【短編小説】『他人のフリ』〜病棟シリーズNo.9〜
院内外出というのは、病棟の外に少しだけ出られる貴重な時間だ。
コンビニでコーヒーを買ったり、ロビーのソファで外の風を感じたり――そのわずかな自由が、入院生活にとってどれだけのリフレッシュになることか。
その日も私は、1階のロビーに降りていた。
院内はどこも同じ制服姿の看護師さんたちで溢れていて、ちょっとした人間交差点のようだ。
エレベーターを降りた瞬間、向こうから見覚えのある顔が歩いてくるのが見えた。
山崎さん――別の病棟の看護師で、もう何度もお世話になっている50代の男性看護師だ。
口数は少ないけれど、冗談を言うと時々ツボにはまって笑ってくれる、優しい人である。
……なのに
なのに、私はなぜか、その瞬間、反射的に、”他人のフリ”をしたのだ。
理由はない。ただ、なんとなく。
急に話しかけるのも変かな、とか、相手も仕事中だしな、とか。
そういう小さな気遣い(という名の小心)が、私の中で勝手に暴走した結果である。
視線を逸らし、携帯をいじるフリをしながら通り過ぎる。
……セーフ。
だが、その後も、運命のイタズラか、なぜか何度も山崎さんとすれ違う。
売店の前、エレベーターホール、廊下の角。
そのたびに私は目線を泳がせ、全力で他人の演技を続けた。
「ふう……。今日の私は完璧に気付かれないな!」
そう内心ドヤ顔を決めていた、4回目のすれ違いで――
「……あれ、小春さんやん?」
バレた。
ついに、バレてしまった。
山﨑さんは、少し眉を上げて笑っていた。
私は咄嗟に、まるで現行犯を捕まえられた泥棒みたいな顔をしたと思う。
「バレてしまいましたね……」
とっさにそう言ってしまった自分にも笑いそうになる。
山崎さんは「そりゃバレるやろ〜」と、肩を揺らして笑った。
なんであんなに必死に他人のフリをしたのか、いま振り返っても謎だ。
でも、あの瞬間の気まずさと可笑しさは、入院生活の小さなスパイスになっていた。
廊下を離れてから、私はマスクの下でそっと吹き出した。
――結局、どれだけ他人のフリをしても、ちゃんと見てくれてる人はいるんだな。
その日の午後、病棟に戻った私は、久しぶりに心がふっと軽くなっていた。
あの瞬間に笑ってくれた山崎さんの表情が、何度も頭に浮かんだ。
看護師との距離って、近いようで遠い。
患者と職員――
その境界線は、たまにゆるやかに溶けて、ただの“人と人”として、笑い合える時がある。
それは、ほんの数秒かもしれないけれど、そういう瞬間こそ、確かに生きている実感をくれる。
何も特別なことは起きていない。
けれどその静かな日常の中に、人のあたたかさがちゃんと息づいている。
そして私は、また明日もここで、生きてる実感を見つけていくのだった。
🔚
