お城めぐり6 岩村城
今回は2025年9月14日に訪れた岩村城の話です。部の夏合宿一日目に訪れ、私としては日本三大山城の記念すべき一城目となりました。ただ、同日に苗木上にも向かったため、そのハードスケジュールには正直参りました…
1.基本情報
【所在地】岐阜県恵那市岩村町
【年代】文治元年(1185年)~明治8年(1875年)
【城主】遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏
【分類】山城
【現存遺構】石垣など
【標高】717m
【比高】170m
2.概要

https://maps.gsi.go.jp/index_m.html#14/35.365384/137.441783/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
岩村城は岐阜県恵那市南部にある城山(717m)に築かれていた山城です。江戸時代には最も標高が高い城となり、現在も高取城・備中松山城と並ぶ「日本三大山城」として知られています。
岩村城は文治元年(1185年)に源頼朝の家臣である加藤景廉が築城し、その子孫である岩村遠山氏が代々城主を務めました。『太平記』にも1337年(建武4年・延元2年)の記述に「霞城」として登場します。当初は平地に城館がありましたが、戦国時代に戦に備えて山城化したと考えられます。
元亀3年(1572年)に明智光秀と共に武田方の秋山信友を撃退した遠山氏最後の当主である遠山景任が病死すると、信長は5男の御坊丸を遠山氏の養子とし、自身の叔母である「おつやの方」を派遣しました。彼女は実質的に岩村城を指揮し、現在も「女城主」として知られています。
しかし、同年10月に遠江遠征に向かう武田方に敗れ、おつやの方が秋山虎繁と結婚することで講和が成立しました。翌年に織田信長が攻め寄せると、城を守る馬場信春と岡部正綱はこれを破りました(岩村城の戦い)。さらに天正2年(1574年)に武田勝頼は岩村城を拠点に明知城を攻略し、織田信長を岐阜に退け東美濃を掌握しました。
ところが、翌年に長篠・設楽原の戦いで勝頼が完敗すると岩村城も織田信忠に包囲され、飢餓に耐え兼ねて降伏しました。しかし、信長はおつやの方と虎繁を憎悪していたため、岐阜城下の長良川河畔で遠山氏の一族郎党共々これを処刑しました(『三河物語』には「信長は御はら立而、岩むろへ押寄給ひて、城を責おとし給ひ、秋山をばいけ取給ひて、磔にかけ給ふ。軍兵どもをば二之丸へおひ入而、堄をゆひ、火を付而やきころし給ふ。おばごをば、こまき山にて、御手打に被成けり」とあります)。
その後、城主となった河尻秀隆による改造によって現在の姿に近くなったとされています。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると団忠正が入城しましたが、彼は6月に本能寺の変で戦死したため、森長河・忠政父子が入城、大改造を行い岩村城は現在の姿になりました。天正12年(1584年)には小牧・長久手の戦いで徳川方の遠山利景を退けています。
慶長4年(1599年)には田丸直昌が入城したものの、翌年の関ヶ原の戦いで徳川方の明知遠山氏に攻められ降伏しました。江戸幕府が成立すると、松平家乗によって岩村藩が成立し、岩村城は居城として用いられました。
正保2年(1645年)には丹羽氏信が入城しましたが、お家騒動から元禄15年(1702年)に代わって松平乗紀が入城し、以降明治維新まで大給松平氏が城主を務めました。その後は2度の地震で石垣に被害を受けつつも、岩村藩の中心として君臨し、明治6年(1873年)に廃城となりました。
3.概要

岩村城の建造物は廃城の際に解体されましたが、現在もそれ以外の石垣や曲輪は非常に好い状態で残っています。また、岩村町内の寺社仏閣には曲輪や門が移築されており、在りし日の姿を偲ぶことができます。
全体的には総石垣の近世城郭ですが、ところどころに堀切など中世城館時代の面影が見られます。また、普段藩主は山麓(680m)の居館で暮らしており、現在は資料館が建ち、太鼓櫓が復元されています。
本丸にはいくつかの虎口が存在し、その中でも本丸虎口には上図のような大変立派な石垣が聳え立っています。元々は高石垣だったようですが、崩落防止のために六段構成になったと考えれています。
4.まとめ
岩村城は現在も大変立派な石垣が残り、その高さから日本三大山城としても知られています。鎌倉時代から明治時代まで多くの戦乱を乗り越えて、恵那地域を見守り続けた歴史の息吹を感じることができる史跡と言えるでしょう。
5.参考文献
・恵那郡教育会(1922)『恵那郡史』、恵那郡教育会
・西ヶ谷恭弘(編)(2000)『定本 日本城郭事典』、秋田書店
