短編小説『そのトンネルの先に』
——長いトンネルの中をガタゴトと揺れながら電車が走る。
窓の外は黒より黒い漆黒で、いま進んでいるのが電車なのか、それともトンネル自体なのか、わからなくなりそうだった。僕はただ、長椅子に座ったまま、向かいの窓を見つめている。
気づくと暖房が切れたかのように車内が冷えていて、吐く息が徐々に白くなっていた。手袋もしていない指先はかじかみ、はーっと息を吹きかけて温めても、すぐにまた冷たさが戻ってくる。
周りには僕以外、誰も乗っておらず、ガタゴトという走行音だけが響き、車内の温度が下がるにつれて、天井の蛍光灯がチカチカと点滅を始めた。
ずっと暗闇のトンネルを眺めていた。
そのうち、ああ、これはまるで僕の人生のようだ。そう思うようになった。思い返してみても、今まで自分に光が当たったことなど一度もなく、誰かの光をうらやむことばかりだった。
誰かが笑っている横で、僕はいつも影に立っている。誰かが褒められているとき、僕はただの笑顔を見せるモブのような存在。そうして光はいつも、僕の少し横をすり抜けていく。決して僕を照らすことはない。
かさついた手のひらを眺めながら、そんなことを考えているうちに、車内の冷えが一層強まった。
まるで冷凍庫の中のように吐く息が白く、それは自分の存在を証明しているかのように濃くなっていった。
この冷たい暗闇はどこまで続くのか、それは誰にもわからない。ただ、必ずトンネルには出口がある。……そういえば、いつかの朝礼で専務が言っていたなあ。
その出口にはどんな景色が待っているのか、最後くらいは僕を明るく照らしてくれるのか。それとも、猛吹雪の真っただ中か、闇のままか。
どれにしろ、僕の人生にも最後というものがあるのなら、その瞬間だけはこの目で見ておきたい。
——と、連結部のドアが開いた。ゆっくりと、軋むような音を立てて。そこから、制服を着た年配の車掌が、静かに入ってくる。帽子を深くかぶっていて、顔は影に沈んでいて見えない。
手に古びた切符ばさみのようなものを握ったまま、ゆっくりと車内を歩いてくる。僕の視線に気づいたのか、車掌は足を止めてこちらを向く。
その時、蛍光灯のチカチカが一瞬強く光り、その顔がはっきりと浮かび上がった。
……知っている顔だった。
「藤原……?」
大学時代、いつもつるんでいた藤原。アイツがなぜこんなところに? しかも車掌だって……?僕は思わず声をかけた。
「藤原、お前……そんな恰好で何やってるんだ?」
その問いに藤原は反応しないまま、機械のように口を開く。
「切符を拝見します……」
ゆっくりと、僕に近づいてくる。切符ばさみが、カチンと音を立てる。
「おい待ってくれ、藤原だよな? 切符って何だ? そんなもの……」
慌ててポケットを探ると、折れ曲がった乗車券が一枚、入っていた。古びて端が擦り切れ、文字がかすれている。
「え……?あった」
藤原はその乗車券を見ると、何も言わないまま、パチンとハサミを入れた。小さな紙片が、床に落ちる。
「ご乗車ありがとうございまーす、次は……」
誰に話すでもなく小さくそう呟きながら、藤原は踵を返し、隣の車両に戻っていった。連結部のドアが、ゆっくりと閉まる。
「何だったんだアイツ……大学時代のままだったぞ……」
そこで僕はあっと思い出す。
——藤原は、もう何年も前に死んでいることを。
病気だったと聞いているが、病名は詳しく覚えていない。
アイツが入院してから僕たちは連絡を取らなくなった。いや、正確に言うと、取れなくなった。病室には電話は無いし、携帯電話を持ち込むことも出来なかった。
一度だけ、病室に顔を出したことがあった。僕はその変わり果てた姿に、掛ける声が無かったことを思い出す。
——骨と皮。
やつれ切った顔で、アイツはそれでも笑いかけてくれていた。まだ三十代なはずなのに、やせこけた姿はまるで老人のようだった。
僕はそんな彼にどう返していいかわからず、いつも通りに話しかけて良いのかもわからず、いつもの僕たちらしからぬ空気のまま、差し入れの蜜柑を置いて帰った。
藤原とはそれっきりだった。
次に見たのは、棺桶の中の花に埋もれていた白い顔。
……あいつは最後にどんな景色を見たのか。
話せるなら聞いてみたい、そう思って僕は席を立ち、キンキンに冷えた連結部のドアを開けた。
車両奥に向かってゆっくりと歩く藤原の後ろ姿を捉えると、僕は白い息を吐きながら声をかけた。
「藤原! お前、あの時……病室で、最期に何を見たんだ!?」
制服を着た藤原が立ち止まる。
彼の吐く息が白く見えた。ため息だろうか。
車内はさらに冷え、蛍光灯のチカチカが、乏しくなって消えた——
暗い車内の薄明かりのなかで、振り向くような衣擦れの音が聞こえた。「俺は……お前が、羨ましかったのかもしれない……普通にしてるお前が」
「えっ……?」
「腕も足も細くなり、力も入らない……介護なしじゃトイレにも行けない……なあ、俺はこれで本当に生きてるのか? 毎日毎日、白い天井にそう問いかけていた……」闇の中、吐く白い息だけが見える。
「藤原……?」
「……そんな時、お前が来てくれたよな。正直……もう来ないだろうと思ってたから、嬉しかったのは本当だ。でも、それはすぐに……嫉妬に変わってしまった……」暗闇の中、ゆっくりと近づく足音が聞こえる。
「検査だなんだと……針やチューブを言われるがままに埋め込まれ……ろくに飯も喉を通らないのに……クスリばかりが増えていく。同じ部屋での同じことの毎日。……それに対して、手も動く、耳も聞こえるし目も見える。何でも食べられてどこにでも行ける、なに不自由なく……普通に生きてるお前が……、ただ眩しくて……羨ましかったんだ」
「僕が……眩しい……?」
いつの間にか目の前に藤原は立っていた。
そして僕の耳元でささやく。
「……だから、俺と同じにはなるな」
「えっ?」
——薄暗い部屋。
ベッド横の椅子でうつらうつらしていた女性が、異変に気付く。
「あっ……」ナースコールが鳴り、すぐに医師と看護師がやってきた。
「少し咳き込んでいます、意識が戻りました!」
「尚也!」その声に聞き覚えがあった。
母さん……?
ぼんやりと見える母さんは涙を浮かべていた。ベッドから出ていた僕の手を優しく握る感触が、少しだけ伝わってきた。
酸素注入というやつだろうか、あちこちに器具が取り付けられてろくに動けないし、ぐるぐると眩暈もして吐き気もする。
「母さん……」声は出ないが、口から空気が漏れた。
「尚也……!」母さんが見守る中、僕はストンと暗闇へ戻っていった。
——。
ガタゴト、という音が遠くでまだ響いている。しかし、電車の中に藤原の姿はもう居なくなっていた。
藤原……アイツは言った。「僕が眩しかった」と。
こんな何もない僕をそう言ってくれた。病床の淵での言葉、アイツの言う通り、優しさからではないかもしれない。でもずっと暗闇だと思っていた僕の道に、小さな光が差した。そう思わせてくれたのは、紛れもない事実だった。
……それだけでいい。
今の僕にはそれだけあれば、ずっと遠くまで照らしてくれる光になる。
そして、このトンネルはもうすぐ抜けるかもしれない。そんな予感が胸をよぎった。
……その先の景色が見たい。
そしていつか藤原に話すんだ、僕が見た景色を。
ガタゴト、という音が、少しずつ明るい響きに変わっていく。
窓の外の漆黒が、ほんのわずか、薄れ始めた気がした。吐く息の白さが、ゆっくりと、じんわりと消えていく。
——この先は、どんな光が待っているだろう……なあ、藤原。
了
