私的エッセイ#3納豆
納豆。三音節、数え方なんて今はどうでもいい。語源は諸説あれど(ここでは置く。なぜなら語源の真偽と、今ここで口のなかに広がる“ねちょり”の実在は、たいてい無関係だからだ)、定義は簡単、大豆を納豆菌で発酵させた食品。以上。しかし、この“以上”の後ろに無限の脚注がぶら下がっている。健康にいいらしい。らしい、に力点があるのは、私の身体がこれまで一度として「今日、効きました」と日報を上げてこないからで、つまり“感じないものは存在しない”という乱暴な立場を取る気もないが、“存在するものは感じさせてくれ”というささやかな消費者の権利を主張したい、という、まあそれも屁理屈の一種だ。
匂い。足の裏、と俗に言われるが、だとすると私はいったい誰の足を、どんな季節の、どれくらいの歩数の後に嗅いできたのだろう。比較の前提が曖昧である。ともあれ、鼻腔に届くあの発酵の気配は、人類が保存と腐敗の境界線を綱渡りしてきた歴史の、薄皮一枚の手触りを思わせる(詩的に言い過ぎだろうか。だが実際、あの糸の伸長は文明の“粘度”の実測値に思える)。糸。無限に伸びると信じる人もいれば、混ぜ方を標準化しようと学会を作りたがる人もいる(仮に混和学会と呼ぼう)。味。これは難しい。塩でも砂糖でもない、うま味の母体。しかし「美味」と断言するには、どこかに“信仰”の補助が必要だ。つまり、納豆とは、舌と宗教のあいだに張られた糸である。
一方で私は毎日食べている。ここがまた厄介だ。「体にいいらしい」という言い伝えの、静かな暴力に、私もまた自発的に屈している。いや、自発的に屈するとは何事か。屈することに自発性はありうるのか。そういう重箱の隅をつつく心性こそ、納豆の糸が私の前頭葉に移住した証拠かもしれない。とにかく、私はそのままでは食べない。付属のタレ、からし、削り節、胡麻、刻んだ大葉と葱。温かい白飯の上に納豆を上陸させる。するとどうだ、たった今まで“自意識過剰な腐った豆の集合体”だったものが、急に協調性を帯びて、社会的にふるまい始める。いや、正直に言えば、納豆の輪郭が薄まるだけである。私は納豆と直接向き合うことを避け、薬味という代理人を介して握手している。外交である。和平条約である。
この話をすると、人は笑う。変な食べ方だと。だが、卵黄を落として艶を出す者、ごま油を回して香りの幕を張る者、糸の可視化が消えるほど混ぜて“雲”にしてしまう者、それらの儀式のほうが、よほど異様だと私は思う。いや、異様とまで言えば角が立つか。では「積極的な他力本願」とでも言おう。結局みんな、納豆そのものを愛しているのではなく、納豆を愛せるようにする環境を愛している。恋人を愛しているのではなく、恋人を好きでいられる自分のコンディションを愛しているのと同じだ。これは痛い。自分で言って痛い。
それでも擁護は可能だ。納豆の“味”は単独で完結しない。たれ、からし、米、海苔、葱、油脂、気温、湿度、混和回数、箸の材質、器の曲率半径、朝か夜か、独りか複数か、偏頭痛の前兆か否か、これら無数の因子のベクトル和が“今日の納豆”を決める。そう考えれば、薬味は共犯ではなく共演者で、私のやっているのは逃避ではなく演出だ、という理屈が立つ。立つが、立った理屈の足元に、あの糸が絡みついて転ばせにくる。転ぶ前に言う。私も矛盾している。矛盾を飼っている。だからこそ、毎日続いてしまう。
ここで一つ、もし私が納豆なら、こう言うだろう。
遺憾の意を表明する。腸内で暴れて腹を下してやる。止めて欲しければ、私そのものの味を、一口ぶんだけでいい、味わえ。
だが言おう。こんな納豆は嫌だ。
あとがき
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