『交差点の真ん中で』 3.まだ見ぬ光へ
夢を選ぶということは、なにかを諦めるということだ。
澪は、その事実を知るのが誰よりも早かった。
高校3年の冬、進路面談で母にこう言われた。
「イラストなんて趣味で十分でしょ。安定した職に就きなさい」
澪の家は、母子家庭だった。
父は幼いころに家を出て、母が昼夜働いて育ててくれた。
絵ばかり描いている澪を見て、母はたびたびこう言った。
「そんな夢みたいなこと、現実見なさい」
「現実」——。
その言葉は、澪の中で呪いのように響き続けた。
それでも絵を描き続けた。
深夜、誰もいない部屋で、音もなくペンを走らせる時間だけが、自分を守ってくれた。
芸術大学に行きたかった。
でも家庭の経済状況を考えると、学費の高い私立は選べなかった。
短大に進学し、就職活動では販売職を選んだ。
“表現”には程遠い世界だったが、それでも「自分の感性でお客さんと繋がる」という感覚を信じて働いた。
だが、店長との人間関係に疲弊し、退職。
そのあとバイトを掛け持ちしながら、ようやく決意したのが「イラストレーターとして生きる」ことだった。
誰かに認められる保証もなく、
収入もまばらで、
未来は見えない。
だけど、それでも描くことだけはやめられなかった。
描くことは、生きることだった。
そして出会った、佐倉遼という人。
初めて見たとき、澪は「この人、止まってる」と思った。
背広の下に、何かを忘れてきたような顔。
でも、それがなぜか気になった。
気づいたら、傘を差し出していた。
それからの日々は、澪にとっても変化だった。
作品を「いいね」と言ってくれる人。
現実的な視点で、でも否定せずにアドバイスしてくれる人。
“夢は見るものじゃなく、形にするものだ”と教えてくれる人。
そして何よりも、自分の存在を肯定してくれる人だった。
遼と過ごす時間は、静かで、深くて、優しかった。
だけど、ある夜、澪はふと怖くなった。
「——私は、夢と恋、両方なんて、欲張っちゃいけない気がする」
その夜、澪は実家に帰っていた。
久しぶりに会った母は、白髪が増え、少しやせていた。
「……最近どう?なんとか暮らせてるの?」
「うん、やっと。少しずつだけど、作品を買ってくれる人もいて」
「……そう。ならよかった」
言葉とは裏腹に、母の表情は曇っていた。
「お母さん、今も、私が絵を描いてること、よく思ってない?」
「そんなことないわよ。ただ……あなたが、苦労しない道もあったんじゃないかって思うだけ」
「それは、“普通”ってこと?」
「普通って、悪いことじゃないのよ。安定して、安心して、暮らせるってことだから」
「でも私は、安心より、“本当にやりたいこと”を選んだんだよ」
澪は初めて、はっきりと言葉にした。
夢の代わりに安定を手に入れる生き方は、選ばなかった。
その分、不安も痛みも背負ったけれど、後悔はしていなかった。
「……私は、お母さんみたいに強くないから、
自分の好きなことまで諦めたら、きっと空っぽになると思ったの」
沈黙のあと、母が小さく笑った。
「……あなたも強いわよ、澪。
自分を曲げなかった分、ね」
その言葉に、澪は泣きたくなった。
ずっと欲しかったのは、理解だった。
たった一言、「それでいいよ」と言ってくれる声だった。
母のその言葉が、澪の背中を押してくれた。
ある雨の夜。
澪は傘を持たずに、遼の部屋の前に立っていた。
インターホンを押す指が震えていた。
でも、伝えなきゃと思った。
遼がドアを開けた瞬間、澪は言った。
「私ね、あなたのことが、好きです」
一瞬、時が止まったようだった。
「……でも、怖いの。
誰かを好きになって、夢が揺らぐのが。
好きな人のために夢を曲げてしまいそうで、怖くなるの」
それは澪の、素直な叫びだった。
でも——。
「澪」
遼がそっと彼女の肩に手を置いた。
「俺は、君の夢の中にいたい。
夢を捨てさせたくて好きになったんじゃない。
夢を追ってる君を、心から尊敬してる」
「……でも、私がつまずいたら?」
「そしたら、一緒に立て直そう。
そのときは、俺の夢も君に支えてもらう。
そうやって、ずっと並んで歩けたら、いいなって思うんだ」
涙が、こぼれた。
こんなふうに、信じてくれる人がいるなんて。
ずっと、ひとりで戦ってきた。
夢を守るために、誰にも頼らず、笑ってきた。
でも今——。
「……うん、一緒に、いたい」
その言葉が、ふたりの距離をゆっくりと、確かに縮めた。
半年後。
遼と澪が共同制作した絵本『交差点の真ん中で』が出版された。
子どもにも、大人にも届くようにと作った物語。
澪が描き、遼が構成を手がけたその一冊は、小さな出版社から静かに世に出た。
本屋に並ぶ初日。
ふたりは手をつないで、並んで棚を見つめていた。
「……夢って、叶うもんなんだね」
「叶えるまで諦めなければ、きっと、ね」
澪が笑う。
遼も笑った。
ふたりの歩幅は、もうずれていなかった。
すれ違い続けた交差点の真ん中で、今、確かに結ばれていた。
帰り道。
夕暮れの交差点で、澪がふと立ち止まった。
「ねえ、佐倉さん。
この先も、ずっと一緒に、交差点を渡ってくれる?」
遼は、まっすぐ彼女を見つめた。
「何度でも。
道に迷ったって、君となら大丈夫だと思えるから」
信号が青に変わった。
ふたりは、手をつないだまま、歩き出した。
まだ見ぬ光へ向かって。
