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死にたいキャラが嫌いなわけじゃない。プロメイアが嫌いな理由

2026年4月24日、YouTubeでゼンゼロ公式からVer.2.8 PV「新・エリー都の落日」が発表された。 ここに登場するのは実装予定のプロメイア、S級ビリー、ラミルだ。私は衣装デザインに賛否評論のS級ビリーが好きな方だ。ラミルにはなんの感情もない。そしてプロメイアが嫌いだ。 2026年3月28日、S級ビリーとプロメイアの実装が公式から発表されたが、その日のうちにプロメイアを批判している。

プロメイアがすでに好きな人に対して批判する気は毛頭ない。ただ、ポスト時は考えが浅かったので、私がなぜこのキャラクターを嫌いなのかを深掘りし、言語化してみたい。


「死にたいキャラ」は別に嫌いじゃない

最初に断っておく。希死念慮を抱えたキャラクターが、私は嫌いではない。

たとえばギルティギアシリーズのレイヴン。彼もまた死にたいのに死ねない、千年以上を生きてきた人殺しだ。不死身の身体は痛覚以外のすべての感覚を失っており、苦痛だけが唯一の実感として残っている。何度も自殺を試みて、そのたびに失敗してきた。

それでも私はレイヴンに忌避感を覚えない。なぜか。

希死念慮に「重力」があるからだ。

死にたいという感情が、キャラクターの実存から必然として生まれている。千年生きて、何も感じられなくなって、それでも死ねない。その呪縛が先にあって、希死念慮は結果として存在している。「死にたい」がキャラクターの核ではなく、キャラクターの歴史の帰結として描かれている。


プロメイアの問題

プロメイアは「クランプスの黒枝」の裁決官だ。処刑も職務の内に含まれる、大人の官職である。

公式の説明によれば、クランプスの黒枝とは「審査(英語版では監査)のやり方や裁定の基準は人それぞれ」という組織だ。つまり、処刑基準が構成員ごとに異なることを公言している。

そのうえで今回のPVでは「黒枝は然るべき者にのみ死をもたらす」という台詞が出てくる。

待ってほしい。「基準は人それぞれ」の組織が「然るべき者にのみ」と言う。この二つは矛盾している。好意的に解釈しようにも、足場がない。組織の説明自体が足場を壊している。

レイヴンの場合、「アスカへの絶対的な忠誠と感謝」という軸がある。命令系統というより、恩義と共鳴による自発的帰属だ。彼が人を傷つけるとき、そこには「アスカの目的のために」という一本の筋が通っている。私刑かもしれない、正義とは言えないかもしれない——それでもユーザーが好意的解釈に入り込める隙がある。

プロメイアにはその隙がない。希死念慮の根拠も、処刑の根拠も、どちらも宙に浮いている。


魅力的なキャラクターには倫理的重力がある

個人的な願望だが、希死念慮がある人間に命を扱う官職に就いていてほしくないし、希死念慮の理由が見えない人間に命を扱われたくない。

誤解しないでほしいが、これは「悪いキャラクターはダメだ」という話ではない。人を殺すキャラクター、死を望むキャラクター、そういう存在は物語に必要だし、魅力的に描くことは十分に可能だ。

ただし条件がある。そのキャラクターの行動と感情が、内側から必然として生まれていること。ユーザーが「なぜそうなのか」を理解できる構造が、キャラクターの中に存在すること。

それを私は「倫理的重力」と呼んでいる。

プロメイアに今のところ感じられないのは、その重力だ。コスチュームは確かにデザインとして目を引く。でも、キャラクターとして何を背負っているのかが見えない。処刑官として何を信じているのかが見えない。希死念慮がどこから来ているのかが見えない。

現時点での話だ。実装後に変わるかもしれない。だがプレヤブル実装前の段階で、これだけ「好意的解釈の足場がない」キャラクターを私は珍しいと思う。……最近のゼンゼロではそれなりに「珍しい」が発生していることは認める。

プロメイアというキャラクターに好意的解釈の足場が与えられるかどうかは、命を扱う官職からの脱却か、希死念慮からの脱却か、どちらかしかないと思っている。

どちらでもない意外なストーリーでその足場を得て、私がプロメイアに謝罪する展開も悪くない。納得のいかないお涙頂戴の悲しい過去はそろそろゼンゼロで見飽きたが、納得のいくものだったらそれでいい。


余談

私がゼンレスゾーンゼロの二次創作漫画を描いているのは、ゲームのメインストーリーへの不満が出発点だった。キャラクターの描き方への不満も、その一部だ。

私は照を愛している。しかし彼女の好意的解釈の足場はまるで薄氷だ。そこを歩くダミアン・ブラックウッドの物語を描き続けている。彼の重力で潰さぬように。



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