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桜屋敷を通る風/第3話

第3話 桜屋敷に住む人たち

 桜の花の色が濃くなり、数を減らした花びらを補うように鮮やかな若葉を添えはじめた。木は、ますます生き生きとして、このところ続いた雨がその葉先に瑞々しさを送っていた。
 そんな雨のせいで、クロは日向ぼっこの石での昼寝ができなかったのだが、今日は久しぶりに穏やかに晴れたので、お昼過ぎに桜屋敷の庭に入った。
 散った花びらは幾度かの雨ですっかり地面に馴染んでおり、クロがいつも通りの挨拶をするように幹に頬をすり寄せると、枝に残った花たちがこの木が桜であることを忘れないでと耳打ちしてきた。

 クロが雨戸の前の大きな石にゆったりと座って毛繕いを始めると、この家の表の方で大きな車が止まる音がした。そしてその後、ザワザワと何人かの人の声がし始めた。
 家の前には車が通れる道があるが、行き止まりになっていて、車が数台停められるほどの駐車場があった。
 時々、隣の家に荷物を配達するトラックが来てこの家の前に停まることもある。クロはここには人が入ってこないことを知っているので、今日も知らん顔で寝そべって前足の爪の手入れをしていた。

 ところが、いつもならすぐに出ていくはずのトラックは停まったままのようで、ザワザワとした人の声は続いた。何やら門の軋む音やバタバタと聞きなれない音がしたかと思うと、今度は家の中で声が響き始めた。
 クロは腰を下ろしたままの姿勢でじっと雨戸を見つめ耳をそばだてていたが、いきなりすぐそばでガラガラと音がしたので慌てて石から飛び降りて少し離れた所に立った。
 怖かったが、そのまま走り去ることはしなかった。せわしなく耳を回しながら見ていると、今度はギシギシと雨戸が動き始めた。
ただ、長い間閉められた雨戸は簡単には動かず、10㎝少し開いただけだった。
 クロが、そこに固まったように動かず立っていると、その隙間から顔を覗かせた女の子としっかりと目が合った。
「あっ」という小さな声を上げたその子の姿はすぐに見えなくなったが、中で
「ママー!黒猫がいてたっ!」
と大きな声で叫んだのが聞こえてきた。
 その声で我に返ったクロは、そそくさと垣根から姿を消した。

 長らく空き家になっていたこの家に引っ越してきたのは、4人家族で小学生の女の子が2人とその両親だった。
 玄関の方から庭に回ってきた女の人が、内側からは重くて開けられなかった雨戸を一枚ずつ、少し持ち上げるように動かして戸袋に押し込むと、そこには下半分がキラキラした模様の大きなガラス戸がでてきた。
 そしてそのガラス戸も開け放つと広い縁側が現れた。
 女の人は、クロがいつも日向ぼっこをしていた大きな石の上に緑色のサンダルを置くと
「これ、庭用のサンダルやからね。」
と、中にいた女の子に声をかけた。

「ママ、私も庭に出てもいい?」

 女の子が縁側に腰掛け、足を下ろしてサンダルを履くのを見ながら
「いいけど草だらけやよ。」
と言った後「東京の土て真っ黒けやな」と小さく呟いた。

 日が暮れても引っ越し荷物の片づけは続いているようだった。
クロがこっそり戻って来た時には庭に面したガラス戸は閉じられていたけれど、家の中では人が動き回る音がしていた。部屋の中の明かりがそのまま庭に漏れ、これまでの満月の夜の庭よりもっと明るかった。 

 クロが寝床にしていた庭の隅にある物置小屋は暗くひっそりとしていた。裏側の板が外れかけた所から頭を入れ、もぐり込んで中の様子を確認すると、空いた段ボールや小さな車輪がついた板のようなもの、ボールやスコップが入った大きなプラスチックのかごなどが無造作に置かれていた。
 クロが寝られるほどの場所は空いたのだが、何やら居心地が悪い気がして後ずさるように、しっぽから小屋を出た。
 こんな日に限って恋人のルナも姿をみせないし、トラを訪ねるには夜遅すぎた。

 ほかにもいくつか気に入った寝床を見つけてあるので当分そんなに困らないが、それでも今日突然、桜屋敷から逃げるように出てからは、何となく不安で寂しいような、悔しいような気分だった。
 クロはすっかり元気をなくし、しっぽを引きずりそうなほど下げて、とぼとぼと桜屋敷の庭を後にした。

 次の日の昼下がり、やっぱり桜屋敷が気になったクロは塀の上からしばらく家の方を見ていた。昨日より静かで、庭に面したガラス戸はぴったりと閉まっていたので庭に降りてみた。
 日向ぼっこの石の上に、緑色のサンダルが乗っているのが何だかよそよそしくて、残念な気持ちがした。
 何よりずっと閉まっていた古びた木の雨戸が、ガラス戸に変わりキラキラとお日様の光を反射させているのを見ると、同じ場所とは思えないほどだった。

 草に隠れるように座って、ぼんやりと石の上のサンダルを見ているとガラガラガラとゆっくりとガラス戸が開き昨日の女の子が姿を見せた。
 その瞬間にクロは驚いて立ち上がったのだが、すぐには立ち去らず、まっすぐにその子を見ていた。すると、縁側に腰かけ緑のサンダルに足を置いた女の子のほうも、ふっと顔をあげた。

 女の子が見たのは、魔法使いが連れていそうな、全部が艶々と真っ黒のほっそりとした猫だった。その細く長いしっぽは、ピンと立っているかと思えば少し先をくねらせるように動いていた。
 女の子はじっと動かなかった。まるで黒猫の金色の瞳から、見つめ合った相手が動けなくなってしまう魔法でも放たれた様に見えた。

 クロのまばたきで魔法が解けた女の子は、そこに座ったまま身を乗り出すようにして「チョッ、チョッ、チョッ」と舌を鳴らし、小さな声で「おいでっ」と呼び掛けてきた。

 そしてまた少しの間、お互い動かずじっとして見つめあっていたが、我慢しきれなくなったように女の子は急に縁側に立ち上がり、そのまま奥に入りながら
「ママーっ来て!やっぱりここに黒猫住んでやるわ!」
と母親を呼んだ。

 急に女の子が動いたので、クロは驚き、身をひるがえして塀の上に戻ってからしゃがんだ。
「ほんま?どこ?」
とヒソヒソ声で女の子の母親が出てきた。
 縁側からは塀までは離れていたが、クロはいつでも逃げられる体制でしゃがんだままでいた。

「エサあげたらあかん?かわいいから、懐いたら香菜が飼ってもいい?」
と女の子がねだるように聞くと、
「そうやねぇ、どうやろ?あの子、多分大人の猫やん。懐くかやろか…?えーと、なんか餌になるもんあったかな?」
と奥に入って行き、少し待つと、
「こんなん食べやるかなぁ?」
と、空いた豆腐のパックに出汁を取った後の鰹節や煮干しを入れて戻ってきた。

 その間もクロと女の子は見つめ合ったままで、またお互いが相手を動けなくさせている感じだった。しかし、女の子が豆腐のパックを持ってサンダルに足を入れて立ち上がった時に、とうとうクロは公園に向かって塀を降りてしまった。
「あ、にげてしもた」
と残念そうに言った女の子だったが、
「ママ、ここに置いといていい?食べに戻ってくるかもしれへんし。」
と言ったあと、どの辺りに置くべきかと散々迷い、サンダルを端によせて石の上に豆腐パックを置いた。

 そして縁側のガラス戸をゆっくりとガラガラ動かしながら、
「クロちゃーん、エサここに置いとくからねー。」
と小さめに叫んでからぴったりと閉めた。



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