四人の死と、義憤が向かわない先とゼンゼロと
最初に明言しておきたい。これは戦争や、人を戦地に送り込むことを美化する話ではない。あくまで、フィクションが描く「不当な扱い」と、それに対して読者・観客の中に生まれる(あるいは生まれない)感情の構造についての話である。
ある特攻エピソードの構造
天沼俊の「戦空の魂」や松本零士の「ザ・コクピット」で、こんな話がある。
(読んだのは昔なので、二つの作品が私の中で混同していると思うが、そこはご了承願いたい。)
ある桜花パイロットの家族が、捕虜として生きている。その事実が敵国のプロパガンダに利用され、故郷の母親は村八分にされている。彼はなんとしても特攻を成功させ、母を苦境から救い出したいと考える。
桜花を必殺距離まで運ぶため、母艦(一式陸攻)に乗る男たちが次々と死んでいく。そして桜花パイロット自身も、特攻によって死ぬ。
結果、母親は「特攻を成功させた兵隊さんの母」「軍神の母」として持ち上げられる。村八分は解消される。だが母は、誰よりも息子の死を嘆いている。
整理すると、こうなる。一人の女性を不当な扱いから救うために、四人もの男が死んでいる。
義憤という感情
人は、誰かの人権が制限されている、誰かの誇りが踏みにじられている場面を目にしたとき、ある種の道徳的関与を抱く。この感情をどう扱うべきかはここでは置くとして、名付けるならそれは「義憤」と呼べるものだろう。
この感情自体の良し悪しを論じるのではなく、まず「発生する」という現象として捉えたい。
なぜ、四対一の非対称さに義憤が向かわないのか
先のエピソードを義憤の視点で見直すと、奇妙なことに気づく。一人を救うために四人が死ぬという、明らかに非対称な構造があるにもかかわらず、この非対称さそのものに対する義憤は、ほとんど発生しない。
理由はいくつか考えられる。
まず、救われる側である母親が「不当な扱いを受けた被害者」として配置されている。義憤の対象として最初から想定されているのは、母親を村八分にした村社会やプロパガンダという、抽象的な構造そのものである。個人の誰かに対して向けられる感情ではない。
次に、死んでいく側の兵士たちが、単なる犠牲者ではなく「能動的に選択した主体」として描かれている点も大きい。桜花パイロットは母を救うために自ら死を選び、母艦の男たちもその作戦を遂行する立場として描かれる。
ここで、もう一つの視点を加えておきたい。彼ら自身もまた、「不当な扱いを受けている母」という構図に対して義憤を抱き、それを行動の原動力にしていた、という見方も可能だろう。
だとすれば、読者がこの四人の死に義憤を向けにくいのは、彼ら自身がすでに「義憤に基づく能動的選択」としてその死を引き受けているからかもしれない。
彼らの死は、外側から見て「強いられたもの」ではなく、内側から見て「選び取られたもの」として回収されている。
結果として、義憤の矛先は「四人対一人」という数の非対称さには向かわず、最初から想定されていた「村社会・プロパガンダという抽象的な構造」へと吸収されていく。義憤は発生しているのだが、向かう先がはっきりしているために、別の場所(数の非対称さ)へは漏れ出さない。
flawed charactersと「かわいい」の問題
ここで、まったく別の例に目を移したい。ゼンレスゾーンゼロの照(Zhao)と、もう一人のキャラクター、ダミアンである。
照には、おおよそ次のような構造がある。
被害者だったキャラクターが、組織の「必要悪」の論理に取り込まれ、搾取の構造を自ら再生産する側に回る。
その転落や姿勢を、物語内の主要人物たちは基本的に肯定するか、深く追及しない。
プレイヤー視点では、彼女は「かわいい/魅力的なキャラ」として消費可能である。そして世界観全体としても、この構造そのものに対する根本的な異議や反逆の声は皆無である。
ここで重要なのは、義憤の対象になりうる人物が、曖昧な誰かではなく、明確にそこに存在することだ。それがダミアンである。
ダミアンはもともと、自分で考え自分で動く主体性を持ったキャラクターとして描かれていた。本来であれば、彼はこの「必要悪」の構造に疑問を呈し、対抗しうる可能性を持った被害者側の人間として描かれてもおかしくない位置にいる。
しかし、シナリオはその可能性を一度も使わない。彼が被害者の立場に置かれてから七カ月、ゲーム内で示され続けるのは、ただ彼が照と黒枝の「おもちゃ」として消費される様だけである。
その消費のされ方は、巧妙に構成されている。
ダミアンは照の荷物持ちを務め、バックダンサーを務め、カメラマンを務める。その間、照は一度もダミアンの方を見ない。
照の登場後、他のキャラクターがダミアンについて「彼は運が良い、対抗が不運になっていく」とメッセージボトルに綴る。
照自身が、ダミアンに対して「試練を課した」のだと主人公に伝える。
そして「試練を課した」という情報とカメラマンとしての姿が示された後、別のキャラクターはダミアンについて「上司のカメラマンを務めるとトントン拍子で出世する」と語る。
ここで起きているのは、義憤の対象の曖昧化ではない。義憤の対象(ダミアン、そして彼への人権の蹂躙)は、最初から最後まで一貫してそこにある。
起きているのは、その人権蹂躙という事実そのものが、作中の言説によって継続的に再ラベリングされ続けるということだ。
「不運」が「運の良さ」に、「搾取」が「試練」に、「無力化」が「出世コース」に、その都度書き換えられる。登場人物たちはこの構造を追及しないどころか、書き換えに加担している。
桜花エピソードでは、義憤は発生し、明確な対象(村社会・プロパガンダという抽象的な構造)に向かい、そこで収束する。
照とダミアンのケースでは、義憤の対象は最初から明確に存在するにもかかわらず、その認知自体が作中言説によって上書きされ続け、義憤が結晶化する手前で無効化されていく。
不発生のメカニズムは、似ているようで全く異なる。
境界線は、どこにあるのか
メディア心理学では、flawed characters(欠陥を持つ、倫理的に問題のあるキャラクター)が魅力的に映る現象が知られている。フィクションにおいて人権を制限する側、誰かを踏みにじる側が「かわいく」描かれていると、それが「かわいいの消費」「かわいいの肯定」へと転化することがある。
ここで義憤と「かわいい」が分かれたとき、ファンダムの中で衝突が起きるかと思いきや、実際にはそれほど衝突にならない。
なぜか。
義憤を抱くこと自体を目的としてメディアやキャラクターコンテンツを消費する人は、そう多くないからだ。
多くの人は、それぞれ自分なりの「超えてはならない一線」「逆鱗」のようなものを持っている。その一線を踏み越えたときにだけ、flawed charactersの倫理的な危うさへの警鐘が発せられる。
つまり、義憤が発生するかどうかを分けているのは、構造そのものの非対称さや問題の大きさではなく、受け手それぞれが持つ「一線」の位置である。同じ照という存在を見ても、ある人にとってはそこに一線があり、別の人にとってはそれより奥に位置する。
先の桜花エピソードの「四対一」についても同様で、その非対称さに一線を感じる人もいれば、物語上の必然として通過してしまう人もいる。
この一線がどこにあるかについて、明確な規則性を見出すことは難しい。それは個人差として現れるものであり、おそらくそれ自体が、考察として興味深い対象なのだと思う。
