短編小説『紙の重みを知る人たち』
次々と閉店していく書店。この市内にも、もう二軒しか残っていない。
佃書店の店主、佃新造は重く錆びかけたシャッターを開けた。昔はその瞬間を待ちわびたように人が店に流れ込んで、雑誌や書籍を次々と買い求めたものだったが、彼の目に映るのは、誰も歩いていない寂れた商店街。
シャッターを開けても空っ風しか入ってこない現状にため息をつきつつ、雑誌の棚を整理し始めた。
今日も午前中でお客さんは五人、そのうち本を買ったのは二人。残りの三人は定年後、暇を持て余した同級生の冷やかしだった。
買い物ついでに、散歩ついでに顔を出してくれるが、本など一度も買ったことがない。この歳になっても付き合ってくれるアイツらは嫌いではないが、定年のない私はまだまだ働かねばならない。
年金だってろくに貰えるかもわからないのだ。少しでも店の売り上げを……そこまで思って、またため息をつく。
時計の秒針の音しか聞こえない、静かな店内。
書店は、もう……どこもこういう雰囲気なのだろうか。電子書籍の影響か、それとも若者の読書離れ、活字離れなのか。
そう思って手にしていたのはホラー小説の文芸書。ズシリと重たく重厚感があった。そういえば市内にあるもう一つの書店、モリトキBOOKSさんのとこには、だいぶ行けてはいないが、店主の昭一さんは元気でいるだろうか。
一個上の先輩だった彼。ホラー小説が好きで、おすすめの本をよく教えてもらった。そして本屋を始めるにあたって、何も知らない自分にいろいろと教えてくれた。本が売れに売れた全盛期を乗り切れたのは彼のおかげと言っても過言ではない。
……とはいえ、今はもう見る影もないが。
妻がパートに出ているおかげでなんとかやっていけているが、書店一本ではもう……限界だった。ウチもそろそろ畳むべきか……でも、そうなると紙の本屋の火がこの街から消えてしまう……歴史小説の新刊本を並べながら、ぼんやりとそう思っていた。
そんななか、一人のお客がやってきた。
「——いらっしゃいませ」
見ると、中年の、いわゆるチェックシャツにデニムにメガネという、いかにもなオタク的な風貌。そういえば、昔はたくさんいたなあ、こんなタイプ。写真集とかコミックとかよく買いに来てたのを思い出す。
そしてすぐにまた、キョロキョロしながら別のお客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
またしても同じタイプのお客だった。今度は女性みたいに髪が長く、バンダナを巻いており、手には指ぬきグローブといういでたち。絵にかいたようなオタク像に思わず「おほっ」と声が出た。
彼らは特にこれ、といった目的もなくやってきたようで店内をうろうろしている。男性客の場合は目的買いが八割で、入店と同時に目当てのコーナーへまっしぐら、というのがまず定番だ。
しかし彼らは店内をうろうろするばかりで、目的が読めない。中年のオタクが、ウチみたいな店にいったい、何の用だろうか。
そう不思議に感じているところへ、さらにお客が入ってくる。それはまたしてもオタクの男性。恰幅の良い、腹の出たオーバーオール姿の男性、そしてその後ろには迷彩柄のセットアップの男性。
どういうわけか、そういった男性ばかりが続々と店内にやってくるのだ。
「これはいったい……何事だ?」
寂れた商店街にある佃書店に、そんな男性客が次々とやってきて、久しぶりに賑わいを見せている。店内にこんなに人がいるのはいつ以来だろうか。そのうち、最初の男性が雑誌を手に会計をしに来た。買いに来た……。
「……五百八十円です、はい、ありがとうございます」
そうなると接客にも俄然、覇気が出てきた。なるほど、店の活気というものは、私のやる気をも取り戻させてくれる活力になる……忘れかけていたことを思い返していた。
その後も次々と男性客らはレジに並び、私はまさにあの頃に戻ったような高揚感を感じていた。そしてその日は、夕方までそんなことが続き、久しぶりに九万円という、高い売り上げを記録した。
私は帰宅すると、鼻息も荒く、妻にありのままを報告した。
妻は「あら……それは良かったね。まるで、あの頃みたいだわ」そう顔をほころばせて喜んでくれた。
「だろ?書店もまだ捨てたもんじゃないってことさ。明日も頑張るぞ」
「あらあら、やる気も良いですけど、無理しなさいでくださいな」
妻は食器を片付けながらコロコロと笑って見せた。
私は店に活気が戻ったことで、少し興奮してなかなか寝付けずにいた。
ああ……毎日こうだったら、どれだけいいだろうか。
本がずっと売れれば妻もパートに出なくても良い、年金暮らしのアイツらにも、少しは良い顔ができるかもしれない。
でも、急にどうして……浮かれてはいたものの、そこに関しては一抹の不安があった。
——翌日、店のシャッターを開けると既に数人が外で待っていた。
「あ、お待たせしました、どうぞいらっしゃいませ!」
その声に反応するようにお客は店に入っていった。私は途中だった雑誌出しの作業をしながら、接客に追われた。
これはしくじったな。こうなると、朝は少し早く出て雑誌を作らねば、開店に間に合わない。文庫や書籍の新刊も早めに並べたい。
釣銭も足りなくなるので、多めにしないといけない。キャッシュレス決済というのにも手を出すべきなのだろうか。
お客が増えるにつれ、やることが次々と増えてきた。そういえば、昔はこんなことをしょっちゅう思いながら働いていたっけ。忙しくなるにつれ、私は書店で働いてる感覚を、久しぶりに取り戻していった。
そしてその夜も、妻に報告をした。
「雑誌が売れるんだよ、取次店に相談した方が良いかな?」
「すぐには決めない方がいいんじゃない?今だけかもしれないし」
「それは……そうだな、こんなこと今までなかったもんだから、つい浮足立ってしまった」
日中の疲れから、あっという間に眠りについたのも久しぶりだった。
あの頃は普通に忙しさに流されたまま、何も考えてなかったけれど、働くということが……こんなに楽しいことだと実感できるなんて。
きっと、その日の私の寝顔は微笑んでいたに違いない。
佃書店に異変が起きてから、ちょうど一週間が経った。
毎日、朝のシャッターを開けると、すでに数人の男たちが商店街の冷たい風に耐えて待っている。
みんな四十代から五十代半ばくらい。チェックシャツにデニム、迷彩柄の上下、オーバーオール、バンダナに指ぬきグローブ……。まるで昔のコミックイベント会場からそのままタイムスリップしてきたような面々だ。
しかし彼らは、確実にお金を落としていく。雑誌、写真集、ライトノベル、昔のアニメ関連本、果ては専門書に近い鉄道写真集まで注文が入った。
彼らの目的はバラバラだが、どの客も必ず何か一冊は手に取ってレジに並ぶのだ。売上は連日八万円を超え、ピークの日は十三万円にまで迫った。
佃書店にとって、それは二十年近く前以来の数字だった。
三日目の夜、妻の美和子が珍しく真剣な顔で言った。
「ねえ、新造さん。その人たち……本当にただの本好きなのかしら?」
「ん……?どういう意味だ?」
「だって、顔ぶれが毎日ほとんど同じなんでしょう?リピーターってレベルじゃないわ。まるで……何か目的があって集まってるみたい」
私は笑って手を振った。
「まさか……それは気のせいだよ。久しぶりに本屋が賑わってるんだ。深く考えなさんな」
そう話しながらも、心のどこかで私も同じ違和感を抱いていた。
——そして八日目の午後、事件は起きた。
いつものように店内が十人近い客で埋まっていたとき、入口の自動ドアが開き、一人の若い男が入ってきた。
二十代後半、黒いパーカー、肩に大きなカメラバッグ。明らかに他の客とは雰囲気が違っていた。男は店内をゆっくり見回すと、棚の間を歩きながら、小さな声を漏らした。
「……やっぱりここだったか」
その瞬間、店内にいた中年のオタク客たちが、一斉に動きを止めた。空気が凍りついたような沈黙が訪れ、見ていた私も動けなかった。
若い男はそんな空気にも構わず、スマホを片手に棚の書籍を次々と撮影し始めた。フラッシュは焚いていないが、明らかに盗撮めいた行為。
最初に動いたのは、腹の出たオーバーオールの男だった。彼は静かに若い男の前に立ちはだかり、低い声で言った。
「……ここ、撮影禁止ですよ」
「え? 書店で撮影禁止って聞いたことないですけど」
「それはあなたの常識が不足しているだけです、本を撮るなんて万引きと一緒ですよ。基本、撮影禁止です。ここから出ていってください」
他の客たちも、ゆっくりと若い男を取り囲むように移動し始めた。空気が重く、明らかに尋常ではない緊張感が店内に満ちていた。
私は慌ててレジから出てきた。
「ちょっと、みんな落ち着いてください!お客さん、すみませんが撮影はご遠慮ください」
若い男は鼻で笑った。
「いいんですよ、佃さん。僕はただ、確認に来ただけですから」
「確認……?」
「この場所が、まだ『残ってる』かどうかの確認です。ここにある本なんてね、もうすぐ全部データ化されるんです」
「データ化……?」
「そう、紙の本なんて、来年いっぱいでほぼ終わりだって話ですよ。佃さん、国が推進してる『文化資源デジタル移行計画』って知ってます?」
店内の空気が、さらに冷えた。
若い男は構わず続ける。
「……でも、そんな流れに逆らった面白い現象が起きてるって噂で聞いてね。最近、ここの書店だけ急に売上が跳ね上がってるらしいじゃないですか。だから気になって見に来たんですよ……あれ?もしかして、あなたたち『紙の本を最後に味わう会』の人たち?」
わざとらしいその言葉で、店内にいた中年の男たちの表情が一変した。バンダナの男が、初めて大きな声を出した。
「黙れよ……デジタル推進局の犬が、」
オーバーオールの男が、新造に向かって深々と頭を下げた。
「佃さん……すみませんでした。私たち、迷惑かけてしまいましたね」
「いや……というか、キミたちは……そういうことか」
新造は呆然としながらも、ようやく事態を理解し始めていた。
——彼らは、デジタル化の波に抗う最後の抵抗者たちだった。
紙の本が次々と絶版になり、書店が消えていく中で「最後に、ちゃんと紙で本を読みたい」という純粋な思いを抱いた者たち。
SNSも使わず、口コミだけで情報を回し、まだ残っている書店を巡礼のように訪れているのだという。
そして佃書店は、市内で「最後に残った二軒」のうちの一軒だった。
若い男は肩をすくめてみせた。
「……まあ、いいんです。どうせあと数ヶ月で、この店も潰れるでしょうから。データなら全部残りますよ。電子書籍で安く、いつでも読めます。紙なんて、邪魔だし重いだけじゃないですか」
その言葉がきっかけだった。
迷彩柄の男が、静かに一歩前に出た。
「……重いからこそ、モノの価値があるんだろうが」
彼は、手に持っていた一冊の古いハードカバーを、私の目の前に差し出した。
「これ……昨日買ったやつです。『銀河鉄道の夜』。子供の頃に図書館で借りて読んだやつと同じ版。カバーの手触り……紙とインクの匂い。ずしりとした重さ。ページをめくる指の感触……全部、物語と一緒に覚えてるんです。こんな体験、電子書籍じゃ、絶対に味わえない」
それを皮切りに他の客たちも、次々と自分の買った本を胸に抱いていた。新造の目が、じわりと熱くなった。
若い男はため息をつき、カメラバッグを肩にかけ直した。
「はは……まあ、お好きにどうぞ。書籍のデータはもうほとんど揃ってますから。今さらこんなことしたって、無駄な抵抗ですよ」
そう言い残して、彼は店を出て行った。静けさが戻った店内で、オーバーオールの男が新造に深々と頭を下げた。
「本当に、すみませんでした。僕たちは……ただ、最後に紙の本をちゃんと手に取りたくて、集まってただけなんです。目立たないようにしようと思ってたのに、結果的に店を騒がせてしまったみたいで」
「……いや、いいんだ。みんなありがとう」
私はそんな彼らをゆっくりと見回しながら、話し続けた。
「君たちのおかげで、私は久しぶりに、本屋をやってて良かったと思えたんだよ。私こそ、夢を……ありがとう」
——その夜、佃書店はいつもより一時間遅くまで開いていた。客たちは、最後の一人まで丁寧に本を選び、会計を済ませ、静かに店を出て行った。
最後に残ったバンダナの男が、出口で振り返って小さく言った。
「佃さん……この店、できるだけ長くやっててください。僕たちの仲間は、まだまだ読み足りない本が、たくさんあるんです」
私は静かに頷いた。
シャッターを下ろした後、帰宅すると、妻にその日の出来事をすべて話した。彼女は熱い味噌汁をよそいながら静かに微笑んだ。
「ねえ、新造さん。もう少しだけ……頑張ってみない?」
私は妻の顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「そうだな。少なくとも、あいつらが来てくれる間は……この店、畳むわけにはいかなくなったからな」
——翌朝、佃書店はいつもより少し早めにシャッターを開けた。
冷たい風が吹く寂れた商店街に、今日も数人の男たちが、静かに並んで待っていた。私は深く息を吸い、いつもの声で言った。
「いらっしゃいませ」
その声は、風に乗りながら静かに、しかし確かに、寂れた商店街の奥まで響いていった。
