見出し画像

短編小説『追いバターの哲学』

 私は毎朝、焼いた食パンにバターを塗る。……いや、正確にはバターを塗って焼いた食パンに、さらにバターを塗る。

 『追いバター』とでも言っておこうか。

 バターにバターという少々の罪悪感と同時に、朝から美味しいものを食べるのは『絶対的正義』だろう、という謎の持論がいつも頭の中で毎回抗争を繰り広げていた。

 まあ、だいたいいつも謎の持論がねじ伏せるのだが。……だって、そのほうが美味しいんだもん。

 そして目玉焼きとウインナー、レタスにブロッコリー、トマトのサラダを皿に盛りつけて、淹れたコーヒーと共に朝食としていただく。もはやルーティーンだった。

 その朝も、いつものようにキッチンの小さなテーブルで、私はフォークを動かしていた。窓から差し込む朝の柔らかい光が、バターの溶けた表面をキラキラと輝かせている……なんて美しい……。
 三十五歳の独身女が、こんな朝食を毎日続けているなんて、誰かに言ったら笑われるかもしれない。でも、これだけは譲れない。人生の中で、自分を甘やかせる数少ない場面なのだから。

 佐藤 遥。市内の金属加工を営む中小企業で、パート事務員として働いて十五年になる。勤続年数はパートの中では長い方だが、私はよく失敗するほうだ。
 書類の数字を一つ間違えたり、納品日の確認を忘れたり、得意先への電話を間違えたり。もはやそれすら会社内では様式美のようだった。
 何かあるたびに「まーた佐藤さんか、まあ仕方ないか」という空気が、いつしか職場にこびりついていた。

 それでもクビにならないのは、誰よりも長くいて、社内の細かいルールや過去の取引先の人たちの癖を一番よく知っているからだろう。
 居心地が悪いような、妙に安心するような、不思議な居場所だった。

 その日もいつも通り会社に行き、慣れたデスクに座って伝票整理を始めていた。すると、隣の席にいる茶髪の後輩ちゃんが、突然こちらを向いて言った。

「佐藤さんって、よく失敗してますけど落ち込むこととかないんですか?」
 あっけらかんとした口調だった。私は少し面食らいながらも、メガネのずれを直しつつ答えた。

「そういえば……最近はあまりないかな?」
 宙を眺めつつそう答えると、後輩ちゃんは目を丸くした。
「最近……ってことは前はあったってことですか?」
「あらら、そこツッコむか。まあ……こんな私にも初々しい頃はありましたからねえ」私はニッと笑ってみせた。

「佐藤さんの初々しい頃……想像がつかないです」
「失礼な。入社したてとかは右も左もわからなくて、そりゃあたくさん苦労もしたよ」
「そうなんですね……実は私、今その最中なんです」
「え……? 後輩ちゃん何か大変なことでもあった?」
 これは私でもちょっと役に立てそうだぞと思いながら、後輩ちゃんの傍にスススっと椅子を滑らせた。彼女は少し迷った後、ぽつぽつと話し始めた。

 得意先へのメールで大きなミスをしてしまい、上司にきつく注意されたこと。まだ入社して一年にも満たないのに、周りから「使えない」と思われている気がして怖いこと。毎日家に帰ってからもそのことばかり考えて眠れないこと。
 私は黙ってそれを聞いていた。十五年分の様々な失敗の記憶が、ふと頭をよぎる。

「失敗するたびにさ、少しずつ……会社の空気だとか、自分が許せる範囲とかラインがわかっていった気がするなあ。それより重要なのはさ、ミスしたくらいで自分を追い込まないことだよ」

 後輩ちゃんは少し目を潤ませながらも、小さく頷いた。
「佐藤さん……意外と優しいんですね」
「意外と、って失礼だね」
 私は笑いながら彼女の肩を軽くトントンと叩いた。

「私ね……朝食べるパンにさ、バターを塗ってから焼いて……こんがり焼き上がったら、さらにバターを塗るのが好きなんだ。追いバターってやつ?」後輩ちゃんは何の話か理解できてないようだが、私は構わず続けた。

「失敗もさ、そうやってどんどん上書きしていけばいいんじゃないかな? 追いバターみたいに」
「最初のバターと混ざって、一緒になるからですか?」

「重要なのは一回焼くこと、自分の中で咀嚼してヨシ、ってなるってこと」
「それが焼き上がり……」
「そう、そして失敗を否定せずに、そこからじゃあ次はこうしよう!っていう考えを上に塗り重ねていくわけ」
「それが追いバター……」

「うん。あれ……? わかりづらかった?」
 私は自分でここまで得意気に話しておきながら、ちゃんと伝わったか急に不安になった。そんな私のドギマギした表情を後輩ちゃんがまじまじと見つめる。
「佐藤さん……意外と良いこと言いますね」
「だから意外とって、失礼だからね」

「っていうか、そんなにいろいろわかってるのに、どうしていつも失敗するんですか?」
「うぐぐ……わかってても、ほら、ついやっちゃうことってあるでしょ」
 私は苦笑いしながら彼女に注いだコーヒーを手渡した。

「ま、いろんな感情溢れてくるかと思うけどさ、ぐっと飲み干してお腹の中に入れちゃえば、ぜんぶ一緒だからね」
「……佐藤さん、それは食に対して、失礼だと思います」
「お、言うじゃん。それくらい言えたらまあ、大丈夫そうだね。じゃあ、続きの仕事やろっか」
「あ……そうですね、すみません、ありがとうございます。えっと、コーヒーをグッと飲み干して……あ、ゲフン、ゲフン!」
「ほらほら、慌てて飲もうとするから……」
 私はハンカチで後輩ちゃんのこぼしたコーヒーを拭きながら、一応……先輩としてのメンツは保てたのか?なんて思ったりしていた。

 翌朝も、私はいつも通り、食パンにバターを塗った。焼いた後に、さらに追いバター。罪悪感は相変わらず頭の片隅で小さく囁いていたが、そんな時にLINEの通知があった。後輩ちゃんだった。

 見てみると、焼き目のついたフランスパンにバターが塗ってある画像。
『追いバターの罪悪感ヤバいですね』

——後輩ちゃんってフランスパン派なんだ。
 私はそこがツボってしまい、朝からひと笑いすると『追いバター仲間!』という文字と、サムズアップしたクマのスタンプを送った。

 「また佐藤か」そう言われ続けた私も、誰かに過去の経験を話すことで、少しでも楽にさせてあげられるなら、失敗も悪くない。
 目玉焼きを割りながら、私は小さく微笑んだ。うん、やっぱり美味しいものは、絶対的正義だ。

 ああ、コーヒーの良い香りがする。