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映画「国宝」美しく生まれ美に翻弄された人の人生から推しを想う

ひさびさに邦画を観た。

「芸」に人生を捧げた男の物語。いや男達の物語である「国宝」
舞台は日本の伝統芸能である「歌舞伎」
その為、そこに「血」という要素が加わる。

そしてもう一つのキーワードである「美しさ」

私はこの美しさについて注目してこの映画を見ていて、少なからず推しの人生と重ね合わせていたのでそれを語りたい。(これはSEVENTEENの推し活noteですし…)

美しい推し

ここ数日ずっと飽きることなくPinterestで推し(ジョンハン)を検索して、毎日必ず数枚の写真を推しフォルダに保存するという行為を繰り返している。
彼がただただ美しくて、見ているだけで気分が良くなり、癒され、力を貰い、感動してしまっている。
朝起きたら推し。
昼休憩に推し。
寝る前に推し。
もはや中毒だ。
低血糖時のラムネのように、推しは私の日常によく効いた。

美しく生まれるということ

美しく生まれてしまった人について考える。

ただの美しさじゃない。
「あまりにも」美しく生まれてしまった人たちについて。

美しく生まれたが為に、「求められる」彼ら。
例えばそれがアイドルなら、ファンに「求められる」し、自分を使ってお金を稼ぎたい事務所や大人たちに「求められる」。異性に「求められる」。
誰もが自分に、会いたい、話したい、見たい、知りたい、愛されたいと欲望をぶつけられ続ける存在。周りにいるほとんどすべての人に欲望をぶつけられるというのを想像しただけで私は眩暈がしてしまう。

そして求められる。
「美しさ」を。

「ビジュが良い」という言葉は誉め言葉のようで、美しくあり続ける事を強要する呪いの言葉だ。
誰だって期待に応えたい。自分が褒められる部分は何としてでも維持しなければ。
そのために、アイドルは悲しいぐらいいつもダイエットをしているし、管理している。

美しさという、いつか必ず損なわれてしまうものを求められ続ける事は、どんなにか心細いことだろうと想像する。

人間国宝である万菊が病床で語った言葉、
「ここには美しいものがなにもないの。だからほっとする。」は美しくあることを(この場合はビジュアルだけを指しているのではないのだけれど)生涯求め続けた職業人生の中で、一人の人間である万菊がはじめて透けて見えた。

俊介に語った「あなた歌舞伎が憎くて仕方ないんでしょう。でもそれでいいの。それでもやるの」という台詞。
これは俊介だけではなくて、喜久雄にも万菊にも当てはまっていたんだろうなと思う。
苦しくないわけがない。
だけれども、それでもやるのだ。
その「血筋」に生まれてしまったし、その世界に「求められた」から。

芸がある

美しさはいつか必ず損なわれる、そこに「芸」がないと。
最後に自分を助けるのは「芸」だ。

喜久雄はその為に悪魔に魂を売った。
つまり、芸以外はすべてを捨てた。

屋上のシーンで彰子に「どこ見てんの?」と言われ、「どこ観てたんやろな?」と笑い泣くシーン。私はここが一番涙腺に来た。

ずっとずっと追い求めていて、すべてを捨てて打ち込んできたものが今遠くにある絶望。芸があっても「求められなければ」舞台には立てない。自分の、もうずっと前に諦めてしまった夢が重なり、苦しかった。

喜久雄は「芸」の世界しか見ていなかった、ずっと。
それ以外のことはすべて雑事であった。

何かの芸事、例えば俳優や作家やミュージシャンなどのアーティストで、歴史に名を連ねている面々の私生活は、スキャンダラスな事が多いが、私はさもありなんと思う。
だってそうだ、自分の芸以外は本当にどうでもいい事なのだから。

「国宝」を見た友人が、喜久雄を捨て、俊介の元へ行った春江に対して「あの女信じられない」と腹を立てていたけれど、私はむしろ、喜久雄という才能を自らの欲望の為にドサ周りの生活に貶めた彰子に大変腹が立った。
大舞台で割れんばかりの歓声と拍手を浴びていた喜久雄が、小さな舞台で、誰からも視線を受けずに踊り続ける姿を見ていられなかった。

春江はわかっていたに違いない。喜久雄にはもう「芸」しか見えていないことを。そして、彼を人間国宝へと押し上げた選択をした春江の愛の深さを思った。

それに苦しみ、それに救われる

人間国宝になった喜久雄の娘であるあやのとの再会。

自分と母を捨てた父親である喜久雄に「あなたがここまで来るまでに、どれだけのものを犠牲にしたのか」と憎しみをあらわにする。
それなのに、喜久雄の舞台を見て、気付いたら全力の拍手をしていた、と吐露する。

そして舞台。真っ白なスポットライトに照らされた喜久雄が「うつくしい」と呟いて終幕する。舞台から見る、舞台からしか見えない、人間国宝になった自分だけが見られるその景色。

この一連の流れに私は心底救われた。

あやのが喜久雄の舞台を「お正月みたい」「どこか遠くへ連れて行ってくれそう」と形容していたが、その気持ちは私が推しを見ている時の気持ちと一緒だった。

何とも言えぬ多幸感。そして現実を忘れられたし、推しがいる世界ならもう少し生きてみてもいいかなとまで思えた。

でもそんな私のわがままで推しが苦しい思いをしていないかは定期的に不安になる。普通の人間が出来る当たり前の事が制限される世界で、推しは幸せなんだろうか?と。

最後に舞台から見た景色はおそらく喜久雄がずっと求めていた「見たかった」景色で、それは本当に美しかった。

私には喜久雄が不幸には見えず、それが推しと重なって安堵した。
良かった、喜久雄は、推しは幸せなんだ。

美しさに翻弄されて苦しみながらも、最後は自分自身も美しさに救われる。

やはり人間は美しいものを本能で求めており、それに活かされているのだ。
自らが「美しい」ものである喜久雄にもそれは例外ではない。

私もアートや美しい文章や美しい景色が好きで、定期的に美術館に行き、本を読み、旅行に行く。それがなく、家と職場の往復の人生ならもうとっくに生きるのをやめていたかもしれない。
これらの美しいもののお陰で私は活かされている。

そしてこの並びに推しが入っている。
推しは私にとってのアートであり、絶景であった。

国宝になるということは、人ならざるものになるという事だ。
人生を賭けて一級の芸術品になること、そのためにすべてを捨てる事は苛烈だが不幸せなことではない。

どうだろう。私はそう思いたい。










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