妄想小説:モンブラン|平坦な人生に耐えられない男の、最高最悪の登山記
これは、登山で人生を変える物語ではありません。
平坦な日常に耐えられない男が、危険と高度と恐怖の中でだけ息を取り戻し、頂上に立ってもなお何も満たされないことを知ってしまう物語です。
モンブラン。
そこにあるのは、達成ではなく、依存でした。
※本作はフィクションです。実在の人物・団体・登山ツアーとは関係ありません。
※作中には高所登山、落石、酸欠、精神的な追い詰められ方に関する描写があります。登山を推奨・美化するものではなく、危険な挑戦への依存を描く物語です。
※実際の登山では、専門ガイド・天候判断・装備・体調管理を最優先してください。
プロローグ 平坦
平坦な道は、俺を殺す。
東京の会議室でそう思ったのは、午前十時二十七分だった。
壁に掛けられた丸い時計の秒針が、ひとつ進むたびに、胸の奥で細い針金が締まっていく。白い壁。白い天井。白いテーブル。磨かれたガラスの向こうに、同じ高さで並ぶビルの窓。曇った空まで、薄いコピー用紙を一枚貼りつけたような色をしていた。
俺は資料の三ページ目を開いたまま、指先を膝の上で握り込んでいた。
会議室の中央では、部長の高瀬が赤いレーザーポインターをモニターに向けている。映っているのは来期の運用改善計画だった。顧客対応の工数削減。問い合わせ分類の自動化。部署間連携の標準化。横棒のグラフと、四角で囲われた工程表。赤、黄、緑で塗り分けられたリスク一覧。
どれも正しい資料だった。
正しすぎて、気持ちが悪かった。
「この項目については、いったん持ち帰りで調整しましょう」
高瀬が言った。
その言葉が、会議室の中をひどく柔らかく転がった。
いったん。
持ち帰り。
調整。
誰も死なない言葉だった。
喉の奥が詰まった。
俺は息を吸おうとした。けれど肺の途中に見えない膜が張られていて、空気は浅いところで止まった。二度、三度、静かに吸い直す。隣に座る泉が資料にペンを走らせている。向かいの若い社員が、ノートパソコンの画面を見たまま頷いている。誰も俺を見ていない。
それなのに、俺だけが見られている気がした。
白い壁に。
白い天井に。
逃げ場のない水平な床に。
指先が震えた。
右手の親指と人差し指が、机の下で小さく擦れ合う。止めようとすると、余計に震えが強くなった。手のひらに汗が滲み、シャツの背中がじっとりと冷えていく。喉の奥には、錆びた鉄を舐めたような味が広がった。
高瀬がこちらを見た。
「沢木さん、このスケジュール感でいけますか」
名前を呼ばれた瞬間、視界の端が灰色に沈んだ。
俺はモニターを見た。矢印が並んでいる。五月、六月、七月。要件定義。試験運用。導入判断。何一つ危険ではない。何一つ落ちない。何一つ裂けない。資料の中の世界は、どこまでも安全に管理されていた。
俺は頷いた。
「はい。問題ありません」
声は普通に出た。
自分でも驚くほど、普通だった。

「ただ、法務確認だけ先に通した方がいいですね。あと、顧客向けの告知文は二案出します。現場向けと管理者向けで分けた方が、問い合わせは減らせると思います」
俺がそう言うと、会議室の何人かが頷いた。
泉が「助かります」と小さく言った。高瀬は満足そうにレーザーポインターを置いた。
「じゃあ、それで進めましょう」
それで進む。
何もかもが、そうやって進んでいく。
書類が整い、会議が閉じられ、スケジュールが引かれ、次の会議の招待が送られる。誰かが困れば、相談する。失敗すれば、修正する。遅れれば、再調整する。怒号もない。血もない。崩落もない。息を止める必要もない。
なのに、俺はその場で死にかけていた。
会議が終わると、椅子が一斉に後ろへ引かれた。キャスターの音が床を滑る。ノートパソコンを閉じる音。紙コップを捨てる音。誰かのスマートフォンが震える音。会議室のドアが開き、廊下の空調の匂いが流れ込んでくる。
俺は最後まで座っていた。
「沢木さん、大丈夫ですか」
泉が声をかけてきた。
二十九歳。俺のチームのサブリーダー。仕事が早く、感情を表に出しすぎない。こういう場所で生きていくのに向いた顔をしている。
「大丈夫」
俺は資料を閉じた。
「少し寝不足なだけ」
「昨日も遅かったですもんね」
「ああ」
嘘ではなかった。
昨夜、俺は二時まで起きていた。
仕事をしていたわけではない。山岳事故の記録を読んでいた。過去十年分のモンブラン周辺の遭難記事。落石。滑落。高山病。天候急変。判断ミス。救助ヘリ。死亡者の年齢。出発時刻。装備の不備。ガイドの有無。
画面に並ぶそれらの文字を読みながら、俺の呼吸は少しずつ深くなっていった。
それが自分でも嫌だった。
「無理しないでくださいね」
泉はそう言って、会議室を出ていった。
無理。
便利な言葉だと思った。
無理しないで。
その言葉を聞くたび、俺はどこに力を抜けばいいのか分からなくなる。
抜いた瞬間に、体の形まで崩れそうだった。
俺は席を立った。
膝が少し頼りなかった。会議室を出て、廊下を歩く。灰色のカーペットはどこまでも平らで、靴音すら吸い込んでしまう。窓際の席では、社員たちがモニターを見つめている。コーヒーの匂い。プリンターの吐き出す紙の音。誰かが笑う声。どれも柔らかく、清潔で、息苦しかった。
トイレの個室に入り、鍵をかける。
便座には座らなかった。壁に片手をつき、もう片方の手でシャツの胸元を掴んだ。呼吸が浅い。浅いくせに、速い。胸が小刻みに上下する。喉の奥の鉄の味が濃くなる。
俺は目を閉じた。
白い雪面を思い浮かべる。
アイゼンの爪が硬い雪を噛む音。ピッケルの先端が氷に触れる感触。ヘルメットの顎紐が皮膚を圧迫するわずかな痛み。風が耳の横を削っていく音。足を置く場所を間違えれば、戻れない斜面。
その一つ一つを思い浮かべるたびに、胸の輪が少しずつ緩んだ。
馬鹿げている。
俺は個室の壁に額をつけた。
ここには酸素がある。暖房がある。清潔な床がある。ドアを開ければ水道があり、エレベーターがあり、コンビニがあり、病院も駅もタクシーもある。安全なものが、これでもかと用意されている。
その安全さに、俺は耐えられなかった。
スマートフォンが震えた。
泉からだった。
〈午後の資料、確認お願いします。急ぎではないです〉
俺は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
急ぎではない。
それが、また胸を締めた。
俺はトイレを出て、洗面台の前に立った。鏡の中に、三十六歳の男がいる。短く整えた髪。寝不足の目。青白い顔。首元のネクタイは少し曲がっていた。会社の誰かが見れば、疲れているだけに見えるだろう。優秀だが忙しい中堅社員。管理職一歩手前。部下の面倒を見て、上司の要求を処理し、顧客の不満を数字に変える男。
壊れているようには見えない。
そこが、いちばん面倒だった。
俺は水を出し、手を洗った。指先の震えはまだ残っている。水滴が手首を伝い、シャツの袖口に染みた。
鏡の中の男が、俺を見ていた。
「またか」
声には出さなかった。
昼休みになっても、食欲は戻らなかった。
同僚たちはビルの地下へ向かった。カレー、蕎麦、定食、ラーメン。エレベーター前で誰かが新しくできた店の話をしている。俺は「今日は少し片づける」と言って、自席に残った。
デスクの引き出しから、エネルギーバーを一本出す。味はしなかった。噛むと、歯の裏に粉っぽさが残る。水で流し込みながら、俺はモニターの隅に隠していたブラウザを開いた。
フランス語のページが表示された。
モンブラン。
グーテ・ルート。
小屋の予約状況。
標高。
行程。
必要装備。
悪天候時の中止規定。
キャンセルポリシー。
画面の中では、危険が驚くほど整然と並べられていた。
登山鉄道に乗り、登山口へ向かう。テート・ルース小屋。グラン・クーロワール。グーテ小屋。深夜出発。ドーム・デュ・グーテ。ヴァロ避難小屋。ボス稜線。頂上。下山。
行程表の横には、赤字で注意書きがあった。
落石。
高山病。
滑落。
天候急変。
体力不足による撤退。
俺はその赤字をゆっくり読んだ。
胸が、少しだけ楽になった。
マウスを握る手が止まる。
俺は深く息を吸った。
画面の中の山は、白く、遠く、硬かった。こちらの事情など何も知らない顔をしている。俺が会議室で息を詰まらせようが、東京の床に立っているだけで指が震えようが、何も見ていない。救ってもくれない。慰めてもくれない。ただ、そこにある。
その無関心さが、ありがたかった。
午後の会議は予定通り進んだ。
俺は予定通り発言し、予定通り問題点を洗い出し、予定通り議事録の担当を泉に振った。夕方には顧客からのメールに返信し、部下の資料にコメントを入れ、法務部への確認事項をまとめた。誰も俺の呼吸の浅さには気づかなかった。気づかれないように、俺はいつもより丁寧に笑った。
十八時四十六分。
退勤の打刻をして、ビルを出た。
東京の夜は、まだ明るかった。
オフィス街の歩道には、同じような顔をした人間たちが流れている。革靴。パンプス。リュック。スマートフォン。イヤホン。ビルの一階に入ったカフェから、焼いたパンの甘い匂いが漏れていた。信号が青になると、人の群れが一斉に動き出す。
俺もその中に混じって歩いた。
道は平らだった。
どこまでも。
駅までの歩道には、わずかな坂すらない。点字ブロックが黄色い線を引き、街路樹の根元には吸い殻が落ちている。向かいから来た男が肩をぶつけそうになり、互いに半歩ずつ避けた。何も起こらない。怒鳴り合うこともない。転ぶこともない。命を失うこともない。ただ、駅へ向かうだけ。
胸の奥が、また締まった。
俺は立ち止まった。
背後から歩いてきた女が、少し迷惑そうに俺を避けていく。誰かのキャリーバッグの車輪が、舗装路の継ぎ目で小さく跳ねた。その音が妙に大きく聞こえた。
俺は路地へ入った。
ビルとビルの隙間にある、暗い細道だった。室外機の熱い風が顔に当たる。壁際に積まれたビールケース。油の匂い。どこかの店の換気扇が唸っている。細道の奥には、古い非常階段があった。
俺はその階段を見上げた。
錆びた鉄の段が、ビルの三階あたりまで続いている。行き止まりだ。登ったところで何もない。関係者以外立入禁止の小さな札が揺れている。
それでも、階段を見た瞬間、呼吸が少し通った。
俺は笑いそうになった。
どれだけ安い体なんだと思った。
登れれば何でもいいのか。

非常階段の一段目に、片足を乗せた。
金属が小さく鳴った。
その音だけで、指の震えが少し治まった。
俺はすぐに足を下ろした。馬鹿げている。スーツ姿で、会社帰りに、ビルの裏の非常階段に片足を乗せて息を整えている。誰かに見られたら、何をしているのかと訊かれるだろう。俺自身にも分からない。
ただ、平らでないものに触れたかった。
家に帰ったのは二十時を少し過ぎた頃だった。
部屋は綺麗だった。
玄関には革靴が二足、磨かれた状態で並んでいる。廊下には余計なものを置いていない。キッチンのシンクに洗い物はなく、冷蔵庫の中には水、卵、鶏胸肉、ヨーグルト、プロテインバーが決まった位置に入っている。リビングのテーブルには、読みかけの本とノートパソコン。カーテンは半分だけ開いていて、窓の外には隣のマンションの明かりが並んでいる。
生活は整っていた。
整っているものほど、俺を追い詰める。
ネクタイを外し、シャツを脱いだ。洗濯機に放り込む前に、胸元の汗の匂いが鼻についた。ジムに行くほどの気力はなかった。シャワーを浴び、髪を拭き、部屋着に着替える。
寝室のクローゼットを開けた。
右側にはスーツ。
左側には山の道具。
その境目が、いつも少しおかしかった。
黒いスーツの隣に、ハードシェルジャケットが吊られている。革靴の下に、重い登山靴が置いてある。引き出しには、ネクタイピンと予備のカラビナが同じ段に入っている。ヘルメット、ハーネス、アイゼン、ピッケル、厚手の手袋。どれも手入れされ、すぐ使える状態になっている。
俺は登山靴を取り出した。
床に置くと、部屋の空気が少し変わった。
オフィス用の革靴とは違う。重く、硬く、無駄がない。靴底の深い溝には、前回の山で落としきれなかった細かい土がまだ少し残っていた。俺は指でそれをなぞった。乾いた土が爪の先に付く。
山から持ち帰ったものの中で、いちばん正直なのは土だった。
写真は嘘をつく。頂上で笑っている顔など、いくらでも作れる。記録も嘘をつく。標高差、行動時間、消費カロリー。数字にすれば、何かをやり遂げたように見える。けれど靴底に残った土だけは、ただそこにあった場所の欠片だった。
俺は登山靴をしばらく見ていた。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
〈年末は帰ってこられそう? 無理なら大丈夫です〉
俺は画面を伏せた。
無理なら大丈夫。
またその言葉だった。
大丈夫なわけがなかった。帰省が嫌なのではない。母に会うのが嫌なわけでもない。実家の畳の匂い、食卓に並ぶ煮物、父の仏壇、近所のスーパー。どれも悪くない。むしろ優しい。
優しい場所にいると、俺は自分が薄くなっていく気がする。
母はいつも、俺の体を心配する。
「無理しないで」
「ちゃんと食べてる?」
「仕事ばかりじゃだめよ」
「危ない山はもうやめたら」
どれも正しい。
正しい言葉は、ときどき人を窒息させる。
俺は返信を後回しにした。
冷蔵庫から水を出し、ソファに座る。テレビはつけない。音があると疲れる。けれど無音だと、もっと疲れる。仕方なくノートパソコンを開いた。
モンブランのページがまだ残っていた。
予約フォームの途中まで入力されている。
氏名。
生年月日。
国籍。
連絡先。
緊急連絡先。
そこで手が止まった。
緊急連絡先。
空欄のままの四角い枠が、画面の中で白く光っていた。
以前は、そこに真帆の名前を入れていた。
瀬名真帆。
彼女とは、半年連絡を取っていない。
最後に会ったのは、雨の日だった。
場所は中目黒の小さなレストラン。付き合い始めた頃に何度か行った店だった。川沿いの桜はまだ咲いていなかったが、枝だけが黒く濡れて、窓の外で細かく揺れていた。真帆はベージュのコートを着ていた。髪は少し短くなっていた。最初にそれに気づいたのに、俺は何も言わなかった。
彼女は食事の途中で、フォークを置いた。
「怜、次はどこへ行くの」
俺はグラスの水を飲んだ。
「まだ決めてない」
「嘘」
真帆は笑わなかった。
「決めてる顔してる」
俺は黙った。
その頃、俺はすでに南米の高峰について調べていた。休暇の日数、航空券、現地ガイド、必要な高度順応。仕事中にも、気づけばそのことを考えていた。真帆と会っているときでさえ、スマートフォンの画面の奥には別の山が残っていた。
「山が悪いって言ってるんじゃないよ」
真帆は静かに言った。
「でも、あなたは帰ってきても、帰ってきてない」
窓の外を車が通った。濡れた路面がヘッドライトを薄く反射した。
「どういう意味」
俺が訊くと、真帆は少しだけ目を伏せた。
「体だけ戻ってくる。ご飯も食べるし、仕事にも行くし、私とも会う。でも、ここにいない」
「疲れてるだけだよ」
「違う」
彼女はすぐに言った。
その早さに、俺は少し苛立った。
「じゃあ何」
「あなたは、山にいるときだけ自分を許してる」
俺はグラスを置いた。
店内には穏やかな音楽が流れていた。隣の席では、若い男女が旅行の話をしていた。厨房から肉を焼く匂いがする。どこにでもある、優しい夜だった。
俺はその優しさに、少し腹が立っていた。
「別に、そんな大げさな話じゃない」
「大げさにしてるのは怜の方だよ」
真帆の声は荒くなかった。責めるというより、疲れていた。
「普通に暮らすことを、そんなに怖がらなくていいじゃない」
普通。
その言葉が、胸に小さく刺さった。
「普通に暮らしてるだろ」
「暮らしてるふりは上手いと思う」
俺は笑った。
「ひどいな」
「ひどいのは、私を緊急連絡先にだけしてたこと」
その言葉で、俺は何も言えなくなった。
真帆は続けた。
「本当に危ない場所に行くときだけ、私の名前を書く。帰ってきたら、何も話さない。怖かったことも、嬉しかったことも、何を見たのかも、ほとんど話さない。ただ、また次の場所を探してる」
「心配させたくなかった」
「違うよ」
真帆は首を振った。
「私に止めてほしくなかったんでしょう」
雨が強くなった。
窓の外で、桜の枝が揺れる。まだ花もない枝だった。それが妙に寂しかった。
「冒険的な人生を送りたいんだ」
俺は言った。
言った瞬間、自分でも安っぽいと思った。
真帆はしばらく俺を見ていた。怒らなかった。泣きもしなかった。ただ、ようやく分かった、という顔をした。
「あなたは山に登りたいんじゃない」
彼女は言った。
「帰らなくていい理由が欲しいだけ」
その一言は、怒鳴り声よりずっと深く刺さった。

俺は反論しなかった。
できなかった。
その夜、店を出たあと、真帆は駅まで一緒に歩かなかった。タクシーを拾うと言った。俺は引き止めなかった。彼女のベージュのコートが雨の中で車に乗り込み、ドアが閉まる。テールランプが赤く滲み、交差点の向こうに消えた。
それが最後だった。
ノートパソコンの画面には、まだ緊急連絡先の欄が残っている。
俺はしばらくカーソルを見つめた。
点滅する縦線が、空欄の中で息をしているようだった。
真帆の名前は入れなかった。
母の名前も入れなかった。
会社の番号も入れなかった。
結局、古い登山仲間の名前を入力した。数年前、北アルプスで一度だけ一緒になり、その後も年に数回だけ連絡を取る男。俺の生活の中心にはいない。だから、ちょうどよかった。
緊急時だけ連絡が行く相手。
俺には、そのくらいの距離が似合っていた。
必要事項を入力し終えると、画面は支払いページに進んだ。
航空券。
現地移動。
小屋代。
ガイド料。
保険。
装備の追加費用。
危険には、合計金額があった。
俺はクレジットカードの番号を入れた。
有効期限。
セキュリティコード。
請求先住所。
死ぬかもしれない場所へ向かう手続きは、ネット通販とほとんど変わらなかった。入力欄を埋め、規約にチェックを入れ、ボタンを押すだけ。画面の向こうで誰かが予約を受け取り、システムが確認メールを送ってくる。危険は、日程表になり、PDFになり、予約番号になった。
俺は最後のボタンの上に指を置いた。
押せば決まる。
押さなければ、明日も会議がある。来週も月次報告がある。来月も評価面談がある。年末には母から帰省の予定を訊かれる。真帆から連絡が来ることは、たぶんない。健康診断の結果は悪くない。貯金もある。仕事もある。部屋もある。平らな道は、いくらでも続いている。
そのことが、何より恐ろしかった。
指が少し震えた。
俺はボタンを押した。
画面が切り替わる。
〈予約が完了しました〉
その文字を見た瞬間、胸の奥の輪が緩んだ。
ひどく簡単だった。
簡単すぎて、笑いそうになった。
冒険は、こんなふうに買える。
休暇を申請し、航空券を取り、装備を詰める。
あとは金を払って、恐怖の近くまで運ばれていく。人生を壊すほどのものではない。けれど、人生から数日だけ逃がしてくれる。
その数日を欲しがる自分が、どうしようもなく嫌だった。
ノートパソコンを閉じた。
部屋が静かになった。
窓の外では、隣のマンションの明かりが規則正しく並んでいる。どの部屋にも誰かの生活がある。夕食の皿を洗う人。子どもを寝かせる人。風呂に入る人。テレビを見る人。明日の準備をする人。そういう生活が、明かりの数だけある。
俺にも、それはあったはずだった。
いつからなくしたのかは分からない。
いや、なくしたわけではないのかもしれない。ただ、手に取る前に自分で遠ざけた。近づくほど息が苦しくなるものを、俺はいつも「向いていない」と呼んで捨ててきた。
結婚。
家庭。
安定。
穏やかな週末。
誰かと一緒に夕食を食べること。
次の休みに何をするか、危険ではない場所を選ぶこと。
どれも、俺には平らすぎた。
スマートフォンがまた震えた。
母からの二通目だった。
〈寒くなってきたから、体に気をつけてね〉
俺は画面を見つめた。
返信欄に「ありがとう」と打った。
送信できなかった。
たった五文字が、ひどく遠かった。
代わりに、予約完了メールを開いた。
件名には、モンブラン登頂プログラムの日程が記されている。集合場所。持ち物。注意事項。悪天候時の対応。体調不良時の撤退判断。保険証書の提出。最後に、簡単な挨拶文があった。
あなたの挑戦をサポートできることを楽しみにしています。
挑戦。
俺はその単語をしばらく見ていた。
便利な言葉だ。
挑戦という言葉は便利だった。
逃げる背中にも、少しだけ光を当ててくれる。
真帆なら、何と言うだろう。
あなたはまた、帰らなくていい理由を買ったのね。
たぶん、そう言う。
俺は画面を閉じた。
寝る前に、ザックを出した。
まだ出発までは何週間もある。普通なら早すぎる。だが、俺は床にザックを置き、装備を一つずつ並べた。ハードシェル。ダウン。手袋。予備の手袋。ヘッドランプ。バラクラバ。サングラス。日焼け止め。テーピング。薬。ハーネス。カラビナ。アイゼン。ピッケル。
部屋の床に、山へ向かう道具が小さな島のように広がった。

会社の資料より、ずっと正直なものたちだった。
手袋には、手を守るという役割しかない。アイゼンには、雪を噛むという役割しかない。ピッケルには、滑落を止めるか、体を支えるか、その程度の意味しかない。余計な言葉がない。誰かに説明する必要もない。
俺はピッケルを手に取った。
金属は冷たかった。
握った瞬間、会議室の白い壁が少し遠ざかった。
深夜一時。
眠るつもりでベッドに入ったが、目は冴えていた。
天井を見る。
白い。
東京のマンションの天井は、どこの部屋でも似ている。平らで、清潔で、低い。照明の丸い跡が薄く残っている。そこには何もない。落ちてくる岩もない。裂け目もない。高度もない。風もない。間違えれば終わる一歩もない。
安全だった。
だから、眠れなかった。
俺は寝返りを打った。
真帆のことを思い出す。
彼女は今、どこで眠っているのだろう。あのベージュのコートはまだ着ているのだろうか。俺の名前を、もう連絡先から消しただろうか。消していてほしいと思った。残していてほしいとも思った。そのどちらも、自分勝手だった。
枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
画面を開く。
検索履歴には、すでにモンブランの文字がいくつも並んでいる。天候。装備。死亡事故。グーテ小屋。落石。高山病。ボス稜線。下山。
俺は新しい検索窓を開いた。
何を打つつもりだったのか、自分でも分からなかった。
指が勝手に動く。
モンブラン 撤退率
検索結果が表示される。
俺はそれを読む。
撤退。
戻ること。
引き返すこと。
登らないこと。
それができる人間は強い。
俺はずっと、そう思っている。
登る人間が強いのではない。登らないと決められる人間の方が、たぶん強い。平坦な場所に戻り、何も起こらない日々を引き受け、誰かと夕食を食べ、眠り、朝起きて、また仕事へ行く。そういう生活を、壊さずに続けられる人間。
俺には、それができなかった。
できないから、登る。
それだけのことだった。
スマートフォンを伏せる。
目を閉じる。
白い天井が消え、代わりに白い山が浮かんだ。
鋭い山ではない。写真で見たモンブランは、想像していたよりも丸く、大きく、鈍い白い背中をしていた。こちらの焦りも、怯えも、言い訳も、何ひとつ受け取らない形だった。美しいというより、重かった。優しいというより、遠かった。
その遠さに、少しだけ救われた。
翌朝、俺はいつも通り出社した。
予約完了のメールは、スマートフォンの中に残っている。誰にも言っていない。会社にも、まだ休暇申請を出していない。母にも、山へ行くとは伝えていない。真帆には、もちろん言わない。
地下鉄の車内は混んでいた。
吊り革に掴まりながら、俺は車窓の暗い反射に映る自分を見ていた。周囲の人間たちは、それぞれの朝を持っている。眠そうな高校生。眉間に皺を寄せた会社員。ベビーカーを押す若い母親。イヤホンをして目を閉じている女。皆、揺れる車内で小さく体を支えながら、今日へ向かっている。
電車は平らな線路の上を走る。
決められた駅に止まり、決められたドアを開き、決められた人間を吐き出していく。
その正確さが、また胸を締めた。
俺はスマートフォンを開いた。
予約完了メールをもう一度見る。
集合日。
集合場所。
行程表。
そこだけが、今日の朝の中で少しだけ傾いていた。
会社の最寄り駅で降りると、地上は薄曇りだった。
信号を渡り、ビルへ向かう。駅から会社までの道は、昨日と同じように平らだった。コンビニの前で配送トラックが荷物を下ろしている。ビルの清掃員がガラス扉を拭いている。自動ドアが開き、冷えた空気が流れてくる。
エレベーターに乗る。
数字が上がる。
十一階。
十二階。
十三階。
高度が上がっているはずなのに、何も変わらない。
床は平らなままだ。
オフィスに入ると、泉が先に来ていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「顔色、昨日よりいいですね」
「そう?」
「はい。少しだけ」
俺は曖昧に笑った。
たぶん、本当に少し良かったのだろう。
行き先が決まったから。
逃げ場が用意されたから。
デスクに座り、パソコンを起動する。メールが二十七件。チャット通知が十二件。今日の予定は、午前に定例会議、午後に顧客レビュー、夕方に人事面談。すべて予定通りだった。
俺はカレンダーを開いた。
数週間後の空白の日程に、休暇申請を入れる。
理由欄で手が止まった。
私用。
そう入力した。
それ以上の説明は必要なかった。
承認ボタンを押すと、高瀬に通知が飛ぶ。しばらくして、承認済みの表示が出た。あっけなかった。俺の数日間の不在は、システム上の処理として受け入れられた。
その瞬間、また胸が少し軽くなった。
画面の右下で、チャット通知が跳ねる。
泉からだった。
〈来週のレビュー資料、確認お願いします〉
俺は返信する。
〈午後見ます〉
指先の震えは、昨日より少ない。
山へ行くと決めただけで、体はこうも簡単に落ち着く。
そのことが、ひどく恥ずかしかった。
昼前、会議室に入る。
昨日と同じ白い壁。同じモニター。同じテーブル。違うのは、俺の中に予約番号があることだけだった。胸の奥に小さな穴が開き、そこから遠い冷気が流れ込んでいるような感じがした。
会議が始まる。
高瀬が話す。泉が補足する。若い社員が資料を投影する。俺は発言する。昨日と同じように、誰も死なない言葉が行き交う。
けれど、白い壁の奥に、わずかに雪が見えた。
もちろん本当に見えたわけではない。
ただ、俺の中で、会議室の向こう側に別の場所ができていた。グーテ小屋へ続く岩場。落石の音。雪稜の風。薄い酸素。足を置く場所を間違えれば終わる、狭い白い線。
そこへ行けば救われるとは思っていない。
むしろ、何も変わらないことを、俺はどこかで知っている。
山から帰れば、またこの会議室に座る。白い壁は白いままだ。資料は増え、予定は埋まり、母からは体を気遣うメッセージが来る。真帆からは来ない。俺はまた息が浅くなり、指が震え、次の危険を探す。
分かっていた。
分かっていて、それでも胸の奥は予約完了の文字を抱えて静かになっている。
高瀬がこちらを見た。
「沢木さん、どう思います?」
俺は資料に目を落とし、必要なことを言った。
「まず、前提を分けた方がいいと思います」
声は落ち着いていた。
会議は進む。
時間も進む。
平らな床の上で、俺は静かに次の坂を待っていた。
退勤後、俺は駅とは反対方向へ歩いた。
用事はなかった。雨も降っていない。ビルの谷間を抜け、川沿いの遊歩道へ出る。東京の川は黒く、ほとんど動いていないように見えた。両岸には手すりがあり、足元にはよく整備された舗装路が続いている。ランニングをする男が、一定のリズムで俺を追い越していった。
道は平らだった。
また胸が詰まる。
俺は歩く速度を上げた。けれど、いくら速く歩いても道は平らなままだった。汗が背中に滲む。革靴の中で足が滑る。信号のない遊歩道はどこまでも穏やかで、危険はなかった。
橋の下まで来て、俺は立ち止まった。
コンクリートの壁に、小さな斜面があった。水辺へ降りるための管理用の坂だった。立入禁止のチェーンが張られている。斜面というにはあまりに短く、山とは比べようもない。けれど、それはたしかに水平ではなかった。
俺はしばらくそれを見ていた。
そして、自分が笑っていないことに気づいた。
笑えなかった。
こんなものにまで反応する自分が、もう笑えなかった。
スマートフォンを取り出す。
真帆の連絡先を開く。
名前と番号が表示される。
削除していない。
半年も連絡していないのに、まだ残っている。緊急連絡先からは外したくせに、日常の連絡先からは消せない。俺はその中途半端さをしばらく見つめた。
メッセージ欄を開いた。
最後のやりとりは、あの雨の日の翌朝だった。
〈昨日はごめん。少し考えたい〉
真帆からだった。
俺は返していない。
考えたいと言われた相手に、何を返せばいいのか分からなかった。分からないまま、次の山の準備をした。その山から帰ったときには、もう何も送れなくなっていた。
俺は新しい文章を打った。
〈モンブランに行くことにした〉
送信ボタンの上で、指が止まる。
何を期待しているのか。
止めてほしいのか。
怒ってほしいのか。
心配してほしいのか。
それとも、緊急連絡先に戻ってほしいのか。
どれも違う気がした。
いや、全部そうなのかもしれない。
俺は文章を消した。
画面を閉じる。
川の向こうで、電車が橋を渡っていった。窓の明かりが長く連なり、すぐにビルの影へ消える。乗っている人間たちは、どこかへ帰っていく。誰かが待つ部屋へ。誰も待たない部屋へ。それでも、帰るという形だけは持っている。
俺は帰るのではなく、戻る。
いつも、戻るだけだ。
家に戻ると、ザックが床に置かれたままだった。
昨日並べた装備を、まだ片づけていない。部屋の中央に、山へ向かうものたちが沈黙している。俺はスーツの上着を椅子に掛け、ネクタイを外し、そのまま床に座った。
ザックを開ける。
中へ一つずつ詰めていく。
ハードシェル。
ダウン。
手袋。
予備の靴下。
ヘッドランプ。
薬。
行動食。
詰めるたびに、部屋の中の空気が少しずつ変わる。東京の部屋が、出発前の場所になっていく。ここはまだ平坦だ。けれどザックの中だけは、少しずつ傾き始めている。
母に返信する。
〈ありがとう。年末はまだ分からない〉
すぐに既読がついた。
〈無理しないでね〉
俺は画面を伏せた。
無理をしないで済むなら、最初からこんなところへ向かわない。
夜が深くなる。
窓の外の明かりが少しずつ減っていく。隣のマンションの部屋も、一つ、また一つと暗くなる。人は眠る。明日のために。仕事のために。誰かのために。自分の体を保つために。
俺も眠らなければならない。
けれどベッドに入っても、眠りは浅かった。
夢を見た。
三つの道があった。
ひとつは平坦な道だった。白い会議室の床のように、どこまでも滑らかで、傷ひとつない。歩いても歩いても音がしない。振り返ると、俺の足跡も残っていなかった。
ひとつは下り坂だった。緩やかで、楽に進めそうだった。遠くに街の明かりが見える。暖かそうな窓。食卓。誰かの声。そこへ行けば、たぶん楽になれる。けれど足を向けた瞬間、胸が潰れそうになった。
最後のひとつは、上へ向かっていた。
先は見えない。霧がかかっている。岩があり、雪があり、足元は悪い。そこへ行けば苦しい。息が切れる。膝が痛む。落ちるかもしれない。戻れないかもしれない。
俺は、その道だけを見ていた。
誰かが後ろで言った。
帰ろう。
真帆の声だった。
俺は振り返らなかった。
目が覚めると、朝だった。
胸の奥はまだ重かった。けれど、完全には締まっていない。出発日が近づいているからだと分かった。モンブランまでの日数が、一日減っていた。
それだけで、俺は今日を始められる。
洗面台の前に立つ。
鏡の中の男は、昨日より少しだけましな顔をしていた。目の下の影は消えていない。肌も青白い。けれど、呼吸は昨日より深い。
俺は髭を剃り、顔を洗い、スーツに着替えた。
ネクタイを締める手は、ほとんど震えていなかった。
玄関には、革靴と登山靴が並んでいる。
今日履くのは革靴だ。
俺はそれを履き、ドアを開けた。
廊下は平らだった。
エレベーターまでの数メートルを歩く。壁の白。蛍光灯。非常口の緑の表示。朝のマンション特有の、洗剤と湿った空気の混ざった匂い。何も変わらない日常。
それでも、俺の中には白い山があった。
エレベーターの扉が開く。
中は無人だった。
俺は乗り込み、一階のボタンを押す。扉が閉まり、箱は静かに下へ動き出す。胃がわずかに浮く。高度が下がる。たった十数階分の下降。安全な鉄の箱。日常の中の小さな移動。
それでも、体は反応した。
俺は目を閉じた。
次に上へ行くときは、こんな箱ではない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
会社へ向かう道で、空を見上げた。
東京の空は低い。ビルの隙間に切り取られ、雲は薄く流れている。あの向こうにフランスがあり、その先に白い山がある。今はまだ遠い。だが、予約は完了している。休暇も承認された。ザックも床にある。行くことだけは、もう決まっている。
平坦な道を歩きながら、俺はその事実に支えられていた。
情けないほど、支えられていた。
数週間後、俺は東京を出る。
シャルル・ド・ゴール空港を経由し、ジュネーブへ飛び、バスでシャモニーに向かう。観光客の笑い声と、登山者の硬い靴音が混じる街を歩く。そこで俺はきっと、また三つの道を見る。
平坦な道。
下り坂。
上へ続く道。
選ぶ前から、答えは決まっている。
俺は戻れない。
留まれない。
下ることもできない。
だから登る。
そこへ向かう自分を、勇敢だと思えたことは一度もない。
ただ、行かない自分に耐えられないだけだった。知っていてなお、体は坂を欲しがる。危険な場所へ向かう準備をしただけで、呼吸が戻ってしまう。
最低だと思う。
けれど、足は止まらない。
オフィスビルの前に着いた。
自動ドアが開く。冷えた空気が顔に当たる。ロビーの床は今日も磨かれ、どこまでも平らだった。受付の女が明るく挨拶をする。俺も軽く頭を下げる。エレベーター前には、出勤してきた社員たちが並んでいる。
俺はその列の最後尾に立った。
誰も俺を見ない。
俺も誰も見ない。
スマートフォンを取り出し、予約完了メールを開く。
集合日までの日数を数える。
あと二十六日。
画面を閉じる。
エレベーターが来た。
扉が開き、人が流れ込む。俺もその中に入る。背後で扉が閉まる。箱は静かに上がり始める。
十一階。
十二階。
十三階。
数字だけが上がっていく。
床は、どこまでも平らなままだった。
俺は目を閉じた。
白い会議室ではなく、白い山を思い浮かべる。
遠く、鈍く、冷たい背中。
俺を待っているわけではない山。
俺が行っても、何も変わらない山。
それでも、そこへ向かうことだけが、今の俺をかろうじて立たせていた。
扉が開く。
今日が始まる。
俺は平坦な床へ、一歩を置いた。
第一章 三つの道
ジュネーブ空港の到着ロビーは、思っていたよりも明るかった。
天井の高い空間に、スーツケースの車輪の音がいくつも重なっている。大型の電光掲示板には、各地からの便名が白い文字で並び、出口へ向かう人の流れが、規則正しく床の上を滑っていく。日本を出てから何時間も経っているのに、ここもまだ平らだった。
俺は預け荷物のレーンの前で、黒いザックが流れてくるのを待っていた。
周囲には観光客が多かった。家族連れ、年配の夫婦、派手なダウンを着た若い男女。スキーケースを抱えた男たちもいる。英語、フランス語、聞き取れない言葉。笑い声。スマートフォンのシャッター音。長距離移動の疲労を含んだ甘い匂い。
空港は、出発する場所ではなく、到着する場所の顔をしていた。
皆、どこかへ向かうのに、少し浮かれている。目的地の写真を撮り、迎えの人を探し、両替所のレートを覗き込む。そういう当たり前の動きの中で、俺だけが少し遅れていた。
レーンの奥から、見覚えのある黒いザックが出てきた。
擦れた角。ベルトにつけた小さな赤いタグ。前回の山行でついた泥の跡は、出発前に落としたはずなのに、まだ縫い目の奥に薄く残っているように見えた。
俺はそれを引き上げた。
重い。
その重さで、呼吸が少しだけ深くなる。
ビジネスバッグでは、こうはならない。ノートパソコンや資料を入れた鞄は、いくら重くても俺を地面に縫いつけるだけだった。ザックの重さは違う。肩に食い込むほど、足がどこかへ向かう準備を始める。
空港のガラス扉の向こうには、灰色の空が広がっていた。
シャモニー行きのバス乗り場へ向かう途中、スマートフォンに母からメッセージが届いた。
〈着いたら連絡してね〉
俺は画面を見たまま、しばらく立ち止まった。
着いた。
どこに。
空港に着いたことを、母は言っているのだろう。安全に海外へ着いたかどうか。ただそれだけだ。けれど俺はまだ、どこにも着いていなかった。東京の会議室を出て、飛行機に乗り、国境を越えた。距離だけは移動した。けれど、まだ平坦な場所にいる。
返信欄に「着いた」と打った。
送信する前に、文章を消した。
〈これからバス〉
そう打ち直して送った。
すぐ既読がつき、短い返事が来た。
〈気をつけて〉
俺はスマートフォンをポケットに戻した。
気をつければ済む場所なら、最初から来ていない。
バスは空港の外れに停まっていた。白い車体の側面に、山の絵が入っている。運転手が荷物室を開け、乗客たちが次々にスーツケースやザックを押し込んでいく。俺も黒いザックを奥へ入れた。
車内にはすでに何人かの乗客が座っていた。
俺は中ほどの窓際に座った。座席の布は少し擦れている。前の座席の網ポケットには、誰かが置き忘れた観光パンフレットが折れ曲がって入っていた。表紙には青空の下の山と、笑顔の登山者が写っている。
笑顔。
俺はパンフレットから目を逸らした。
しばらくして、若い男が隣に立った。
「あ、ここ、空いてますか」
日本語だった。
振り向くと、二十代半ばくらいの男が、小さなデイパックを胸の前に抱えていた。日焼けしていない顔。少し長めの前髪。高価そうだがまだ新しい登山靴。明るい目をしている。眠れていないのか、目の下には薄い影があったが、それさえも旅の興奮に見えた。
「空いてる」
俺が言うと、男はほっとしたように笑い、隣に座った。
「ありがとうございます。日本の方ですよね」
「ああ」
「よかった。なんか、空港からずっと緊張してて」
男は自分で笑った。
「柏木湊です。今日からモンブランのプログラムに参加するんですけど、もしかして同じですか」
俺は少しだけ間を置いた。
「沢木怜」
「あ、沢木さん。よろしくお願いします」
湊は軽く頭を下げた。礼儀正しい。だが、その動きにも落ち着きのなさが混じっていた。膝の上で指を組み、ほどき、また組み直す。窓の外を見て、スマートフォンを確認し、またこちらを向く。
「モンブラン、初めてですか」
湊が訊いた。
「この山は」
「ということは、ほかの山はけっこう行ってるんですね」
「多少」
「すごいな」
湊は素直に感心した顔をした。
その顔を見て、少しだけ苦くなった。
俺はすごくない。
装備を揃え、経験者のような言葉をいくつか覚えただけだ。高度順応、撤退判断、ルート状況、天候リスク。そういう言葉を口にすると、人は勝手にこちらを登る側の人間だと思ってくれる。
強い人間は、東京の会議室で息を詰まらせたりしない。
バスが動き出した。
空港の建物がゆっくり後ろへ流れる。道路は滑らかで、車体はほとんど揺れない。高速道路へ入ると、窓の外には低い建物と、広い空が続いた。日本の都市よりも余白がある。だが、その余白さえ、俺にはまだ平らに見えた。
湊はスマートフォンを取り出し、何枚か写真を撮った。
「会社、辞めてきたんです」
唐突に言った。
俺は窓の外を見たまま、黙っていた。
「あ、すみません。いきなり」
「別に」
「ずっと広告系の会社にいたんですけど、なんか、毎日同じで。数字見て、資料作って、誰かが考えた商品の良さを無理やり言葉にして。もちろん、仕事だから当たり前なんですけど」
湊は笑おうとした。
うまく笑えていなかった。
「このままだと、何も変わらない気がして」
その言い方に、胸の奥がわずかに反応した。
何も変わらない。
その言葉は、若い男の口から出るとまだ柔らかかった。彼には、変えられると思うだけの余地がある。変わりたいと願うだけの明るさがある。俺の中でその言葉は、もっと乾いていた。変わらないのではなく、変える気力もない。変えたところで、自分がついてこない。
「それで山か」
俺は言った。
「はい。昔から少し登ってはいたんですけど、海外の山は初めてで。モンブランって、なんか特別じゃないですか。ヨーロッパ最高峰って言われるし。もちろん、ちゃんと準備はしたつもりです。トレーニングもしたし、装備も揃えたし」
湊は自分の靴をちらりと見た。
まだ革の硬さが残っている登山靴だった。
「登れば、何か変わる気がするんです」
その言葉は、車内の空気の中で、少しだけまぶしかった。
俺は窓の外を見た。
遠くに、山の輪郭が見え始めていた。雲の下に、白くない山肌が低く連なっている。まだモンブランではない。それでも、空の端が少しだけ傾き始めたように感じた。

「変わらないよ」
俺は言った。
湊は一瞬、こちらを見た。
「え?」
「山に登っても、何も変わらない」
言ってから、少し強すぎたと思った。
湊は戸惑った顔をしたが、すぐに笑った。
「経験者の言葉、重いですね」
「重くない」
「でも、僕は……なんか、変えたいんです。別に大げさなことじゃなくて、帰ったあと、前より少しだけちゃんと息ができるようになるとか」
息。
俺はその言葉を聞き、右手を膝の上で握った。
東京の会議室。白い壁。資料。秒針。胸の奥の鉄の輪。指先の震え。トイレの個室で思い浮かべた雪面。
前より少しだけちゃんと息ができるようになる。
湊は、まだそれを願っている。
俺はそれを、何度も願ったあとだった。
「そうなるといいな」
俺は言った。
湊は意外そうにこちらを見て、それから嬉しそうに頷いた。
「はい」
バスは山へ近づいていった。
道路の脇に木が増え、遠くの山肌に雪が見え始めた。カーブが多くなり、車体がわずかに揺れる。その揺れが、体の奥に小さく届く。東京からここまでの移動の中で、初めて床が完全ではなくなった。
俺は座席に背中を預けた。
眠ろうとしたが、眠れなかった。
目を閉じると、真帆の声がした。
帰らなくていい理由が欲しいだけ。
あの雨の日の窓。ベージュのコート。テーブルに置かれた水のグラス。言い返せなかった自分の顔。
俺は目を開けた。
湊はスマートフォンで写真を見ていた。おそらく誰かに送っているのだろう。指が忙しく動いている。画面の明かりが彼の顔を白く照らしていた。
「彼女さんですか」
俺は聞くつもりもないのに訊いていた。
湊は少し驚き、それから照れたように笑った。
「いや、彼女ではないです。会社の同期です。辞めるとき、けっこう心配してくれて」
「そうか」
「帰ったらちゃんと報告しろって言われてます」
帰ったら。
その言葉が、湊には自然に使える。
「沢木さんは、誰かに報告するんですか」
「しない」
「ご家族とか」
「無事に帰ったら、連絡はする」
「無事にって」
湊は少し笑った。
「なんか怖い言い方ですね」
俺は答えなかった。
怖い言い方ではない。
正確なだけだ。
シャモニーに着いたのは、午後の遅い時間だった。
バスが停まると、乗客たちが一斉に立ち上がった。荷物棚からバッグを下ろす音。外国語の短い会話。外の空気がドアから流れ込んでくる。東京とも、空港とも違う冷たさだった。
俺は荷物室からザックを引き出し、肩に担いだ。
街の向こうに、山があった。
最初は雲かと思った。だが違った。建物の屋根の向こうに、白い高みが重く横たわっている。鋭くはない。俺が子どもの頃に想像した山のような三角形でもない。もっと鈍く、大きく、遠い。白い背中のようなものが、街全体の奥にある。
モンブラン。

名前だけは、何度も見た。写真も、地図も、事故の記録も、登頂記も、何度も読んだ。だが実際に街の奥にあるそれは、俺の事情など何も受け取らない顔をしていた。
湊が隣で息を呑んだ。
「すごい……」
俺は何も言わなかった。
すごい、という言葉が合うのか分からなかった。
山はすごくも、優しくも、恐ろしくもなかった。ただ、そこにある。こちらが意味を載せても、願いを載せても、逃げ道を載せても、少しも動かない。
シャモニーの通りは賑やかだった。
カフェのテラスには観光客が座り、ビールのグラスを傾けている。登山用品店のショーウィンドウには、色鮮やかなジャケットやザックが並んでいた。土産物屋の前では、子どもがぬいぐるみを手に取っている。スーツケースを引く女。地図を見ながら歩く夫婦。犬を連れた老人。登山靴の硬い音と、観光客の軽い靴音が同じ舗道の上で混ざっていた。
街は明るかった。
山の足元にあるのに、街はあまりにも平和だった。
それが少し苦しかった。
この街では、山も観光の一部になっている。写真を撮り、カフェで休み、絵葉書を買い、ゴンドラに乗る。危険の近くにいながら、誰も危険の顔をしていない。俺のザックも、通行人のスーツケースも、同じように店のガラスに映っている。
湊は興奮した様子で辺りを見回していた。
「沢木さん、あの店、すごいですね。装備、全部揃いそう」
「ああ」
「ちょっと見てもいいですか。手袋、予備を買おうか迷ってて」
「集合まで時間はある」
俺たちは通り沿いの登山用品店に入った。
店内は暖かく、乾いた匂いがした。新しいウェアの匂い。ゴム底の匂い。金属の匂い。壁にはアイゼンやカラビナが整然と並び、棚にはグローブ、ヘッドランプ、バラクラバ、行動食が色ごとに仕分けられている。
湊は手袋の棚の前で迷っていた。
「沢木さんなら、どっちにします?」
俺は二つの手袋を見た。
「厚い方」
「やっぱり寒いですか」
「寒いかどうかより、手が使えなくなる方が困る」
「ああ、そうか」
湊は真剣な顔で頷いた。
その素直さが、少し眩しかった。
俺は店の奥に並ぶピッケルを見た。銀色の先端が、白い照明を受けて細く光っている。手に取らなくても、その冷たさが思い出せる。金属を握ると、いつも少しだけ落ち着く。言葉よりも正確で、期待よりも硬い。
レジで湊が手袋を買っている間、俺は窓の外を見た。
通りの向こうに、山の白い稜線が少しだけ見える。夕方の光の中で、雲と雪の境目が曖昧になっていた。あそこへ行く。行くことだけは決まっている。決まっているという事実だけで、胸の奥の輪は緩んでいた。
集合場所は、街の中心から少し外れたガイド会社の事務所だった。
古い建物の二階にあり、階段を上がると、小さな受付と待合室があった。壁には山の写真がいくつも飾られている。晴天の頂上。雪稜を歩く登山者。ヘッドランプの列。どの写真にも、人間は小さく写っていた。
待合室には数人の参加者がいた。
フランス人らしい中年夫婦。ドイツ語を話す二人組。英語で笑い合う若い男たち。日本人は俺と湊だけのようだった。皆、それぞれの緊張を、会話や笑顔や装備確認で隠している。
受付の女が名前を確認し、書類を渡した。
保険証明。
緊急連絡先。
健康状態の申告。
天候による中止同意。
ガイドの判断に従う確認。
俺はペンを取った。
緊急連絡先の欄には、古い登山仲間の名前を書いた。東京の部屋で入力したのと同じ名前。そこに真帆の名前がないことを、誰も知らない。母の名前がないことも、誰も知らない。
湊は隣で書類に記入していた。
ちらりと見えた緊急連絡先の欄には、女性の名前が書かれていた。名字は湊と違う。同期だろうか。それとも、彼がまだ彼女ではないと言った相手か。
俺は目を逸らした。
しばらくして、奥のドアが開き、ガイドが入ってきた。
四十代半ばくらいの男だった。日に焼けた顔。短く刈った髪。灰色の目。身長はそれほど高くないが、体の芯がぶれない立ち方をしている。余計な笑顔はない。だが冷たくもない。天候と岩と雪を相手にしてきた人間の静けさがあった。
「エティエンヌ」
男は短く名乗った。
英語で説明が始まった。
天候は今のところ悪くない。だが風が出る可能性がある。体調に問題があればすぐに言うこと。高山病の兆候を隠さないこと。撤退判断はガイドが行う。頂上は目的だが、帰ってくることが最優先。小屋の予約は変更できない。時間を守ること。装備を今から確認すること。
湊は真剣な顔で聞いていた。
俺も聞いていた。
だが、エティエンヌが「落石」と言った瞬間だけ、胸の奥が少しほどけた。
その小さな変化を、エティエンヌが見た気がした。
説明の後、装備確認が始まった。
参加者たちは順にザックを開け、必要なものを床に並べる。ヘルメット、ハーネス、アイゼン、ピッケル、防寒具、サングラス、ヘッドランプ、手袋。エティエンヌは一つずつ手に取り、状態を確認していく。
湊の番になると、彼は少し慌ててザックを開けた。
「すみません、まだパッキングが下手で」
エティエンヌは表情を変えずに手袋を確認した。
「新品か」
「はい」
「使ったことは」
「国内の雪山で少し」
「少しでは足りないこともある」
湊は頷いた。
「分かりました」
分かりました、という日本語を、彼は小さく呟いた。
俺の番になった。
ザックを開け、装備を並べる。どれも使い込んではいるが、状態は悪くない。エティエンヌは無言で確認していった。アイゼンの爪を見る。ハーネスのバックルを見る。ヘッドランプを点ける。手袋の予備を確認する。
「経験は」
エティエンヌが訊いた。
「日本の山。アルプス。冬も少し」
「四千メートル以上は」
「何度か」
エティエンヌは俺の顔を見た。
「モンブランは初めてか」
「初めてです」
「怖いか」
質問は、あまりにもまっすぐだった。
待合室の音が少し遠ざかった。湊が隣でこちらを見ているのが分かった。
俺は少しだけ笑った。
「怖いです」
エティエンヌは表情を変えなかった。
「そうは見えない」
俺は並べた装備に目を落とした。
「怖い方が、楽なんです」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
エティエンヌはしばらく俺を見ていた。灰色の目は、責めるでもなく、同情するでもなかった。ただ、岩の状態を見るようにこちらを見ていた。
「山は治療をしない」
彼は言った。
俺は顔を上げた。
「山は、ただそこにあるだけだ」
その言葉には、慰めがなかった。
だから、信じられた。

装備確認が終わると、明日の集合時間が告げられた。朝、指定の場所に集まり、交通機関で登山口方面へ向かう。テート・ルース小屋まで進む予定。天候次第では変更もある。夜は早く休むこと。酒は控えること。水を飲むこと。
参加者たちは解散した。
湊は事務所を出たあと、通りで大きく息を吐いた。
「緊張しました」
「そうか」
「あのガイドさん、怖いですね」
「怖いくらいでちょうどいい」
「沢木さん、さっきの、怖い方が楽って……どういう意味ですか」
俺は答えなかった。
通りの向こうで、観光客の女が笑っている。カフェの店員がテラス席の椅子を直している。遠くで教会の鐘のような音が鳴った。山の足元の街は、今日も明るく、何も壊れていない。
「変なことを言っただけだ」
「そうですか」
湊はそれ以上訊かなかった。
その配慮に、少しだけ救われた。訊かれれば、答えられない。答えようとすれば、また嘘になる。俺は山が好きだとか、自分を試したいとか、人生を変えたいとか、そういう聞こえのいい言葉をどこかから拾ってくる。そういう言葉を並べているときの声は、たぶん会議室の俺と同じだった。
俺たちは通りを歩いた。
夕方のシャモニーは、観光地の顔をしていた。山の影は濃くなり、店の明かりが暖かく見え始めている。レストランのテラスでは、グラスが鳴った。小さな子どもが、親の手を引いてアイスクリームの店へ向かう。登山靴を履いた男たちが、明日の天気について話している。
湊が言った。
「飯、どうします?」
「軽くでいい」
「僕、緊張してるのに腹は減ってるんですよね」
その素直さに、俺は少しだけ笑った。
「いいことだ」
「沢木さんは食べられます?」
「食べる。食べないと動けない」
「ですよね」
俺たちは小さな店に入った。
木のテーブルが並ぶ、簡素なレストランだった。店内には、チーズと焼いた肉の匂いが満ちている。壁には古い登山道具が飾られていた。黒ずんだピッケル、革のブーツ、色褪せた山の写真。過去の誰かの冒険が、店の内装になっていた。
湊はパスタを頼み、俺はスープとパンを頼んだ。
食事が運ばれてくるまでの間、湊はまた会社の話をした。
「辞めるとき、上司に言われたんです。山登っても人生変わらないぞって」
俺は水を飲んだ。
「いい上司だな」
「え、そうですか」
「嘘を言ってない」
湊は苦笑した。
「沢木さんも同じこと言ってましたよね」
「ああ」
「でも、じゃあなんで登るんですか」
その問いは、思っていたより近い場所に刺さった。
店内の声が少し遠くなる。隣のテーブルでは、外国人の男女が笑いながらワインを飲んでいる。窓の外には、暮れかけた街と、山の暗い輪郭がある。
なぜ登るのか。
そんな問いに、本当の答えがあるなら苦労しない。
そこに山があるから。
子どもの頃に聞いたその言葉は、今では冗談のように軽く聞こえる。山はいつもそこにある。問題は、こちらがそこへ行かずにいられるかどうかだ。
「登らないと、うるさいんだよ」
俺は言った。
「何がですか」
「平らな場所が」
湊は首を傾げた。
「平らな場所?」
「会議室とか、駅のホームとか、マンションの廊下とか。何も起こらない場所ほど、音が大きい」
自分で言って、また余計なことを言ったと思った。
湊はしばらく黙っていた。
「少し分かる気がします」
彼は言った。
俺は彼を見た。
湊は水のグラスを両手で包むように持っていた。
「僕も、会社にいるとき、なんか音が大きかったです。コピー機とか、チャットの通知とか、上司の咳とか。全部どうでもいいのに、全部逃げられない感じがして」
彼は笑った。
「だから、山に来たんですけど」
その笑いは、バスの中で見せたものより少しだけ弱かった。
俺は何も言わなかった。
料理が運ばれてきた。
湊は勢いよく食べ始めた。若い体は正直だった。緊張していても、腹は減る。食べれば、動ける。眠れば、回復する。まだそういう単純さが、彼の中には残っている。
俺はスープをゆっくり飲んだ。
温かかった。
温かいものを口にすると、東京の部屋を思い出しそうになった。冷蔵庫の中の卵。母からのメッセージ。真帆と食べた雨の日の食事。帰る場所を持っていたはずの自分。
俺はパンをちぎった。
窓の外で、山の輪郭がさらに暗くなっていく。
食事を終えると、湊はホテルへ戻ると言った。俺たちの宿は別だった。明日の集合場所は同じだ。
「明日、よろしくお願いします」
湊は店の前で頭を下げた。
「こちらこそ」
「沢木さんがいて、ちょっと安心しました」
俺は答えに詰まった。
安心されるような人間ではない。
湊はそれに気づかず、笑って手を振り、通りの向こうへ歩いていった。彼の背中には、まだ街の明かりが似合っていた。観光客の中に混じっても、違和感がなかった。
俺はしばらくその背中を見ていた。
それから、一人で歩き出した。
ホテルへ戻るにはまだ早かった。
通りを外れ、川沿いへ向かう。水の音が少しずつ近づいてきた。夜のシャモニーは、昼よりも冷えている。吐く息が白くなるほどではないが、東京の夜とは違う硬さがあった。
川のそばの遊歩道に出た。
街灯が水面に揺れている。川は狭く、流れは速い。石に当たる水の音が、規則正しく続いていた。川向こうの建物の窓には、暖かい光が入っている。誰かが夕食を取り、誰かが眠る準備をし、誰かが明日の登山に備えてザックを詰めている。
俺は橋の上で立ち止まった。
山は暗く、ほとんど見えなかった。
けれど、そこにあることだけは分かった。
見えなくても、あるもの。
東京では、それがなかった。いや、あったのかもしれない。ただ、俺には見えなかった。予定表の奥にも、会議室の壁の向こうにも、マンションの天井の上にも、何かはあったのかもしれない。けれど俺は、それを見つけられなかった。
橋の上でスマートフォンを開いた。
真帆の連絡先が、また目に入った。
なぜ開いたのか、自分でも分からなかった。
メッセージ欄には、空白があった。
俺は文字を打った。
〈シャモニーに着いた〉
それだけだった。
送信ボタンを見つめる。
今さら何だと思った。
彼女はもう、俺の到着を知る必要などない。俺がどこへ行こうが、どの山に登ろうが、無事に帰ろうが、帰らなかろうが、彼女の生活は彼女のものだ。俺はそれを一度、手放した。
手放したくせに、橋の上で報告しようとしている。
俺は文字を消した。
スマートフォンをポケットに戻す。
川の音だけが残った。
ホテルの部屋は狭かった。
ベッド、机、小さなクローゼット、窓。窓の外には、隣の建物の壁と、その上に少しだけ山の影が見える。俺は照明をつけ、ザックを床に置いた。
部屋の匂いは乾いていた。洗剤と木材と、少し古い暖房の匂い。日本のビジネスホテルとは違う。けれど、ベッドの白いシーツは同じように平らだった。
俺は装備をもう一度確認した。
明日使うものを手前に出す。ヘルメット、ハーネス、手袋、レインウェア、行動食、水筒。アイゼンとピッケルはさらに後になるが、出しやすい位置に入れ直す。ヘッドランプの電池を確認する。予備電池を小袋に入れる。
動作に集中している間、胸は静かだった。
一つずつ役割のあるものに触れていると、余計な音が消える。手袋は手を守る。ヘルメットは頭を守る。ザックは荷物を運ぶ。水は飲むためにある。行動食は食べるためにある。説明しなくていい。説得しなくていい。
会社の資料より、ずっとまともだった。
母からメッセージが来ていた。
〈無事に着いた?〉
俺は返信した。
〈着いた。明日から山に入る〉
少しして、返事が来た。
〈気をつけてね。本当に無理しないで〉
無理。
俺はベッドに座り、画面を見つめた。
返信はしなかった。
無理をしないで戻れるなら、その方がいい。たぶん、それがいちばん正しい。母の言葉はいつも正しい。真帆の言葉も正しかった。高瀬の会議進行も、泉の気遣いも、湊の期待も、それぞれ正しい。
正しいものばかりが、俺の周りにある。
俺だけが、少しずれている。
窓の外を見ると、夜の山の影がかろうじて見えた。
黒い塊。
明るい街の向こうで、何も言わずに沈んでいる。
俺は照明を消した。
暗くなると、窓の外の山はさらに見えなくなった。代わりに、ガラスに自分の顔が映る。疲れた顔。三十六歳。東京から逃げてきた男。誰にも言わず、誰にも止められず、クレジットカードで危険の入口を買った男。
その顔は、東京の洗面台で見た顔とほとんど変わらなかった。
場所だけが変わった。
俺はベッドに横になった。
眠りは浅かった。
夢の中で、また三つの道があった。
平坦な道。
下り坂。
上へ向かう道。
今度は、東京の白い会議室ではなく、シャモニーの街の外れだった。朝の霧が流れ、道の先はどれも数十メートルで白く消えている。平坦な道は川沿いに続いている。下り坂は街へ戻っていく。上へ向かう道だけが、木々の間に消えていた。
誰も質問しない。
選べとも言わない。
それなのに、俺は自分がどれを選ぶか分かっていた。
朝五時半、アラームが鳴る前に目が覚めた。
部屋はまだ暗い。窓の外は薄い灰色で、山の影はほとんど見えない。喉が乾いていた。水を飲む。冷たい水が胃に落ちる。
体は重かった。
長時間移動の疲れと、浅い眠りと、まだ始まってもいない登山への緊張が混ざっている。だが、東京の朝とは違った。胸の奥の輪は、完全には締まっていない。
俺はベッドから起き上がり、顔を洗った。
鏡の中の自分を見る。
目の下に影がある。髭を剃り残している。頬は少しこけている。強そうには見えない。経験豊富な登山者にも見えない。少し疲れた会社員が、無理をして山の服を着ているだけに見える。
それでよかった。
強く見える必要はない。
強いわけではない。
朝食はパンとヨーグルトとコーヒーだった。
ホテルの小さな食堂には、何人かの登山者がいた。皆、眠そうな顔で黙々と食べている。観光客らしい老夫婦が、窓際で楽しそうに話していた。食堂の窓からは、朝の街が見える。通りはまだ静かで、店のシャッターも多くが閉まっていた。
湊が入ってきた。
俺を見つけると、少し安心したように手を上げた。
「おはようございます」
「おはよう」
「眠れました?」
「少し」
「僕、ほとんど眠れませんでした」
湊は苦笑し、トレーを置いた。
「遠足前の子どもみたいで、自分で嫌になります」
「眠れなくても、食べろ」
「はい」
湊はパンを口に入れた。
彼の顔には緊張があった。昨日の明るさは残っているが、その下に少しだけ硬さがある。山が近づくにつれて、人は言葉より先に体で分かり始める。写真や記録ではなく、自分の足で向かう場所なのだと。
「沢木さん」
「何」
「昨日、山に登っても変わらないって言ったじゃないですか」
「ああ」
「あれ、ずっと考えてました」
「忘れればいい」
「でも、たぶん、変わるかどうかじゃないんですよね」
俺は湊を見た。
彼はコーヒーの紙カップを両手で包んでいた。
「変わらないとしても、変えたいと思ってここまで来たことは、嘘じゃないっていうか」
若い、と思った。
だが馬鹿にはできなかった。
そう信じられる時期が、人にはある。願いと行動の間に、まだ腐っていない橋が架かっている時期。俺にもあったのかもしれない。思い出せないだけで。
「そうだな」
俺は言った。
湊は少し驚いた顔をした。
「否定しないんですね」
「食べろと言った」
「あ、はい」
湊は慌ててパンを食べた。
集合場所へ向かうと、空は少しずつ明るくなっていた。
街の店はまだほとんど閉まっている。通りを歩くのは、登山者と早朝の仕事へ向かう人間だけだった。ザックのベルトが肩に食い込む。靴底が舗道を叩く。ヘルメットがザックの外側で小さく揺れた。
集合場所には、すでにエティエンヌがいた。
彼は腕時計を見て、参加者を確認した。余計な挨拶はない。天気を短く説明し、体調を確認し、出発する。
車と登山鉄道を乗り継いで、登山口方面へ向かった。
列車の中は、昨日のバスよりもずっと静かだった。窓の外で街が下がっていく。緑の斜面、岩肌、遠くの雪。レールの継ぎ目を越える音が、規則正しく車内に響く。観光客もいたが、朝早いせいか声は低かった。
湊は窓に張りつくように外を見ていた。
「すごいですね」
小さな声だった。
俺は頷いた。
高度が上がっている。
機械に運ばれているだけなのに、体の奥が少しずつ変わっていく。東京のエレベーターとは違う。あれは数字だけが上がる箱だった。ここでは、窓の外の街が本当に遠ざかる。人の生活が小さくなる。道路が細くなり、建物が玩具のようになり、代わりに岩と木と雪が近づいてくる。
ニ・デーグル付近で降りると、空気が変わった。
冷たく、乾いていた。
観光客の軽い靴音が少しずつ減り、登山靴の硬い音が増えた。エティエンヌは全員の装備を簡単に確認し、歩き出した。
最初の道は、まだ広かった。
土と小石が混じった緩やかな道。ところどころに草があり、遠くに氷河の白が見える。ハイキングに近い。足元は安定している。危険というほどのものはない。
それなのに、胸の奥が少しざわついた。
まだ平らに近い。
俺は呼吸を整えながら歩いた。
湊が隣に来た。
「思ったより、最初は普通の道なんですね」
「ああ」
「ちょっと安心しました」
俺は返事をしなかった。
安心。
その言葉が、ここでは少し遠かった。
道はゆっくり傾き始めた。
ほんのわずかだった。観光客なら気づかないかもしれない。けれど登山靴の底には分かる。足首の角度が変わる。ふくらはぎに薄く力が入る。ザックの重みが肩から腰へ移る。
その瞬間、胸の奥のざわつきがほどけた。
俺は深く息を吸った。
湊が横目でこちらを見た。
「沢木さん、なんか急に顔色よくなりましたね」
「そうか」
「はい。さっきより」
俺は答えなかった。
坂が始まると、呼吸が戻る。
その事実を、人に説明する方法を俺は知らない。説明したところで、理解されても困る。山に救われている感じはなかった。
ただ、足首の角度が変わっただけで、体のどこかが勝手に落ち着いていく。
道の先で、三つの分岐が見えた。
左には、川沿いへ続く平坦な道。観光客向けの遊歩道らしく、標識には展望地点の絵が描かれている。
右には、少し下っていく道。木々の間を抜け、どこか別の谷へ向かうらしい。道幅は狭いが、足元は悪くなさそうだった。
中央には、上へ向かう道があった。
斜面を巻くように、岩と土の間を登っていく。先は霧で少し白くなり、どこまで続くのか分からない。道標には、小屋の名前が書かれていた。そこが今日の目的地へつながっている。
エティエンヌは迷わず中央へ進んだ。
参加者たちも続いた。
湊が小さく笑った。
「三択ですね」
俺は立ち止まっていた。
平坦な道。
下り坂。
上へ続く道。
夢で見たままの形だった。
左の道を見る。
胸の奥が締まった。
そこには危険が少ない。景色もいいだろう。歩きやすく、戻りやすい。誰かと並んで話しながら歩くにはちょうどいい。足を滑らせても、命までは取られないかもしれない。体調が悪くなれば引き返せる。水もある。街も近い。
まともな道だった。
だから、息が浅くなった。
右の下り坂を見る。
楽に進めるだろう。重力に任せれば足は前へ出る。下れば街へ近づく。カフェ、ベッド、温かい食事、母への返信、真帆に送らなかったメッセージ。戻る場所がある人間なら、あの道を選べるのかもしれない。
俺は戻れない。
中央の登りを見る。
上へ続いている。
その先には小屋があり、落石帯があり、岩場があり、さらに上には雪の稜線がある。息は切れる。膝は痛む。頭は重くなる。判断を間違えれば戻れない。何も得られないかもしれない。いや、得られないことを、俺はもうどこかで知っている。
それでも、その道を見た瞬間だけ、呼吸が通った。

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