桜屋敷を通る風/第6話
6.母親になったクロ
晴れた日の清々しい風が青葉を揺らすこの季節は、猫にとってもやっぱり気持ちのいい季節だった。だが、そんなお天気とは反対に数日前からクロは警戒心をあらわにし、神経を尖らせていた。
せっかく仲良くなりかけたのに、今はまた、香菜ちゃんが見ている前で食べたくなかった。だから最近はおしゃべりも聞けていない。
嫌いになったわけでも、何か嫌なことをされたわけでもないのに、距離を置かないと安心できない。いつまでこんな気持ちが続くのか自分でも分からなかったが、何となく気持ちが落ち着かなかった。自分で自分の機嫌の悪さが分かる、そんな感じだった。
そしてやっぱり物置小屋が一番安心できる。そう決めたのだった。
本格的な雨の季節はまだ先のはずだったが、ここ3日ほどすっきりとしない日が続き、今朝も重たい色の空は音を立てて雨を降らせていた。
そんな肌寒さが戻った日の明け方に、クロはこっそりと寝床にしている物置小屋の片隅で4匹の子猫を産んだ。
小屋の中は、一家が引っ越してきた日から少し空き箱が増えたぐらいでほとんど中の様子は変わらず、入り口の戸が開けられることはめったになかった。
クロは、畳んで積み重ねられた引っ越し用の段ボール箱の上に無造作に置かれた空箱の横で身を横たえ、子猫たちの体をせっせと舐めるのに忙しかった。
体はぐったりと疲れているが、生まれたばかりの子猫たちを守るために心は張りつめていた。
けれど、降り続く雨が小屋の屋根を叩き続け、庭にも外の道にも降る雨音が他の音をすべてかき消した。クロの居るそこだけが世界から切り離された安心感のある空間になると、やがてクロは疲れと安堵とで深く眠り込んでいったのだった。
音の密集した空間が、何も聞こえない無音にさえ思える空間になる。音により気が遠のくのか、気持ちが音を遠ざけるのか。何かに集中した時に物音も話し声も耳に入らなくなるように今のクロにとってここは静かな場所だった。
クロの出産はこれが初めてではなく、桜屋敷を見つけるより前、独りぼっちの公園で出会ったキジトラ猫と恋に落ち、2匹の子猫を産んだことがあった。
しかし、その時のことはあまりよく覚えていない。
子猫とは数時間か、長くてもまる一日くらいを一緒に過ごしただけで、あまりの空腹に耐えられず、気が付いた時には子猫はいなくなっていた。
その時のことをトラに打ち明けたことがあった。するとトラは、
「辛すぎたことは思い出せなくなるものなんだって。でも、その方がいいのよ。痛みも悲しみも体に残ってたとしたら、それを全部抱えたままじゃ重くて動けなくなっちゃうでしょ。クロちゃんが2匹の赤ちゃんを産んだことを覚えてるだけでいいのよ。」
そう励ますように言い、暫く寄り添って座っていてくれたのだった。
子猫が生まれた翌日からクロは急に忙しくなった。お乳をやった後は大急ぎで自分の食事をしに行き、そして大急ぎで帰ってきた。忙しいとはいえ、今はありがたいことに狩りをしなくても香菜ちゃんが石の上に出してくれるものを食べられた。トラの家に遊びに行けばキャットフードをお腹いっぱい食べさせてくれた。
おかげでたくさんお乳が出て、4匹の子猫たちはすくすく育ち、ふわふわとしたそれぞれ特徴のある白黒の模様がはっきりしてきた。たくさん食べていたはずなのに、それと反するようにクロの毛並みは疲れを感じさせ、顔つきと態度が少し神経質に変わってしまった。
クロは毎日、午前中の早い時間にトラの家に通った。トラは相変わらず窓に体を押し付けるように窓枠に寝そべるか、植木鉢に混ざって日向ぼっこをしていて、クロが来ると嬉しそうに猫専用ドアからクロを招きいれた。
「クロちゃん、勝手に入ってきていいのに」
と言ってくれたが、ここはトラちゃんの家だからと、いくら仲良しでもそれはしなかった。
トラはそんなクロの律儀な面が好きだと言った。
馴れ馴れしい態度や、厚かましく相手に入り込むのが自分でも苦手なトラは、少し遠慮がちなクロの距離感が心地よかったのだ。
クロの方は、こんなに毎日当たり前のようにトラのキャットフードを分けてもらうのは悪いと思っていた。食べるや否や子猫たちのところに飛ぶようにして帰るのが本当に申し訳なかった。ただ、今はそれどころではないのが本音だった。
カリカリポリポリと音を鳴らし急いでキャットフードを食べているクロの横で、トラがしみじみとつぶやいた。
「クロちゃんは、赤ちゃんを産んでお母さんになったのよね。素敵よね…。私はもう、子どもを産むことはないの。別にそれが寂しいとか言うんじゃなくてね。誰かと直に触れ合うことは苦手なんだけど、そばにいるだけでは物足りなくて…このごろ時々、誰かにギュってされたいって思うの。嬉しい時とか悲しい時にアメリカの映画でやるのよ。一度でいいから誰かとあんなハグをしたい!クロちゃんは、そんな気持ちになることってあるのかしら?」
クロは、いつでも新鮮なお水がでてくるという、猫専用給水機からペチャペチャとお水を飲みながら、驚いたように目をしばたいた。そして、
「トラちゃん…もう少ししたら、あの子たちを外にだしてみようと思うの。そうしたらトラちゃんには絶対会って欲しいの。だけど、ここまで全員連れてくるのは、まだまだ大変だからトラちゃんが会いに来てくれる?じゃあ、また明日も来ていい?」
「うん!私もいつか遊びにいきたいって思ってた!行っても大丈夫そうになるまで待ってるから教えてね。じゃあ、また明日ね。」
「ありがと、ごちそうさま!」
と言い残して急ぎ足でクロが帰っていった。
トラはクロが出ていった後の猫専用扉がゆらゆら揺れているのを暫くぼんやりと眺めながら、
「私みたいに守らなければならないものがない自由って、「気楽」の一言じゃ表せないわ。「寂しい」も混じってる。この寂しさの穴を埋めてくれるのって、やっぱりクロちゃんなのかしら?」
でもこんなことを言ったらクロを困らせてしまうと、独り言を打ち消すように首を振り、ちょっと考え込んだのだが、
「クロちゃんが私を頼ってここに来てくれるってことは、きっと役に立っているんだわ。誰かの役に立てるって嬉しい。」と言うと、いつもの窓辺に向かった。
トラはやっぱり明るい方に考える。
