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先行PVは何を売っていたのか。ゼンゼロ動画の約束と実装の乖離

2026年6月6日、ゼンレスゾーンゼロ(以下ゼンゼロ)のver.3.0PVが公開された。華やかな映像だ。シーズン3先行PVとあわせて、新シーズンへの期待を煽るのによくできている。(ただし、すでに期待していない人を除く。)

ただ、ひとつ確認しておきたいことがある。シーズン2先行PVで見せていたものは、どこへ行ったのか。

PVが売っていたのは、視線だった

シーズン2先行PVに、印象的な構図があった。ウサ耳、麿眉、三つ編み。小柄な少女が、背の高い男の背中を見ている。男の名はダミアン(もしくはそれに相当するキャラクター)。少女は照(ザオ)、もしくはそれにあたる立場の存在だ。

映像は、その視線だけで多くを語っていた。
少女が男を見ている。

それも、ただ隣にいるのではなく、意志を持って、その背中に語りかけるように。

ゼンゼロの物語文脈に照らせば、と言うのは願望だと言うのであれば言い換えよう。映像が見せたキャラクターのまなざし――これは関係性の約束だ。
互いの信念が交差し、信頼が育つペアとしての関係性。

公式がそれを先行PVという形式で出した以上、ユーザーへの売り物として認識して問題ないはずだった。

そっくりさんは来た。ダミアンを見なかった

実装されたのは、外見がよく似た別のキャラクターだった。

顔は似ている。衣装も似ている。
だが、そのキャラクターはダミアンを見ない。
PVが約束していた視線の方向が、消えている。関係性の構図ごと、差し替えられた。

これを「実装された」と呼んでいいのか。
外見を担保するだけで約束が果たされたとするなら、あの映像は最初からキャラクターデザインの一部しか見せていなかったことになる。
だがそうではないだろう。視線があり、距離感があり、無言の文脈があった。
それが先行PVでの二人の核心だった。

振り返り映像という名の言い訳装置

さらに問題なのは、そのシーズン2先行PVの映像がシーズン2振り返りコンテンツとして再使用されたことだ。

この再利用には、巧妙な機能がある。「私たちはあの映像を忘れていない」という態度の表明として機能する。しかし実際にやったことは映像の約束とは大きく異なる。忘れていないことと、実行したことは別の話だ。それを混同させるような構造になっている。

言い訳としての記憶。コンテンツ企業がユーザーに向けて繰り出すとき、これは決して珍しい手法ではない。

政治家の公約と同じ構造

選挙のたびに、政治家は公約を掲げる。美しい言葉で、達成可能かどうか不明な理想を。
任期が終わりに近づくころ、その公約はどうなっているか。達成されていないものについては、「引き続き取り組んでいる」という言葉とともに、次の選挙の公約として再掲される。

約束を言い続けることと、約束を果たすことは、構造として全く異なる。にもかかわらず、有権者の多くはそのサイクルをおおむね許容する。
なぜか。
次の期待があるからだ。「今回はだめだったが、次こそは」という感情が、不達成の事実を上書きする。

ゼンゼロの先行PV問題は、この構造とほぼ同型だ。シーズン2の約束が果たされないまま、シーズン3の、そしてver.3.0の新しい映像が公開される。
前の約束への言及は振り返り映像という形で残る。ユーザーは新しい期待に移行していく。

なぜ支持層は乗り続けるのか

ここが本質的な問いだと思う。

運営の不誠実さを批判するのは簡単だ。だが、それだけでは半分しか説明できない。支持層がそのサイクルに乗り続けることには、それなりの合理性がある。

先行PVという形式は本質的に「感情の先払い」だ。完成していないものへの期待を、映像クオリティによって購入させる。ユーザーはその購入体験自体を楽しんでいる面がある。実装がPVに届かなかったとき、多くの場合「惜しかった」「次に期待」という処理がなされる。これはゲームへの愛着があるほど強くなる傾向がある。

政治への支持も同様で、候補者や政党への感情的な同一化が強いほど、公約不履行は「事情があった」「次こそは」と読み替えられやすい。裏切りと認識するより、期待を更新するほうが心理的コストが低い。

支持層は騙されているのではなく、騙されることを選び続けているのかもしれない。この区別は、批判の矛先を考えるうえで重要だ。

約束は達成のためではなく、期待のために存在する

先行PVもマニフェストも、その本来の機能は「達成への誓約」ではなく「期待の生成」だ。

約束が達成されなくても、次の約束があれば支持は持続する。約束を言い続けることが、達成の代替として機能してしまっている。振り返り映像は、この代替機能を補強するものだ。
「あの約束はまだ生きている」という感覚を維持しながら、実際には別のものへと移行させる。

これを批判したいなら、まず「先行PVは約束ではなくプロモーションです」という現実を受け入れることから始める必要がある。そのうえで、プロモーションとして提示された映像と実際の実装の乖離をどう評価するか、という問いに移行する。

説明責任を果たさないまま期待だけを更新し続ける相手を、それでも支持し続けることを何と呼ぶか。信頼ではない。
無難な言葉にすれば習慣、尖った言葉にするなら信仰だ。

コンテンツ企業も政治家も、期待を管理することで支持を維持する。路線変更や方針転換には、本来それを宣言する責任が伴う。

何が変わったのか、なぜ変わったのかを説明することで、ユーザーははじめて判断できる。それがない場合、未達成の映像を振り返りとして再流通させる行為は、変更の隠蔽として機能する。
これは説明責任の問題であり、透明性が確保されているとは言えない。

照がダミアンを見る、あの視線は、まだ実装されていない。

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