【連載小説】枝に咲く月①
夜に、針が刺さる。
青光りする塔が夜を縫い止めている。この街には無数の針がある。針は、人間の欲望そのもののように空に向かって奥まっていく。
空に向かって突き立つガラスの塔。金色の骨組みをむき出しにしたカジノビル。天空に浮かぶようなプールの縁。どれもが地面を忘れた顔で、上へ、上へと伸びている。夜は声を出さずに黙っている。針の先端部分は地上から、首が痛くなるほど見上げても届くことはない。
針を刺されることが、大人の証。普段あまり抽象的なことを言わない母親がそう言った。
「いつまでその顔でいるのよ」
母は顔をしかめようとしたものの、その眉は囚われの身のように動けずにいた。また顔に注射を打ったのだな、と思う。
「だって、痛そうなんだもの」
「一瞬よ、一瞬。アンタみたいな顔で外に出るなんて、裸でいるのと同じくらい恥ずかしいんだからね」
母さんに言われたくない、と言おうとして、やめた。また不毛な争いを続けるだけだ。裸同然なのは母の方だ。目が痛くなるような真っ赤なドレスは大きく肩が空いていて、肩も、背中も露わになっている。その肌は光にあたるとチラチラと反射していた。その光を見ると、誰もが年齢という言葉を、忘れてしまう。母はあまり動かない眉とは対照的に唇を忙しなく動かした。
「じゃ、行ってくるわね」
いつものことなのに、なぜか母の言葉が引っかかっていた。
私が受付をしている安宿に、勝った客は来ない。針のようなタワーの先端で人生の隅から隅までを賭け、負けていった人が払える、タダ同然の料金を設定している。
客の表情はさまざまだった。あからさまに不機嫌な人、絶望で立てなくなっている人、平静を装っていても、署名後にペンを投げ置く人、聞いてもいないのに戦況を語ってくる人……そして、私の顔を見るなり、ため息をつく。
私の顔は、負けの象徴、とでも言わんばかりに。
働きはじめた頃のように、客のあからさまな態度に腹が立つことがない。この街のシステムがつぐつぐ合理的だと思える。賭けに勝てば、針の先まで登って、母のような煌びやかな女を抱ける。一度負ければ全てを失い、そうしてこの宿に来る。私の顔はこの街のシステムの、一部なのだ。
宿の予約帳を確認していると、頭の上で声がした。
「一部屋、空いていますか」
語尾に向かってほどけていくような声に、顔をあげた私は驚いた。こんな軽装で宿に来た人を見たことがない。漆黒の髪に切れ長の目をしており、淡い顔立ち。口の周りに無精髭がぽつぽつと伸びているものの、負けた人に感じる悲壮感を全く見出せなかった。
「空いております」
「では、205号室を」
男は静かに言った。まるで最初からこの宿、この部屋に来るのが目的だったみたいに。
205号室の鍵を渡すと、彼は黒い鞄を背中に預けながら階段を登っていく。
揺れる背中を見送った。
旅人だろうか。この街を純粋に「旅」で訪れる人なんて、いないと思っていた。皆、目的、ギャンブルと風俗……を持って、訪れる。欲望を極限まで尖らせた街。そんな街を見学したいと思って来たのだろうか。だとしても変わった人だ。
思考の小道を辿って、ふと、さみしくなる。何かを置いてきたような思いにとらわれる。
母は、遠い国からここに来たのだと言う。どうして、と聞くと「金を稼ぐため」と、ぶっきらぼうに答えた。金を稼ぐためにこの街に来て、父親もわからないまま、私を産んだ。私を育てるための費用でまた働かなくてはならない。本末転倒だよ、と吐き捨てるように言った。この宿に来る人間と同じく、負けた顔だった。
考え事をしていると、内線が鳴った。205号室からだった。
「受付です」
「脚立をお持ちいただきたいのですが」
「すぐに参ります」
脚立を片手で持って、急いでエレベーターに乗る。エレベーターがガコンと鳴り、揺れながら登っていく。
205号室に入ると、旅人は荷物を下ろして部屋着に着替えていた。
「何か、ありましたか」
そう言うと、旅人は黙って天井近くを指差した。その方向を見て私はハッとした。漆喰が剥がれて、穴が空いている。漆黒の空が見える。
「失礼しました、すぐに塞ぐものを」
「いえ、そのようなことではないのです」
彼はそう言って、脚立を登り始めた。登るたびにギシギシというので、下の方を押さえた。
彼は天井近くの穴を覗き込み、しばらく黙っていた。
声をかけるのもためらわれる。私は脚立を押さえながら目の前の鏡台をみた。確かに、ため息をつきたくなる顔だ。
女がギャンブルをすることは禁じられていた。女がこの世界で勝ち上がっていくには、ギャンブルの強い男に愛されること。そのために、整形費用を投資する。勝ち負けがはっきりしている。だから、私だって、するべきなのだ。整形外科もいくつか調べた。しかし、いざ予約をしようとすると、途端に言いようのない虚無感に襲われる。無気力になってしまう。
隙間風が吹く。窓がないので、この穴から風が入ってくるのだろう。早々に補修しなければ。
「よかった……」
彼は独り言のように呟いた。
「何か……ありましたでしょうか」
「あなたも、見てください」
「え……」
「私が押さえていますから」
彼の穏やかな声は、でもなぜか引き返せないような気がした。私は脚立を登り、穴が空いている壁を覗きみた。
外は、不思議なほど真っ暗だった。それなのに、遠くの方に小さな黄色い光が見える。タワーが放つ青い光とは違う。やわらかい、ただそのものを照らすような……
「これは……」
「月、です」
つき、と彼はゆっくりと発音した。
母の言葉が頭の中に響く。
「アンタを産んだのが運のツキだった。だからツキコなんだよ」
口元を歪ませて笑いながら母は言った。
負けの象徴として、生まれ、今も負けの象徴として、この安宿にいる。
「……どうされました?」
旅人が、黙っている私を不審がるように首を傾げる。
「名前……ツキコなので」
「すごくいいお名前です」
彼は目を細めて、続けた。
「旅をしていると、時々……ひどく寂しくなることがあります。どこでもない場所を歩いてしまっているのではないかと……そんな時、夜空を見上げるのです。すると月が見える。月はどこにでもあります。この街は周りの光が強くて、月が見えないのかと思いました。でも、ここからなら、見える」
「あなたは……どうして旅をしているのですか」
「探しているのです、季節を」
「季節……暑くなったり、寒くなったりする……それを探しているのですか?」
「雪月花、と言われます。季節にはそれぞれの美しいものがあります」
「美しいもの……」
美しい、それが何を指すのか、この街では考えたこともなかった。けれども月を見ているとなんだか心が穏やかになれる。季節ごとに、月のようなものがあると聞くと、くすぐったい気持ちが込み上げてくる。
脚立から降りようとすると、旅人が左手を差し出した。最初、何をしているのかわからなかった。
「危ないでしょう、僕の手をとってください」
彼は半ば強引に私の左手を握った。淡白な顔立ちとは裏腹に、その手は筋張っていて大きかった。
こんなことを、ましてや男の人にされるのは初めてだった。宿に来る人たちは、私の顔を見るなり、ため息をつき、時には蠅のように手を振り払う。それか、母親のしょっちゅう変わる恋人のように完全に無視をされるか、冷たくあしらわれる。「全然似てないねえ」と、嘲笑される。そして母の腰を抱いて寝室へと消えていく。そんな人たちばかりだった。
「また、この街に来てくれますか」
言ってしまってから、後悔した。この街なんて、季節の美しさとは無縁なのに。
「行きますよ、あなたがいるなら」
「私、ですか?」
「あなたがいれば、まだ、間に合います。どうかそのままのあなたでいてください」
それだけいって、彼は黒い鞄から細長い紙包を取り出した。
「これを、お宿に置かせてください」
紙包の中を開けると、茶色がかった細長い棒だった。途中で三又のように無造作に分かれている。ひどく不恰好だと思った。
「枝、と言います。この枝の先に、季節があります」
「枝」を受け取って、先を見つめる。一見何も変化がないように見えたが、月の光にあてられて、ぼんやりと光って見える。しかし、ほどなくしてその光は解けるように見えなくなった。
「消えてしまいました」
「消えてしまうから、美しいのです」
旅人は「お付き合いありがとう、おやすみなさい」と言ったので、私は会釈して部屋を後にした。
翌朝、205号室に旅人はすでにおらず、宿泊料とチップ、そして枝だけが残されていた。
読んでいただきありがとうございました。
エブリスタ「雪月花」に応募しましたが、落選してしまった作品を一部公開しました。続きもあるのですが、読みたい声があったら改稿の上後日公開しますね。
いいなと思ったら応援しよう!
チップのご検討、ありがとうございます。
3歳児を育てつつ、スキマ時間に創作を続けています。
いただいたチップは、家事の時短や創作時間の確保に使わせていただき、より楽しい文章をお届けする力に変えていきます。応援が本当に励みになります。