ハリー王子の告白「Spare」が明かす、"スペア"として生きることの重み
はじめに
ハリー王子について、あなたはどんなイメージを持っているでしょうか。母ダイアナ妃を若くして亡くした悲劇の王子。ナチスの制服を着て物議を醸した問題児。メーガン妃と結婚し、王室を離れた反逆者――。
メディアを通して私たちが知るハリー王子の姿は、断片的で、時に矛盾しています。しかし、彼の自伝「Spare」を読むと、その人生がいかに複雑で、異常とも言える環境で営まれてきたかが見えてきます。
今回は、この話題の自伝から、ハリー王子の人生を形作った重要なエピソードをご紹介します。
「スペア」という宿命
タイトルの「Spare」は、日本語で「予備」を意味します。ハリーが生まれた日、父チャールズ皇太子は「素晴らしい!これで後継者(Heir)と予備(Spare)が揃った」と言ったそうです。
長男ウィリアムは王位継承者。次男ハリーは「万が一のための予備」――。幼い頃から、ハリーは自分の役割を理解していました。父と兄は飛行機事故に備えて同じ便に乗れないけれど、ハリーにはそんな制限はない。なぜなら、彼は「失われてもいい存在」だったからです。
この「スペア」という立場は、ハリーのアイデンティティの根幹を成すものでした。そして、彼の人生における多くの選択と葛藤の出発点となったのです。
極めて「異常な」日常
王室という特権的な環境は、同時に極めて異常な生活を意味しました。
学校には武装したボディーガードが待機し、ティーンエイジャーになればパブの外にも護衛がいる。一人でスーパーに行くことさえ、軍事作戦のような計画が必要でした。変装をして、時間帯を変え、店内の配置を記憶し、できるだけ早く出入りする――。
父チャールズとの関係も、一般的な父子関係とは異なっていました。チャールズはハリーの父親であると同時に、上司であり、資金提供者でもあったのです。愛情はあっても、コミュニケーションは手紙で行われることが多く、ハグは稀でした。これは祖母エリザベス女王の影響のようで、かつてダイアナ妃がハグをしようとした時、女王は避けたというエピソードまであります。
母の死、そして長い喪失の時間
1997年8月のあの夜、12歳のハリーは父親に起こされました。「ママが交通事故に遭った」そして「彼女は助からなかった」と。ハグはなく、膝をポンと叩いて「大丈夫だ」と言われただけでした。
葬儀の日、ハリーは泣けませんでした。母に会ったこともない見知らぬ人々が号泣する中、自分が泣けないことに罪悪感を覚えたといいます。そして深層心理では、母はまだ生きていると信じていました。「もしかしたら今日、彼女が現れるかもしれない」――そう思い続けていたのです。
成人してから、ハリーは真実を求めて秘密警察ファイルを取り寄せました。そこには事故現場の写真がありました。母の周りに金色の光――それは超自然的なものではなく、パパラッチのカメラのフラッシュでした。死にゆく母を、彼らは撮影し続けていたのです。
20代でパリを訪れた際、ハリーは運転手に頼んでトンネルを2度通過しました。その時、ようやく真実が心に沈んだといいます。母は本当に死んだのだと。しかし、この「終末」は新たな苦しみの始まりでもありました。不安、パニック発作、怒り――30代でセラピーを受けるまで、ハリーは精神的な苦闘を続けました。
メディアという永遠の敵
母の死の状況を考えれば、ハリーがメディアに敵意を持つのは当然でしょう。10代の頃から、タブロイド紙は彼を攻撃し始めました。薬物使用、試験でのカンニング――すべて嘘でしたが、記事は掲載されました。
ナチスの制服を着た写真は事実でした。愚かな過ちだったとハリーは認めています。しかし許されても、監視と追跡は止まりませんでした。同じパパラッチが毎日彼を尾行し、写真を撮り続けました。
あまりに耐えがたく、ハリーはパパラッチを殴る空想をするほどでした。その誘惑を避けるため、クラブやパブを出る時、彼はボディーガードに頼んで車のトランクに隠れることもありました。まるで棺桶の中のように暗闇に横たわりながら家に帰る――しかし、それでも写真を撮られるよりはマシだったのです。
メーガンとの出会い、そして新たな試練
2016年、ハリーはアメリカの女優メーガン・マークルと交際を始めました。するとメディアの攻撃は、これまで以上に激化しました。
メーガンの家族は「ギャング」と呼ばれ、彼女の人種的背景について無数の中傷的なコメントが書かれました。ある記者は「豊かでエキゾチックなDNA」という表現まで使いました。
嫌がらせも執拗でした。記者たちはメーガンの家の前に陣取り、ドアベルを鳴らし続けました。ある時、メーガンはオンタリオの凍結した道路で5台の車に追跡され、泣きながらハリーに電話をかけてきました。ロンドンにいたハリーは、母の事故を思い出し、無力感に苛まれました。
結婚後、妊娠中のメーガンが「もう生きていたくない」と漏らすほど、状況は深刻化しました。その夜、二人はロイヤル・アルバート・ホールでのイベントに出席しなければなりませんでした。フラッシュの嵐の中で手を取り合い、会場が暗くなると、メーガンは涙を流しました。
王室からの離脱、そして新しい人生
ハリーは家族に助けを求めましたが、得られませんでした。それどころか、メーガンの私的な手紙が新聞に掲載された時、訴訟を起こそうとしたハリーを、父と兄は止めようとしました。
そして決定的だったのは、家族がメディアと協力していた疑惑でした。かつてチャールズのスタッフが、ハリーの薬物使用についての虚偽記事の掲載を承認したことがありました。それは父の評判を良くするための取引だったのです。
2020年、ハリーとメーガンは英国を離れ、王室の公務から退くことを決めました。会議では「オール・オア・ナッシング」を迫られましたが、最終的にセキュリティを維持する形で合意に達しました。
メディアは激怒し、彼らの行動を「侮辱」「犯罪」と表現しました。しかしハリーに後悔はありませんでした。
おわりに
カリフォルニアでの新生活から2年後、ハリーは自分の決断が正しかったと確信していました。メーガンと2人の子どもたち――彼の家族のために。
「スペア」として生まれたハリー王子。しかし彼は、自分の意志で自由を選び、自分の人生を歩み始めた最初の王室メンバーでもあります。
メディアの執拗な追跡、家族からの理解不足、そして母の死の影――これらすべてを乗り越えて、ハリーは自分らしい人生を切り開きました。それは勇気ある選択だったのではないでしょうか。
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