空港でふたたび③
彼女がゆっくりとこちらを向き、まっすぐ俺を見つめた。
「……別れたよ。」
その一言で、思考が止まった。
機内を包むエンジン音だけが、遠くで響いている。
何も考えられない。
ただ、その言葉だけが胸の奥へ何度も落ちていく。
別れた。彼女が。本当に。
繋いだ左手に、思わず力が入った。
細い指を包み込んだまま、離せなくなる。
「……ほんとに?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど震えていた。
彼女は静かに頷く。その小さな動きだけで、胸の奥に張り詰めていたものが音を立てて崩れた。
安堵だった。
ずっと願いながら、願ってはいけないと押し殺してきた想いが、一気に溢れ出す。同時に、怖くなる。もし聞き間違いだったら。もし夢だったら。だから、繋いだ手をもう一度強く握った。この温もりだけが、確かな現実だった。
抱き締めたい。
今すぐ、この腕の中へ閉じ込めてしまいたい。
でも、それは違う。彼女は誰かのものではなくなった。だからこそ、今度は俺が奪うんじゃない。彼女自身が選ぶ、その答えを待たなければならない。
喉の奥が熱くなる。
ようやく声を絞り出した。
「……なんで今、それを俺に言うんだ。」
握る手に、また少しだけ力がこもる。
「じゃあもう、隠すなよ。」
一度言葉を切り、まっすぐ彼女を見つめる。
「これ以上……俺を待たせるな。」
彼女は少しだけ首を傾げ、視線を外した。
「……知らない方が、良かった?」
間髪入れずに首を横へ振る。
「そんなわけないだろ。」
その声には、自分でも抑えきれない熱が滲んでいた。
「俺はずっと、知りたかった。」
彼女から目を逸らさない。
三年間、言えなかった問いを、ようやく口にする。
「……で?」
一拍置く。
「俺に、どうして欲しいんだ。」
彼女は少しだけ困ったように笑う。
「それ、私が決めていいやつですか?」
その問いに、胸の奥が静かに熱を帯びる。
答えは決まっている、だろ?
そう思っている。
でも、その答えを口にできるのは俺じゃない。
「それは、お前が決めるしかないだろ。」
静かに息を吐く。
「……俺は、もう決まってるから。」
彼女は照れたように笑い、少し考えるように視線を落とした。
「なら、ひと晩考えよっかな。返事、明日でもいいの?」
本当は今すぐ聞きたい。でも、その答えは急かしても意味がない。
「……いいよ。」
そう答えながらも、繋いだ左手だけは、最後まで離さなかった。
「でもな。」
短く答えてから、わずかに身を寄せる。
「明日の朝になっても――お前の答えは、もう変わらないと思うけど。」
彼女が小さく笑う。
「えー、なんでも知ってるんですね、私のこと。」
すぐには返さなかった。
数秒の沈黙を挟み、静かに息を吐く。
「知ってる……。」
目を細め、小さく笑う。
「忘れようとしても、無理だったから。」
座席に深く身体を預け、ゆっくりと彼女へ向き直る。
「なぁ……俺、もうごまかさない。」
あの日、飲み込んだ言葉を、今度こそ伝える。
「俺は、お前が好きだ。」
一拍置き、まっすぐ見つめる。
「ずっと好きだった。」
仕事だから。立場があるから。そうやって何度も自分に言い聞かせてきた。口にしなければ、この想いも、いつか消えると思っていた。でも、違った。
四年。
同じ場所で過ごした時間は、気づけば俺の日常になっていた。
だから、お前がいなくなったあとも。
三年経っても。
朝、ふと振り向けばそこにいる気がして。何かあるたび、一番に話したくなるのはお前で。忘れようとしても、一度も忘れられなかった。
「もう、見てるだけじゃ足りない。」
喉の奥が熱くなる。
「これからは、お前の隣で生きたい。」
「……私もずっと、好きでしたよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、静かにほどけた。
嬉しい。
その一言では足りないほど、長い時間を越えて届いた言葉だった。
彼女は何も言わなかった。ただ、ふっと力を抜く。次の瞬間、身体がゆっくりとこちらへ預けられた。
一瞬、息が止まる。予想していなかった。
いつも周りを見て、強く振る舞って、簡単には弱さを見せない人が。今、俺の前でだけ、何も守らずにいる。そのまま、彼女の頭が俺の膝へ触れた。
「……」
声にならなかった。動いたら、この瞬間が消えてしまいそうだった。そっと手を伸ばし、髪に触れる。指先に伝わる柔らかな感触。膝に伝わる確かな重み。
夢じゃない。
本当に、ここにいる。
三年前、離れるしかなかった人が。もう戻れないと思っていた時間の先で、また俺の隣にいる。
——信じてくれたんだ。
——もう一度、俺を選んでくれたんだ。
胸の奥が熱くなる。同時に、怖さもあった。また失う未来なんて、もう想像したくなかった。あの日、手放したことで分かった。どれだけ強がっても。正しい選択だと言い聞かせても。
彼女がいない日々は、俺の中で何かが欠けたままだった。だから今度は。もう二度と、手放したくない。強く抱き締めたい衝動を抑えて、ただ髪を撫でる。眠っている彼女を起こさないように。この安心を壊さないように。
「……」
言葉にはしない。でも胸の奥では、はっきりと思っていた。帰ってきてくれてありがとう。もう、離れないでほしい。
機内の静かな揺れと、彼女の穏やかな寝息だけが、二人の時間を包んでいた。
——そして、その感触だけが、すべての答えだった。
シートベルトサインが消える。
「着いたよ、起きれそ?」
彼女はまだ少し眠そうな顔でこちらを見る。言葉はない。ただ、その表情を見て、胸の奥が静かに満たされた。三年前には、こんな未来を想像することすら許していなかった。窓側の彼女が先に立てるように、俺は通路側へ出て荷物を片手に待つ。
「ゆっくりでいいですよ」
慌ただしく降りていく乗客の流れを避けながら、急かすことなく彼女を待った。昔の俺なら、先に進むことばかり考えていたかもしれない。でも今は違う。隣にいる人の歩幅を、ちゃんと見る。ターミナルへ出る。人の流れは相変わらず速い。それなのに、不思議なくらい俺の足取りは落ち着いていた。隣に彼女がいる。それだけで、歩き方まで変わってしまうらしい。無意識に歩幅を合わせていると、横から小さな声が落ちた。
「……あれ? 歩くの、合わせてくれてます?」
ふっと見上げてくる。その顔を見て、思わず口元が緩んだ。
「当たり前じゃないですか」
少し間を置いて続ける。
「あなたに無理させたくないので」
声は低く、自然に出た。自分でも分かる。三年前より、少しだけ大人になった。
でも——
彼女の前にいると、心臓だけは昔と変わらない。
「……なんか、違いますね」
「何がですか?」
「うーん、いろいろ」
俺は前を向いたまま、静かに答える。
「違うのは、歩き方じゃないですよ」
少しだけ横を見る。
「俺とあなたの関係の方でしょう」
彼女が黙る。機内で触れないつもりだった。なのに、何度も手を重ねた。言葉にしなくても伝わってしまうほど、距離は戻っていた。
——もう、隠せない。
でも同時に思う。隠さないことと、何も考えずに混ぜることは違う。大切だからこそ、丁寧に扱いたい。ふいに、隣から小さな声がした。
「……好き」
足が止まりそうになった。一瞬、周りの音が消える。本当に聞こえたのか。聞き間違いじゃないのか。視線だけで彼女を見る。胸の奥が熱くなって、声が勝手に漏れた。
「……聞こえたけど」
少し掠れた声。
「もう一回、言ってもらえます?」
彼女は少し笑った。
「……ずっと聞きたかった言葉です」
その言葉に、胸の奥が締め付けられる。
三年。
長かった。でも今、隣にいる。それだけで十分だった。歩き出すと、自販機が目に入った。彼女がふと横を見る。
「そういえば……」
少し楽しそうに笑う。
「あの雨の日、どこまで水買いに行ってたんですか?笑」
一瞬、足が止まりそうになる。
でも、そのまま歩き続けた。
「……あなたに見えないくらい遠くまで」
そう答えてから、自販機の前で振り返る。
「今なら、隣のコンビニまでで十分ですけどね」
「コンビニ?」
彼女が首を傾げる。
「あの日は自販機って言ってましたよね? なんで?」
思わず苦笑する。
「……あなたの前では、ちょっと格好つけたくなる病なんですよ」
ペットボトルを取り出そうとして、横目で彼女を見る。
「まだ治す気はありませんけど」
彼女が笑う。
でも、その目は少しだけ鋭かった。
「何をかっこつけてたんですか?」
一拍置いて。
「私をひとり残してまで?」
手が止まる。あの日の雨が蘇る。守るつもりだった。
でも、彼女がどう感じるかまでは見えていなかった。
俺はペットボトルを手に取り、まっすぐ彼女を見る。
「……あの時は、ちゃんと見てほしかったんです」
「頼りない人じゃなくて」
少し笑う。
「この人なら大丈夫って、思ってほしかった」
でも、と続ける。
「残されたあなたの気持ちまでは、考えられてなかった」
彼女の目を見る。
「そこは、今でも後悔してます」
ペットボトルを差し出す。
「だから……もう、俺の気持ちは隠さない」
少しだけ声を落とす。
「誰かに渡したくもない」
彼女を見る。
「これは、俺たち二人で大切にしたい」
「……秘密、ってこと?」
首を横に振る。
「隠すためじゃないです」
少し間を置く。
「大切にするための秘密です」
彼女は静かに俺を見る。
そして、少しだけ笑った。
「秘密。で、いんですね?」俺も同じ言葉で返す。
「秘密で。」
横を歩く彼女をちらりと見て、静かに口を開いた。
「……あの日、車に残して行ったこと……怒ってます?」
少しだけ間が空く。
返事を待つより先に、言葉が口をついて出た。
「もう二度と、置いていきませんから。」
彼女は俺を見上げ、小さく笑う。
「置いてってもいいですよ。……心配にならないんなら。」
胸の奥が、小さく痛んだ。
そんなこと、あるわけがない。
雨の夜。
車にひとり残した彼女。
見えなくなるまで歩いた道も、戻ってきたときの景色も、今でもはっきり覚えている。
少しでも頼れる男に見られたかった。
少しでも格好よくありたかった。
そんな自分勝手な見栄ばかりで、残された彼女が何を思って待っていたのか――あの頃の俺は、考えようとしていなかった。
「……それが無理なんですよ。」
気づけば、もう答えていた。
「俺、どんな状況でもあなたのこと考えちゃうから。」
少し照れくさく笑って、それでも目は逸らさない。
「だから……置いていけないんです。」
彼女は何も言わない。ただ、繋いだ手をそっと握り直した。その小さな力だけで、十分だった。空港出口に差しかかり、俺は歩みを少し緩める。
「……送っていきたいけど、どうします?」
彼女は少しだけ笑って答えた。
「おとなだから、ひとりで帰れますよ。」
その一言に、思わず笑みがこぼれる。
「……そうでしたね。」
三年前もそうだった。誰かに寄りかかるより、自分の足で立とうとする人。その強さに、何度も惹かれた。
でも――。
心は、まるで納得なんてしていない。
ひとりで帰れる。
そんなことは、三年前から知っている。
知っているからこそ、余計に思う。ひとりで帰れる人だからって、ひとりで帰していい理由にはならない。彼女が一歩、また一歩と歩き出す。呼び止めたい。もう少しだけ、一緒にいたい。そんな子どもみたいな気持ちが胸の奥で暴れる。けれど、それを引き止める理由は、どこにもない。
だから、ただ見送る。
――もう二度と、あの背中を見失いたくない。
それが俺のわがままでもいい。
守りたい。
隣にいたい。
そう思ってしまう気持ちは、もう止められなかった。やがて彼女の背中が人の流れに溶けていく。見えなくなっても、しばらくその場から動けなかった。左手をそっと握る。さっきまで繋いでいた温もりが、まだ掌に残っている。
夢じゃなかった。
そう確かめるように、静かに息を吐いた。
「……また。」
小さく漏れたその一言だけが、夕暮れの空港に静かに溶けていった。
