見出し画像

桜屋敷を通る風/第2話 

2.茶トラ猫のトラ

 クロが、ぽかぽかした春の陽射しの心地よいゆらぎの中でしばらく眠っているうちに、お日様は少し傾き始めた。
 季節はまだ浅く、明るいうちから空気は冷め始める。緩やかな風がクロの温もりを連れていってしまいそうになり、体を少し小さく丸めた時、家の裏手にある垣根がカサカサと音をたてた。

 寝息を立てていたクロが素早く振り向くと、黄色っぽい縞模様の猫が垣根をすり抜けて庭に入ってきた。

「あ、クロちゃん。起こしちゃってごめんなさい。」

「いいのよトラちゃん。そろそろ起きないとね。それに、お腹も減ってきたわ。」

 クロはぎゅっと前足を伸ばし背中をそらせ少し伸びをした後、きっちりと座りなおした。

「クロちゃん、よかったらうちにきて食べない?」

 トラは飼い猫だったが、自由に外に出してもらえていた。
 本当の名前はチャトランというらしい。むかしトラの飼い主が観た映画に登場した猫にそっくりだということで名付けられたそうだ。

 最初はクロも「チャトランちゃん」と呼んでいたが、いつの間にか「トラちゃん」と呼ぶようになっていた。トラ自身もその方がさっぱりしていい、というので猫たちの間ではトラになっている。
 トラの毛並みは縞模様がくっきりとしていて、おでこにはアルファベットのMの文字がはっきりと見え、ふっくらとした愛嬌のある姿は誰もが好きになった。

「ここにMがついてる猫は賢いんだって、お母さんが言ってたの」
 トラは飼い主のことを「お母さん」と呼んでいた。
 親猫に優しく体を舐めてもらった記憶も兄弟と一緒にお乳を飲んだ記憶もないトラにとってはこの、人間のお母さんこそが母親だった。
 お母さんの手が優しく自分を包んでミルクを飲ませてくれていたのと、柔らかい毛布に包まれてぐっすり眠ったのをうっすらと覚えている、そうして大きく育っていった。

 トラにとって、野良猫のクロが一番の仲良しだったが、トラはおっとりとした性格で飼い猫ゆえに餌も縄張りも取り合うこともないので他の猫たちともそれなりに仲良くしていた。というよりは、なるべく当たり障りのないように、喧嘩にならないように気を遣っていたのだった。

「八方美人にはなりたくないけど、余計な諍いは嫌いなの。絶妙な距離感が大切なのよ。そのためには相手の気分を上手く察知しなくちゃね。」
とクロに話してくれたことがあった。

 日暮れが遅くなり始めたころ、冬が終わりを告げ恋の季節が始まる。
 猫たちは何となく気が荒くなっていて、うっかり塀の上で鉢合わせしようものなら怒鳴られたり下手をすれば殴られたりするし、追い掛け回されたこともあった。
 ほんとうならまだあまり外には出ないで家にいるほうが無難な時期なのだが、こんな天気のよい穏やかな日には外が気持ちいいし、クロに会いたくなって桜屋敷に来たのだった。

 トラは小さい頃から何度か動物病院に連れて行かれたことがあったのだが、ある日いつも乗せられる緑色の台の上でチクッと痛いと思った後、多分眠ってしまったのだろう、目が覚めるとお腹のあたりが少し痛くて気持ち悪くて、見ようとしても白いエプロンを着せられていて見えず、何よりも嫌だったのが硬い青い色の変な首輪を巻かれていたことだった。
 その首輪のせいでお腹どころか周りがよく見えないし、動きにくくてすごく嫌だったので最初は我慢していたものの、病院から家に帰った時には頭をぶんぶんと振り回し、首を思いっきり縮めたり顎のあたりに爪をかけたりして暴れて取ってしまった。
 トラの「お母さん」はそれを見て大笑いした。

「嫌だったね。それじゃもう外しておこうね。お腹を舐めないでいい子にしていられる?」
と言いながらトラが無理やり引き抜いたエザベスカラーと呼ばれるそれのボタンをパチパチと外し平たくして片付けてしまった。

 普段、トラの飼い主は仕事で家を空けることが多く、トラのために猫用の小さな扉を付けてくれるほど寛容だった。
 そこから好きな時に出入りしていたが、夕方にはちゃんと家に帰ってお母さんを待っていた。

 家に帰ってきたお母さんは、いつもいつも、トラにたくさん話しかけた。
 お天気の話、職場での出来事、食べ物の話、一緒にテレビをみていると「これはね、」などと説明もしてくれる。おかげでトラは結構な物知り猫になっていた。

 お母さんがトラとじっくり話す時はいつもトラに触れながらトラを見て話した。トラは、こうやってお母さんとくっついている時は自分の言葉が通じて、お母さんがトラの気持ちを分かろうとしてくれるのが嬉しかった。

 トラのお母さんはカウンセラーだった。いろんな人の話を聴くのが仕事だったから、家ではトラを相手に自分の事をたくさん話したのかもしれないし、トラの話さえも聴いていたのかもしれない。

 お母さんはよく、幸せとか夢とかについてトラに語った。でもそれはいつも問いかけるような、答えを探るのを手伝わせるようなそんな語りだった。

「自分の思い描いた夢を口に出したり、やってみたりすると叶うっていうじゃない。それは確かにそうだと思うのだけど、何か自分の力ではどうにも抗えない時、思い通りに進まなくて行き詰ってしまうでしょ、その時に上手に諦めることって必要なんじゃないかな?諦めるっていうと挫折みたいだけど、そうじゃなくて上手にっていうのは、いいアイデアをひねり出したり、自分じゃひねり出せなかったら誰かに話してみたりとかね、どうかしら?」

 ぐるぐるとその場を回っているだけに思える話も、最後にはシュッと上に飛んで行くそんな感じだった。


「お母さんがね、私はアセクシャルな猫になったんだって言ってた。」

「あら、なんか素敵ね、それってエレガントで大人っぽい感じがするわね」
クロが前足の内側を舐めながらトラを見て言うと

「そうね、でもエレガントとはまた別ね。クロちゃんはとてもエレガントよ。私はね、恋の季節が来ても夜になってもソワソワしないの。性的な意味のことなんだって。私はもう誰かと恋に落ちて、私の赤ちゃんを産むことはないわ。それがもともとの性格だったかどうかは私にも分からない。でもね、クロちゃんのことは大好きだし、公園で時々会うキジ白猫のレオ君と遊ぶのはとっても楽しいの。」

クロは、そう話すトラの黄色い毛並みがフワフワと揺れるのを見ていた。

「そうなのねぇ。私はルナが大好き。この桜がまだつぼみのころねルナとずっとここで一緒にいたの。月明かりがまぶしいほど綺麗でとっても幸せだった。」

 そう言うとクロは胸がキュンとなるような思いを巡らせながら桜を眺めた。

「ねぇ…クロちゃん、そろそろ本格的にお腹が空いてきたわ。食べに帰りましょ。」
そう言ってトラは垣根に向かって歩き出した。

「ありがとう。ほんとにいいの?」

「遠慮なんてしなくていいのよ。日が暮れて真っ暗になるまでお母さんは帰ってこないし、多分クロちゃんに会っても怒らないと思うからゆっくりしていって。そのままうちで寝てたら、きっとうちの猫にしてくれるわよ。」

 クロはもう一度、背中を高くして伸びをし、体を伸ばしながら石から降りた。

 トラの家は、垣根を出て小道を横切り、隣の家の庭を斜めに通り抜け、塀の上を2軒分歩いた所ところにあった。車が通る道にも出ないし、隣の家の庭には時々盆栽に水やりをするお爺さんが出ているぐらいで、その後ろを通っても怒られたこともなく平気だった。

 そうしてクロは、トラの後ろから猫専用出入口のゆらゆら揺れる板を頭で押して家に入った。

いいなと思ったら応援しよう!