短編小説『トーストをくわえて走る少女』
朝の陽射しが眩しい住宅街を、私は身支度もそこそこに、トーストを口にくわえたまま全力疾走していた。
「遅刻遅刻! もうやだ、今日も寝坊だよ……!」
曲がり角で急に視界が塞がり、勢いよく誰かにぶつかった。
「いたっ!」
トーストが宙を舞う。慌てて顔を上げると、そこにいたのは見慣れない男子生徒だった。背が高くて、肩幅も広く、制服のブレザーが少し窮屈そうに見える。
「あっ、ごめんなさい! 急いでて……」
「いってえ……何だよ、ちゃんと前見ろよ。っていうか走りながらパン食うやつなんて初めて見たわ」
その呆れたような声に、カチンときた。
「これは、時短なんですぅー!」
そう言い捨てて、私は拾ったトーストを再びくわえると、あっけにとられる彼を置き去りにして、びゅーんとその場から走り去った。
ギリギリチャイム前に教室に滑り込み、ホッと息をつく。隣の席の未希が、にやにやしながら近づいてきた。
「彩花ってばまた寝坊? あれ?顔真っ赤じゃん。どうしたの?」
「もう、聞かないで……朝、変な奴にぶつかってさ。『パン食うやつ初めて見た』とか言ってくるしさ……久しぶりにイラッとした!」
未希に愚痴をこぼしていると、担任の先生が教室に入ってきた。
「はい、みんな席について。今日は新しいクラスメイトを紹介します」
ざわつくなか、ドアが開き、背の高い男子生徒が入ってくる。
……朝のアイツだった。
「橘樹生です。よろしく」
瞬間、私は思わず立ち上がって指をさしていた。
「あーっ!」
その声に橘もこちらを見て、眉を寄せる。
「お前っ……朝の! 何だよ、初日から最悪だわ」
頭を掻きながらぼやく彼に、私は食ってかかった。
「なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないわけ!?」
『……何?知り合い?』……周りのクラスメイトがざわつき、未希に両肩を押さえられてようやく座らされた。そして先生が告げる。
「橘の席は……そうだな、沢木の隣が空いてるからそこで」
橘はため息をつきながら私の隣に腰を下ろし、そっぽを向いて独り言のように呟いた。
「んだよ、席まで近いのかよ……罰ゲームじゃねえか」
「フン! こっちこそ!」
私たちはそっぽを向き合いながら、そう呟いた。ホント、最悪の出会いだった。
午後のホームルームで、担任がクラス係の話を始めた。
「はい、みんな聞いてー。今日は残りの係を決めていくから。特に二人組の仕事が多いから、希望がある人は挙手してくれー」
隣りの未希が小声で耳打ちしてくる。
「彩花、掃除当番とかやりたくないよね?」
「うん、そこは絶対パスしたい……」
次々と生徒が挙手し、決まっていく。そして残りの人数もだいぶ少なくなったころ、担任は名簿を眺めながらニコニコと告げた。
「そうだ、図書委員は……橘と、沢木。お前ら仲いいんだろ?」
教室が一瞬静まり返り、次の瞬間、ざわめきが広がった。
「えー!?」
私は思わず声を上げると、隣の橘も同時にこっちを見て、あからさまに嫌そうな顔でため息をついていた。
「……は?俺とこいつ?」
「私だって……! 先生! 私、図書委員なんて無理です! だって本とか全然……」
そう必死に話す私に被せるように、担任がまあまあと静かに語り出した。
「橘も初めてのクラスだし、沢木が優しく教えてあげてくれるといいんじゃないか? 席も隣同士だし、お前は面倒見が良いほうだろ?」
担任の無垢な一言に、クラス中が「おおー!」と騒ぎ立てる。橘はため息を吐きながら、ぼそっと呟いた。
「罰ゲームの続きかよ……朝から最悪の出会いしたと思ったら、今度は図書委員だなんて……」
「はあ?こっちのセリフだわ! アンタこそ、背ばっかり高くて図書委員なんてやったら本棚に頭ぶつけそうじゃん!」
私はムキになって言い返すと、未希が隣りから笑いながら突っつく。
「ねえ彩花、顔赤くなってない?」
「うっさい!怒ってんだから当たり前じゃん!」
橘がこちらをチラッと見て、口の端を少しだけ上げたような気がした。「まあ、いいよ。担任のご指名ならやるしかねえだろ」
「……フン。こっちこそ、仕方ないけど……」
そこから、ギスギスした空気に一変した。
図書委員の初仕事は、放課後の図書室での本の整理だった。
静かな室内に、数人の生徒が勉強やら読書やらをしているようで、時折ページをめくる音だけが響く、静かな空間だった。
私は梯子の上から本を下ろし、橘は下で受け取って分類していく作業。さっきの件もあり、お互い無言の時間が長くて、正直息苦しい。
「……ほら、次」
「うるせ、ちゃんと確認しろよな」
「アンタこそ!」
そんなやり取りを何度か繰り返した後、橘がふと手を止めた。
児童書の棚の前で、薄い絵本を手に取っている。
「なに? 橘って絵本とか興味あるわけー?」
作業しながらぶっきらぼうに呟いた。
またすぐに悪態を被せてくるかと思ったが、その時はいつもと少し様子が違った。
「……俺さ、絵本好きなんだ」
——え?
思わず梯子から振り返った。背の高い橘が、自分が言った言葉に照れているみたいに目を逸らした。
「は? 絵本? アンタが?」
「うるせ……小さい頃からずっと好きなんだよ。ストーリーも挿絵も……特に挿絵が水彩画のやつ……好きでさ。ずっと見てられるんだ」
橘は照れ臭そうに頭を掻きながら、棚に絵本を戻した。
「水彩って美術の時間みたいにあの……絵の具で描くやつ?」
「ああ、そうだ。俺、その水彩画がちょっと得意でさ……それで、いつか自分で絵本を描くのが夢なんだよ……バカみたいだろ」
最後の言葉は本当に小さくて、ほとんど聞き取れなかった。
私は一瞬、何も言えなくなった。意外すぎて、ついじっと橘の横顔に見入ってしまった。いつも仏頂面で偉そうにしている彼が、今は耳まで赤くなっている。
「……へえ」
小さく呟いた私の声に、橘がチラッとこちらを見た。
「なんだよ。笑うなら笑えよ」
「え?笑ってないし。……ただ、意外だっただけだし」
私は慌てて別の本を棚に戻しながら、なるべく素っ気なく続けた。
「夢とか……別にバカみたいだなんて思わないよ。いいじゃん……まあ、アンタがその夢を叶えようが叶えまいが、私の知ったことじゃないけど」
橘は「ふん」と鼻を鳴らして、また作業に戻った。でも、さっきより少しだけ肩の力が抜けているように見えた。私は内心、小さく動揺していた。
ムカつく奴。最悪の出会い。
なのに、ちょっとだけ……この人のこと、知りたいかも、なんて思ってしまった自分にイラついた。
図書室の窓から差し込むオレンジの夕陽が、並んだ本の背表紙を優しく染めていく。今日の整理作業は、思ったより長くなりそうだった。
——別の日、午後から雨が降った。
傘を持ってこなかった私は未希と一緒に帰ろうとしたが、彼女は委員会で遅くなるという。靴箱の前で外を眺めながらどうしようかと思案していると、傘が視界の外からにゅっと出てきた。
「これ、やるよ」
驚いて振り向くと、橘だった。
「え? だって、橘のは?」
「俺は良い。このくらいの雨なら気になんねえし」
橘は傘を私に押しつけると、そのまま校門へ走っていった。
「……このぐらいって……結構降ってるじゃん……バカ」
私は彼の大きな傘を差して、一人で帰った。
——翌日、橘が休んだ。
担任から風邪だと聞かされて、思わず苦笑いした。
「だから言わんこっちゃない、ほんとバカなんだから……」
口ではそんな憎まれ口を呟いていたが、少し微笑んでいたのを、友人の未希は温かい目で眺めていた。
午後のホームルーム後に、担任が声をかけてきた。
「沢木、お前、橘と仲良いんだろ? 悪いけどさ、今日の配布物、橘の家に届けに行ってもらえるか? 家近いしそのくらい良いだろ?」
「え?先生、それ職務放棄してません? っていうか、そもそもなんで私がアイツの……」
そこまで口にして、傘を借りていたことを思い出す。ぐぬぬ……アイツに借りを作ったままというのが嫌すぎる。
「……わかりました」
私は複雑な思いで担任にそう答えた。
それは横で未希が「彩花、すごい顔してるよ」と引くほどだった。
担任から聞いた橘の家はホントに近くだった。こんな近くに引っ越しして来たのかと思いながら、家に向かった。そこは住宅地にある少し古い平屋の一軒家。インターホンを押すも、誰も出てこなかった。
まあいいか……と傘と配布物を玄関先に置いて帰ろうとすると、ガチャリと玄関のドアが開き、いつもとは違ったマスク姿の橘が出てきた。
「あ……」お互いに声が出た。
私は動揺を隠すように必死に取り繕いながら「あの、ほら、学校の配布物! あと傘! ちゃんと返したからね! ありがと!じゃ、お大事に!」そう早口でまくしたて、そのまま逃げるように彼の家を後にした。
帰り道、私はアイツなんかに何を意識してるのだ、と自分に突っ込みながら歩いた。気が付くとポーッとしてて耳まで真っ赤だった。風邪、うつった?そんなバカな。
――ていうか、バカは、どっちなんだろう。
翌日の学校。
橘はマスク姿ながらも、きちんと出席していた。登校して来た彼は、私を見かけると「昨日は……悪かったな、サンキュ」と照れ臭そうに話した。
「え? アンタから感謝の言葉だなんて、まーた雨が降りそうだわ」
いつものような調子でそう返した。
「は!? どの口が……ってまあいいや、わざわざ来てもらって悪かった」
橘もいつものように悪態をつくのかと思っていたら、意外とスッと引いたことに私は驚いた。
……あれ?なんかちょっと違う。
私はそんな彼に少し肩透かしを食らっていたが、それを気取られるのも嫌だったので「なんだよ、調子狂うなあ……」頭を掻きながら人知れずそう呟いた。
隣りの未希がニヤニヤしているのはなぜだろう。
——それから夏休みとか秋の文化祭とかいろいろあって半年後。
突然のニュースがクラスを駆け巡った。橘が、来月から海外の美術学校に留学することになったという。
絵本作家を目指す彼にとって、大きなチャンスだった。でも、私は素直に「おめでとう」と言えなかった。
「ふん……勝手に行けばいいじゃない。どうせすぐに帰ってくるでしょ」
口ではそう吐き捨てていたけれど、胸の奥がざわついて仕方なかった。なんだよこのモヤモヤ。
そんな私を見ていた未希がため息をつきながら私の肩に手を置いた。
「ねえ彩花、もういい加減気づいてるんでしょ? 橘のこと好きだって」
「……は!?……は!? 誰が、誰があんなバカを!」
未希からのそんな不意打ちに、私は思わずしどろもどろになり、変な汗が額から噴き出ている。
「好きなんでしょ? 彩花が素直になれないのはわかるけどさ、今までみたいにずっと時間があるわけじゃないんだから……! ねえ、橘、ホントに行っちゃうよ? それでいいの?」
「そ……それは……その……」
未希の一押しで、私はようやく自分の気持ちを認めた。嫌いなんかじゃなかった。ずっと……ずっと、気になっていた。
飛行機の時間は夕方。今から間に合うか微妙なところだった。
「未希、私……行かなきゃ!」
「うん、わかってる。でもどうしよう……このままじゃ間に合わない」
「どうやらお困りのようだね、沢木さ~ん?」
そこに颯爽と現れたのは円城寺、いけ好かない男子。秋の文化祭の時には私をモノ扱いし、対決に勝ったら沢木さんと付き合うなどと言い出し、橘を怒らせた厄介者だ。下手に顔が良いから勘違いしており、橘を勝手にライバル視しているお金持ちのボンボンだ。
「橘に塩を送るなんてことはしたくないが、沢木さんが悲しむところはもっと見たくないからね。決して橘に協力するんじゃない、僕は沢木さんの手助けをするんだからね~?」
円城寺は髪をかき上げながらそう言い出し、執事のじいじに連絡を入れ、黒塗りの車をすぐに手配してくれた。
「お、円城寺!いいとこあるじゃん!サンキュ!」
「いやあ、礼には及ばないよ、代わりに今度デートでもしてくれたら……」
「前言撤回っ!」
「ちょっと、それはキツイよ沢木さ~ん」
ナヨる彼に手を振り、私は制服のまま車に飛び乗ると、執事のじいじは「坊ちゃんはああ言っておりますけれど、心配してるのは本心ですから」そうにっこりと微笑み、猛スピードで空港に向かった。
——じいじに礼を言って車を降りると、私は滑走路が見える空港ロビーへ飛び込んだ。
色んな人が行き交うなか、スーツケースを引いた長い背中を見つけた瞬間、私は全速力で駆け寄った。
「橘っ!橘、樹生ー!」
声に驚いて振り向いた橘が目を丸くした。
「え?……沢木?なんでここに……?」
はぁはぁと息を切らしながら、私は彼のブレザーの胸倉を掴んだ。
「バカ……! 勝手に行かないでよ! ……好きなんだから! あんたのことが、好きなんだからっ!!」
耳まで真っ赤になりながら、ようやく言えた言葉が、空港の静かなロビーに響いた。橘は「えっ……」と一瞬固まり、それから照れ臭そうに視線を動かした。
そして、嬉しそうに笑ってみせた。
「……俺もさ、沢木のことがずっと気になってた」
「えっ……?」
ドキドキが早すぎて心臓がパンクしそうだった。ウソウソウソ……!
「パンをくわえてぶつかったあの日から……」
そう呟くと、橘は私をグッと引き寄せた。
出発のアナウンスが流れる中、私たちはようやく、お互いの気持ちを確かめ合うように抱き合った。彼の鼓動と体温を直接感じながら、私は何故か涙が止まらなかった。
「また……会えるよね?」
「ああ、約束だ」
「じゃあ指切り……」
「そうだな」
橘と小さく指切りをした。またいつか、会えることを約束して。
最悪の出会いから始まった物語は、
こうして新しい空へ飛び立つところで、最高の「好き」を交わした。
