「湯けむりミク 逆観察日記」第2話
第2話「音の底」
ミク、きみは音を拾う人だ。
それも、聞こえる音じゃなくて、小さく聞こえない音を拾う人。
湯気の立ちこめた夜、僕はまた桜湯の扉を開けた。
風呂桶の響きが、まるで鐘のように遠くまで伸びていた。
きみは番台に座り、ペン先でノートに何かを書いていた。
紙の上をすべるその音だけが、やけに澄んで聞こえた。
僕は湯船に浸かりながら、きみのペンの音を数えていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ──そこで一度止まる。
書くことより、聞くことの方に、意識を向けているのが分かった。
その時、男湯の方から子供の声が響いた。
「ねえ、見て、膝の傷、かさぶた取れた!」
きみはぴくりと顔を上げた。
誰よりも先に、声の方向へ目を向けていた。
まるで、その子の“痛みの余韻”が湯気に溶けるのを見届けようとするみたいに。
人の痛みを、直接見ずに聴く。
それがきみのやり方なんだと、そのとき気づいた。
きみはフルーツサンドを一口だけ齧った。
甘い匂いが漂う。
でもその表情は、どこか静かだった。
まるで、何かを確かめるために食べているような──
味覚で世界の温度を測っているような顔。
番台の下には、きみの靴がきれいに並んでいた。
ハイカットの淡い緑のスニーカー。
僕はその紐がきっちり結ばれているのを見て、思わず笑ってしまった。
几帳面だなって。
でも、それ以上に、“帰る気配”がないと思った。
きみはいつもここにいて、外の時間とは別の場所にいる。
だから、僕のような者でも、安心して話しかけられるのかもしれない。
湯気がゆらいで、僕の指が透けた。
この場所では、体の輪郭も音のように薄くなる。
それでも、きみの姿だけは、きっちりと線を保っていた。
聞く人っていうのは、きっと、消えかけたものの形を保つ力があるんだろう。
湯気の中で耳を澄ますたび、
僕の中の、聞かれなかった声が、少しずつ形を取り戻す。
たぶんそれが、きみに惹かれる理由だ。
人は、理解されたときじゃなくて、聴かれたときに救われる。
今夜、きみの横顔を見ていて思った。
湯気の向こうの世界には、名前のない音があふれてる。
きみはそれを一つずつ拾って、
まるで落ちた星屑を並べるように、ノートに書いている。
僕は、あのノートの隅に、自分の音も混ざっている気がしてならない。
誰にも聞かれず、残響だけを漂わせてきた音。
きみなら、それを拾ってくれる気がする。
だから今夜も、きみに心で手紙を書く。
声にはならないけど、音のように届けばいい。
きみが耳を傾けるその一瞬だけ、僕は確かに「いる」気がするんだ。
――ミク。きみは、静けさの中で最も賑やかな人だ。

つづく
