短編小説『苺と練乳』
——7月の午後。
最高気温が30度を超えた日。部屋の中はエアコンの冷たい風がゆるやかに循環するだけの、静けさに包まれていた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、テーブルの上のいちごを照らして、瑞々しい赤をより鮮やかに浮かび上がらせている。
27歳で同棲を初めてから1年。
僕と遥香はソファに並んで座っていたけれど、さっきまでの軽やかな会話はもうどこにも残っていなかった。遥香が丁寧にいちごのへたを取って並べ直している姿を見て、僕は何気なく口にした。
「なんだかお母さんみたい」
ほんの軽い気持ちだった。褒めているつもりだった。彼女の優しさや、世話焼きなところが、ふと家庭的な温かさを連想させただけのこと。
でもその言葉が落ちた瞬間、遥香の指がぴたりと止まった。
「……なにそれ?私、幹夫のお母さんじゃないんですけど」
微笑みかけていた唇の端が、わずかに引きつるのが見えた。
——それから部屋に落ちた沈黙はとても重く、粘つくようだった。秒針の音さえ聞こえないほど空気が張りつめ、僕の胸を締め付ける。エアコンが効いてるはずなのに、嫌な汗が噴き出して背中を伝っていく。
遥香の肩がわずかに固くなり、息を潜める気配が伝わってくる。
テーブルの上のいちごの甘い香りが、かえってこの空虚を際立たせていき、生唾を飲み込む音すら聞こえてしまうようだった。こうなってしまった遥香とは視線を合わせるのも怖く、僕はただじっと自分の膝を見つめ続けていた。後悔が波のように押し寄せ、さっきの言葉が耳の中で何度も反響していた。
——言わなきゃよかった。
恐らく、お互いが同じことを思っていた。
どれくらい時間が経っただろう。遥香がゆっくりと息を吐き、静かに顔を上げた。彼女は絞り出すような低い声で告げた。
「……ねえ、いちごに練乳かける?」
精一杯の何気なさを装った一言が、張りつめた空気を極細のカッターで綺麗に切り裂いてくれた。それは不貞腐れたような、照れ隠しのような……頬を赤らめ、背けたままの顔は少し震えていた。
……彼女に、先にそう呟かせてしまった。
そんな遥香が切ないことと、単純に申し訳ない気持ちで胸の奥が高ぶり、僕は目頭が熱くなった。その一言に救われた気がしたのだ。
重く淀んでいたこの狭い部屋という世界に、じんわりと柔らかい光が差していくような感覚。
「……うん。ごめんね」
僕がそう漏らすと、遥香はゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けた音がする。
「練乳……ないね」
「あ、うん……そういえば切らしてたんだ。僕、買いに行ってくるよ」
ぎこちなくそう答えて立ち上がると、彼女は椅子に掛けてあった薄手のカーディガンを羽織っていた。
それを不思議そうに僕が見ていたことに気づくと「何よ……一緒に行くのは嫌なわけ?」彼女は、目も合わさずにそうこぼした。
「や……嫌なわけないだろ? 近くのコンビニに練乳……あるかな?」
「ま、行ってみればわかるでしょ」
彼女はいつもの長財布を持つと、少し笑ってみせた。
僕らはイチゴをテーブルの上に置いたまま、外へ出た。
夕暮れでもまだ外は暑く、ぬるくて湿った風が頰を撫でる。歩き出してしばらく無言だったけれど、僕はぽつりと呟いた。
「苺ってさ……『母』の字が使われるよね。あれって、ひとつの親株からつるを伸ばして、次々と子株を生み出す苺の性質があるからなんだって」
「ふうん、それで?」
「その様子が、子どもを産み育てる『母親』に似ているところから、母という漢字が当てられたって言われてるみたい」
「……なんだか昔っぽい理由」
手を後ろで組んで歩いていた遥香が、振り返ることも無くぼやいた。
「まあ……令和だと、こんな発想出ないだろうね」
「ほら……わかってんじゃん」
「あ……ごめん、まだ気にしてた? だからごめんって」
「バーカ。許さないー」
遥香はそう言って、僕の背後に回り込むと腰をバシンと叩いた。
「痛って」
でもその声には、もうさっきの重さはほとんど残っていなかった。彼女の横顔が、街灯の光の中で少しだけ緩んでいるのが見えた。
僕らはそのまま、コンビニまでの短い道を、並んで歩き続けた。
苺に練乳をかけると、より美味しくなるように、僕らもこんな小さな凸凹を経て、少しずつ仲が、味が深まっていくのかもしれない。
