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短編小説『針にかかったのは』

「へええ、キミも釣りをやるのか。川?なら、良い場所知ってるんだよね」

 会社の喫煙所でばったり会った上司と、会話の糸口を探そうと趣味の話を振ってみたら、意外にも食いついてくれた。上司は片手でぺたりと張り付いたような不自然な前髪を何度か気にしながら、煙草をくゆらせていた。

 社内では煙たがられたり、腫れ物扱いと噂の上司も、やはり人の子なのだと思いながら、他愛のない世間話を続けた。
「そうなんですよ。良かったらその場所、教えてもらえたりします?」

上司は少し考えてから、にやりと笑った。
「ああ、あそこなら今の時期、ウグイがちょうど良いぞ。ウキ釣りでも十分楽しめる。俺もここんとこよく行ってるんだ。場所は……そうだな」
そう言って、スマホを取り出して地図を見せてくれた。
「キミのように屈託なく話せる部下が居ただなんて、嬉しいよ。そうだ、次の昇進の話が出てるんだがキミを推しておこうかと思う」

——まさに棚から牡丹餅、瓢箪から駒。

 こんな些細な事で私の昇進の話に繋がるだなんて。結果的にこの上司に話しかけて良かった。

——気を良くした私は、さっそくその週末、教えてもらった川に着いた。

 上流から流れ落ちる滝の音が遠くに響き、木々が鬱蒼と生い茂る谷間に、澄んだ水がサラサラと流れている。陽光が葉の隙間から差し込み、それが水面に揺らめいて美しかったが、どこか人の気配が薄く、鳥の声さえ控えめに感じた。

 川辺は苔むした岩と落ち葉に覆われ、足を踏み入れるたびに湿った土の感触が靴底を伝う。上司の言う「良い場所」は、確かに静かで、釣り人らしき影は見当たらない。少し奥まった淵の辺りに腰を下ろし、私は竿を準備した。

 それから三時間、一向にウキは沈まなかった。長期戦もやむなしと、コーヒー片手にアウトドアチェアに腰を沈めて構える。
 それからしばらくすると、ウキがわずかに反応し、ずしりと重い感触が伝わってきた。
「おっ!やっと来たか」
 今日、初の手応えに緊張しながら竿を握り、獲物の動きを探る。ぐいっと竿がしなり、引っ張られる手応えに大物の予感がした。
 逃がさないよう慎重に泳がせ、体力を奪うように綱引きのような地味なやり取りを続ける。

……だが、しばらくすると違和感を覚えた。

 獲物に動きがないのだ。恐らく、生き物ではない。しかし、川の流れを含んだ不気味な重さがあった。私は何を釣り上げたのだ?

 やがて、静かに浮かび上がってきた獲物。私は水面に目を凝らした。

——魚、ではない……。

 塊。何かの塊としか言いようのない、得体のしれないモノだった。これはいったい何なのだ?私は静かに岸に引き寄せ、釣り上げたその正体に思わずゾッとした。

——髪の毛の、塊だった。こんな川に髪の毛がどうして?そう思った瞬間、遠くから声が聞こえてきた。

「返せ……私の髪を返せ……」
 恨めしそうな低い声が遠くに聞こえた。私は恐怖のあまり、竿を放り出してその場から逃げ出した。というのも、その何者かが近寄ってくる気配を感じたのだ。まさか川釣りで、幽霊の類と遭遇することになるとは。

 しばらくして、恐る恐る川に戻ってみると、釣り上げたはずの髪の毛は綺麗に消えていた。流れて行ったのかはわからないが、代わりに、釣り糸の先に残っていたのは黄色い毛鉤けばりだけ。糸などを巻き付けて魚の餌の昆虫などに似せて作った疑似餌で、私のは安いやつなのですぐ壊れた。残った毛鉤に絡まった髪の毛を見つめ、逃げるように川を後にした。

——翌日、会社の喫煙所で例の上司と一緒になったので、早速その話をした。すると、上司は深妙な面持ちで、ゆっくりと語り出した。

「ああ……君も見たのか。実はあの川の上流の滝で、昔、身を投げた男がいてな。下流で遺体が上がったんだが、どういうわけか髪の毛がごっそりなくなっていたらしい。魚に食われたにしては不自然でな。それ以降、あそこで釣り人が髪の毛を釣り上げると、『髪の毛を返せ……』って不気味な声が聞こえてくるって噂があるんだよ」

 深刻そうに話す上司の髪に、ふと見覚えのある黄色い毛が一本、ぺたりと張り付いた前髪の根元あたりに絡まっているのを見つけ、私は全てを察してしまった。

「……へえ、そんな不思議な話もあるんですね」
 私は笑いを堪えながら、タバコに火をつけた。

 どうやら社内でタブーとされているもの●●●●●●●●●●●を釣り上げてしまっていたようだ。

 たまたま、喫煙所で会った職員が釣りの話を持ち掛けてきた。まさか、この社内に釣り好きが居たとは。私は久々に、同じ趣味を分かち合える人間と出会えたことに高揚し、いつもより饒舌になっていた。そのせいか、私だけが知る穴場もつい教えてしまった。
 まあいい。これから釣り仲間として付き合うことになるかもしれないそんな彼と、こうやって釣り情報を共有するのも悪くない。
 釣り仲間か——私は思わず口元がほころんでいた。

 気持ちが高ぶった私はその終末、ウグイ釣りに出かけた。もちろん例の川だ。滝に近い上流ではそこそこの釣果が得られた。やはりここは良い穴場だった。
 そして新調した胴長靴の装備のおかげで、岸からのキャストよりも、浅い水深地で竿を振れるというのは大きかった。——と、にやけていた瞬間、私は大きな水しぶきと共に、川で派手に転んでしまった。
 うっかり苔の岩を踏んでしまったか。調子に乗りすぎた。慌てて体勢を整えて、なんとか立ち上がることに成功したが、違和感を感じた。

 頭部がいつもより、寒い。肌で風を感じる。
 あっ!と思わず手を頭に当ててみると、頭部の地肌に触れてしまった。

——無い。

 私は慌てて辺りを見回したが、川の流れが速いのか、アレは見つからなかった。これは困った。私の13万8千円もした尊厳を水に流すわけにはいかないのだ。それを返せ……と漏らしながら、ざぶざぶと下流に向かった。

 ほどなくして、下流でそれを見つけた。

 しかも釣り針に引っかかって、竿と共に岸に打ち上げられていたのだ。これを放り出して当の釣り師は何処へ行ったのだろうか。
 そんなことはさておき、とそれを針から外しにかかると、誰かが近づく気配がした。釣り針のかえしのせいでなかなか外れず、私は慌ててグイっと引っ張るとなんとか外れ、急いで物陰に隠れた。

 そこに現れた男に私は驚いた。あの喫煙所で話しかけてきた男だった。

 そうか、彼もここに来ていたのか。釣り仲間として嬉しい反面、これはこれで困ったことになった。

彼はアレを見てしまったのではないだろうか——

 今まで会社で知るものは一人も居ないはずだ。それがバレたとなると……そう困惑していると、彼は竿からモノが消えたことに恐れをなして逃げ帰っていった。

——しめた、彼は「釣り上げたもの」を心霊現象と思っているかもしれない。私はすぐさま、滝で亡くなった男の話をでっち上げることにした。ひとつの賭けではあるが、明日逢ったら、彼にそれを話して反応を見てみよう。

 喫煙所で話した直後、彼は不思議な話もあるもんですねとすんなり受け入れてくれた。
これは、大丈夫かもしれない。やった。私は尊厳を守ることに成功したのだ。

——その直後、……おや?ガラスに映る自身を見て違和感を覚えた。


「……というわけなんですけど……あれ?どうかされました?」
 今の今まで話していた上司が急に黙り込んだ。どうしたのだろうと気にしつつ話していると、どうやら喫煙室のガラスに映った自身の違和感に気づいてしまったようだった。

『あ。』

 ということは同時に、私がその事実を知りながら、見て見ぬふりを決め込んで、上司のつくり話に乗っかっていたこともバレてしまったに違いない。

「……」
 さっきまでの空気が一転し、喫煙所は非常に重たくなってしまった。空調の音だけが狭い空間に響く。

——どれだけ時間が流れたのだろうか。
5分?10分?永遠とも思えた喫煙所の静寂を、上司の重たい口が開いた。

「……残念だが、キミの昇進の話は、白紙。という事で良いな?」
——突如現れた有望な釣り仲間は、私の秘密を知ってしまった。

「ですよね……」
——降って湧いた昇進の話は、まさに今吐いた煙のように消えてしまった。

二人は喫煙所を去り際、奇しくも同じことを思っていた。

『ああ、あの時、話しかけなきゃ良かった——』





※今回は、以下の企画に参加させていただきました。

#風まかせ文芸部 #白紙