短編小説『最期の告白』
——ある現場で封書が見つかった。
それは「佐藤様へ」と丁寧に書かれた、私宛の封書だった。私は見覚えのあるご遺体にしっかりと手を合わせ、現場から一旦出た。そして離れたところに停めてあった車に乗り込み、一人で封を開けた。
中からは数枚の便箋と指輪が出てきた。それはあの時、見かけた指輪だった。私はそれをすぐにハンカチで包み、懐に忍ばせると、便箋に目を走らせた——
薄暗い病室に、消毒液の匂いが重く淀んでいた。心電図モニターの規則的なピッピッという音だけが、静寂を破る。
ベッドに横たわる木下慎二は、酸素マスクの下で浅い息を繰り返している。顔は土気色で、頬は痩せこけ、かつての精悍な面影はどこにもなかった。
付き添いの美奈子は、慎二の手を両手で包み込むように握っていた。彼女の薬指には指輪が鈍く光る。目は腫れ、涙の跡が頬に筋を作っていた。それでも、気丈に微笑もうとするその表情に、刑事の佐藤は胸を締めつけられた。
「木下……」佐藤は低く、掠れた声で言った。
「お前、最後まで言わないつもりか」
美奈子が跳ねるように立ち上がった。
「こんな時にまで何なんですか!慎二さんはやってないって、何度も言ってるじゃないですか!」佐藤は目を伏せた。
三年前のあの事件——繁華街の路地裏で刺殺された男。被害者のポケットに残された木下の指紋、目撃証言、動機らしきもの……状況証拠はほぼ完璧に揃っていた。だが、決定的だったはずの凶器のナイフだけが現場にも木下の自宅にも見つからず、逮捕には至らなかった。
本人は一貫して否定し続け、起訴猶予のまま、木下の病状が急変したのだ。佐藤はゆっくりとベッドに近づいた。
「木下……このままあの世まで逃げ切るつもりか? お前、本当にそれでいいのか?」声が震えていた。
刑事としての使命感か、それとも、ただの人間の弱さか。
「頼む……最期だけは、正直に話してくれ」
美奈子は力ない慎二の手をぎゅっと握った。
「慎二さん……言う必要なんてないわ」
——その瞬間。
ピーッ、ピーッ、ピーッ……心電図の音が不規則に跳ね上がり、警告音が甲高く鳴り響いた。
「慎二さん!」
美奈子が叫ぶ。ナースコールで看護師が慌てて駆け込んでくる。
「木下さん! 木下さん、聞こえますか!」看護師の処置が始まった。
胸を押すリズム、薬剤の注入。モニターの波形は乱れ、ますます細くなっていく——
木下の瞳が、苦痛に歪みながらも、一瞬だけ美奈子を見た。そして、佐藤の方へ。酸素マスクの下、かすれた、ほとんど息のような声が漏れた。
「刑事さん……やったのは……俺です……」
佐藤の体が凍りついた。
「木下……お前、自白を……?」
美奈子が、信じられないという顔で衰弱した夫を見下ろす。
「慎二さん……?」
木下の唇が、もう一度、微かに動いた。
「……ごめん……美奈子……これで……」ぎこちなく微笑みながら口を動かしたが、最後の方は言葉にならなかった。
美奈子が「えっ」と言った瞬間、心電図の波形が、一本の直線に変わる。
ピ―――――――――――
長い、絶望的な音が病室を満たした。妻の手から慎二の手が力なく落ちる。医者が瞳孔を確認すると「残念ですが……」と木下の死亡を告げた。
佐藤はベッドの端を掴み、沈痛な面持ちで歯を食いしばった。美奈子は、握り返してくることのない夫の手に触れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。涙さえ出なかった。
最後の告白を聞いた佐藤は、目を閉じて項垂れたままの美奈子に、深くお辞儀をして病室を去った。
「慎二さん……」
葬式を上げたあと、遺品として残してもらった指輪をネックレスにひっかけた美奈子は、火葬場からもくもくと立ち上る煙を眺めていた。
美奈子は指輪を手に取り、慎二と出会ったあの日を思い返していた。
——あれは事故と言えば事故だった。
前の彼、竜也のDVに耐えかねた美奈子がアパートから逃げだすと執拗に追いかけられた。すぐに見つかり、頬をぶたれ、髪を引っ張られて連れ戻されそうになった際、たまらず、護身用に持っていたナイフで刺してしまった。
その時、竜也に金を貸していた慎二が、取り立てに向かっていた。ばったりとその現場に出くわしてしまった慎二は、倒れていた竜也の胸ぐらをつかみ「おい、金は!?金はどうするんだよお前!?」問いただそうとしたが、竜也は既にこと切れていた。その際に指紋が付いたのだ。
慎二は血のついたナイフを素早く拾い上げ、震える美奈子を見て、事情を察し「お前、竜也の……そうか。とりあえず逃げるぞ」と彼女の手を取って逃げだした。
慎二の家に着くと、震える美奈子に静かに語り始めた。
「……俺は幼い頃、母親を失った。飲んだくれた父親が暴力を振るってな、それで母は半身不随になった。それでも父親は反省することもなく手を上げ続けた。結局、母はそのまま亡くなった。あの時の無力感は、今でも忘れられない。だから……俺は女性に手を上げる男を、絶対に許せない」
そう言って、慎二は美奈子の腕や首筋に残る青黒い痣を優しく見つめた。「お前も……大変な思いをしてきたんだろう?」
その一言で、美奈子の中で何かが決壊した。これまで誰にも言えず、誰にも理解されず、耐えに耐えてきた痛みが、堰を切ったように溢れ出した。美奈子は声を上げて泣いた。初めて、誰かに見抜かれ、受け止められた気がした。
その後、慎二は自身が経営する鉄加工を生業とする町工場で、凶器となったあのナイフを溶かし、加工し直した。慎二はそれを小さな指輪の形に変え、二つ作った。
「これをお互いつけ続けることで、秘密を守ることにしよう」と、美奈子に静かに告げた。凶器は完全に姿を変え、誰にも知られることなく、二人の絆の証となった。凶器が見つからない限り、警察は逮捕できなかった。
慎二はこの真実を誰にも明かさないと誓い、その秘密を生涯守った。
そして最後に美奈子の罪をも被ってくれた慎二が残した言葉——最後の部分は言葉にならなかったが、美奈子は口の動きからあの時、理解していた。
「これで……、(きみは自由だ)」
私は便箋から顔を上げ、ようやく彼女の意図を理解した。
慎二は罪を被ることで美奈子が自由になると思ったが、当の美奈子は逆だった。対の指輪があってこそ守られていた二人の秘密も、片方が無くなれば意味がない。美奈子一人で抱えるにしては、殺人という秘密は重た過ぎたのだ。
それでこの告白文を私に残して、あいつの元へ逝くという自由を選んだのか……。
……そして、あの事件の真実は、この手に委ねられたって事か。
私は大きくため息をつくと、車から降りた。内ポケットからライターを取り出し、便箋に火をつけた。あっという間に、きれいな文字が書かれていた紙は、灰になって空へと舞い上がって消えていく。
——これでいいんだろう?
私は空を見上げながら、誰にでもなく、そう呟いた。
