短編小説『メランコリックに捉われた女』
パナマ帽に長い髪を束ねただけの彼女はいつも、その古本屋の奥の棚にいる。人一人がやっと通れるような本棚の隙間を縫った先にある、埃っぽい独特の空気の中。背表紙が褪せた本たちに囲まれた一角で、彼女は目を細めながら、指先でタイトルをなぞるようにして本を選んでいる。
——彼女が選ぶ本には、いつからか、決まった共通点が生まれていた。
メランコリックな気分になる本を、彼女は好みがちだった。
たとえば、誰かが静かに死んでいく話。
たとえば、恋が始まる前に終わってしまう話。
たとえば、誰も責められないままにすれ違ってしまった二人の話。
今日、手に取った一冊は薄い水色の表紙の本。
タイトルは『届かなかった最後の手紙』
著者の名前すら読めないくらいかすれた文字で、奥付を見ても一九六八年としか書かれていない。彼女はそれを宝物のように胸に抱いたままレジまで運んだ。
家まで歩いて帰ると、コーヒーを淹れてすぐにソファに沈み込む。先程まで曇っていた空からは雨がぱたぱたと落ちてきており、家の窓を叩き始めていた。
——いい音だ、と彼女は思う。
ページをめくる音と、雨の音が混じり合うとき、少しだけ時間が緩やかに感じる気がして心地よかった。
——物語は、戦争が終わって間もない街で、婚約者の帰りを待ち続ける女性というものだった。彼は必ず手紙をくれると言った。どんなに遅くなっても、必ず最後に一通だけは送ると約束した。しかし結局、最後のその一通は、彼女のもとに届くことはなかった。
コーヒーを片手に彼女はそこまで読んで、ふと手を止めた。
「……あぁ、まただ」ため息のような声が漏れる。
悲しいのに、どこか安心しているような、奇妙な感覚。
——彼女は知っているのだ。
この先、女性は彼の名を呼びながら泣き崩れることも、そこから誰かを恨むこともなく、ただ静かに年を取っていくことを。それでも夜が明ける度にカーテンを開け、あの道の向こうから彼が帰ってくる姿を思い描いてしまう切なさを。
それがわかっているから、胸がきゅっと締め付けられる。と同時に、ひどくほっとした気持ちにもなれた。
「うん……」
彼女は読みかけの本を閉じずに、開いたままで膝の上に置いた。
窓を眺めると、小降りになった雨がまだ降り続けている。
「……今日も、知らない本じゃなかった。まだ、大丈夫……」
誰に言うでもなくそう呟くと、彼女は俯いて静かに目を閉じ、思いを馳せた。
——この本を最初に読んだ時の感覚、それをまた味わえた。
でもその感覚を、私はいつまで消えることなく持ち続けられるのだろう。皺だらけの手のひらで掬った浜辺の砂が、乾いた指の隙間からさらさらと少しずつこぼれるように、日々、少しずつこぼれていく私の記憶。ただ無慈悲に正確に刻まれていく時間の流れに、ちっぽけな存在の私が抗う術などない。
過去に捉われずに、次々と新しいものを取り入れていけばいいじゃないかと人は言う。しかし、私はそれと引き換えに、古いあの日の感情を喪失していくのではないかと、恐ろしく感じていた。
ああ、健さん——
やせこけてしまった左手の薬指に鈍く光るプラチナの指輪。彼との眩しかった日々を覚えているのは、もはや私だけとなってしまった。仲の良かった美恵子も芳江も、義三も皆、私より先に逝ってしまった。
だから私は日々、少ない年金を握りしめてあの古本屋に通っては、めぼしい作品を掘り出して読み漁っている。それは自身の記憶の喪失を確認するという大事な作業のひとつでもあったのだ。
そして、その作業自体が、彼女のメランコリックな感情にますます拍車をかけていたことを、いつからか自覚していた。
「でも明日の私は……今日のこの感情を、ちゃんと覚えているだろうか」
長い白髪を束ねただけの小柄な彼女が座るソファの後ろには、背の高い、大きく立派な本棚が並ぶ。そこには多種多様な文庫本がぎっしりと詰まっていて、壁一面を埋め尽くしていた。
そしてこの隣の部屋の書庫にも、あの古本屋を超えるほどの蔵書量がある。彼女はそこを記憶の書庫と呼んでいた。そして、その中の奥には薄い水色の表紙の本『届かなかった最後の手紙』も並んでいた。
「こぼれていきませんように……こぼれていきませんように……」
静かな雨の音のなか、開いたままのページの端が、ゆっくりと湿っていく。
それは、雨のせいなのか、涙のせいなのか、誰にもわからない——
今回はこちらの企画に参加させていただきました。
