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短編小説『公園で会った坂下さん』

 ある日の夕暮れ。よいしょっと声を漏らし、公園のベンチに腰を下ろした草薙は、深いため息をついた。

 マッチングアプリの自己紹介欄を眺める。三十七歳。独身。身長百七十センチ、体重九十二キロ。いかにも加工した自分の顔……。

 告白の数は今年だけでもう七回。結果、全部振られた。理由はだいたい同じだった。
「草薙さん、いい人そうなんだけど……なんか、もっと自分を大事にしてほしいかな」そんな言葉を聞くたび、草薙は笑って答えた。
「俺はありのままの自分を受け入れてくれる人が、理想なんです」
しかし、たいていの女性は苦笑いしながら去っていく。

 重さに軋むベンチでマッチングアプリを眺めていると、いつの間にか日も暮れて、チカチカと点滅する街灯が辺りを照らしていた。
「……腹、減ったなあ。」草薙は突き出たお腹をさすりながらそう呟くと、ふと辺りに気配を感じた。ベンチから少し離れた噴水の傍に女性が立っていた。
 色白でスラリと長い手足をしており、後ろでまとめた黒髪が白いワンピースとのコントラストで、より映えて見えたせいもあり、草薙は思わず声を漏らした。

「素敵だ……」
 草薙はゴクリと生唾を飲み込んだ。不安げな表情のまま、噴水をずっと眺めている女性。そんな彼女に一目ぼれしてしまったのだ。いつになくドキンドキンと胸の鼓動が高鳴った。

「あの……す、すみません!」
 たまらず彼女の元へ慌てて駆け寄ると、お腹がゆさゆさと揺れた。

――その女性は坂下と名乗った。最初は話しかけてきた草薙に驚いた顔をしたが、すぐに呆れた表情になった。

「あなた……私が見えてるの?」
「はい!めちゃくちゃ綺麗に見えてます!」

「いや、そういうことじゃなくて……私、幽霊なの」
「え? ゆう……幽霊!? ウソでしょ!?」
 草薙が彼女の足元を見てみると、街灯に照らされているはずなのに、影がなかった。病的に色白なのもそういうことなのか、どうやら本当らしい。でも……

「構いません! 幽霊でも何でも、僕はあなたが好きなんです! 一目惚れしました! ぜひお近づきにならせてください!」

 そう意気込む草薙に坂下は小さくため息をついた。指でこめかみを押さえて悩む仕草が、妙に人間臭かった。

「幽霊でもなんでも?……甘く見られたもんだわ。あのね、こっちにも選ぶ権利ってものがあんのよ」
 彼女はそう告げるとふわりと草薙の前に浮かび上がり、じっくりと上から下まで値踏みするように眺めた。

「ねえ、アンタさ。声かける前にその汚い身なりをまず何とかしようとか、思わないわけ?」
「……え?」
 草薙は一瞬ビクッとして、思わず両手でお腹を押さえていた。

「そう!その突き出たお腹、みっともないと思わないの? シャツのボタンが今にも飛んでいきそうじゃない。髪はぼさぼさだし、髭もほら、剃り残しだらけ。いつから履いてるかわかんないその汚い靴もそう。アンタさ、鏡見たことある?」

 草薙はそう凄まれて、思わず後ずさりながら告げた。
「で、でも……俺はありのままの自分を受け入れてくれるような女性が……」
「は? それただの言い訳だからね」
 坂下の声が急に鋭くなった。幽霊なのに、なぜか威圧感があった。

「受け入れてもらいたいとか言うなら、せめて自分を最低限、ちゃんと扱いなさいよ!自分も大切にできない男が、付き合った彼女を大切にするわけがないじゃない?」
「……そ、それは俺が……」
 草薙がモゴモゴと何か言いたげだったが、坂下はそれを遮るように続ける。

「『ありのまま』って言葉を、怠惰の免罪符にしないで。好きになる資格すらない人に、好きになってもらおうだなんて、虫が良すぎるわ」
ばっさりとそう切り捨てた。

公園の風がさっきより冷たくなった気がした。草薙はただ、呆然と立ち尽くしていた。坂下は呆れたようにふっと空を見上げた。
「私、死んでから三年くらい経つけど、まだ誰かに本気で好きになってもらったことないの。たまにアンタみたいに幽霊が見える男が寄ってくることもあるけど、みんな結局、自分の都合でしか見てくれない。アンタも同じだわ」

 それだけ言うと彼女はくるりと背を向けた。ワンピースの裾がはためいていた。
「もう少しマシな格好してから、また声かけてみたら?……もしかしたら、その時は少しだけ、話を聞いてあげるかも」
 すると坂下の姿が、ゆっくりと霧散するように消えていった。草薙はしばらくその場に立ち尽くしていた。

——その夜、草薙は初めて自分の部屋の鏡をまじまじと見た。
見ないようにしていたお腹を突き出して、ため息をつく。

「……言い訳、か」

 翌朝、草薙は久しぶりに髭を綺麗に剃り、髪をそれなりにセットした。アイロンをかけた皺のないシャツを着て、万年履きつくしていたボロいデニムを捨てて、ちゃんと洗ったチノパンを履いた。
 靴は駅前で新しいのを買った。お腹は出ているが、ベルトを少しきつめに締めたせいか、息が苦しかった。

 夕方、公園の噴水のところへ行くも、坂下は見当たらなかった。でも、どこかで小さく笑う声がした気がした。

「……次は、ちゃんと走れる体になってから来なさいよ、そこまでやって初めてスタートラインに立つんだからね」

「坂下さん……?」
 囁くような坂下の声が、風に乗って聞こえたような気がした。草薙は小さく頷くと、ゆっくりとジョギングを始めた。

「……家までは何キロあるんだ?」
 すぐに息が上がる。ベルトを緩めた。そして、足が重い。軽い靴を選んだはずなのにこの体たらく。そりゃ、あの人にも怒られるか。苦笑いしながら汗をぬぐった。

……次はジャージとタオルが要るな。

 草薙の胸はなぜか少しだけ、軽かった——



——それから1年半が過ぎた。

 サボった日もあったが、俺は少しずつ走り続け、筋トレもするようになった。体重は65キロまで落ちていた。あれだけ揺れて邪魔だったお腹も、少し出てるくらいまでにへっこんだ。二重あごのたるんだ肉も減り、うっすらと喉仏が見えている。Tシャツやチノパンのサイズもダウンし、以前の服はぶかぶかだったので捨てた。

 毎日とは言わないが、ジョギングがてらにあの公園へは通っていた。しかし坂下さんの姿どころか、声も聞こえることはなかった。俺はただの幻想を追い続けているのかもしれない。それでも、あの日彼女が言ってくれた言葉を胸に、今日も走っている。

 息を整えながら公園のベンチの傍で噴水を眺めた。

——坂下さん、どうだろうか? 少しは話しかけてもらえるような男に……なったかな?

 俺は汗を拭きながらペットボトルの水を手に、ぼんやりとそう思っていた。

「——へええ、やるじゃん、見直した」

「えっ?」
 俺は思わず周囲を見回した。辺りには誰も居なかったが、誰かに聞こえるように俺は大声で叫んでいた。
「坂下さん!俺……頑張りました! あなたに話せてもらえるように! 見えてますか!? 俺、そんな男になれてますか!?」

 辺りは静まり返り、噴水の水音と俺の息遣いだけが響く。
「坂下さん……」

 俺はため息をつくと、息を整えてまた走り出した。その時だった。

「——まあ……十分だわ。次はちゃんとさ、自分の力で素敵な出会い、掴みなさいよ」
 そんな声がふわりと響いた。

「……坂下さん?」
 振り返るとあの日のように噴水の傍に彼女が立っていた。長い黒髪で、白いワンピースの裾が揺れている。

「あの、俺……!」
 そう言いかけた直後、彼女は少し微笑んだ。それは今まで一番優しい笑顔だった。それが、答えだったのかもしれない。

「……アタシさ、もう逝くから……がんばりな」
 苦笑いしながら彼女がそう告げると、そのままスーッと空に消えていった。

「そんな……坂下さん、坂下さん!」
 彼女は去り際に何も言わなかったが、俺はもう二度と会えないのだと確信した。成仏というやつだろうか。

「こんな別れ方……ずるいよ!」
 俺はただ、坂下さんが消えていった空を眺め、何度も彼女の名前を呼びながら、人目もはばからず声を上げて泣いた。それはマッチングアプリの時とは比べ物にならないほどの、大きな喪失だった。

——それから三ヶ月。

 相変わらずジョギングは続いていた。もはやルーティーン、日課になっていた。あれから何度もへこみまくり、ようやく坂下さんとの別れを受け入れた俺だったが、それでもあの公園へは足が向いてしまう。

 休日の午後。いつものベンチに腰掛けて休憩する。タオルで汗を拭きながらペットボトルの水を飲んでいると、反対側のほうから誰かが軽快に走ってくる。ジョギングしているキャップを被った細身の女性だった。

 彼女は少し離れたベンチに座り、汗を拭きながらスマートウォッチを眺めると、同じようにペットボトルの水を飲んでいた。そこで俺に気が付くと、照れくさそうに小さく会釈をした。

 以前の俺なら、見向きもされなかっただろう。そしてすぐにガツガツと行ってたかもしれない。でも、そうしなかった。

 俺は、笑顔で彼女に会釈をすると、再び走り出した——