波乱万丈な40代人生の振り返り|転職・引っ越し・家族との時間
皆さん、こんにちは。
現在40代、妻と小学生の息子と3人暮らしをしています。
これまでの人生を振り返ってみると、転職・単身赴任・引っ越し…と、まるでジェットコースターのような日々でした。
楽しいこともたくさんありましたが、その分、悩んだり迷ったり、時には立ち止まったりしたことも数えきれません。
特に40代になってからは、「このままでいいのか」「もっと家族との時間を大切にしたい」という気持ちが強くなり、働き方や生き方について真剣に考えるようになりました。
今回のnoteでは、これまでの私の半生と転職の道のりを振り返りながら、氷河期世代としてどんな経験をしてきたのか、そしてそこから何を学んだのかをお伝えしたいと思います。
同じように悩んでいる方や、40代で転職を考えている方にとって、少しでも参考になれば嬉しいです。
第1章:受験校からのスタートと孤独な大学生活
私の物語は、まず高校時代から始まります。
地元では「受験校」と呼ばれる進学校に入学しました。ほとんどの生徒が浪人して難関大学を目指すような環境です。
そんな中、なんとか現役で「まあまあな大学」に合格。正直、奇跡に近い結果でした。親もとても喜んでくれて、「これからは自由な大学生活が待っている!」と胸を膨らませて入学しました。
ところが、最初の大きなつまずきがここで訪れます。
入学当初は授業も友達づくりもやる気満々で、同じ学部の仲間たちと自然にグループを作っていました。ところがある日、ショックな事実を知ります。
「友達だと思っていた人たちが、実は僕を“代返要員”として利用していただけだった」ことに気づいたんです。授業に出席しているように見せるため、代わりに返事をしてくれる存在。
さらに、ノートのコピーも頼まれるばかりで、僕は単なる“便利屋”扱いだったんですね。
その事実を知った瞬間、心の中で大きなスイッチが切れました。
「なんで自分ばかり利用されてるんだろう」
「もういいや、授業なんか出なくても」
こうして、1年生の終わり頃から授業をサボるようになりました。
しかし、2年生になると単位が危うくなり、このままではまずいと一念発起。真面目に授業に出るようになります。
…が、時すでに遅し。大学生活の最初の1年で友達づくりの大切な時期を逃してしまった僕は、4年生になるまでほぼ友達ゼロ。授業に出ても一人、休み時間も一人、食堂も一人。孤独なキャンパスライフを送ることになりました。
ただ、大学生活すべてが孤独だったわけではありません。
救いだったのは、飲食店でのアルバイトです。月に10万円近く稼ぐほど頑張っていて、そこで出会った仲間たちとは本当に仲が良く、今でも連絡を取る友人もいます。
授業には友達がいないのに、バイトでは友達に囲まれている。このギャップは当時の僕にとってかなり大きなものでした。
また、大学時代といえば「ギャンブル」も忘れられません。ちょうどパチンコの「大工の源さん」全盛期で、空き時間に友人と一緒に行くことも多かったです。さらに麻雀にもハマり、夜通しで打つこともありました。
もちろん勝ったり負けたりを繰り返しましたが、今となってはそれも含めて大学時代の大切な思い出です。
こうして振り返ってみると、大学時代は「孤独と楽しさが同居していた4年間」でした。友達づくりでは失敗したけれど、アルバイトや趣味を通じて、人とのつながりの大切さを少しずつ学んでいった時期だったのだと思います。
第2章:氷河期就職と小売業界への道
大学4年生のとき、ちょうど就職活動の真っ只中。
時は2000年。世の中はまさに就職氷河期。
「内定なんて都市伝説でしょ?」ってレベルで、周りの友人たちも苦戦していました。
僕も例外ではなく、説明会に行けば行くほど落とされるし、面接ではうまく話せないしで、毎日胃が痛かったのを覚えています。
それでも、昔からなんとなく「商売をやってみたい」という気持ちがあったので、小売業界を中心にエントリー。
そしてついに、採用人数が多かったある小売企業から奇跡の内定をいただきました。
当時の僕は、「これで俺の未来は明るい!」なんて大きな勘違いをしていたんですが、この時点ではもちろん知る由もありません。
都会の洗礼、5000円の腕時計事件
初めての配属先は横浜。
しかも新横浜の会社寮に入ることになり、埼玉出身の僕は「ついに都会デビューだ!」と完全に浮かれていました。
ところが入社して1か月ほど経ったある日のこと。
仕事帰りに駅へ向かう途中、見知らぬおじさんに声をかけられたんです。
「すみません、帰りの電車賃がなくて…この時計、5000円で買ってくれませんか?
質屋に持っていけば1万円にはなるから、絶対損はさせませんよ。」
……はい、見事に騙されました(笑)。
その場で5000円を支払い、家に帰ってからドキドキしながら質屋へ。
結果、査定額はなんと 「500円です」。
あの日ほど都会の怖さを痛感した日はありません。
社会人1年目で一気に人間不信になった出来事です。
健康診断で発覚した“心臓の秘密”
そんなこんなで社会人生活を続けていた3年目の健康診断。
医者に呼ばれて言われた一言は衝撃的でした。
「あなた、心臓に穴が開いてますね。」
……穴?
寝不足で幻聴かと思いましたが、本当に開いていたんです。
病名は「動脈管開存症」。本来なら赤ちゃんの頃に自然に塞がるはずの部分が、僕の場合は塞がっていなかったそうです。
医者からは
「自覚症状がなくても、このまま放置する人もいるけど、低確率で菌が入ると危険なこともある」
と説明されました。
当時は先輩からのパワハラで精神的に疲れていたこともあり、
「これはもう、休むチャンスだ!」と前向き(?)に捉えて手術を決断。
結果は無事成功し、人生初の長期休暇を満喫することができました。
弘明寺で見つけた癒しの暮らし
手術を終えて少しして、会社の寮が廃止されることに。
横浜の「弘明寺(ぐみょうじ)」という街で、初めての“本当の一人暮らし”を始めました。
これが、もう最高でした。
商店街は昔ながらの雰囲気があって、川沿いの桜並木もとてもきれい。
夏になると毎日のように屋台が並び、お祭り気分を味わえるんです。
会社帰りにふらっと立ち寄っては、焼き鳥を片手に一人でぷち贅沢。
あの頃の弘明寺ライフは、社会人生活で数少ない癒しの時間でした。
こうして新生活にも慣れ、仕事もそこそこ楽しくなってきた頃、
僕の人生にまたひとつ、大きな変化が訪れることになります。
それが、結婚です。
そしてこの結婚を機に、僕の「引っ越し&転勤人生」が本格的に始まるのでした。
第3章:全国転勤と家族との暮らし
結婚して、新生活のスタート!
新横浜に引っ越して、人生初のマイカーも購入。
「これからはドライブに旅行に、家族で楽しい時間をたくさん過ごすぞ!」とウキウキしていた僕に、会社からの一本の電話。
「茨城の店舗に転勤ね。来月から。」
……え、ちょっと待って。
まだ車の駐車場、契約したばっかりなんですけど?
礼金まで払ったんですけど??
サヨナラ、3万円の礼金。
こんにちは、茨城ライフ。
つくば市で始まる“社宅暮らし”
茨城ではつくば市に社宅を借りることに。
ちょうど、つくばエクスプレスの駅が完成したタイミングで、街全体が少しずつ発展していくワクワク感がありました。
つくば周辺はおいしいパン屋さんが多く、休日は妻と一緒に「パン屋巡りツアー」。
「今日はハード系のパンがいい」「いや、デニッシュ攻めでしょ」と、朝から本気の作戦会議。
結果、食べすぎて夕飯が入らないのはお約束でした(笑)。
つくば名物“おいしいパンと多すぎる交通事故”は、今でも忘れられません。
ついに本部勤務、そして初めてのバイヤー職へ
つくばでの穏やかな生活も1年で終了。
次の辞令は横浜の「関東本部」での勤務。
しかも、新しい担当はバイヤー職。これがまた大変だった。
「バイヤーって、商品を選ぶだけでしょ? なんか楽しそう!」
…そう思っていた過去の自分を殴りたい。
現実は、上司からのプレッシャーMAX、取引先との調整地獄、そして休みはほぼゼロ。
夜10時に仕事が終わると見せかけて、そこから翌日の会議資料作りが始まる。
完全にブラックバイヤーの世界でした。
そんなある日、疲れ果てた僕はついに転職サイトに登録。
エージェントと面談し、何社か面接まで進みました。
そしてついに内定もいただいたんですが……最後の最後で決断できず。
今思えば、この時転職していたら人生はガラッと変わっていたかもしれません。
でも、そのときは「今の仕事も、もう少し頑張ればなんとかなるかも」という淡い期待があったんですよね。
結果、なんともならなかったんですが(笑)。
木更津で見つけた“理想の暮らし”
本部勤務を4年続けたあと、次の転勤先は千葉県の木更津。
ここで庭付きの賃貸に住み始めたんですが、これが最高でした。
庭で子どもがシャボン玉を飛ばして、近くの公園では家族でピクニック。
休みの日にはマザー牧場でソフトクリーム、ドイツ村でイルミネーション。
さらに、木更津アウトレットも開業して、買い物も超便利に。
この7年間は、仕事よりも家族との時間が中心で、本当に楽しい思い出ばかりです。
妻も「ここにずっと住みたいね」と言っていたんですが、
そんな幸せな時間も長くは続きませんでした。
ある日、会社から一本の電話。
「次は栃木の店舗ね。来月から。」
……またかよ。
引っ越しってそんなに気軽にするもんじゃないんですよ、会社さん。
初めての転校と、埼玉への“定住決意”
栃木の店舗に転勤が決まったとき、息子は小学生に上がったばかり。
初めての転校で、すごく不安そうな顔をしていたのを今でも覚えています。
「転校はもう一度だけにしよう」と夫婦で話し合い、義理の両親が住む埼玉を“定住地”に決定。
とはいえすぐには家が買えなかったので、まずは埼玉の社宅に住むことにしました。
そこから栃木の店舗まで、片道2時間の通勤生活がスタート。
毎朝5時起き、夜は帰宅が23時過ぎ。
「通勤って仕事の一部じゃないの?」と本気で会社に聞きたかったですね(笑)。
そして、会社に大きな変化が訪れる
そんな過酷な生活を続けていると、さらに会社から衝撃ニュースが。
なんと、うちの会社がM&Aであるグループの傘下に入ることになったんです。
「これはやばい!」
組織はどんどん変わり、先輩や同僚が次々と退職。
僕の大好きだった“あの会社”は、少しずつ姿を変えていきました。
ここから、僕の転職や単身赴任の嵐がさらに加速していくことになります。
第4章:単身赴任と心の限界
念願のマイホームが完成し、家族と新生活スタート!……と思った矢先、会社から衝撃の辞令が届きました。
「高崎に単身赴任ね。来月から。」
マイホーム完成直後に単身赴任とは、まさに会社からの「おめでとう、さあ試練だ!」ってやつです。
しかも時期はコロナ禍の緊急事態宣言中。家族は新居に住み、僕は初めての“近距離単身赴任”をスタートさせることになりました。
せっかくの新生活のテンションも一気に下がりつつ、暇な休日を有効活用しようと、ブログに挑戦。
ワードプレスを契約し、「これで俺もブロガーだ!」と意気込むものの、文章を書くのが遅すぎる&文才ゼロ問題に直面。
半年で6記事書いたところで力尽き、ブログはあっさり挫折。
「文章って、体力も気力もいるんだな…」と、パソコンの前でひとりぼんやり反省しました。
その後は高崎生活にもだんだん慣れ、むしろ快適さを感じるようになりました。
週末など、帰りたいときにいつでも帰れる短距離単身赴任は、意外にも悪くなかったのです。
自由な時間に趣味を楽しんだり、近くのラーメン屋やカフェを散策したり、ひとり暮らしのメリットを満喫できました。
「週末は家族と会える」と思うと、気持ちも軽くなるものです。
ところが、楽しい高崎生活も長くは続きませんでした。
次に待っていたのは、本社への転勤での遠距離単身赴任。
今度は週末に帰ることも容易ではなく、平日も激務の日々。
この遠距離単身赴任で、さすがに「このままでは家族との時間が全然取れない」と実感することになりました。
この経験がきっかけで、僕は思い切って転職を検討することに。
「家族と過ごす時間も大事にしつつ、仕事もできる場所はないか」
そんな気持ちで、再び転職活動を始める決意をしたのです。
第5章:2度の転職と見えてきたもの
埼玉に戻り、いよいよ1回目の転職活動を開始。
条件面では申し分なく、転勤なし、土日休み、給料もほぼ現状維持。
「これなら家族とも安心して暮らせる」と思ったのも束の間、仕事の内容が自分に合わず、1年で適応障害になって退職することに。
失敗の原因は明確でした。
条件は良くても、「やれる仕事ではあったけど、やりたい仕事ではなかった」ということです。
前職での本部の経験を活かせるポジションだったものの、冷静に考えれば好きな業務ではなかったのです。結果として体と心に負担がかかってしまいました。
この経験を経て、2回目の転職活動では意識を切り替えました。
「会社に選ばれるのではなく、自分が会社を選ぶ」姿勢に変えたのです。
事前に企業研究を徹底し、面接ではこちらから質問を投げかけることで、会社の環境や働き方、やりがいを自分の目で確認しました。
その結果、2か月の転職活動で4社から内定をいただき、最も納得できる会社に入社。
面接での失敗や成功、転職エージェントとの関わり方など、経験を通して学んだことは多く、40代後半でも自分に合った環境を選べることを実感しました。
今後はこの経験を発信し、同じ40代転職世代の方々の参考になればと考えています。
「転職は遅すぎる」と思う必要はなく、やりたいことと条件のバランスを見極めることが大切だということを伝えたいです。
まとめ・これからについて
転職、単身赴任、引っ越し、家族との時間――これらを通して気づいたのは、「働き方」と「生き方」のバランスの大切さです。
40代の転職は決して簡単ではありませんが、経験を活かして自分に合った環境を選ぶことは可能です。
今後はnoteで、転職実体験、良かった・失敗したエージェントの話、住んでいた街のレビュー(つくば・木更津・高崎など)も発信予定です。
同じように悩む方に少しでも参考になれば嬉しいです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
波乱万丈な人生でしたが、振り返ると失敗も含めてすべてが学びだったと思っています。
もし同じように転職や単身赴任で悩んでいる方がいたら、ぜひコメントでお話しましょう。
皆さんの経験もぜひ教えてくださいね。

