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不動産鑑定士を目指すのをやめたはなし

約10年前の個人的な出来事を語っています。
不動産の話は出てこないのでご了承の上読んでいただけると嬉しいです。

20代の時、不動産鑑定士を目指していたことがある。
土地や建物の価格を評価する資格で、不動産系では最難関と言われていた。

大学同期のほとんどが大手の企業に就職する中、私の内定先は中堅の不動産会社だった。親も、同期も、私の就職は失敗だと言外に含ませている気がした。だったらその就職先で頑張ればいい話なのだが、私の配属先は管理部門だった。ミスがないように仕事を進めることが第一とされる場で「頑張る」ことにも限界があった。

そんな中、私が熱中しはじめたのが、資格取得だ。

不動産業界では宅建の資格が重要になってくる。宅建は民法や都市計画など覚えることが多い資格だった。しかし、正解がない仕事に対して勉強はむしろ癒しで、私は入社後の半年間、楽しんで勉強し、合格することができた。試験のために勉強していても、自分の知識が深まっていくのを感じる。試験期間中は、宅建以外の資格を取りたいとうずうずしていた。だから、宅建の試験が終わり、結果が出る前に他の資格も手をつけていた。

ファイナンシャルプランナー、ビジネス実務法務検定、簿記……どの資格も実務と連動している。勉強していると、学生だった時の気分を味わえる。試験のたびに行ったことのない学校に行ける。楽しくてたまらなかった。どんな資格でも取れるのではないかと思った。

そんな時、不動産鑑定士、という資格があることを知った。司法書士並みの難易度らしい。土地や建物の価格を鑑定する仕事で、取得すれば職業の幅も広がる……転職のチャンスにもなる。「見返したい」という気持ちがあった。進路を、親に反対され、同期には馬鹿にされていた。チャンスだと思った。即座に資格学校の講座に申し込み、テキストとDVDセットを取り寄せた。

不動産鑑定士の試験対策の大半は「覚えること」である。法律を一言一句丸暗記する。丸暗記は得意だった。だって、落語をしていたから。40分ぐらいの話もそらで話せるまでに練習できる。丸暗記のコツを掴んでいると思っていた。しかし、会話中心の落語と専門用語も法律ではわけがちがう。音読して、書いて、そらで書いて、何もないところから思い出せるまでに練習した。朝、昼休みと、退勤後、すべてを勉強に費やした。

ふと、緩みが出てくる。このまま進んで大丈夫なのだろうかと。実際、不動産鑑定士はどのような仕事をしているのだろう。私は、実際に働いている人の話を聞いてみたくなった。その時使っていたのがビジネスミーティングサービスだ。30分ぐらい他の会社、業種の人と情報交換ができるサービスだ。私はそこに登録して、不動産鑑定士の人を探した。

これが、私とFさんとの出会いだった。

Fさんは、40代男性だと聞いていた。大柄で少々威圧感もある印象だったが、仕事内容についてわかりやすく話してくれて、女性の不動産鑑定士が増えることを歓迎していた。今度、事務所にも連れて行ってくれるという。ありがたいことだと思った。ミーティングが終わった後、FさんからFacebookの友達申請が来た。承認すると奥様や飼っているペットについての投稿がいくつかあった。

Fさんは都内のビルで一人、事務所を構えていた。室内にはいくつもの資料があり、無味乾燥だった法律が生き生きとするのを感じた。私が勉強する中でわからないことを親切に教えてくれて、良きメンターに出会えたと感じた。

ある時、事務所のドアを閉めようと思ったら、開けようとしていたFさんと手がぶつかってしまった。即座に謝ったが、Fさんは無言だった。悪いことをしてしまったな、と思った。Fさんはたまに私が雑談をしようとするとつれなくなって、そのたびに罪悪感にかられてしまうのだった。

しかし、帰宅後、Facebookでメッセージが届いていた。
「さっき、手が触れてドキドキしました」
そんなこと言うんだ、意外だな、とその時は思った。しかし、その後事務所に行っても、メッセージの件には一言も触れずに、あくまでも不動産鑑定士のメンターとしての接し方だった。あれはFさんなりの冗談だったのかもしれない、と思い直し、私は時々Fさんに教えてもらいながら不動産鑑定士の勉強を進めた。

なんについてのだったか忘れてしまったが、ある時「お祝い」をしてくれる、という誘いがあった。不動産鑑定士ではなく、別の資格取得をしたと報告したときに、そう言われた気がする。覚えているのは、12月だってことだけだ。Fさんは、紺色のマフラーを巻いて会社の前まで迎えに来てくれた。そして、タワーになってるホテルの最上階のバーに連れて行ってもらった。
ほぼ真っ暗で、窓の外だけが輝いていた。喧騒の中でFさんの低い声がする。「好きなものを」と言われたが、メニュー表を見て、私はすっかり恐縮してしまった。どれも一人では頼めない値段だ。かといって、一番安いものを頼むのも失礼かと思い、二番目に低価格なものを「飲んでみたいです」となるべく明るく言った。程なくして、透明な三角形のグラスに入ったほんの少しの鮮やかなリキュールが運ばれてきた。アルコールが舌に痺れていく。

Fさんがお酒を飲んでいるのを見るのは初めてだった。「酔ったな」と独り言を言っていた。バーを出て、急降下するエレベーターに乗ると体がふんわりと浮いた。Fさんは小声で「ちょっと事務所戻る」と言った。ここで解散かと思っていたら、タクシーの奥に乗るように促された。

タクシーの真ん中に置いていた左手に、Fさんの右手が重なって、さすがに、私も、何が起こるか、悟ってしまった。それでも、ここで帰ります、とは言えなかった。

夜の事務所は、白光りしていて眩しかった。若草色の応接室のソファに座るように言われて、FさんがCDプレイヤーのようなものをつけると、バイオリンの穏やかなクラシックが流れてきた。酔いと、事務所の暖房と、その音楽で、眠気に襲われそうになる。Fさんが横に座ってきた。私は身を固くした。少しでも気が緩んで、身をもたせかけたら、それが合図になってしまうと、思った。

そうして、私は蛹のように固まっていた。Fさんの体温は近くなったり、遠くなったりする。

「帰るか」

Fさんの声がして、私は少々拍子抜けした。私は急いで荷物をまとめ「今日は、ありがとうございました!」と言って、振り向かずに事務所を出た。歩いてどう帰ればいいのかわからなかったが、とにかく近くにある地下鉄を探して、走った。Fさんが私を送らなかったのは、初めてだった。

それからというもの、私は不動産鑑定士の勉強に全く集中できなくなってしまった。テキストを開くたびに、あのことが、よぎってしまう。不動産鑑定士の仕事に興味があると思っていたが、その程度だったのかもしれない。

私の中にあったのは、罪悪感だった。Fさんは、親切で、メンターを引き受けてくれてると思っていた。私はFさんにあまりにもよくされすぎていた。無料でお世話になり過ぎていた。あのお酒の値段だけではない。ずっと、差し出されていたのに、私は、何も差し出さなかった。

同時に、あの時身を任せていたら、すべてを汚してしまうことになった。Fさんの家族。Fさんの事務所。私の未来。私自身。私はあの時、いろいろなものを守ったのかもしれない。

半年後、Fさんから「不動産鑑定士の勉強はどうですか?」と連絡が来たが、既読にしたまま返事ができていない。


読んでいただきありがとうございました。
Fさんは彼の本名とは別のイニシャルです。


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