『交差点の真ん中で』 1.出会い
渋谷のスクランブル交差点は、いつだって人が多すぎる。
誰もが目的地へ急いでいて、誰一人、すれ違った相手の顔なんて覚えちゃいない。
けれど、あの雨の日だけは違った。
「おい、今日の企画どうなってるんだよ」
会議室の重たい空気の中、上司の怒鳴り声が飛ぶ。
白いスライドに映し出された自分の名前と、その下に並んだ“過去の成功例”。
それらはもはや盾ではなく、皮肉のようにしか響かなかった。
「すみません、進捗が少し遅れていて……」
「“少し”じゃねぇよ。いつまで過去の栄光にすがってんだよ」
苦笑すら浮かばない。
30歳を過ぎてなお、挑戦を恐れ、目の前の仕事に“無難”を求めた結果がこれだった。
佐倉 遼(さくら りょう)、34歳。
広告代理店に勤めるディレクター。
新人の頃は、尖ったアイデアでコンペを勝ち抜き、名を上げた。
けれど気づけば、若い才能に押され、冒険できなくなっていた。
このままでいいのか、と問いながら、何もしないまま何年も過ぎていた。
その日の帰り道。
疲れ果てて信号を待っていた交差点。
雨が降っていた。
傘を忘れた遼は、ずぶ濡れのまま立ち尽くしていた。
「——入ります?」
突然、目の前に差し出された透明なビニール傘。
顔を上げると、そこには見知らぬ若い女性がいた。
大きな瞳に、まっすぐな笑顔。
「え、あ、でも……」
「風邪ひいちゃいますよ。もうすぐ青になりますから、それまでだけでも。」
雨音の向こうで、信号が変わる音がした。
並んで歩き出す。
ほんの十秒ほどのことだった。
「じゃ、私こっちなんで!」
そう言って彼女は手を振り、駅へと消えていった。
名前も知らない、あの笑顔だけが妙に胸に残った。
数日後、遼は駅前のカフェでひとりコーヒーを飲んでいた。
あの雨の日のことをぼんやり思い出していたとき。
「……あっ!」
声がした方向を向くと、見覚えのある顔がこちらを見ていた。
「やっぱり!あの時の!」
彼女だった。
遼の前に座ると、笑って言った。
「びしょ濡れだったから、風邪ひいたかなって思ってて。偶然会えて、よかった!」
「……ありがとう。あの時、助かったよ。」
「ふふ、どういたしまして!」
彼女は、朝比奈 澪(あさひな みお)、24歳。
フリーのイラストレーターを目指しながら、カフェでアルバイトをしているという。
このカフェも、彼女の職場だった。
「夢、なんですね」
遼がつぶやくと、彼女は照れたように笑った。
「夢、というか……まだ“夢の入口”くらいですけどね。食べていけるレベルには遠くて。」
けれど、その目は迷っていなかった。
「恥ずかしいなぁ」と笑う彼女の中には、確かな光があった。
自分にも、あんな時期があっただろうか。
そんな思いが、胸の奥でかすかに疼いた。
その日をきっかけに、遼は少しずつ彼女と話すようになった。
仕事帰りにカフェを訪れ、彼女の描いたイラストを見せてもらった。
「これ、SNSに投稿してて。いいねがつくと嬉しくて、また描きたくなるんです」
シンプルな線の中に、やわらかい感情が宿っていた。
誰かを励ましたり、寄り添ったりできる絵。
遼は、心から「いいな」と思った。
「でも不安になることもあります。向いてないのかなって思う夜もあるし。
でも、まだ“やってみたい”って気持ちのほうが強いから、きっと大丈夫です」
その言葉に、胸を突かれた。
「まだ“やってみたい”と思えるかどうか」
自分には、もうそんな気持ち、あっただろうか。
心のどこかで、もう一度何かを創りたいと思っていた。
けれど、それを表に出す勇気もなかった。
澪は、そんな遼の変化を感じ取っていた。
「佐倉さん、何かに挑戦してた人の目をしてます」
「……昔はね。でも、もう年齢もあるし」
「年齢って、何を決めるんでしょう。
“やめる理由”になるには、もったいない言葉だと思います」
真っ直ぐな言葉に、喉が詰まった。
冬のある夜、カフェの閉店後。
「もしよかったら」と澪に誘われ、彼女のアトリエ代わりの部屋を訪れた。
「ちょっと、見てほしいものがあるんです」
そう言って彼女が見せたのは、自分で描いた絵本のラフ案だった。
テーマは「交差点」。
「人生って、交差点の連続ですよね。
すれ違ったり、ぶつかったり、時々、一緒に渡る人がいたり」
「……僕らみたいに?」
「うん、そうかも。私、この物語に“佐倉さん”を登場させたいんです。
諦めたようで、まだ諦めきれない誰か。
そういう人に寄り添えるようなキャラクターを描きたい」
遼は、しばらく何も言えなかった。
この部屋の空気、彼女の熱意、そのすべてが自分の心の奥をノックしていた。
「……ありがとう」
やっと絞り出したその言葉に、彼女はふわっと微笑んだ。
「ねえ、佐倉さん。
もう一度、何か作ってみませんか。
失敗してもいいから、一緒に何か」
その提案が、遼の心を決定的に変えた。
半年後。
遼はフリーランスとして独立し、澪と共に短編アニメーションを制作していた。
原作・キャラクターデザインは澪、企画・構成・プロデュースは遼。
夢を追う彼女と、夢を諦めたふりをしていた自分。
その交差点で、ふたりは出会った。
恋という言葉は、まだ口にしていない。
でも、それ以上に確かな信頼と温もりが、ふたりの間にはある。
夕暮れのカフェ。
完成した動画を見ながら、澪がぽつりとつぶやいた。
「この交差点を渡った先にも、また交差点があるんですよね。
怖くなることもあるけど、でも一緒なら、ちょっと勇気が出る気がする」
遼は静かにうなずいた。
「……渡ろう。何度でも。」
澪が、ゆっくり笑った。
その笑顔に、遼はまた少し、夢を信じたくなった。
