短編小説『孤独な、餌』
古びた畜舎の空気は、いつも湿った藁の臭いで満ちていた。佐藤は今日も、朝から豚舎の掃除に追われていた。五十を過ぎた体は重く、腰の痛みが常に付きまとっていた。
——豚には興味などない。
ただ、親父から継いだこの豚舎があるので、生活のためだけに働いている。そんななか、一緒に切り盛りしてきた母親も、昨年の夏に亡くなってしまった。一人残された佐藤にとって、小さな豚舎での日々が淡々とした日常の業務だった。
「お前ら、掃除するから動け、ほら動け」
佐藤は鍬を振り上げ、太い尻尾に軽く叩きつける。豚たちはびくっと身を震わせ、狭い柵の中で身を寄せ合った。二十頭の豚が無表情の目で見つめる深く黒い瞳には、喜びも怒りも見えない。
——こいつらにも感情はあるんだろうか。まあ、俺には関係ないがな。
ある日、佐藤は腰の痛みに耐えながら重い餌桶を運んでいると、ずるりと長靴が滑り、バランスを崩して派手に転んでしまった。
「痛えっ!ちくしょう!」
泥だらけの床に尻餅をつく。餌桶はひっくり返り、中身を頭から被ってしまい、作業着もろとも餌まみれになってしまった。
「最悪だ……」
ひどい臭いと尻の痛みに舌打ちをする。
——その瞬間だった。
周りの豚たちが、一斉にこちらを見た。
普段はうるさく鳴き、互いに押し合うだけの豚どもが、ぴたりと静まり返った。無表情の顔が、包囲するようにひたひたと集まる。佐藤は地面に尻餅をついたまま、息を飲んだ。
あの黒い瞳……いつもと同じ、無表情。なのに、なぜか違う。
ああ、あれは餌を見る目だ。
俺が餌……?
取り囲んだ無数の黒い瞳に、じわりと底知れぬ深さを感じた。直後、心臓が早鐘のように鳴り、思わず声が出た。
「な、何だよ……おい、お前らどけ!どけよ!」
だが、豚たちは動かなかった。
——いや、動いた。
一番近くの大きな黒豚が、ゆっくりと近づき、太い前足を佐藤の胸にメリメリと押しつけ、付着していた餌を無心に食べ始めた。
「……っ!」
佐藤はその重みに息が詰まる。しかし黒豚は無表情のまま、淡々と付着した餌に、ギシギシと乾燥した毛髪に歯を立てて食らい続ける。
餌まみれのうえ、豚に押しつぶされそうな佐藤は悲痛な叫びをあげるが、すぐさま次の一撃が来た。別の豚の蹄が、100キロを超える重量が腹に深くめり込む。鈍い音が響き、メキメキと骨が軋む音。
「ぐあっ……やめ……!」
そこに三頭目、四頭目。次々と、豚たちは佐藤に付着した餌に群がった。ただただ餌を喰らうため、鼻を鳴らし、蹴り、踏み、かじり、押しつぶす。
——彼の身など餌箱の如く、豚たちにとって何の関心事でもない。
次々と襲い来るメキメキという嫌な音と熱を帯びた痛み。内臓が潰されていく圧迫感。もはや呼吸どころではなかった。踏みにじられながら、乱暴にかじられながら、佐藤は思い出していた。
ああ、その無表情の黒い瞳が、自分自身にそっくりだ。
佐藤には今まで、恋人も友人もいなかった。家族だって、ずっと無関心だった。年賀状だけの付き合いしかなくなっていた弟からも、数年前に連絡が途絶えた。父親の葬式のときが最後だった。
——あれ以来、誰も佐藤の存在を気にかけてなどいない。
若い頃は都会に出て一旗揚げようと夢見たが、うまくいかず、結局何も出来ないまま、親父から譲られたこの田舎の豚舎に戻ってきた。
毎日同じ作業を繰り返し、誰とも深く関わらず、ただ生きているだけ。この豚たちのように、無心に餌を貪るだけの存在——それが彼らと同じ瞳をした自分だったのではないか。
どうしてこうなってしまったのか。もっと人に優しくしていればよかったのか。誰かと笑い合ったり、腹を割って話をしたりしていれば、こんな孤独な終わり方はしなかったのだろうか。
自身への問いかけと後悔が、痛みとともに胸を締めつけていく。
豚たちの蹄が骨を砕くたび、過去の記憶がフラッシュバックする。
父親の葬式で、サイズの合わない喪服姿で久しぶりに涙したこと、結局、目を合わせないままだった弟。最後に見た母親の寂しそうな顔——
あ……
お袋に……会いたい……
最後の最後に、佐藤はそう思った。
温かいなめこの味噌汁の味、間違ったことをちゃんと怒ってくれたこと、ケンカした友達の家に一緒に謝りに行ってくれたこと、そして優しく頭を撫でてくれた、握り飯を握ってくれた、あのガサガサの手……
あの頃は、まだ誰かに必要とされていたのに……最期は、豚の餌か……。豚には、必要とされているのか?……いや、ただの餌だ……
視界がぼやけ、いろんな感覚が無くなる中、佐藤の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
「お……ふく……ろ……」
心臓が止まる。
息も止まる。
すべてが、止ま——
「……みつひろ、」
「……みつひろ?」
「うん……?」
お袋の呼ぶ声で目が覚めた。
「なんだい、まだ寝てんのかい?浩司はもう食べて先に学校行ったよ?あんたも早く食べて支度しな」
起こされて、二段ベッドの上を背伸びして覗くと、そこに弟の浩司の姿は無かった。眠い目をこすって1階に下りると、居間のちゃぶ台には朝食が準備してあった。なめこの味噌汁と握り飯。
親父の姿はなく、もう豚舎の仕事に出たのだろう。お袋が台所で洗い物をしている音を聞きながら、なめこの味噌汁を啜った。濃くて、深くて、温かくて旨い。おふくろの握った握り飯をかじり、味噌汁を啜る。握り飯の中身は塩鮭。塩気の多い、北国の味が染みた。
「ほら、忘れ物ないかい?遅刻するからさっさといきな」
玄関に置かれたランドセルと弁当箱。俺はランドセルを手に取りかけたが、振り向いてお袋に駆け寄り、大きな腰にぎゅっと抱き着いた。
「なあ、おれ……居てよかったんだよな?」
「……何言い出すんだいこの子ったら、朝からおかしなこと言うね」
「いいから教えてくれよ!」
俺は顔をぐしゃぐしゃにして尋ねた。
「当たり前だろ?あたしの子なんだから」
「そっか、良かった……」
その瞬間、重たい体と痛かった腰が、ふわっと軽くなった。
「ほら光博、離れなよ、もうこの子ったら……」
おふくろの声が徐々に遠くなる。
それは彼の心臓が止まった三秒後に見た、儚き夢だった——
今回はこちらの企画に参加させていただきました。
