桜屋敷を通る風/第5話
5.クロからのお礼
桜の木が小さな青葉ばかりを目立たせるようになった。クロは香菜が毎日、石の上に出してくれる食べ物を少し離れた所で待つようになっていた。
出会って間もない頃は、石の上に食べ物が入った入れ物を置いた香菜が、舌を鳴らしたりクロの名前を呼んだりしても近寄らなかった。ガラス戸の閉まる音がして足音が消えてもまだ我慢をして時間をあけ、ようやくそろそろと石に近付いた。そして、いつでも逃げられるような体勢で、ガツガツと食べるのだった。決して行儀がいいとはいえない食べ方をしていた。
出してもらった食べ物なのに盗んで食べている感覚。食べ物を誰かに横取りされることへの警戒と自分に襲いかかってくるかもしれない暴力の予感。トラの家で食べる時以外は、そんなものがクロを取り巻いていていたのだった。
だから食べている途中、家の中で物音がしただけで逃げたこともあった。
けれど大抵は食べ物が入った入れ物は長い時間置かれたままだった。クロが食べきって、その場を離れしばらく様子を伺っていても縁側のガラス戸は動かなかった。
そんな日々を重ね、クロに出してくれる食べ物は、あからさまな残飯だったのが、鰹節が混ぜ込まれたご飯に変わっていった。入れ物は豆腐パックやスチロールのトレーから、底に花の絵が描かれたプラスチックの器になり、それからは毎回同じ器で出されるようになった。クロ専用の器だった。
お水はピンクの小さなバケツにたっぷりと入れて、いつでも飲めるように石の横に置かれた。
時間も大体、夕方の少し前に決まってきた。香菜が学校から帰ってきてしばらくすると縁側のガラス戸が開き、「クロー」と呼ぶ声が合図だった。
クロは、食べ物をもらえることよりも、昔幸せを感じた人肌が恋しくなっていた。一生懸命に自分に何かをしてくれようとしている香菜の気持ちに応えたい。自分を求めてくれる愛の温かさにとっぷりと浸りたい。そんな気持ちになってきていた。
次第にクロは香菜が帰宅するくらいの時間には、物置小屋の屋根などにいるようにし、帰ってきた気配がすると、庭で縁側の方を向いて座って待つようになったのだった。
そしてもう今では、香菜がそばにいてもクロは食べられるようになっていた。以前は食事中にクロの周りをかすめながら取り巻いていた悪意も恐怖も感じなかった。
香菜はまだクロに触ろうとはしなかったがそのかわり、器を出した後は縁側に上がり込んで少し離れて、食事中のクロを見ながらいろいろと話すのだった。
「ママが猫もビタミンCを摂った方が体にいいからって、今日からキュウリも入れてるねんけど、どう?」
「鰹節ごはんには、お醤油ちょっとかけた方が美味しいと思うねんけど、猫にあんまり塩分はあげたらあかんて言われてん」
「かぼちゃの煮物、甘くて美味しいやろ。ないしょで一つ取ってきてん」
などと、クロの返事を待つわけでもなく、ひとり言でもなくといった感じで、こはんの事だけでなく学校でのできごとも話すようになった。
トラのお母さんが、トラにたくさん話をしてくれるってこんな感じかな?と思ったらなんだか嬉しくて仕方なかった。
食べ終わって、ぺろぺろと前足を舐めたり、立ち上がって石から降りたりすると
「食べた?もう、ごちそうさまにする?」と言って縁側から腕だけを伸ばして器を取り、「また明日な」とガラス戸を閉めるのだった。
クロは、毎日必ず食べ物を出してもらえることや、たくさんお話をしてくれることに対してのお礼の気持ちを表現したいと考えて、
「何かプレゼントがしよう!」と決めたのだった。
そしてその日、香菜が学校から帰ってくるより早く、そのプレゼントを石の上のサンダルの横にそっと置き、物置小屋の前のコンクリートの上できちんと座って香菜の帰宅を待った。
いつものようにガラス戸が開く音がした。
クロは立ち上がりかけたが、そのとたん香菜の何とも言えない声がした。
「きゃああ!え?これ何?死んでる?…ママーっ」
そして縁側に出てきた香菜の母親の咲恵が、
「うわぁネズミやん。ここで死んでたん?あ、もしかしてクロか」
と、庭に目を向けた咲恵とクロは目が合った。
クロは香菜の反応が自分の予想と違っていたことに驚き、香菜ちゃんのママとしっかり目が合ったことで、すぐに逃げられる態勢に入った。しかし、咲恵は
「クロ、ごはんのお礼にネズミ捕ってくれたん?えらいなあ!」
と優しく微笑みながらクロに声をかけ、香菜には
「あのな、猫ってな、ネズミを捕ったのを見せに来ることがあるねんよ。ママが昔に飼ってた子は捕ったスズメを持って、見せに来たことあってん。ネズミは家の中で悪さするから、クロが捕まえてくれてんわ、賢い子やなぁ、ありがとう。片付けとくわねぇ」
そう言うと、庭に降りてほうきとちり取りを手に取り、さっとネズミの死骸を取り除け、クロにもう一度ニコッと微笑んだ。
クロは香菜ちゃんのママに褒められて嬉しいけど、本当はちょっと違うし、香菜ちゃんを怖がらせてしまったので謝りたいとも思った。言葉で話せたら…そんな風に思ったのだった。
クロが後日、この時のことをトラに話すと、
「褒めてもらえてよかったじゃない!それにお礼だって分かってくれたんでしょ。でも、公園で捕まえてきたネズミなのにねっ」
とトラは肩をすくめて笑うと、こう言った。
「でもね、もうネズミのプレゼントはしなくていいわよ、スズメも捕っちゃダメ。そうねぇ、死んだのじゃなくて、できれば香菜ちゃんが喜びそうなものをプレゼントしなさいよ。」
