桜屋敷を通る風/第7話
7.子猫たちのお披露目
桜は青葉をたっぷりと纏った木に姿を変え、ぶら下がっている小さな実を食べにヒヨドリが飛んで来ることもあった。
香菜たちが引っ越してきて、少しずつ慣れてきたクロだったのに、このところずっと様子がおかしい。最初に出会った頃の警戒心が戻ったみたいで、クロ用の器に入れたごはんを出しても、なかなか寄って来ず、誰もいなくなるのを待っているみたいだった。
香菜はクロがどんな生活をしているのか、まだまだ分かっていなかった。何かクロが人間を警戒するような出来事が起こったのかもしれないし、今どんな気持ちかなんてもっと分からない。
ついこの間みたいに食事中のクロの横で話しをしたいと思うのだが、お皿を出してから長く縁側で待っていると、いつまでも寄って来なくなったクロに返って悪い気がした。そんな遠慮もあって少し距離を置くことにしたのだった。
それに香菜の方も学校のクラスにも馴染みはじめ、学校から帰ってクロの食べ物を用意するとすぐに仲良くなった友達の家に出かけたり、習い始めたピアノの練習をしたりと、心の片隅ではクロのことが気懸かりなはずなのに、忘れている時間は増えた。
晴れた日曜日の午後、この庭の桜にぶら下がっているものは桜の実だからサクランボだと思い込んでいた香菜は、鳥に全部やられてしまう前に、何とかして実を取って食べようと考えた。
ママの自転車を庭に引っ張り込み、なるべく安定して自転車が立っていてくれるように何度も向きを変えた。足を乗せかけては、またやり直し、やっとのことで桜の木の幹につかまりながら荷台に立ち上がった。
その実は今までに見たことのあるサクランボよりかなり小さく黒っぽい赤だった。
手が届く実を全て収穫したいところだが、今日の服にはポケットがなく、ジーパンのぴったりしたポケットに入れたら潰れてしまうに決まっている。
不安定な自転車から降りるためには、片手に少ししか握れなかった。とりあえず今はこれだけでいいことにしたが、それでも5つか6つはあった。
そして、降りようと思った時、地面を見て意外に高いことに気付き怖くなった。香菜はサクランボを目指して自転車の荷台に登った時よりもっと慎重に降りた。
自家製の採れたてとはいえ洗ってから食べようと、縁側から家の中に持って入り台所の水道で手とサクランボを一緒に洗い、小さなお皿に乗せた。
そこに妹の友里もやってきた。友里は家でも学校でも口数が少なくおとなしい。
香菜は得意げにニッと笑って、
「庭のサクランボ、食べる?」
と言いながら枝を持って一粒口に含んだ。
だが、その味は想像していたサクランボには程遠く、酸っぱくて渋くて苦い!顔をしかめてペッと吐出した。吐き出したのにまだ渋い。洗面所まで走って口をすすいで、やっと口がきけた香菜は
「あかんわ、めちゃくちゃまずい。友里はやめといたほうがいいで。」
と姉らしく妹を諭した。
素直にうなずいた友里だったが、もとより初めてのものは必ず嫌がる友里が、見たことのない黒いサクランボを美味しいから食べてみろと勧められたところで食べるはずはなかった。
「何、どうしたん?」と咲恵が居間の奥のテレビの前に座ったままで聞いてきた。
「別になんにもなーい。」
と、ごそごそと美味しくなかったサクランボを片付けた香菜は、口直しのお菓子でもないかと、戸棚を開けた。
ほとんどの日曜日、香菜の父親は朝早くからゴルフに出かけるので、こうして3人でのんびりと過ごすことが多かった。
ちょうどそのころクロは、よちよちとまだぐらつきながらも少しずつ動き始めた子どもたちを見て、「もう、ここに居続けるわけにはいかない」と外に連れ出す決心をしていた。
実際、子猫たちの鳴き声も大きくなり始め、クロがいない間に目を覚ました子供たちが小屋の中でミャオミャオと騒いでいたこともあった。
たまたま、香菜の家族の誰も気が付かなかったが、物置小屋は表側の道に近く、近所の人に聞こえていたかも知れなかった。
まずは一番大きく育っているオスの子を出すことにした。この子は肝が据わっていて少々親と離れようが平気で鳴きわめくことはあまりなかった。
もぞもぞ動いていても母猫にくわえられるとじっとしている。
外れかけている板の隙間から後ろ向きに出て、小屋の表側に回り、子猫をどこに下ろすか考えた。
小屋の前でもいいが、できれば直ぐに香菜たちに見つけてほしい。
かと言って、石の上に置くと動いた時に落ちるかもしれないので、少し迷ったが、最近、庭に設置された物干し竿の台座のそばにそっと下ろした。
初めて外のまぶしい光の中に出たその子は、土の上で起き上がったが歩き出すこともせずコンクリートの台座にもたれかかるように座った。小さなブルーの瞳は、初めての景色をゆっくりと見まわした。
よし、と言わんばかりにうなずくとクロは次の子を連れ出しに走った。
次に連れ出した子は、もう迷わず先の子の横にくっつけて下ろした。
その子もすぐ立ち上がったが、まだ上手にバランスを取れずぐらっと危なっかしくよろけたので、すぐにここから離れることはないと、また急いで小屋に戻った。
残る2匹はどちらも少し小さめで、ひとりぼっちになったとたんに鳴き始める可能性があったが迷っている暇もなく一番弱々しい子をくわえて外に走った。
戻ってくると2番目に連れ出した子は、物干しの台座からよろよろと離れ始めていた。
一番先に出した子のすぐ横に3番目を下ろすと、うろうろし始めた2番目も連れ戻す。
そんなことをしているうちに、小屋の中でミヤォミヤォ!ミヤォミヤォ!と取り残された子が叫び始めた。
その、危険を察知したような助けを呼ぶ声を聞いて、先に外に出た3匹もキョロキョロと不安そうにする。
クロが急いで物置小屋に戻り最後の一匹をくわえたのと、香菜と咲恵が猫の鳴き声に驚いて縁側に来たのと同時くらいだった。
普段なら閉まっているガラス戸は、先ほど香菜がサクランボを収穫して家に入ったときに開け放されたままで、だから余計にはっきりと猫の鳴き声が聞こえたのだった。
干された洗濯物が揺れる下で、白黒模様の毛玉がごにょごにょと動いている。
そこに、最後の一匹をくわえてクロが戻ってきた。
最近ずっとよそよそしい態度をとっていたクロが子猫を運んでいる。
香菜も、母親の咲恵もその現実をなかなか呑み込めずにいた。それもそのはずで、二人はクロのお腹が大きくなっているのにも気付かず、まさか赤ちゃんを産んだなんて思いもしなかったからだった。
縁側に立ち尽くす香菜と咲恵のところに遅れて友里が来たことが、2人のフリーズを解いた。咲恵が先にサンダルを履いたので、香菜は大急ぎで玄関に靴を取りに走った。
「いやぁ、あんた子ども産んだん?えー!?」
咲恵は大阪弁特有の言い回しで、友達にでも話しかけるように猫相手に驚きの声をかける。
「うわぁ、小っちゃい。かわいい。」
と子猫のそばにしゃがみ込み指先で子猫の背中のあたりを撫でる香菜。
青みがかった潤んだ瞳は、小さいけれど既にアーモンド型の猫らしい形をしていた。そして「どこ?だれ?」というように小さな頭を持ち上げ、この世界を確認しようとした。
こうやって大事な子どもを見せに来てくれたのは、クロが自分たちを信じてくれたんだから、その信頼を裏切るようなことはしたくないと香菜も咲恵も思うのだった。
一緒にしゃがんでしばらくは子猫たち見ていた咲恵だったが、思い付いたように立ち上がると、その後すぐさま持ち前の手っ取り早さを発揮した。
物置きから引っ越しで使った段ボールを適当に見繕って引っ張り出した。今度は家の中に戻ってしばらく探し物をしていたようだが、出てきたときにはガムテープをブレスレットの様に手首に通し、古いバスタオルを持っていた。
トントンと慣れた手つきで底を組み、ビリッとガムテープをちぎる音がすると箱が出来上がり、そこにバスタオルを敷いた。
ミカン箱よりも一回り大きめの、クロ一家の寝床が出来上がった。しかし、手っ取り早かったのはそこまでで、問題はその箱をどこに置くかだ。
「外に出しとくのは可哀そうやなぁ。他の猫が来るかもしれんし、玄関の中にこの箱置いたら狭いかな?」
「でもパパに怒られるやんな。猫嫌いやもんな…」
