短編小説『息子とつらら。』
連日続いたマイナス気温より、一段と冷えた大寒の日。あまりに寒すぎて、寝室のストーブを点けっぱなしで寝てしまった。もそもそとベッドから這い出て灯油を入れろとの表示が点滅していたストーブを止めた。
隣のベッドで小さないびきをたてている夫を起こさないように、そっと遮光カーテンを開けると、窓の外の世界は青白く染まった一面の雪景色。遠くまで白い。どうりで静かすぎると思った。
「積もったなあ。明け方まで降るってニュースで言ってたっけ……」
厚手のカーディガンを引っかけて裸足のまま廊下に出ると、足先が冷たすぎて思わずひゃっと声を上げた。
乾燥していた唇が割れそうになりヒヤッとした。カッサカサのつま先をもふもふのスリッパに突っ込んで、階段を降りると玄関先のガラスも凍っていた。近づいて見てみるとガラスには結晶らしき模様が肉眼で確認できた。
「うっわ、すご。どんだけ極寒なんだよ……あっ、水道とか大丈夫かな」
急いで台所に向かい、シンクの蛇口をひねるといつも以上に冷たい水が流れ出た。思わず触れると、痛いくらい冷たい。
「冷たっ、リアルアルプスの水じゃん……」
これでお米を研ぐのは嫌だなあ。あとでぬるま湯で研いでおこう。
水道管はなんとか凍らずに済んだようだったので、あくびを噛み殺しながらリビングのエアコンをつけて、朝食とお弁当の準備を始めた。
テレビの天気予報では明日以降、気温が緩む、とのことだった。良かった。これ以上寒くなるのは動けなくなるのでホント勘弁してほしい、そう思いながら冷凍の唐揚げを解凍してると、息子の陸人が起きてきた。
「見て雪!真っ白!すごいねママ!」
陸人はリビングの窓から見える景色に興奮していた。朝から賑やかになるなあ、そう思いながら「ガラス冷たーい!」と窓ガラスをペロペロ舐めだした陸人に声を上げた。
——バタバタした朝食を終え、コートに手袋マフラーというフル装備の夫にゴミ出しをお願いし、洗濯機のスイッチを入れる。
「うーん、やるか……」
私もフル装備で外に出ると、庭と玄関の雪片づけをはじめた。日が出てきたとはいえ、想像以上に外はまだ寒く、雪はしっかり積もっていた。庭に出したままの三輪車が雪を被って凍っていた。
息子の陸人は、お気に入りのヒーローがプリントされた手袋と長靴で雪遊びに夢中だ。私は夢中で遊ぶ陸人の真っ赤な耳に顔をしかめ「はい、忘れ物」と耳あて付きの帽子を被せてあげた。
屋根の端からは透明な剣のようなつららが、ずらりと並んで垂れ下がっていた。陸人はその光景に目を輝かせて「しょうにゅうどうみたい!」と騒いでいた。昨年の夏、鍾乳洞に連れてった時のを覚えていたのだろう。
私は雪片づけを黙々とこなしていると、いつしか暑くなってきていた。体を動かしているからだろうか。ふうふうとうっすら汗をかくほどの労働で片付けられた雪はどんどん溜まり、屋根の端から垂れ下がるつららに手を伸ばせば届く高さになっていた。
陸人はそれをよじ登り、一本のつららに手を伸ばす。ぽきり、と小さな音を立てて、彼の手の中に収まった。
「ママ、つらら取れた!」
「あぶないから、遊ぶならそれ一本にしなよー」
はしゃぐ陸人は最初、剣のように振り回したり雪に突き刺したりして遊んでいたが、やがて舌を伸ばし、ぺろぺろと舐め始めた。無邪気な笑顔で、まるでキャンディーでも味わうように。
「陸人、それきたないんだからやめなさい!」
私は慌てて駆け寄り、つららを取り上げた。息子はぽかんとして私を見上げる。
「きれいだよ?氷だもん」
「これはね、屋根の汚れだとか、鳥のフンだとか、いろいろ混じってるの。そんなの口に入れたら、陸人おなか壊すでしょ? だから舐めたりかじったりするのはやめて」私は必死に言い聞かせた。
でも陸人は首を振って、納得いかない顔のまま別のつららに手を伸ばす。「でも汚れてないよ? フンとか見えないし」
そう言って、今度は大きなつららをぽきりと折ると、唇をぴたりとつららに押しつけた。
——その瞬間。
「……ん?」
陸人の表情が凍りついた。唇が、つららにぴったりと張り付いてしまったのだ。
「ママ、これとれない……」小さな声で訴えながら、無理やり引っ張ろうとする。唇の周りが赤く引っ張られ、痛そうに顔をゆがめる。
「引っ張っちゃダメ! 口が切れて血が出るから!そのまま!」
私は急いで涙目の息子を連れ、家の洗面台まで連れて行った。蛇口をひねり、ぬるま湯をコップに汲む。 熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどいい温度。
「じっとしてて。ゆっくりかけるから」
つららと唇の境目に、そっとぬるま湯を垂らしていく。次第にぽたぽた、と氷が溶け始め、滴が落ちる。しばらくすると、つららが少しずつ柔らかくなり——スッと唇が離れた。
「とれた!」
陸人は恐る恐る自分の唇を触る。少し赤くなっているけれど、血は出ていない。ほっとしたのか、陸人はぽろぽろと泣き出した。
「ホント、危ないんだから! 今度からつらら遊び禁止だからね!」
さすがに懲りたのか、泣きながら何度も頷く陸人。胸を撫でおろした私はそんな息子を抱きしめてあげた。
しばらくして落ち着くとリビングに戻った陸人は、ソファに座って窓の外を眺めていた。そこには、まだつららが陽の光を受け、少しずつ溶けだした雫がきらきらと輝いている。私は息子の隣に腰を下ろすと、優しく肩を抱いた。
「……きれいだけど、食べちゃダメなんだね」
「そうだね。ママもね、陸人ぐらいの頃につらら食べて怒られたんだよ」
「えっ、ママも?……おばあちゃんに怒られたの?」
「そうだね、おばあちゃん……『ばっちいから食べるな!』ってすごく怒ってた」
私も同じくらいの頃、つららを手にして母に怒られたことがあった。アイスキャンディーの如くぺろぺろと舐めていた、味のしないつららを思い出す。無邪気なものだったが、確かに今考えると、ばい菌やらなにやらが混じった氷を口に入れていたことにゾッとする。そりゃ母も怒るか。
「ママ、おなかこわした?」
「うん、おなかこわしてその日の御夕飯、食べられなかったの。陸人はそうなるのは嫌でしょ?」
息子は静かに頷く。
「じゃあ陸人、約束を守れるなら、今日は大好きなエビフライにしてあげるけど……守れる?」陸人は、ぱっと顔を上げると目を輝かせた。
「できる! エビフライー!」
無邪気に喜ぶ声が、部屋に響く。さっきまでのしょんぼりした表情はどこかへ消え、代わりに期待でいっぱいの笑顔が広がった。
「じゃあ、もうつららには触らないね?」
陸人はこくこくと大きく頷き、私の手をぎゅっと握った。
「うん! 約束!」
私は心の中でほっと息をついた。冬の小さな事件は、彼の経験となっていく、いつか息子も、誰かにその経験則をこうやって告げる日が来るのだろうとしみじみ思いながら、私は洗いたての洗濯物を抱えた。
「……冷たっ」
洗濯物も、めちゃくちゃ冷たかった。これも経験則のひとつか。
今回はこちらの企画に参加させていただきました。
