウか?』
『勇者の息子か? 魔族の王か?』
『正義の味方か? 悪の化身か?』
わからない。
わからない。
わからない!
僕はもう僕が誰なのかもわからなかった。
僕の存在そのものが曖昧で不確かで、そして罪深い何かとしか思えなかった。
肉体的な苦痛が精神的な苦痛と完全にリンクする。
腹の傷がズキリと痛むたびに、それは僕が父さんを刺した罪の痛みとして感じられた。
自分の傷口から、血が流れ出すたびに、それは僕が父さんの命をこの手で奪っているように感じられた。
「う……おえぇぇ……っ」
僕は激しく嘔吐した。
胃の中にはもう何もない。
ただ苦い胃液だけが口から溢れ出す。
涙はとうに枯れ果てていた。
代わりに僕の瞳から流れ出ていたのは、絶望という名の乾いた砂だったのかもしれない。
僕の精神はもう限界だった。
罪の濁流に飲み込まれ、僕は完全に溺れていた。
第一部最終章 愛してるぜ、相棒
僕が罪悪感の底なし沼でもがき苦しんでいるその一部始終を、父さんはただ黙って見つめていた。
その薄れゆく意識の中で、彼は何を思っていたのだろうか。
自分の死の恐怖か。
妻への憎しみか。
世界の未来への憂いか。
いや、違う。
彼のその最期の瞳に宿っていたのは、ただ一つ。
息子である僕への深く、そして無限の愛情だけだった。
僕が完全に壊れてしまうその寸前だった。
「……ウオ」
父さんが僕の名を呼んだ。
その声は驚くほど穏やかで、そして力強かった。
まるで死を目前にした人間とは思えないほどの静かな威厳に満ちていた。
僕はハッとして顔を上げた。
父さんが立ち上がろうとしていた。
僕と父さんの体を貫き合っている剣と刃。
それがお互いの体をさらに深く抉る。
激痛が走るはずだった。
だが父さんの顔に苦痛の色は一切浮かんでいなかった。
彼は歯を食いしばり、その凄まじい痛みに耐えながら、ゆっくりと、しかし確実にその身を起こしていく。
それはまるで最初からそうするつもりだったかのようだった。
全ての覚悟を決めた男の動きだった。
やがて父さんは完全に立ち上がった。
満身創痍のその体。
しかしその姿は僕が今まで見てきたどの時の父さんよりも大きく、そして英雄的に見えた。
彼は僕を見下ろした。
その目に浮かんでいたのは、僕を罪の淵から救い出そうとする絶対的な決意の光だった。
「ありがとうな」
父さんはそう言って笑った。
血に塗れたその笑顔は、僕が知っているいつもの不器用で優しい父さんの笑顔だった。
「お前と一緒に旅ができて、本当に楽しかったぜ」
ありがとう?
楽しい?
何を言っているんだ父さん。
僕は父さんを殺した張本人なのに。
「愛してるぜ」
父さんは続けた。
その真っ直ぐな言葉が僕の凍てついた心を貫いた。
「相棒」
彼は僕の肩にぽんと手を置いた。
「……そして俺のたった一人の息子、『ウオ』」
涙が再び僕の頬を伝った。
枯れ果てたはずの涙がとめどなく溢れ出してくる。
それは罪悪感の涙ではなかった。
父さんのあまりにも大きく、そして深い愛に触れた魂の涙だった。
そして父さんは僕を罪悪感から完全に解放するための最後の言葉を告げた。
「安心しろ」
父さんは僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「俺はお前には殺されねえよ。お前はどうか俺以外の大切な人を見つけて、結婚とかもして幸せになってくれ。だからそのためにお前はたくさん人に恋をしてくれ。父さんからの願いだ」
その言葉の意味を僕が理解した時にはもう遅かった。
父さんは僕の腹を貫いていた聖剣アスカロンを自らの手で引き抜いた。
そしてその勢いのまま反転させると、その切っ先を自らの胸――心臓へと向けた。
「やめ……」
僕の制止の声は間に合わなかった。
父さんは何の躊躇いもなく、その聖剣を自らの胸に深々と突き立てた。
ザシュッ。
という鈍い音。
僕の目の前で、父さんの体が大きく跳ねた。
時間が永遠に引き伸ばされたかのようにスローモーションで全てが見えた。
父さんの胸から噴き出す鮮血。
その驚愕の光景に息を飲む僕の顔。
そしてゆっくりと崩れ落ちていく父さんの体。
その最後の表情は苦痛に歪んではいなかった。
むしろ彼は笑っていた。
全ての役目を終え、愛する息子を罪の呪縛から解き放つことができた安堵と満足に満ちた穏やかな笑みを浮かべていた。
ドサリという重い音を立てて父さんの体が僕の足元に崩れ落ちる。
「……あ……ああ……」
僕はその場にへたり込んだ。
自分の腹の傷の痛みも忘れて、ただ目の前で動かなくなった父さんの亡骸を見つめていた。
静まり返った広場に、僕の慟哭だけがいつまでもいつまでも虚しく響き渡っていた。
父さんは死んだ。
僕に「父親殺し」という最も重い十字架を背負わせないために、自らその命を絶ったのだ。
その究極の愛の前で、僕にできることなどもう何一つ残されてはいなかった。
ただ空っぽの虚無感だけが僕の心を支配していた。
第二部第一章 灰色の帰郷
音も色も匂いも味も、全てが失われた世界を僕はただ歩いていた。
どれくらい歩き続けたのか覚えていない。
一日か三日か、あるいはもう一週間以上が過ぎていたのかもしれない。太陽が昇りそして沈む。その当たり前の世界の営みだけが、時間の経過を無慈悲に僕に告げていた。
僕の腹には大きな穴が空いていた。
父がその手に握りしめた聖剣によって貫かれた、名誉であり絶望の傷。
その傷は奇妙なことに、もう痛みは感じなかった。ただぽっかりと虚無がそこにあるだけ。まるで僕の心に空いた巨大な風穴と共鳴しているかのようだった。
血は止まっていた。
どうやって止めたのか自分でもよくわからない。ただ、村に帰らなければならないという、か細い、しかし絶対的な本能のようなものが僕の体を動かしていた。無意識のうちに僕の中に眠る得体の知れない力が傷口を焼き、肉を繋ぎ合わせ、最低限の生命活動を維持させているらしかった。
空腹も喉の渇きも感じなかった。
夜の凍えるような寒さも。
昼の肌を焼くような日差しも。
僕の感覚は完全に麻痺していた。
僕は生ける屍だった。
魂をあの血塗られた王都の広場に置き去りにしてきた、ただ歩くだけの肉の塊。
僕の頭の中では一つの光景だけが壊れた幻灯機のように何度も何度も繰り返し再生されていた。
『安心しろ。俺はお前には殺されねえよ』
そう言って穏やかに笑った父の顔。
自らの胸に聖剣を突き立てたあの瞬間。
僕に「父親殺し」という最も重い十字架を背負わせないために。
自ら命を絶った父の最後の愛。
その光景が再生されるたびに、僕の心はきしむ。
涙はもう出なかった。
感情という感情が全て枯れ果ててしまったかのようだった。
道中、何人かの旅人とすれ違った。
彼らは僕のボロボロの姿を見て、訝しげな、あるいは憐れむような視線を向けてきた。
だが誰一人として僕に声をかけてはこなかった。
僕の瞳があまりにも死んでいたからだろう。
生きている人間の瞳ではなかったからだろう。
僕はただ歩いた。
父と二人で王都へと向かった道を、今度はたった一人で逆方向に辿っていく。
あの時父が隣にいた道。
二人で焚き火を囲み未来を語り合った森。
僕が罠を仕掛け父がそれを褒めてくれた小川。
その全てが今は色褪せた灰色の景色にしか見えなかった。
全ての場所に父の思い出が染み付いていて、それが無数のガラスの破片となって僕の心を切り刻んだ。
二週間。
おそらくそれくらいの時が経っていた。
僕の足がついに見慣れた景色を捉えた。
緩やかな丘。
その向こう側に広がる豊かな森。
そしてその森に抱かれるようにして寄り添う小さな僕の故郷。
カリム村。
懐かしいはずの景色。
だが僕の心に安堵の感情は湧いてこなかった。
むしろ逆だった。
恐怖。
村に近づけば近づくほど、僕の足は鉛のように重くなっていく。
帰らなければならない。
でも帰りたくない。
だってあの村にはもう父さんはいないのだから。
「父さん、ただいま」
そう言って家の扉を開けても。
「おかえり」と言って僕の頭を撫でてくれるあの大きな手はもうないのだから。
そのあまりにも当たり前で残酷な事実が僕の歩みを止めた。
村の入り口で僕は立ち尽くした。
中へ入ることもできず、かといって引き返す場所もない。
そんな僕の姿を畑仕事をしていた一人の村人が見つけた。
「……ん? おい、あれは……」
その声がきっかけだった。
一人また一人と村の人々が僕の存在に気づき集まってくる。
彼らの顔には最初驚きの色が浮かんでいた。
そして次に僕のあまりにも変わり果てた姿に哀れみの色が浮かんだ。
「……ウオ、なのか……?」
村長が杖をつきながら人垣をかき分けてやってきた。
その皺だらけの顔が僕を見てくしゃりと歪む。
「おお……ウオ……! 生きていたのか……!」
村長はそう叫ぶと、老いたその体で僕を力強く抱きしめた。
「辛かったろう……! 苦しかったろうに……! よくぞ……! よくぞ一人で帰ってきた……!!」
村長の震える声。
その腕の温かさ。
その温もりに触れた瞬間、僕の中で凍り付いていた何かが音を立ててひび割れた。
「……あ……」
僕の喉から声が漏れた。
「……あ……ああ……」
そして次の瞬間、僕は声を上げて泣いていた。
枯れ果てたはずの涙が堰を切ったように溢れ出してくる。
「うわあああああああああああああああああああああん!!!!!」
僕は村長の胸に顔を埋め、ただ子供のように泣きじゃくった。
王都で父を失ってから初めて流す涙だった。
僕の慟哭を聞く村人たちも皆泣いていた。
父の友人だった鍛冶屋の親方も、いつもお菓子をくれた食堂のおばさんも、一緒に悪さばかりしていた同年代の友達も。
誰もが僕を責めなかった。
誰もが僕の帰還を温かく迎えてくれた。
王都から命からがら逃げてきたという商人から噂は聞いていたのだという。
勇者エミールが王都で魔王軍との激闘の末、命を落としたと。
「お前の父さんは英雄だ」
「村の誇りだ」
「お前はその英雄の息子だ。胸を張れ」
皆が口々に僕を慰め励ましてくれた。
王都で僕たちを『悪』だと断じたあの狂信的な瞳とは違う。
ここにはまだ父さんを『正義』だと信じてくれる人々がいた。
王都から遠く離れたこの村には、まだ母リリアの反転魔法の影響は及んでいないらしかった。
その事実に僕は少しだけ救われた。
【夏】
太陽が力強く大地を照りつける季節。
村の子供たちの声がいつも以上に活気づく。
「ウオ、川へ行こうぜ!」
「今日は絶対大物を釣ってやるんだ!」
その日も友達が僕を誘いに来た。
僕は断ろうとした。
だが、あまりにも彼らがしつこいので根負けしてついて行くことにした。
村を流れるカリム川。
水はひんやりと冷たく気持ちがいい。
友達は服を脱ぎ捨てると、歓声を上げて川へと飛び込んでいった。
水しぶきがキラキラと太陽の光を反射して輝いている。
僕はその光景をただ岸辺から眺めていた。
川に入る気にはなれなかった。
水に自分の姿が映るのが怖かったのだ。
そこに映るのが『ウオ』ではなかったらどうしよう、と。
そんな僕に業を煮やしたのか、友達の一人が僕を背後から突き飛ばした。
「うわっ!?」
僕はなすすべもなく川へと転落した。
突然の冷たさに心臓が止まるかと思った。
だが、その衝撃が僕の固まっていた何かを少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
「ははは! やったぜ!」
「ウオ、油断したな!」
水面から顔を出すと、友達が腹を抱えて笑っていた。
その無邪気な笑顔を見て、僕の口元がほんの少しだけ緩んだ。
その日は久しぶりに僕は彼らと一緒に泳いだ。
魚を追いかけ水を掛け合い、日が暮れるまで遊んだ。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、僕は王都での出来事を忘れることができた。
昔のようにただの子供に戻ることができた。
だが夜がやってくると全ては元に戻ってしまう。
家に帰り一人になると、あの広場の光景が鮮明な悪夢となって僕を襲うのだ。
父の血の温かさ。
僕の手で父を貫いたあの感触。
「うわあああああああああっ!!!!」
僕は悲鳴を上げて飛び起きる。
全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
心臓は早鐘のように鳴り響き、呼吸がうまくできない。
闇が怖い。
眠るのが怖い。
一人になるのが怖い。
僕は夜が来るたびにその恐怖に苛まれ続けた。
【秋】
村は収穫の季節を迎えていた。
黄金色に輝く麦畑。
たわわに実った果実。
村中が活気に満ち溢れていた。
人手が足りないというので僕も収穫の手伝いをすることになった。
最初は気が進まなかった。
だが体を動かしている間は不思議と余計なことを考えずに済んだ。
重い麦の束を運び、汗を流し泥にまみれる。
肉体的な疲労が僕の精神的な苦痛を僅かに和らげてくれた。
一緒に作業をしていた村の大人たちは僕に優しかった。
「ウオ、だいぶ力もついてきたじゃないか」
「さすがエミールの息子だな」
「その真面目なところは父親そっくりだ」
彼らは僕の中に父の面影を見てくれているようだった。
それが嬉しかった。
僕があの偉大な勇者の息子であると認めてもらえているようで。
だが同時に、その言葉は僕の胸に鋭く突き刺さった。
『父親殺しのくせに』
僕の内側からもう一人の僕が嘲笑う。
『お前なんかがエミールの息子を名乗るな』
僕はその幻聴を振り払うように、さらにがむしゃらに働いた。
疲れ果てて倒れるまで。
何も考えられなくなるまで。
収穫祭の夜。
村の広場では大きな焚き火が焚かれ、皆がその年の恵みに感謝し歌い踊っていた。
僕もその輪の中にいた。
皆に勧められるまま果実酒を一口だけ飲んだ。
甘くて少し苦い大人の味がした。
その時、一人の村人が言った。
「ウオももう大丈夫そうだな」
「ああ、すっかり元気になった」
「良かった、良かった」
彼らの善意に満ちた言葉。
僕は笑顔で頷いた。
「うん。もう大丈夫だよ」
嘘をついた。
僕の心はまだ少しも大丈夫ではなかった。
むしろこの偽りの平穏が僕をさらに追い詰めているかのようだった。
皆が僕に期待する『元気になった悲劇の少年』という役割。
僕はその仮面を被り続けなければならない。
本当の僕。
心の奥底で罪悪感と自己嫌悪に苛まれ続けている本当の僕は、誰にも見せてはならない。
その日から僕は笑うのが少しだけ上手になった。
【冬】
厳しい冬がやってきた。
村は深い雪に閉ざされ、外へ出る機会もめっきりと減った。
僕は家の暖炉の前で一人過ごすことが多くなった。
家の壁には父さんが使っていた普通の剣が飾られている。
聖剣アスカロンはもうない。
あの広場に僕の血と父の血に塗れたまま置き去りにしてきてしまった。
僕は毎日その剣をただぼんやりと眺めていた。
この剣を僕が握る資格はあるのだろうか。
父さんは僕に自分の名前『エミール』を与えて死んでいった。
それは僕に勇者の意志を継いでほしいというメッセージだったのだろう。
だが今の僕にそんな資格があるとは思えなかった。
僕は自分が何者なのかわからないのだ。
僕は本当にウオなのか?
それともいつかまたあの恐ろしい『ダイマ・オウ』として目覚めてしまうのではないか?
僕の中に眠るあの力はいつ暴走するかもわからない。
そんな僕が剣を握り勇者を名乗ることなどできるはずがない。
それは父さんの名を汚す行為だ。
僕は悩んだ。
来る日も来る日も悩み続けた。
答えの出ない問いに僕の心はすり減っていく。
雪が降り積もるように、僕の心にも解決されることのない葛藤が静かに、そして確実に積もっていった。
そうして一年が過ぎた。
村に再び春の兆しが見え始めた頃、僕は村の日常にすっかり溶け込んでいた。
朝起きれば村の仕事を手伝い、昼は友達と他愛のない話をして笑い、夜は疲れて眠る。
悪夢を見る回数は少しずつ減っていた。
いや、悪夢に慣れてしまっただけなのかもしれない。
周りの誰もが僕のことを「もうすっかり元気になった」と思っていた。
僕自身もそう思うようにしていた。
それが一番楽だったからだ。
辛い過去に蓋をして偽りの平穏に身を委ねる。
それが僕がこの村で生きていくための唯一の方法だった。
だがそれはただの延命措置に過ぎなかった。
僕の心の奥底で膿み続けた傷は、決して癒えてはいなかったのだ。
そのことに気づいている人間が、この村にたった一人だけいた。
君の本当の顔
彼女の名前はレシア。
僕と同じ年に生まれた幼馴染。
亜麻色の髪をいつも二つに結んでいる、そばかすがチャームポイントの女の子だ。
彼女は昔から少し変わっていた。
他の子供たちが外で元気に駆け回っている時も一人木陰で本を読んでいたり。
僕たちが見過ごしてしまうような道端の小さな花に気づいてしゃがみこんでいたり。
活発でお転婆な一面もあるくせに、時折ひどく大人びた表情をする。
そして何よりも彼女は人の心の機微に驚くほど敏感だった。
言葉にしない感情をその大きな翠色の瞳でくい上げてしまうのだ。
僕が村に帰ってきてからの一年間、彼女は他の村人たちとは少し違っていた。
他の誰もが僕に「頑張れ」「元気を出せ」と励ましてくれた。
その善意はありがたかった。
だが同時に少しだけ息苦しくもあった。
しかしレシアは違った。
彼女は僕に何も言わなかった。
ただ僕が一人で草原に座っていると、いつの間にか隣にやってきて同じように黙って空を見上げている。
僕が家の前でぼんやりしていると、何も言わずにそっと花の一輪を差し出して去っていく。
彼女は僕を無理に励まそうとも慰めようともしなかった。
ただ静かに僕の隣に寄り添ってくれた。
そのさりげない優しさが僕のささくれ立った心をどれだけ救ってくれたことか。
そして彼女だけは決して口にしなかった言葉がある。
『元気になって、よかったね』
他の誰もが僕の笑顔を見てそう言ってくれた。
Tだがレシアだけは一度もその言葉を口にしなかった。
彼女は見抜いていたのだ。
僕の笑顔がただの仮面であることを。
僕の心の奥底に今もなお深い深い闇が澱んでいることを。
一年が過ぎたある夏の日。
その日も僕は友達と笑い合い、何事もなかったかのように日常を過ごしていた。
だがその夜、僕は久しぶりにひどい悪夢にうなされた。
父の血の匂い。
母の冷たい微笑み。
そして僕の腹を貫く聖剣の痛み。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
飛び起きた僕の心臓は破裂しそうだった。
窓の外はまだ暗い。
孤独と恐怖が津波のように押し寄せてくる。
僕は耐え切れずに家を飛び出した。
どこへ行くあてもない。
ただこの息の詰まるような闇から逃げ出したかった。
僕は無意識のうちに村の外れにある丘へと向かっていた。
そこは父さんが生きていた頃、よく二人で星を眺めた場所だった。
丘の頂に着くと、僕はそこに先客がいることに気づいた。
月明かりに照らされて一人の少女が丘の縁に腰掛けていた。
レシアだった。
「……レシア……?」
僕が声をかけると彼女はゆっくりと振り返った。
その翠色の瞳が僕を真っ直ぐに捉える。
「……眠れなかったの?」
彼女は静かに問いかけた。
その声は僕の全てを見透かしているようだった。
僕は何も答えられなかった。
ただ彼女の隣にゆっくりと腰を下ろす。
しばらく二人で黙って満天の星空を眺めていた。
無数の星が瞬いている。
父さんもこの星空のどこかで僕を見ていてくれるのだろうか。
やがてレシアが口を開いた。
「ねえ、ウオ」
「……何?」
「ウオは今、幸せ?」
そのあまりにも真っ直ぐな問いに、僕の心臓がドクリと鳴った。
僕は答えに窮した。
幸せなのだろうか。
村人たちは優しい。
友達もいる。
飢えることもない。
客観的に見れば僕は幸せなのだろう。
でも。
「……わからない」
僕の口から漏れたのは正直な気持ちだった。
「……そっか」
レシアはそれ以上何も聞かなかった。
ただ静かに頷いた。
そして彼女は続けた。
「ウオはさ、笑うのが上手になったよね」
「……え?」
「村のみんなと話してる時。いつも笑ってる。でもね」
レシアは僕の方へと向き直った。
その真剣な眼差しに僕は射竦められた。
「その顔、ウオの本当の顔じゃないでしょう?」
その言葉は、僕がこの一年間必死に隠し続けてきた心の最も柔らかい部分を容赦なく抉り出した。
僕の被っていた仮面が音を立てて砕け散る。
「……っ」
僕は言葉を失った。
彼女には全てお見通しだったのだ。
僕が無理に笑っていることも、僕が本当は少しも救われていないことも。
「……ウオはずっと一人で戦ってるんだね」
レシアの声が震えていた。
その瞳が潤んでいる。
彼女は僕の痛みを、まるで自分自身の痛みのように感じてくれていたのだ。
その優しさが僕の心の最後のダムを決壊させた。
僕は彼女の前で初めて自分の弱さを見せた。
「……怖いんだ、レシア」
僕は震える声で告白した。
「夜一人になると全部思い出す。父さんのこと、母さんのこと……王都での全てを。僕は自分が何者なのかわからない。このままここにいていいのかもわからない。いつかまた僕が僕じゃない何かになって、みんなを傷つけてしまうかもしれない……。それが怖くてたまらないんだ……!」
嗚咽が漏れる。
僕は顔を両手で覆った。
こんな醜い姿を彼女に見せたくなかった。
だがレシアは引かなかった。
彼女はそっと僕の手を握りしめた。
その小さな手は驚くほど温かかった。
「……うん。そっか。……怖かったね。……ずっと一人で苦しかったね」
彼女はただ僕の苦しみを受け止めてくれた。
否定も肯定もしない。
ただそこに寄り添ってくれる。
僕はその温もりに救われる思いだった。
しばらくそうしていただろうか。
僕の嗚咽が少し収まった頃、レシアは不意に顔を上げた。
そしてまるで何かを思いついた悪戯っ子のような顔で、僕に言ったのだ。
「ねえ、ウオ」
「……うん?」
「たまには遠くに行ってみない?」
「……遠く?」
「うん。この村じゃなくて、もっとずっと遠い街。私、旅の商人さんから聞いたんだ。隣の領地の港町で、もうすぐ大きな夏祭りがあるんだって」
夏祭り。
その陽気な響きは、今の僕にはあまりにも不釣り合いな言葉に聞こえた。
「……なんで急に……」
「気分転換だよ」
レシアはにぱっと笑った。
その笑顔は夜空の星よりもずっと明るく輝いて見えた。
「ここだとさ、ウオは『勇者の息子』で『悲劇の少年』でしょう? みんなウオのこと大好きだけど、どうしてもそう見ちゃう。でも遠い街なら誰もウオのこと知らないよ」
彼女の言葉が僕の心に染み込んでいく。
「そこならウオはただの『ウオ』でいられる。誰にも気を遣わなくていいし、無理に笑わなくてもいいんだよ」
ただのウオでいられる場所。
その響きは僕にとって抗いがたいほどの魅力を持っていた。
「花火、すっごく綺麗なんだって。海から打ち上げるから水面にも映って、空と海全部が光でいっぱいになるんだって」
レシアは楽しそうに語る。
その姿を見ていると、僕の灰色の世界にほんの少しだけ色が戻ってくるような気がした。
怖い。
村の外へ出るのはまだ怖い。
あの旅の記憶が蘇る。
でも。
このままこの偽りの平穏の中に閉じこもっていても、きっと何も変わらない。
僕の心の闇は消えることはないだろう。
何かを変えるためには、一歩踏み出す勇気が必要なのかもしれない。
僕は僕の手を握りしめてくれているレシアの小さな手を見つめた。
そして彼女の真っ直ぐな翠色の瞳を見返した。
僕はゆっくりと、そして確かに頷いた。
「……うん。……行ってみようかな。……夏祭り」
その言葉を口にした瞬間、僕の胸の奥で止まっていた歯車がギシリと小さな音を立てて動き出したような気がした。
まだ未来は怖い。
自分のことも世界のことも何もわからない。
だけど隣にこの温かい手があるのなら、僕はもう一度だけ前を向いて歩き出せるかもしれない。
僕とレシアの小さな小さな冒険が始まろうとしていた。
その先にどんな運命が待ち受けているのかも知らずに。
僕たちはただ夜空に輝く無数の星を見上げていた。
第二部 第二章 港町の約束
僕とレシアの二人だけの旅が始まってから三日が過ぎた。
村を出る日の朝のことは今でもはっきりと覚えている。僕たちのささやかな旅立ちを村の人々はまるで自分のことのように温かく見送ってくれた。
「ウオ、レシアのことちゃんと守ってやれよ!」
「レシア、ウオのこと頼んだぞ!」
鍛冶屋の親方や食堂のおばさんが、口々にそんな冷やかしとも本気の激励ともつかない言葉をかけてくれた。僕たちは顔を見合わせて照れ笑いを浮かべるしかなかった。
村長は僕の肩をその皺だらけの大きな手で力強く叩いた。
「ウオ。たまには羽を伸ばしてくるのもいいことだ。だが忘れるな。お前はエミールの息子だ。そしてこの村はいつでもお前の帰る場所だ」
その言葉の温かさが僕の胸にじんわりと染みた。
ありがたいと思った。
だが同時に、その言葉が見えない鎖となって僕の足に絡みつくような感覚もあった。
『エミールの息子』
その響きは誇らしくもあり、そして何よりも重い十字架だった。
村から一歩外へ出ると、途端に僕は無口になった。
隣を歩くレシアはそんな僕の心情を察してくれているのか、無理に話しかけてくることはなかった。ただ時折僕の顔を心配そうに見上げては、花のことや雲の形のことなど他愛のない話をぽつりぽつりと呟くだけだった。
僕の心はずっと曇っていた。
レシアをこんな暗い旅に付き合わせてしまっている申し訳なさ。
そして村の外の世界に対する根源的な恐怖。
道端の石ころ一つ、風の音一つが、僕の心の奥底にしまい込んだはずの王都での記憶を呼び覚まそうとする。
父の血の匂い。
母の冷たい微笑み。
僕の腹に今も生々しく残る傷跡。
その記憶のフラッシュバックに襲われるたびに、僕は足を止め呼吸が浅くなる。
そのたびにレシアは何も言わずに僕の手をそっと握ってくれた。
その小さな手の温もりだけが、僕を正気の世界に繋ぎとめてくれる唯一の錨だった。
そうして僕たちは三日かけて目的の港町へとたどり着いた。
「わあ……!」
隣でレシアが感嘆の声を上げた。
僕も目の前に広がる光景に思わず息をのむ。
目の前にどこまでも広がる青い海。
村の小さな川しか見たことのなかった僕にとって、それは生まれて初めて見る光景だった。
太陽の光を反射してキラキラと輝く水面。
寄せては返す波の音。
そして鼻腔をくすぐる潮の香り。
その圧倒的な生命の躍動感に、僕はしばし言葉を失っていた。
そして僕たちの目的地である港町『アクアリア』はその海のすぐそばにあった。
白い壁の家々が坂道に沿ってひしめき合うように立ち並び、その間を縫うようにして無数の人々が行き交っている。
村とは比べ物にならないほどの活気と喧騒。
「すごいねウオ! お祭り、もう始まってるみたい!」
レシアは目を輝かせ僕の袖を引っ張った。
街の大通りには色とりどりの旗がはためき、道の両脇には様々な屋台がずらりと並んでいた。
甘い綿菓子の匂い。
香ばしい焼き鳥の匂い。
人々の笑い声、呼び込みの声、子供たちのはしゃぐ声。
その全てが混然一体となって僕たちを包み込む。
それは僕が王都で体験したあの狂気の熱狂とは全く違う。
生命力に満ち溢れた純粋な祝祭の熱気だった。
だが僕はその圧倒的なエネルギーに気圧されていた。
人の波が怖い。
笑顔が怖い。
楽しげな声が怖い。
僕の脳裏にあの広場の光景が蘇る。
僕たちを『悪』だと罵り石を投げつけたあの群衆の顔。
「……っ」
僕は思わず後ずさった。
呼吸が苦しくなる。
眩暈がする。
まずい。
またあの発作が……。
「ウオ?」
僕の異変に気づいたレシアが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
そして彼女は何も言わずに僕の手をぎゅっと握りしめた。
「行こっ」
彼女はそう言うと僕の手を引いて人の波の中へと飛び込んでいった。
その小さな手の力強さに、僕はなすすべもなく引かれていく。
レシアは僕を次々と屋台へと連れ回した。
「見て、ウオ! りんご飴だって! 村じゃ見たことないね!」
彼女は真っ赤な艶々としたりんご飴を二本買うと、そのうちの一本を僕に差し出した。
僕は戸惑いながらもそれを受け取る。
一口かじると、ぱりという心地よい音と共に甘酸っぱい味が口の中に広がった。
美味しいと、思った。
本当に久しぶりに何かを心から「美味しい」と感じられた気がした。
「あっちでは射的をやってるよ!」
「わあ、金魚すくいだ! 私、苦手なんだよね……」
レシアは心からこの祭りを楽しんでいるようだった。
その無邪気な笑顔と弾むような声が、僕の周りに張られていた見えない氷の壁を少しずつ溶かしていく。
僕はいつの間にか彼女のペースに巻き込まれていた。
射的では彼女が欲しがったぬいぐるみを狙った。
結果は散々で一つも落とせなかったけれど、「ウオ、下手っぴだね!」と笑う彼女の顔を見ていると、不思議と悔しいという気持ちよりも温かい気持ちが湧き上がってきた。
金魚すくいではすぐにポイを破ってしまう彼女の代わりに僕が挑戦した。
父さんに教わった剣術の集中力を応用して、なんとか一匹だけ小さな赤い金魚をすくうことができた。
レシアはまるで自分のことのように大喜びで拍手をしてくれた。
そんな他愛のないやり取りを繰り返すうちに、僕の心の中に一つの疑問が芽生え始めていた。
『僕が幸せになっていいのだろうか?』
父さんは死んだ。
僕のせいで。
母さんは僕を裏切った。
僕は自分が何者なのかもわからない。
心の中にはいつ暴走するかもわからない獣が眠っている。
そんな僕が。
こんな風に笑っていいのだろうか。
こんな穏やかな時間を過ごしていいのだろうか。
それは父さんに対する裏切りではないのだろうか。
楽しめば楽しむほど、レシアと笑い合えば笑い合うほど、僕の心の中の罪悪感がまるで影のように色濃くなっていく。
「……ウオ、どうかした? 疲れた?」
僕がまた黙り込んでしまったことに気づいたレシアが、心配そうに尋ねてきた。
「……いや、なんでもない」
僕は慌てて首を振った。
そして無理に笑顔を作った。
この優しい少女を僕の暗い感情に巻き込んではいけない。
だが彼女の翠色の瞳は僕の心の奥底まで見透かしているようだった。
彼女は何も言わなかった。
ただ少しだけ寂しそうな顔をして、僕の手をもう一度強く握りしめた。
狐の面と、温かい心
陽が傾き港町が茜色に染まり始めた頃、街のあちこちで提灯に明かりが灯され始めた。
昼間の喧騒とはまた違う、幻想的でどこか懐かしいような雰囲気が僕たちを包み込む。
僕たちは海岸沿いの石段に腰掛けて少しだけ休憩していた。
目の前には夕陽に照らされてオレンジ色に輝く海が広がっている。
「……綺麗だね」
レシアがぽつりと呟いた。
「……ああ」
僕は短く相槌を打った。
本当に綺麗だと思った。
この一年間、僕の目に映る世界はずっと灰色だった。
だが今、僕の目には確かにこの世界の美しさが映っていた。
その事実に僕自身が一番驚いていた。
しばらく二人で黙って夕陽を眺めていた。
沈黙が苦ではなかった。
ただ隣に彼女がいてくれる。
それだけで僕の心は不思議と穏やかでいられた。
やがて完全に陽が落ち夜の帳が下りた。
祭りの熱気は夜になってさらに勢いを増している。
「お腹すかない?」
レシアが僕の顔を覗き込んだ。
「あっちの屋台でたこ焼き売ってるみたいだよ」
僕たちは再び人の波の中へと戻っていった。
たこ焼きの屋台は長い行列ができていた。
ソースの香ばしい匂いが食欲をそそる。
順番を待っている間、僕たちはすぐ隣にあったお面屋の店先に並べられた様々なお面に目を奪われた。
ひょっとこ、おかめ、天狗。
色とりどりのお面が所狭しと並んでいる。
「あ」
レシアが小さく声を上げた。
彼女の視線の先には一つの狐のお面があった。
白い顔に赤い模様が描かれた、どこか神秘的で美しいお面だった。
「……綺麗……」
レシアはそのお面に釘付けになっていた。
その横顔はまるで魔法にかかってしまったお姫様のようだった。
その時、僕の心の中に一つの衝動が湧き上がった。
あのお面を彼女にプレゼントしたい。
彼女のあんな顔を見たら、そう思わずにはいられなかった。
「……ちょっと待ってて」
僕はレシアにそう言うとたこ焼きの行列から離れ、昼間に惨敗した射的の屋台へと向かった。
屋台の親父は僕の顔を見てニヤリと笑った。
「よお、坊主。また来たのか。今度は落とせるといいな」
僕は無言で代金を払いコルク銃を受け取った。
的はあの狐の面だ。
距離は昼間と変わらない。
僕は目を閉じた。
そして深く息を吸う。
周囲の喧騒が遠のいていく。
僕の意識が銃と的、その二つだけに集中していく。
父さんの声が聞こえた気がした。
『心を無にしろ、ウオ。狙うのではなく、ただ的と一体になるのだ』
僕はゆっくりと目を開いた。
僕の視界にはもう狐の面しか映っていなかった。
呼吸を止め、引き金を引く。
パン!
という乾いた音。
コルク弾は真っ直ぐに吸い込まれるように狐の面の眉間に命中した。
コトン。
という軽い音を立ててお面が台から落ちる。
「……お、おい……マジかよ……」
屋台の親父が呆気にとられた顔で僕を見ていた。
周囲からも「おお!」という歓声が上がる。
僕は親父から狐の面を受け取ると、一目散にレシアの元へと戻った。
レシアは僕が手に持っているものを見て目を丸くした。
「……え……? ウオ……これ……」
「……うん」
僕は少し照れくさくてぶっきらぼうにお面を彼女に差し出した。
「……欲しそうだったから」
レシアはしばらく僕の顔とお面を交互に見つめていた。
そして次の瞬間、その大きな瞳からぽろりと涙が一粒こぼれ落ちた。
「……え!? な、なんで泣くんだよ!?」
僕は狼狽した。
喜ばせたかっただけなのに。
何かまずいことをしてしまったのだろうか。
レシアは慌てて涙を袖で拭うと、首をぶんぶんと横に振った。
「う、ううん! 違うの! ……嬉しくて……」
彼女はそう言うと壊れ物を扱うかのようにそっと狐の面を受け取った。
そしてそれを自分の胸にぎゅっと抱きしめる。
「……ありがとう、ウオ。……宝物にするね」
彼女は顔を上げて僕に微笑みかけた。
涙で濡れたその笑顔は、僕が今まで見てきたどんなものよりも美しく、そして愛おしく思えた。
その笑顔を見て、僕の心の中に巣食っていた罪悪感がほんの少しだけ軽くなったような気がした。
誰かを喜ばせること。
誰かの笑顔を見ること。
それがこんなにも温かい気持ちにさせてくれるなんて。
僕は忘れていたのだ。
父さんを失ったあの日からずっと。
「僕がここにいてもいいのかもしれない」
そんな微かな希望の光が、僕の心の闇の中に差し込んできた瞬間だった。
二人だけの特等席
たこ焼きを頬張りながら僕たちは海岸へと向かった。
いよいよこの祭りのメインイベントである花火が始まるのだ。
海岸は既に黒山の人だかりだった。
皆、今か今かと夜空を見上げている。
「すごい人だね……。これじゃあ前が見えないかも」
レシアが背伸びをしながら言った。
僕たちの身長では人の頭しか見えない。
「……あっちに行ってみよう」
僕は人の波から少し外れた方向を指差した。
そこは海岸から少しだけ小高くなった丘になっていた。
木々が生い茂り人の気配はない。
僕たちは人混みをかき分けその丘を登っていった。
少し息が切れたが、丘の頂上に着いた時僕たちは思わず声を上げた。
そこはまさに特等席だった。
眼下には海岸と街の夜景が広がり、その向こうには真っ暗な夜の海が横たわっている。
.そして見上げる夜空には遮るものが何もない。
丘の上には風雨にさらされた小さな木の祠がひっそりと佇んでいた。
おそらく海の神様でも祀っているのだろう。
僕たちはその祠のすぐそばに腰を下ろした。
街の喧騒が嘘のように遠くに聞こえる。
聞こえるのは波の音と、風が木々の葉を揺らす音だけ。
世界にまるで僕とレシア二人きりしかいないような不思議な感覚だった。
その静寂を破るように、ヒュルルルルル……という甲高い音が空気を切り裂いた。
そして次の瞬間。
ドン!!!!
という腹の底に響くような轟音と共に、夜空に巨大な光の花が咲いた。
赤、青、緑、金。
色とりどりの光の粒が放射状に広がり、そしてキラキラと輝きながら地上へと降り注ぐ。
「……わあ……!」
レシアが歓声を上げる。
僕もそのあまりの美しさに言葉を失っていた。
ドン! ドン! ドン!
立て続けに花火が打ち上がる。
夜空が次々と色鮮やかな光で塗り替えられていく。
海面にもその光が映り込み、まるで空と海その両方で光の饗宴が繰り広げられているかのようだった。
綺麗だ。
心の底からそう思った。
この一年間忘れていた純粋な感動が僕の心を活たしていく。
閉ざされていた僕の五感がこの光と音によって無理やりこじ開けられていくような感覚。
灰色だった僕の世界に今、確かに色が戻ってきていた。
しばらく僕たちは夢中で夜空を見上げていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
あれほど激しく打ち上がっていた花火がふと途切れ、辺りに静寂が戻ってきた。
波の音と僕たちの呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。
その静寂の中で、僕はすっと心の中でくすぶっていた疑問を口にしていた。
今なら聞けると思ったのだ。
「……なあ、レシア」
「……ん?」
隣に座るレシアの横顔が月明かりに照らされて白く輝いている。
「……どうして僕にここまで優しくしてくれるんだ?」
僕の問いにレシアは少しだけ驚いたように目を見開いた。
「僕さ……村に帰ってきてからずっとおもってたんだ。みんな僕に気を遣ってくれてる。でもレシアは何か違うっていうか……。無理に励まそうともしないし。でもいつも一番近くにいてくれる」
僕は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「今日だってそうだ。こんな僕を無理やり連れ出して……。僕、正直来るまでは辛かったんだ。でも今は……」
僕は自分の胸に手を当てた。
心臓が確かに温かい熱を帯びている。
「……今は、来てよかったって思ってる。……レシアのおかげだ。……ありがとう」
僕の精一杯の感謝の言葉。
レシアは何も答えなかった。
ただ僕から視線を逸らし、俯いて自分の膝を見つめている。
その耳がほんのりと赤く染まっているのが月明かりの中でもわかった。
そして彼女は意を決したように顔を上げた。
その翠色の瞳は潤んでいて、そして今まで見たこともないような真剣な光を宿していた。
「……私ね」
彼女は震える声で語り始めた。
「……ひとめぼれ、だったんです」
ひとめぼれ?
その予期せぬ言葉に、僕の思考は完全にフリーズした。
「……え……?」
「あの時から、ずっと」
レシアは俯きがちに続けた。
その声は蚊の鳴くような小さな声だったが、静かな夜の丘の上でははっきりと聞き取ることができた。
「あの時って……いつ?」
僕が尋ねると、レシアは指で自分のスカートの裾をいじりながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは僕がまだ父さんと母さんと三人で幸せに暮らしていた頃。
僕たちがまだ本当に小さな子供だった頃の話だった。
「……私、昔よく村の男の子たちにからかわれてたの、覚えてる?」
言われて僕はぼんやりと思い出した。
レシアは昔から少し内気で本を読むのが好きな女の子だった。
そんな彼女を村のガキ大将たちが面白がってよく泣かせていたのだ。
「その日も私、一人で森の中で花の絵を描いてたらあの子たちがやってきて……。私の大事なスケッチブックを取り上げて破こうとしたの……」
レシアの声が僅かに震える。
「私、怖くて何もできなくて……。ただ泣いてたら……」
彼女はそこで一度言葉を切った。
そして顔を上げて僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ウオが来てくれたの」
僕の記憶の扉がゆっくりと開かれていく。
そうだ。
そんなことがあった気がする。
森の奥で女の子の泣き声が聞こえて、行ってみたらレシアが数人の男の子に囲まれて泣いていた。
僕はその時、父さんから習ったばかりの木の棒を使った剣術の真似事をするのがマイブームだった。
正義のヒーローになった気分で、僕は木の棒を構えガキ大将たちの前に立ちはだかったのだ。
「女の子をいじめるなんて卑怯だぞ!」
今思えばひどく陳腐で恥ずかしいセリフだ。
だがその時の僕は本気だった。
結果どうなったか。
僕は年上のガキ大将たちに返り討ちにあい、泥だらけになって泣きながら家に帰ったのだ。
全くヒーローとは程遠い情けない結末だった。
「……ああ、そんなこともあったな……。でもあの時、僕結局何もできなくてボコボコにされただけじゃんか……」
僕が自嘲気味に言うと、レシアは力強く首を横に振った。
「ううん! 違うよ!」
彼女は身を乗り出すようにして言った。
「ウオは私のスケッチブックを守ってくれた! 自分が殴られてもずっとそれを胸に抱きしめて離さなかった!」
……そうだっけ。
もうあまりよく覚えていない。
「それにね」
レシアの声が熱を帯びる。
「私には見えたの。ウオが私の前に立ってくれた時、ウオの背中がすごくすごく大きく見えて……。まるで本物の勇者様みたいだった」
勇者。
その言葉が僕の胸に深く深く突き刺さった。
僕は勇者失格だ。
父の名を継ぐ資格もない。
僕はただの父親殺しの罪人だ。
そう思っていた。
ずっとそう信じてきた。
しかし。
レシアは僕のことを「勇者みたいだった」と言ってくれている。
あの情けなくて弱かった僕のことを。
「……あの時からずっとだよ。私、ずっとウオのこと見てた。……好きだったの」
レシアは顔を真っ赤にしながらそう告白した。
その言葉は僕の崩壊しかけた自己肯定感を根底から揺さぶった。
僕が僕自身をどれだけ否定しても。
僕が僕自身をどれだけ憎んでも。
僕のことをずっと見ていてくれて、そして「勇者」だと信じてくれていた人がここにいたのだ。
僕の心の中で何かが音を立てて繋がった。
バラバラだったパズルのピースが一つにはまったような感覚。
僕はウオでいいんだ。
僕はダイマ・オウなんかじゃない。
僕は勇者エミールの息子で、そしてレシアの目の前にいるただのウオなんだ。
その確信が僕の魂を震わせた。
ヒュルルルルル……
その時、再び花火の上がる音が響き渡った。
ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!
祭りのクライマックスを告げるスターマイン。
夜空一面にこれまでで最も大きく、そして美しい無数の光の花が咲き乱れる。
その眩い光の中で、僕の目には涙を浮かべながら恥ずかしそうに微笑むレシアの顔しか映っていなかった。
僕は気づけば彼女のその華奢な体を力強く抱きしめていた。
溢れ出す感情を抑えることができなかった。
感謝と愛しさと、そして新たに芽生えた決意。
その全てを込めて。
「……あなたは俺が守る」
僕は彼女の耳元で誓った。
それはもう「僕」ではなかった。
無意識のうちに一人称が「俺」に変わっていた。
それは父が僕に託した『エミール』としての意志の現れだったのかもしれない。
「たとえこの命に代えても」
それは父から託された「人々を守る」という漠然とした使命感ではなかった。
レシアというたった一人のかけがえのない存在を守り抜くという、俺自身の魂からの初めての個人的な誓いだった。
俺の腕の中でレシアの体が小さく震えた。
そして彼女は俺の背中にそっとその小さな手を回した。
「……はい、あなた!!」
涙声で、しかしはっきりとそう答えてくれた彼女の声。
そして俺の胸に顔をうずめながら幸せそうに微笑んだその笑顔。
その笑顔を俺は一生忘れることはないだろう。
花火が終わっても、僕たちはしばらくそうして抱きしめ合っていた。
僕の心の中に一つ確かな光が灯った。
それはレシアという名の希望の光。
そして『誰かを守る』という新しい生きる目的。
この光さえあれば俺はもう大丈夫だ。
どんな闇が待ち受けていようとも、俺はもう道に迷わない。
僕の長かったリハビリテーションはこの港町で終わりを告げた。
そしてここから、俺の本当の物語が始まろうとしていた。
第二部第三章 愛眼からの果たし状
あの夏祭りの夜から数日が過ぎた。
俺の世界は色を取り戻していた。
朝目を覚ますと、窓から差し込む陽の光が温かいと感じる。小鳥のさえずりが音楽のように心地よく耳に響く。食堂のおばさんが作ってくれる朝食のパンは、小麦の豊かな味がした。
当たり前のこと。
誰もが毎日感じているはずのこと。
だが一年以上もの間、灰色の世界で生きてきた俺にとって、その一つ一つが奇跡のように鮮やかで愛おしいものだった。
俺は変わった。
一人称が「僕」から「俺」になったのは、その最も表面的な変化に過ぎない。
心の在り方が変わったのだ。
レシアが光をくれた。
「あなたは、私の勇者様だった」
そのたった一言が、俺の砕け散った自己肯定感を拾い集め、繋ぎ合わせてくれた。
俺はウオでいいのだと。
勇者エミールの息子として胸を張って生きていていいのだと。
そして何よりも大きな変化。
それは俺に守るべきものができたことだった。
『あなたは俺が守る。たとえこの命に代えても』
あの夜、花火の下で彼女にそう誓った。
それは父から託された「人々を守る」という漠然とした使命感ではなかった。
レシアというたった一人のかけがえのない存在を守り抜く。
俺自身の魂から湧き上がった、初めての個人的でそして絶対的な誓い。
その誓いが俺の新しい背骨になった。
もう道に迷うことはない。
俺が何者であるかなどという不毛な問いに悩むこともない。
俺はウオだ。
そしてレシアを守る男だ。
それが今の俺の全てだった。
村での生活も変わった。
以前はどこか村人たちとの間に見えない壁を作り、偽りの笑顔を貼り付けていた。
だが今は違う。
心から笑い、心から話すことができた。
「ウオ、顔つきが変わったな」
鍛冶屋の親方が汗を拭いながら言った。
「ああ。エミールにそっくりになってきたぜ」
その言葉を俺は今度こそ素直な誇らしさをもって受け止めることができた。
レシアとの時間は穏やかで満ち足りていた。
二人で村の仕事を手伝い、昼休みにはあの丘の上で弁当を食べる。
他愛のない話をして笑い合う。
彼女の笑顔を見るたびに、俺の心は温かい光で満たされていく。
この幸せが永遠に続けばいい。
心の底からそう願った。
もちろん心の傷が完全に癒えたわけではない。
夜一人になると、今でもあの王都の広場の光景が悪夢となって蘇ることがあった。
父の最後の言葉。
『愛してるぜ、相棒……そして俺のたった一人の息子、エミール』
その言葉を思い出すたびに胸が締め付けられる。
父の愛の大きさと同時に、俺が彼にかけた最後の言葉が「早く直せよ」という身勝手な懇願だったことを思い知らされるからだ。
ありがとう、と。
愛してる、と。
なぜ俺は最後にそう言ってあげられなかったのか。
その後悔はおそらく一生消えることはないだろう。
そして母リリアのこと。
彼女は今どこで何をしているのか。
なぜあんな残酷なことをしたのか。
彼女に対する感情は複雑だった。
憎い。
心の底から憎い。
だがそれでも彼女は俺を産んでくれた母親なのだ。
幼い頃の優しい記憶が完全に消え去ってはくれない。
この心の闇はまだ俺の中に深く澱んでいる。
だが以前と違うのは、その闇に飲み込まれなくなったことだ。
レシアという光がそばにいてくれるから。
俺は闇を抱えたまま、それでも前を向いて歩いていくことができた。
そう。
俺はようやく幸せな日常を手に入れたのだ。
このささやかな平穏こそが俺が守り抜きたい宝物なのだと確信していた。
その宝物が音を立てて崩れ去る、その日が来るまでは。
黒い鳥が運んできたもの
その日も空はどこまでも青く澄み渡っていた。
俺はレシアと二人で村の畑仕事に精を出していた。
夏の日差しは強い。
汗が額から流れ落ちる。
だがその労働は心地よかった。
昼休みになり、俺たちはいつものように丘の上へと向かった。
木陰に二人で座り、レシアが作ってきてくれたサンドイッチを頬張る。
素朴な味だがそれがたまらなく美味しかった。
「ウオ、口の周りパンくずついてるよ」
レシアがくすくす笑いながら指で拭ってくれる。
その仕草に俺の心臓が少しだけ速く鳴った。
そんな穏やかな時間が流れていた。
その時だった。
空の一点がにわかに黒く染まった。
見上げると一羽の巨大な鳥が、僕たちの頭上を旋回していたのだ。
それはカラスのようだったが、その大きさは尋常ではなかった。
翼を広げれば三メートルはあろうか。
そしてその全身を覆う羽は光を一切反射しない、まるで闇そのものを固めたかのような不気味な漆黒だった。
その鳥から放たれる禍々しいオーラに、周囲の小鳥たちは一斉に鳴き声を止め森の中へと姿を消した。
「……な、何、あの鳥……」
レシアが不安そうな声で呟いた。
俺は咄嗟に彼女を背中にかばい、その黒い鳥を睨みつけた。
間違いない。
あれは魔物だ。
それも相当な力を持った高位の魔物。
なぜこんな平和な村の上空に。
鳥は僕たちの頭上を三度大きく旋回すると、甲高い不協和音のような鳴き声を上げた。
そしてその嘴からひらりと何かを落とした。
それは一枚の黒い封筒だった。
封筒はまるで意思を持っているかのように、風に流されることもなく真っ直ぐに僕たちの足元へと吸い込まれるように落ちてきた。
黒い鳥は用は済んだと言わんばかりに、再び甲高い鳴き声を上げるとあっという間に空の彼方へと飛び去っていった。
後に残されたのは不気味な静寂と、僕たちの足元に落ちている一枚の黒い封筒だけ。
封筒は羊皮紙のような質感だったが、その色は鳥の羽と同じ光を吸い込むような漆黒。
そしてその中央には真紅の蝋で封がされていた。
封蝋の紋様は見たこともないデザインだった。
それは瞳の形をしていた。
大きく見開かれた瞳。
その瞳孔の中で何かが燃え盛っているかのような複雑な模様が刻まれている。
俺の胸騒ぎは頂点に達していた。
嫌な予感がする。
これはただの手紙ではない。
この封筒に触れてはいけない。
魂がそう警告していた。
だが無視するわけにもいかなかった。
これが一体何なのか。
確かめなければならない。
俺は震える手でその黒い封筒を拾い上げた。
封筒はひんやりと冷たく、まるで死人の肌に触れたかのようだった。
「……ウオ、開けるの……?」
レシアが心配そうに俺を見つめる。
「……ああ」
俺は頷き、意を決して封蝋を剥がした。
中には一枚だけ同じように黒い便箋が入っていた。
そこに書かれていたのは、血のように赤いインクで綴られた流麗な文字だった。
その筆跡に俺は見覚えがあった。
それは母リリアの筆跡だった。
そしてそこに書かれていた内容は、俺がようやく手に入れたこのささやかな幸せを再び根こそぎ破壊するには十分すぎるほど残酷なものだった。
手紙の冒頭はこう始まっていた。
『親愛なる、大魔王の反転者ウオへ』
大魔王の反転者。
その忌まわしい呼び名に、僕の眉がひくついた。
僕の最も触れられたくない部分を抉るかのような、悪意に満ちた呼び名。
僕は吐き気をこらえながらその先を読み進めた。
『貴方がこの手紙を読んでいる頃には、勇者エミールの死から一年が過ぎていることでしょう。貴方が偽りの平穏に浸り、牙を抜かれてしまっているのではないかと少し心配していましたが、その必要はなかったようですね。貴方の魂の輝きは、この遠い王都からでもはっきりと感じられます。順調に「目覚め」の時が近づいているようで、母としてこれほど嬉しいことはありません』
まるで僕の一年間を全て監視していたかのような口ぶり。
そのねっとりとした視線が背中に突き刺さるような悪寒に襲われる。
『さて、本題に入りましょう。貴方も薄々気づいていると思いますが、この世界は欠陥品です。
戦争、貧困、差別、憎悪……。
人間という愚かな種族がいる限り、これらの醜い要素がこの世界から消え去ることは決してありません。
勇者という偽りの光は一時的に闇を払うだけで、その根本的な解決にはならない。むしろ光が強ければ強いほど闇もまた色濃くなる。堂々巡りの歴史がそれを証明しています』
母の歪んだ思想がそこには綴られていた。
彼女の言葉には奇妙な説得力があった。
僕もこの一年間考えていたことだったからだ。
父の戦いは本当に意味があったのだろうか、と。
『だから我々は決めました。
この欠陥だらけの世界を一度完全にリセットし、新しい世界秩序を創造するのです。
それこそが我々の「世界反転計画」』
『その計画の要となるのが、貴方、ウオ。
いいえ、『大魔王ダイマ・オウ』である貴方様の存在です。
貴方様が完全に覚醒した時、この世界は真の変革を迎えることになるでしょう』
『しかしその覚醒にはもう一つ、最後の儀式が必要となります。
それは貴方の古い殻……つまり『人間ウオ』としてのしがらみを完全に断ち切ること。
貴方が最も愛し執着しているものをその手で失うことによる、絶対的な絶望です。
それこそが貴方様を真の大魔王へと昇華させる最後の鍵となるのです』
手紙を読む僕の手がカタカタと震え始めた。
彼女が何を言おうとしているのか、嫌でもわかってしまったからだ。
僕が最も愛し執着しているもの。
それはこのカリム村。
そして隣にいるレシア。
『この手紙が貴方の元に届いた今日から200日後。
我々は貴方の愛するカリム村を焼き尽くします。
一人残らず皆殺しにし、その絶望を貴方様への覚醒の贄として捧げましょう』
「……っ!!」
僕は息をのんだ。
全身から血の気が引いていく。
怒りと恐怖で目の前が真っ赤に染まった。
『ですが貴方様は我々の主君。
ただ無慈悲に奪うだけでは芸がありませんね。
ですからチャンスを与えましょう』
『それを阻止するためには私達、「愛眼」に所属する執行者を、この私リリアを含めて全て殺してみせなさい』
愛眼。
あの封蝋に刻まれていた瞳の紋様。
それが母の所属する組織の名前らしい。
『我々「愛眼」の執行者は世界中に散らばっています。
200日という限られた時間の中で貴方が我々全てを見つけ出し殺すことができたなら。
その時は我々の負けです。
貴方の村が焼かれることはありませんし、我々の「世界反転計画」も失敗に終わるでしょう』
『さあ、選びなさい我が息子よ。
偽りの平穏にしがみつき村と共に滅びるか。
あるいはその内に眠る魔王の力を解放し我々に抗うか』
『良い行動を待っています』
手紙はそう結ばれていた。
差出人の名前はなかった。
だが誰からのものかは明白だった。
僕は手紙を握りしめたままその場に立ち尽くした。
頭がガンガンと痛む。
思考がまとまらない。
果たし状。
いや、これはただの果たし状ではない。
僕の全てを奪い、僕を望まぬ道へと引きずり込もうとする悪魔の招待状だ。
戦争や貧困を無くすだと?
その大義名分のために何の罪もない村を焼き、人々を殺すというのか。
矛盾している。
狂っている。
だが母は本気だ。
あの女なら本当にやるだろう。
200日後。
そのタイムリミットが死刑宣告のように僕の脳裏に刻み込まれた。
どうすればいい?
俺はどうすればいいんだ?
一人で戦う?
あの母と、そして「愛眼」とかいう得体の知れない組織を相手に?
無謀だ。
自殺行為に等しい。
だが何もしなければ村は滅びる。
レシアも死ぬ。
それは絶対に受け入れられない。
「……ウオ……?」
僕が頭を押さえ苦悩していると、レシアがおずおずと声をかけてきた。
彼女は僕が読んだ手紙の内容を察しているのだろう。
その顔は青ざめていた。
僕はどうするべきかわからなかった。
この絶望的な事実を彼女に伝えるべきか。
それとも僕一人で抱え込むべきか。
彼女を巻き込んではいけない。
彼女には何も知らせず、僕が一人で村を去るべきなのでは……。
いや違う。
僕はもう一人で抱え込むのはやめたのだ。
レシアは僕のパートナーだ。
彼女に嘘をつくことだけはしたくない。
僕は覚悟を決めた。
そして握りしめてくしゃくしゃになった果たし状を彼女に差し出した。
「……読んでくれ」
レシアは戸惑いながらもそれを受け取り、ゆっくりと読み始めた。
その翠色の瞳が文字を追うごとに大きく見開かれていく。
そして全てを読み終えた時、彼女の顔から完全に血の気が引いていた。
彼女は震える手で手紙を僕に返すと、ただ黙って俯いてしまった。
長い沈黙が流れた。
波の音だけがやけに大きく聞こえる。
僕は彼女にどう声をかければいいのかわからなかった。
きっと彼女は恐怖に震えているだろう。
当たり前だ。
普通の村娘が世界の運命を左右するような、こんな狂った話に巻き込まれてしまったのだから。
僕は彼女に告げなければならない。
君は関係ない。
村に残ってくれ、と。
そう僕が口を開こうとした、その時だった。
「……私」
レシアが顔を上げた。
その瞳にはもう恐怖の色はなかった。
代わりに宿っていたのは燃えるような決意の光だった。
「……ついていくよ、ウオ」
お揃いの覚悟
「……え……?」
僕は彼女の言葉の意味を一瞬理解できなかった。
ついていく?
どこへ?
何を言っているんだこの子は。
「……駄目だ」
僕は即座に否定した。
「駄目だレシア。これは俺の問題だ。君を巻き込むわけにはいかない」
「どうして?」
レシアは真っ直ぐに僕の目を見て問い返してきた。
その瞳は一切揺らいでいなかった。
「どうしてって……決まってるだろ! 危険なんだぞ! 相手はあの母さんとその仲間たちだ! あの魔王ですら指先一つで殺してしまうような化け物なんだ! 君みたいな普通の女の子がついてこれるような旅じゃないんだよ!」
僕は必死に彼女を説得しようとした。
彼女に現実を理解させようとした。
だがレシアは静かに首を横に振った。
「私が普通の女の子だって誰が決めたの?」
「……それは……」
「私が弱いってウオが決めるの?」
彼女の言葉に僕は詰まった。
違う。
そうじゃない。
僕はただ彼女が心配で……。
「ウオは私のこと守ってくれるんでしょう?」
「……ああ。そうだ。命に代えても守る」
僕は即答した。
その誓いに偽りはない。
「だったらなおさらだよ」
レシアは悲しそうに微笑んだ。
「ウオが一人でそんな危険な場所に行くのを黙って見送ることなんてできない。私がウオのいないこの村で一人平穏に暮らすことに何の意味があるの? そんなの私にとっては生き地獄だよ」
彼女の言葉が僕の胸を締め付ける。
「君のためなら命だって投げ出すよ」
レシアははっきりとそう言った。
そして悪戯っぽく笑った。
「君もそう言ってたから。……お揃いでしょ?」
お揃い。
その言葉の重さに僕は息を飲んだ。
彼女は本気だった。
僕と同じ覚悟を既に決めていたのだ。
愛する者のために命を懸ける。
それは恐怖からではない。
愛から生まれる純粋で、そして何よりも強い覚悟。
僕の最後の迷いが打ち砕かれた。
彼女を守るべきか弱い存在として遠ざけることは、彼女のこの強い覚悟を踏みにじる行為だ。
それは彼女に対する最大の侮辱だ。
俺は彼女を信じなければならない。
守るべき存在としてではなく、共に戦うパートナーとして。
僕はゆっくりと頷いた。
「……わかった。……一緒に行こう、レシア」
僕の言葉にレシアの顔がぱあっと明るくなった。
その笑顔は夏の日差しよりもずっと眩しかった。
「だが二人だけじゃ勝てない。相手が何人いるのかもわからないんだ。まずは仲間を見つけなければならない」
父さんもかつてそうしたように。
一人では戦えない。
信頼できる仲間が必要だ。
「行こう」
僕は立ち上がりレシアに手を差し伸べた。
「まずは俺達以外の仲間を見つけに」
レシアは僕の手を強く強く握り返した。
「うん!」
僕たちの目的が決まった。
それはもう絶望からの逃避行ではない。
未来を自分たちの手で掴み取るための、希望への旅路だ。
僕たちが村を旅立つことを決意してから数日が過ぎた。
まず僕たちは村長に全てを話した。
果たし状の内容、母リリアのこと、そして僕たちが村を守るために旅に出ることを。
僕の告白を聞いた村長はしばらく黙り込んでいた。
その顔には驚きと悲しみ、そして怒りが入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
やがて彼は大きくため息をつくと、僕の肩に手を置いた。
「……そうか。……リリアが……。……辛かったな、ウオ」
村長は僕を責めなかった。
ただ僕が一人で抱え込んできた秘密の重さを労ってくれた。
レシアが旅に同行することについては村中が大反対だった。
特にレシアの両親は泣いて娘を引き留めようとした。
当たり前だ。
可愛い一人娘をそんな危険な旅に送り出せるわけがない。
だが最終的に彼らを説得したのは、レシア自身の強い意志だった。
「私は行きます。ウオと一緒にこの村を守るために。これは私が自分で決めたことです」
そう言って両親に深々と頭を下げた彼女の姿は凛としていて、誰にも止めることはできなかった。
僕たちの覚悟を知った村人たちは、最終的に僕たちの旅立ちを認めてくれた。
そして村全体で僕たちを送り出すことを決めてくれたのだ。
旅の準備は数日で整えられた。
それは村人たちの温かい善意の結晶だった。
鍛冶屋の親方は徹夜で僕のために新しい剣を打ってくれた。
父さんが使っていたものよりも少し軽く、僕の体格に合わせた使いやすい剣だった。
そしてレシアのためには護身用の美しい短剣を作ってくれた。
「こいつらが、お前たちを守ってくれるはずだ」
そう言って僕たちに手渡してくれた親方の目は赤く潤んでいた。
食堂のおばさんは僕たちが旅の途中で困らないようにと、山のような保存食を作ってくれた。
「ちゃんと食べるんだよ。腹が減っては戦はできぬからね」
そう言って僕の頭を撫でてくれた彼女の手はひどく温かかった。
村の子供たちは皆で作ったという手作りのお守りを僕とレシアにくれた。
不格好だけど心のこもったお守りだった。
僕たちはたくさんの愛を与えられた。
そしてその愛こそが僕たちが守るべきものなのだと、改めて実感した。
そして別れの朝が訪れた。
空は快晴。
僕たちの門出を祝うかのような穏やかな朝だった。
村の広場には村中の人々が集まってくれていた。
僕とレシアはその中央に立っていた。
旅の支度は万全だ。
あとは出発するだけ。
村長が僕の前に進み出た。
「ウオ、レシア。……気をつけて行け。……そして」
彼は言葉を詰まらせながら続けた。
「……生きて帰ってこい。……皆ここで、お前たちの帰りを待っている。……それだけが我々の願いだ」
「……はい」
僕は力強く頷いた。
友人たちが僕たちの元へ駆け寄ってきた。
彼らは何も言わなかった。
ただ一人一人僕とレシアを力強くハグし、その肩を叩いた。
言葉にならない熱い想いがその感触から伝わってくる。
最後にレシアが両親と向き合った。
「お父さん、お母さん。……行ってきます」
「……レシア……!」
母親が娘に泣きながら抱きつく。
父親はただ黙って娘の頭を撫でていた。
やがて僕たちは村の門へと向かった。
朝日が僕たちの進むべき道を照らし出している。
門を出る直前、僕は一度だけ振り返った。
そこには僕たちに向かっていつまでも手を振り続けてくれる村のみんなの姿があった。
僕の愛する故郷の光景。
僕はその光景を決して忘れないと心に誓った。
必ずこの場所に帰ってくる。
この笑顔を守り抜く。
レシアと僕は互いの顔を見て小さく頷き合った。
彼女の目にも涙が浮かんでいたが、その表情にもう迷いはなかった。
「行こう、レシア」
「うん、ウオ」
僕たちは前を向いた。
僕たちの前には長く、そして険しい道が続いている。
新たな仲間を見つけ、僕たちの幸せを阻む敵を倒すために。
愛を知った俺の英雄譚は、今本当の意味で幕を開けた。
