rei『生きてるだけで、疲労困憊』の、ケイくんとナンパ師とお世話になっております問題について
reiが『生きてるだけで、疲労困憊』という本を書いた。
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000791/
この本には発達障害者が社会に出る時に役立つ考え方や障害者雇用の本音と事例、オタク向けの処世術や恋愛法が書かれており、それも勿論有益なのだが、
この本で最も特徴的なのは、そこで書かれている筆者reiの半生である。
この本に書かれているreiの半生は、現代の若手とは思えないほど濃い。昭和の反差別運動家とか『日本残酷物語』並みに濃い。そんな濃い体験を追体験できるのだからこの本はすごい。
例えば、乳児の頃から無感情だったという衝撃的な逸話から始まり、家族からも孤立した人生と無感情を示す逸話が今もなお無感情な文体で綴られていく中で、
「感情表現が豊かであるかどうかは、そこにインセンティブがあるかにかかっていると思う。(中略)感情を表現したところで親に何かしてもらえることがなかったため、小学校入学時にまるで感情がないかのように、無表情気味だったのだと考えている。」
と書かれる所は、感情の意義に対して新たな視点を与えてくれる。
なおreiの家庭内環境は確かに現代の普通の家庭からすればネグレクトであり、そのせいでreiの感情表出や発声が遅れて普通学校に入れなかっただけでなく特殊支援学校でも少数派に立たされた懸念は確かにあるのだが、
それでも衣食住は十分であり、物事に腰を据えて取り組める時間を潤沢に与えられ、父が与えた本のお蔭で活字も好きになれていたので、ネグレクトだからいって厚木五歳児衰弱死事件のような典型的なネグレクトと一緒にしてはいけないだろう。
reiは家庭内コミュニケーションからは孤立していたが、それゆえに過干渉な毒親や、学習塾という子供を長時間受け身にして主体性を奪う受験産業の尖兵といった現代の中上流階級の子供にありがちな被害を被らなかったのである。
reiの家庭内でのこの自由さを、母親に過干渉された小山晃弘は羨んでいるだろうし、受験エリート達に対する優位にもなるだろう。
色々あって梅田Lateral様にて、わかり手(@akihiro_koyama)さんと精神・発達障害人間が醜悪な世界をサバイブする方法等をトークさせて頂く事になりました。
— rei@生きてるだけで疲労困憊7月21日発売 (@rei10830349) August 12, 2021
しかしそれにしてもイベント告知ページ、「小山晃弘(狂人)」の字面が強過ぎるな…。https://t.co/01eDVfjLZA pic.twitter.com/8vlOPyyNUE
また、父がくれた本のお蔭で活字好きになって分析力が高まっただろうので、例えば普通高校に入る前に発声練習ができたり、文書ソフトのプログラミング機能を駆使して会社で出世したり、『生きてるだけで、疲労困憊』を書いて新たな処世術を示せたことは特筆すべきだろう。
まあ、オウム真理教なら「ネグレクト」「親の愛情が無いから哀れだ」なんて視点ではなく「reiの前世は意識堕落天だった」という話になるのだが。その場合、「麻原尊師も前世は意識堕落天だった。きっと君は尊師に深い縁があるんだよ。さあ、全力で帰依し全力で修行して救済活動のお手伝いをしよう!」という話になるだろうので、それはそれで問題だろうけど。
それはさておき、現代人から濃い人生が無くなっているように見えるのは間違いで、恐らく貧困層が中上流に出世する機会を奪われているせいで、中上流からは濃い人生が見えなくなっているだけなのだろう。reiが本を書けたのは、ケイの友達になるような僥倖が積み重なって大企業の中で地位を得て、幸運にも余裕が出来たからにすぎない。
民俗学は、貧困層から半生を聞き取りをしていけば学問の意義を保持できるのではないだろうか。
現に、歌人の鳥居の半生もまた濃い。
さて、rei『生きてるだけで、疲労困憊』の感想を書いておこう。
ケイは類い稀なる機知の持ち主であり、彼は顕彰されるべきだ。
なぜなら、筆者であるreiの壮絶な人生の大きな救いになったからだ。
普通の人は、あんなに悲惨な目に遭っている人間は救えない。しかし、恐らく学習障害だらうケイは自分も壮絶な目に遭いながら筆者を救っている。それどころか、虫マニアの障害者や卓球固執の障害者のために多勢を相手に孤軍奮闘して善戦していた。これは顕彰すべきだ。
もちろん、オモチャを創造して起業するとか、虐めっ子から文房具を勝ち取るとか、reiと協力して独自にインターネットに接続するといったように、他にも才覚の優秀さを示す逸話に事欠かない。
さらに、まだ言葉を満足に発声できないのに一人で健常者の高校に進学するので、虐められるのが必至だったreiを、高校の首領にして虐めから救っている。己の計略を以て、不在にして首領を成すとは凄まじく賢い。
さて、環境が過酷すぎたのに賢すぎたから過酷な未来が見えすぎ、才能が潰れてしまったのではないかという懸念が指摘されている。
https://note.com/anonymous28/n/n9173f8287a52
この記事では、「知る」ということの弊害というか、先が見えすぎて絶望を深め、世界と早すぎる訣別を選んでしまった可能性が指摘されている。
この記事では「中卒就職をしたので機知を生かす道が絶たれてしまった」というような推測がなされており、確かにそれはかなり妥当な推測である。
しかし、これは私の勝手な憶測だが、中学校までのケイに足りなかったのは、対等かそれ以上の立場にあって自分を理解してくれる他人、すなわち力のある理解者だったのだろう(つまりrei等の同級生では力不足だったわけだが、ケイの機知が鋭すぎたのでしょうがない)。
おそらくケイはそれを求めて、進学ではなく就職を選び、狭い学校制度から出たのではないだろうか。
もちろん結果論で言えば、理系科目受験が要らない有名私立大学の学科に進学すれば理解も力もある学生に出会えた可能性はあるのだが、その道を諦めさせる程健常者がケイに苛烈な行為をしていたことを忘れてはいけない。
その後のケイが力ある理解者と出会えていることを願わずにはいられない。少なくとも世界にはそうなりうる人がいて、例えばreiが知り合っている毛沢東とフランス革命が好きなナンパ師の某人はそうなのではないだろうか。
「お世話になっております」問題は、信頼関係の明示なのだろう。
私が思うに、「お世話になっております」が本当に示しているのは感謝や謝罪ではない。
世話が成立するくらいに強い信頼関係が既にできている、つまり話者同士には既に信頼関係があるから警戒を解いて円滑に業務を進めて欲しいというのがお世話になっておりますの本旨である。
そして、お世話になっているのは人間同士ではないのだろう。信頼関係があるのは会社か部署同士であり、そこでは人間は会社の歯車でしかない。だから、その人間が世話になってようとなかろうと、会社か部署同士はお世話になったことがあるのだからお世話になっておりますが正しいのである。
ゆえに、「お世話になっております」が意味する本旨は、会社か部署として業務を進めたいし、会社か部署としては既に信頼関係があるので警戒を解いて円滑に業務を進めて欲しいということだろう。
