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なぜ人は「黙れ」と言うのか——ゼンゼロという鏡

※上の画像は生成AIイラストに手直しを加えたものです

先日、「好き」と言い続けることは悪いことなのだろうか、という記事を書いてHoYoLABに置いた。

これは、あるキャラクターについて語り続けることが「うっとうしい」とする発言を見たため、好意を発信する自由について考えたものだった。(※発見時に直接噛みついたのだが、コメントは削除されたため、記事にした。)

今回はもう少し範囲を広げる。ゼンゼロというゲームのファンダムでは、同じ形の対立が繰り返されている。
(コンテンツ提供側が、方針転換の説明責任を果たしていないという記事はすでに書いた。)

「エロ売りだ」「エロ売りではない」。
「肌露出が増えている」「以前から変わらない」。
「批判をする、今言わないと悪化する」「批判ばかりで何が変わる」。
「ゼンゼロらしさがなくなった」「ずっとゼンゼロはゼンゼロだ」。

またこの話か、と思う人もいるだろう。
ただ、個人的には面白くこれらの対立を追ってみると、話題は違えど、同じタイプに嵌っていることに気づく。


事実の対立を装った、基準なき対立

上記で挙げた4つの対立には共通点がある。字面だけ見ると、どれも「検証すれば決着がつく事実の問題」に見える。
しかし実際には、判定のための基準が誰にも共有されていない。

「エロ売りかどうか」を判定する基準は何か。
何をもって「エロ」とするのか。比較する対象は初期のキャラクターか、それとも他社のゲームか。

「肌露出が増えた」と言うとき、増えたとする基準点はいつなのか。

「批判が増えている」という言葉と「今言わないと悪化する」という言葉は、そもそも批判の適切な量や、開発が意見を汲み取るべき範囲について、誰も数字を出していない。

「ゼンゼロらしさ」に至っては、その定義自体がファンの間で共有されたことが一度もない。

証拠をいくら積み重ねても、基準が違う者同士では話が噛み合わない。にもかかわらず、多くの発言は「これが事実だ」という強さで語られる。

その中で、実際に基準を言語化しようとした人たちもいた。

エロ売り論争のある投稿者は、自分が批判しているのは露出そのものではなく、デザインの使い回しと役職との乖離だと最初に宣言していた。

「らしさ」論争のある投稿者は、らしさとは各人が作品のどこに惹かれたかの集合であり、だからこそ人によって形が変わるのだと整理していた。

別の投稿者は、各シーズンに共通する要素だけを抽出することで「らしさ」を定義しようと、表まで作って試みていた。

こうした試みは稀だが、貴重だ。
だが、基準を出したからといって対立が消えるわけではない。


実際、上記の共通項による定義を出した投稿者は、別の読者から「その基準に従うなら、あなたが評価しているSF要素も、シーズン2の時点で共通項から外れているのでは」と論理の内部矛盾を突かれている。
投稿者はそれに反論するのではなく、「まさにその通りで、自分はシーズン2の時点でらしさは失われたと考えている」と、自分の立場を明確にして受け止めた。

対立は消えなかった。だが、対話は成立していた。
基準を言語化するというのは、対立を解消する魔法ではない。
対立を、罵り合いではなく検証可能な形に変える作業なのだと思う。


決着できない苛立ちが、なぜ「黙れ」に変わるのか

順番を整理しよう。
まず、人が他人の意見を黙らせようとする理由には、いくつかの種類がある。
自分の信念への異論を、脅威として処理してしまう防衛反応。
矛盾した情報に向き合い続ける心理的コストを避けたい、認知的不協和の回避。
そして、自分の道徳的確信が強いほど、反対意見は「単なる別の視点」ではなく「害悪」に見えてしまうという構造。

次に、基準が共有されない対立は、証拠を積んでも相手は納得しない。
なぜなら見ている基準がそもそも違うからだ。
この終わらなさは、純粋に疲れる。
そして人は、疲れの原因が「基準の不在」だと気づかないまま、疲れそのものを解消しようとする。

一番手っ取り早い解消法は、相手を黙らせることだ。



「黙れ」の8つの型

実際に集めた発言を見ていくと、「黙れ」にはいくつかの型があることが分かる。話題は違っても、機能は驚くほど共通している。

退出強制型 「気に食わないなら辞めろ」「合わないなら黙って離れろ」。最も単純で、最も頻繁に現れる型。反論ではなく、相手をコミュニティから物理的に追い出すことで対立そのものを消そうとする。

資格剥奪型 「本当にファンなのか」「開発期間を理解した上で言っているのか」。発言の中身ではなく、発言者がその話題を語る資格を持っているかどうかを問い、資格なしと判定することで反論を無効化する。

属性攻撃型 「AI生成だろう」「日本人じゃないだろう」。発言内容そのものへの反論ができなくなった時に現れる。争点を「意見の中身」から「発言者は本物か」にすり替える。

病理化・幼児化型 「エロがあると苦しい病気なのか」「ただの癇癪だ」。相手の主張を、成熟した意見ではなく症状や未熟さの表れとして扱うことで、取り合う必要のないものに格下げする。

カテゴリー否定型 「らしさなんて概念、公式が言ってもいないのに存在しない」。これは射程が最も広い型だ。個別の主張を否定するのではなく、その主張が依拠している概念自体の実在を否定する。
基準を出そうとした努力ごと、道連れにして切り捨ててしまう。

急な仲間認定型 「エロ万歳なら俺らは仲間だろ、争う必要ない」。相手が実は対話可能と分かった瞬間、対立の枠組みそのものを消して、相手を自陣営に取り込もうとする。

感性はそれぞれ型 「そうですか、感性はそれぞれですもんね」。攻撃的な語彙はあまり使わない。多様性を尊重する体裁を取りながら、実質的には対話の一方的な打ち切りを狙う。

手のひらドリル型 長々と「落ち着け、レスバするな、争っても何も残らない」と説いた末に、「まあ好きにすればいい、あくまで俺のスタンスだから」と自ら降りる。正論を説く立場の優位性を得ながら、反論されるリスクは負わない。前半の説教と後半の撤回のあいだに、一貫性は存在しない。


補足だが、言葉そのものを分類しているわけではない。本当に「敵対関係を解消したい」というケースがこの中に混ざることもある。

8つの型のうち、半分はレッテル貼りだ

この8つを見返すと、実は性質が二つに分かれる。

資格剥奪型、属性攻撃型、病理化・幼児化型、急な仲間認定型。この4つは、相手が何を言ったかではなく、相手を何と呼ぶかで議論を終わらせようとする。ファンではない、AI生成だ、病気だ、仲間だ——中身への反論を放棄し、相手にラベルを貼ることで処理している点で、同じ動作をしている。

残る4つ(退出強制型、カテゴリー否定型、感性はそれぞれ型、手のひらドリル型)は、人物の再定義ではない。行動を要求するか、議論の土台を攻撃するか、対話から撤退するか、責任を回避するかのいずれかで、レッテル貼りとは機能が違う。

レッテル貼りが無根拠なら、その真偽に付き合う必要はない。

必要なのは、そのレッテルを相手自身に向けても構わないかを問うことだけだ。相手がそれを引き受けるなら、それでいい。

「お前は黙れ。こちらは言う」という非対称と、「お前にレッテルを貼る。こちらに貼ることは認めない」という非対称を暴くことは、さして変わらない。


「黙れ」が隠しているもの

8つの型、大分類で二種類の型に話を戻す。
どれにしても、機能は同じだ。
自分の基準がどこにあるのか、その基準がどこまで通用するのか——それを示せないことへの防御。
基準を言語化して晒すのは怖い。晒した瞬間、他人からその基準の妥当性を問われるからだ。
だから、基準を出さないまま「これが正しい」と言い切るか、あるいは相手を黙らせることで、その問いそのものを発生させないようにする。

上記のタイプで病理化型の「エロ要素は大好きだ」と公言していた投稿者がいた。
私が自分から噛みつくのは、「黙れ」を内包している意見に対してだけだ。

投稿者が、自身のスレッドに、後から弁明めいたコメントをぶら下げていた。詫びる体裁こそ取っていたが、要約するとこうだ。

・「嫌なら辞めろ」とは言わないが、楽しむ人の場を「こんな要素は要らない」で埋め尽くすのは見ていられない。
・楽しむ側が文句を言う人のために我慢する環境はおかしい。
・気に入らない要素を垂れ流して楽しむ場を汚すのは問題だ。

「感性はそれぞれ型」にシフトして、中身はなおも「黙れ」だった。だから噛みついた。

上記に対しての、私のコメントはこうだ。なお、削除された。
「そうです、あなたが我慢する環境はおかしいと、よくお気づきになりました。あなたが我慢しなくていいのと同じように、文句のある人も我慢しなくていいのです」。

相手が自分のために要求していた自由(我慢しない権利)を、そのまま相手自身の言葉で、対立する側にも適用してみせる。これは論破ではない。相手の基準を、相手自身に一貫して適用させているだけだ。

鏡を置いただけでもある。

これは、その場で思いついた切り返しではない。私の中には、"黙れ"の匂いを感じたときに発動する原則が一つある。
「貴方がそれを自由に言うと、基準適用が非対称になりますがいいのですか? それは、私が憎むものですよ」
(ちなみにこの原則は、前々回の記事のあと、ようやく言語化できた。)
鏡置きはすなわち、この原則をその場に合わせて言い換えただけのものだ。


結論——対立は、解消しなくていい

基準を言語化しても、対立が消えるとは限らない。
前述のシーズン共通項をめぐるやり取りは、最後まで意見が一致しなかった。
それでもそこには、罵倒も、退出の強制も、資格の剥奪もなかった。
ただ、互いの立場が少しだけ、はっきりした形で残った。
この時の私は、それを見つめる観客でしかない。それでいい。

もう一つ、少しばかり印象に残っているやり取りがある。
初期のゼンゼロにあった、言葉にしづらい「ゼンゼロ感」が今は薄れた、と誰かがつぶやいていた。
自分には語彙も分析力もないから、うまく説明できないけれど、と。
それに対して私は、反論もせず、正解も示さず、ただ自分なりの言葉でその感覚を言語化してみた。
相手は、それだけで十分だったと返してくれた。

そこには、勝ち負けも、正しさの判定もなかった。

「好き」と言い続けることが悪いことではないのと同じように、「違う」と感じ、言い続けることも悪いことではない。
誰かが黙る必要はない。
基準がすれ違ったまま、それでも語り合うことはできる。

それができないと感じたとき、人は「黙れ」と言いたくなるのだろう。
黙れ、と言われたら私は、断る。

一方だけに黙ることを要求する基準は、一切受け入れない。


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