久世家日誌②|久世有蔵(くせあるぞう)

住宅街の一角に、その家はあった。
特別目立つわけでもない、ごく普通の一軒家だ。
ただ、玄関まわりだけ妙に手入れされていて、どこか職人の家っぽさがある。
僕は門の前で、一度だけ深呼吸した。
……落ち着け。
そう思いながら、無意識にキョロキョロする。
右。
左。
もう一度、右。
そして、インターホンを押した。
ピンポーン。
「はい」
すぐに返事があった。
ほどなくして、ドアが開く。
現れたのは、奥さんだった。
「こんにちは。橋本です」
「どうも。今日はよろしくお願いします」
奥さんは軽くうなずいてから言った。
「こちらにどうぞ。主人は奥にいますから」
「失礼します」
靴をそろえて家に上がる。
廊下を抜けて、リビングに入った。
そこに、いた。
ソファにひとり、腕を組んで座っている男性。
目を閉じたまま、微動だにしない。
待っているのか、寝ているのか、よく分からない。
体つきはがっしりしていて、肩幅も広い。
年齢のわりに、かなり筋肉質だ。
「あなた、橋本さんよ」
無子さんが声をかける。
しばらくして、有蔵さんはゆっくり目を開けた。
「……どうも」
それだけ言って、また黙った。
どうやら、無口な人らしい。
「はじめまして。理学療法士の橋本です」
僕が頭を下げると、有蔵さんは小さくうなずいた。
それで終わりだった。
挨拶を済ませて、早速バイタルチェックの作業に入る。
「では、まずお熱とか血圧とか測らせてくださいね」
「……うん」
短く返事をして、腕を出す。
測定は問題なく終わった。
「はい、大丈夫そうですね」
有蔵さんは、無言でうなずく。
次に、僕は言った。
「じゃあ、次に歩くところを見せてください」
「……分かった」
そう言って、ゆっくり立ち上がった。
そして、歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
……え?
体が左右に揺れる。
足の向きが毎回違う。
なぜか、少しずつ斜めに進む。
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。
僕は、思わず黙り込んだ。
頭の中で、病院からの申し送りを思い出す。
退院サマリー
《歩き方のクセが強すぎて、大変でした》
……なるほど。
これは、確かに大変だ。
クセがありすぎて、逆によく分からない。
「……すごいですね」
思わず、本音が出た。
「……そんなことないんだけどなぁ」
低い声で、ぽつりと言った。
初めて聞く、はっきりした言葉だった。
僕は、そっと視線を泳がせた。
右。
左。
天井。
……これは、想像以上だ。
理学療法士になって十年。
それなりに経験は積んできた。
でも、このクセは、未知の領域だった。
「橋本さん、大丈夫?」
奥さんが声をかける。
「あ、はい!大丈夫です!」
反射で答えた。
まったく大丈夫じゃない。
とりあえず初回訪問は、挨拶と歩行・動作確認、自宅内の環境設定の確認、
マッサージやストレッチ、筋トレを行い終了。
訪問を終え、玄関を出る。
外の空気が、やけにうまかった。
「……今日は何も事件が起きなくて、よかったな」
そう呟いて、次の訪問先に向かった。
──次回、久世家日誌③
「あなた、橋本さんよ」
そう言って、いつも一歩引いた場所に立つ奥さん。
実はこの家で、
一番いろいろ分かっているのは、
この人なのかもしれない。
次回、奥さん 久世無子(なしこ)。
