桜屋敷を通る風/第19話
19.サヨナラの前に
積もった雪は居座った寒波による冷え込みの強さと、その日の午後にもう一度やってきた雪雲が追加の雪を撒いていったのとで、直ぐには消えず、この地域にしては珍しく長く雪を残していた。
庭の隅に残った日陰の雪はいつまでも融けたり凍ったりを繰り返して白く名残りを残していた。日当たりの良い場所でも夜に凍るのでいつまでもびしゃびしゃと雨上がりよりも厄介なぬかるみ具合だった。
咲恵は、雪が溶けだしてからは、猫たちの足の泥を落としてからしか、家に上げないようにと気を付けていた。しかし、やんちゃなプーは、そんなことはお構いなしだ。泥んこの足で咲恵の制止を振り切り、遠慮なく廊下を走ったので可愛い足跡のスタンプだらけになってしまった。
一緒に帰ってきたクロの足跡スタンプまでつけられてはたまらないので、おとなしく靴脱ぎ石に座っているクロを先に抱きかかえて
「クロは賢いなぁ。」
とクロを褒めちぎりながら丁寧に足を拭いてやった。
そうしている所に戻ってきたプーを今度はしっかりと捕まえて足を拭いたのだが、何とかして逃れようと足を踏ん張るプーとは大格闘になった。
プーを離し、床の汚れも拭き取った後に
「あー、しんど!プーちゃん、あんた体大きくなったし力も強いから疲れたわ。」
と文句をいいながら2匹のお皿にそれぞれキャットフードを入れた。
そして自分もお茶を淹れて一息つこうと、咲恵が台所に入って行ったのを見たクロが、
「プー、大人しく香菜ちゃんのママの言うことを聞かないとだめよ。」
「だってボク、足をギュっと持たれるのが嫌なんだもん。自分で綺麗にできるのに。」
とプーはわがままな返事をしてきた。
こたつにお茶とお菓子を運んできた咲恵は、
「ごはん食べたら、あったかいとこへおいで。」
とストーブが温かく燃えている部屋に招き入れた。
するとプーは、最近覚えたこたつの中に一目散に潜り込んだ。いつも中で体がべろべろになるくらい温まるまで出てこない。
遠慮がちに入ってきたクロは、ストーブの前に箱座りをした。
ストーブの前にクロが落ち着いたのを見届け、熱いお茶をすするように飲んだ咲恵は
「クロ、あのな。3月に引っ越しすることに決まったんよ。ここから、ものすごい遠いところやねん。」
と話し始めたのだが、
「まだ、香菜にも話してないし、どうするか考えてないねんけどな。どうしよう…」
とため息をついて黙り込んでしまった。
しばらく、お茶に口を付けたりお菓子の包みを開けてはまた仕舞ったりと、心の迷いが行動を惑わして、何をするでもなしにぼんやりとしていた。
部屋の時計は3時半を回っていた。もうすぐ香菜たちが帰宅する時間だった。
「クロは、ここにずっと居たいよなぁ。」
やっぱり、ため息しか出てこず、咲恵はこたつを離れストーブの横に座った。そして、クロを撫でながら考え込んだ。
「香菜ちゃんやママたちといつまでも暮らしたいけど、やっぱりここを離れるのは辛いわ。また、昔みたいにひとりでも生きていけると思うの。でも、プーには難しいと思う。」
「そうやんね。クロはきっとそう言うと思ってた。でも、プーと一緒に残るって言うかなとも思ってたんよ。子どもと離れるのは、寂しいやろ。」
「人間と違って、親子でもずっと一緒には居られないの。こうやって、お家があればいいのだけれど…。今からでも、プーが自分で食べて行けるようになれるとは思うけど、それは本当に辛くて大変なことになると思う。」
「そう、分かった。」
咲恵は、もうあと少しの間しかクロと過ごせないんだと思うと、愛おしさが増して、思わずクロを膝の上で抱きしめた。
涙はまだ流れて来なかったが、キュッと心を締め付ける寂しい痛みに耐えるようにクロの体に顔をうずめた。
そうしていると玄関の方で声がして呼び鈴が鳴った。香菜たちが帰って来たのだった。。
離れがたい気持ちのままに、クロを抱いたまま立ち上がり玄関のカギを開けた。
「うわっ、ただいま。」
ママがクロを抱いて出迎えてくれるなんて初めてだった。香菜も、一緒に帰ってきた友里も驚いたようで、
「なんでクロ抱っこしてるん?」
と不思議そうに聞いたその友里の首元には、黒いフェイクファーのマフラーが巻かれていた。
クロを抱きあげたいのに少し怖くて手が出せない友里に「クロちゃんみたいやろ!」とママがクリスマスにプレゼントしてくれた物だった。
「おかえり。寒かったやろ。」
そう言いながら、クロを肩に乗せるように抱え直すと、クロもしっかりとくっついている。
「なぁ、なんでクロのこと抱っこしてるん?」
と、自分のマフラーを握りしめてもう一度、友里が聞いた。
「こうしてたら、あったかいねん。なークロ。」
居間に戻って、クロをストーブの前に下ろした咲恵は、台所で子どもたちのおやつの用意をしながら「ちゃんと手洗いとうがいな!」といつもの声をかけた。
子どもたちが居間のこたつの横にランドセルを置いて、持って帰ってきた物を取り出し、着ていた上着やマフラーをその辺に置くので一気に部屋は散らかって行く。
「これ、この前お土産で貰ったお菓子、さっき開けかけてんけどちゃんとまだ見てないねん。」
と、先程は手につかなかった菓子箱の包みを開けて中身を取り出し「抹茶ケーキやて」と言いながら箱ごとテーブルに置いた。
それから咲恵は、なんとなく静かに落ち着いた空気を見計らって言った。
「パパまた転勤やねんて。」
その声は子どもたちが、特に香菜が、大きな驚きの声を上げるのを見越したとても小さな、静かな声だった。しかし、
「うん、知ってた。」と静かに返す香菜の声と、同時に「テンキン」と繰り返しただけの友里の声は、咲恵が予想した騒ぎにはならない。
香菜がすでに知っているということもまた、予想外の事だ。それが返って暗い方に向かう予兆のようで、今度はなんとか明るくしようと、気持ちを奮い立たせた咲恵だった。
「パパに聞いてたんか…。それやったら、よかった。」
「ううん。この間の夜に話してたやつ聞こえてん。」
「そうやったん。ごめんな、ママゆっくり時間ある時に話しよと思ってな。香菜は中学校からで、友里は4年生からな。どこに住むかまだ決まってないけど、中学校は制服のこともあるし、なるべく早く決めるようにするからな。」
「うん。」
咲恵は、この拍子抜けするほどの聞き分けの良さに嫌な予感もしたのだが、決めていないことが多すぎた。今日は一報だけにしようかと思った時に
「クロとプーは一緒に連れていけるんやんな。猫飼ってもいいお家にしてな。」
と香菜が絞り出すような少し震えた声で言った。
「それがなぁ…」
「なんであかんの?」
「いや、あかんとは言うてないやん。せやけどな。」
「絶対、一緒でないと嫌やからっ!」
と、いきなり香菜は目に涙をためてかん高い声を出した。
隣では友里がびっくりして、眼を見張っている。
その不穏な雰囲気に、今までストーブの前に箱座りで目を閉じていたクロも一度立ち上がってから、きちんと座り直した。
「ママもな、クロもプーもずっと一緒に居てたいと思ってるねんよ。でもな、」
「でもなにっ!」
と、香菜は言葉の端々に食ってかかり、すでにボロボロ涙を流して泣いていた。
咲恵は、香菜が今、急に聞いて怒り出したのではなく、話が聞こえた夜からずっとため込んでいたに違いないと思った。
「ずっと心配してたんやんな、ごめんな。すぐに話して一緒に考えたらよかったな。せやけどまだほんとに何も決めてないからな、今から一緒に考えよ。みんなが納得できるようにな。ママはクロとプーがちゃんと幸せになるのもすごい大事やと思ってるねん。」
「結局な、「はい」てママの言うこと聞くしかないやろ。いっつもやん。」
と、香菜は、ずっと抱えている自分の無力さに対する怒りと、諦めきれない思いをちゃんと全部言葉にすることができずに声をあげて、ただ泣き続けていた。
すると、クロは香菜の丸まった背中に頭をつけてすり寄り、「ニャン」と鳴いた。
その声は大きな声でもないのによく通った。興奮して何も聞く耳を持たなくなった香菜にもすんなりと入ったのか、ふっと泣き止み、部屋の中が急に穏やかになった。
鼻をすすって、しゃくり上げながら、そばに寄ってきたクロを見て優しく撫でると、香菜は落ち着きを取り戻したようだった。
「香菜ちゃん、ゆっくりと話しましょう」
クロは香菜に話しかけていた。
