短編小説『押入れの中には』
俺は出張で、地方のある古びた旅館に泊まった。
「浜田様、ご一泊で……禁煙部屋ですね。ではこちらの鍵をどうぞ」
エレベーターを降りた三〇四の部屋に入ると、少し色あせた畳が敷いてあり、障子を挟んだ窓際には、景色を眺めながらくつろげるようなイスとテーブルの空間。いわゆる和洋部屋というやつだった。
「……まあ、よくある感じの部屋だなあ」
畳に重いカバンを下ろすと、解放感からネクタイを緩めた。
テーブルの上にはお茶のセットと和菓子一つが置かれ、床の間には掛け軸が掛かり、小さな薄型テレビが置かれていた。クローゼットの横には押入れもあったが、そこには貼り紙が貼ってあった。
『押入れには何も入っていません。開けないでください』
……なんだこれ?
宿泊した部屋の押し入れなど、わざわざ開けることなんて普通はしないけれど、この張り紙は逆効果に見えた。
開けるとどうなるんだ? 何も入っていないと言いながら、実は中には……さっきまで存在しなかった好奇心がむくむくと起き上がる。
——と、そこにスマホの着信があった。見てみると会社からの連絡だった。事後処理がうまくいっていなかったらしい。
「せっかく、くつろげると思ったのに……」
ブツブツ文句を言いながらも、引継ぎのLINEを送った。
そのまま夕食の時間になり、大広間でお膳を平らげたあと、リウマチに効果のあるとかいう温泉に浸かった。客も少なく、貸し切り状態で大きな温泉に浸かれるのは、とても心地よかった。
なんだかんだ言いながらも俺はここの宿泊を楽しんでいた。
小さな売店を覗いて部屋に戻ると窓の外は雨が降り出していた。軒先を打つ音が規則正しく響いている。テレビをつけるとどこもグルメ番組ばかりで消してしまった。
布団に横になると、ふと押入れが視界に入った。
「あ……」
貼り紙は、黄色い蛍光灯の下で妙に目立っていた。
「……開けないでください、か」
体を起こすと足音を立てないように、畳を踏んで押入れの前に立った。襖の取っ手に手をかけると金具の感触が冷たかった。
『何も入っていません』と書いてある。
だったら、俺がこっそり開けても何も問題はないはずだ。どうせ使わない扇風機だとか座布団だとかが入ってるくらいだろう。
そう思いながらスーッと襖を引き開けた。
中の空間は真っ暗の暗闇。目を凝らしたが本当に何もなかった。布団も、座布団も、何も入っていない、ただの空洞だった。
「なんだ……やっぱり空っぽじゃないか」
俺は安堵と、わずかな拍子抜けを同時に感じていた。そう呟いて襖を閉めようとした瞬間、またしてもスマホに通知が入った。今度は妻だった。
『出張、明日帰ってくるんだっけ?』
家から出る前に何度も行ったのに……そう思いながらも俺はLINEをすぐに返していた。
『そうだよ、十八時の電車で帰るから夕飯よろしく』
すぐに既読が付くと、りょ。というスタンプが送られてきた。
そのままスマホでショート動画などを眺めていると、ウトウトしてきて、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
……押入れの襖は空いたままだった。
暗闇から何かが聞こえる。
「……好奇心ってさ、罪だよね」
「えっ?」
俺は飛び起きて後ろへ下がった。押入れから何とも言えない、もやもやとした灰色の影のようなものが這い出てきていた。そしてそれはじりじりと俺の寝床に近づいてくるのだ。
「……ね? 中には何もなかったでしょ? 本当に何もなかったのに」
その影の声が、急に耳元で囁いた。吐息が肌に触れるような距離。俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。額や背中からじっとりとした脂汗がにじみ出る。
「誰かが開けるまでは何もないけれどさ、開けた瞬間に『何か』が、入りこんでくるんだ……わかる?」
冷たい吐息が、頰に触れた。
「それが、私……」そう呟いた影はまるで霧のように俺をすり抜けた。ゾゾゾっと背筋が一気に冷たくなり、鳥肌と震えが止まらない。
「……ひっ!」
目を開けると、天井が見えた。
俺は布団で寝ていた。待ってくれ、さっきの影は夢……?
「何だよ……薄気味悪い夢、見ちまった」
気づくと浴衣は汗びっしょりだった。温泉で汗流したのに……と、ブツブツ言いながらエアコンのスイッチを入れると、鈍い音と共に冷たい空気が部屋に流れる。
喉もカラカラだったので、テーブルに置いておいたペットボトルの水を喉に流し込んだ。
押入れを見ると襖が開いていた。そういえば、さっき閉めてなかったか。そのせいで変な夢を……と思った瞬間、飲んでいた水を吹き出した。
「なんだこれ!? ゲホッ!ゲホッ!」
さっきまで感じなかった強力な臭いが部屋に広がる。
……これはタバコ臭? あれ?ここ、確か禁煙部屋だよな? なのに何だこの匂い、いつの間に……?
ひどい臭いにむせかえりながら、たまらず部屋の窓を開けた。換気したことで一時的には和らいだが、それでもタバコの臭いが消えることはなかった。俺は耐えきれずにフロントへ駆け込んだ。
「すみません、禁煙部屋のはずが、タバコ臭ひどいんですけど……」
浴衣に臭いがついてないか気にしながら、フロントの女性にそう告げると、彼女は少し困ったような表情をしながら口を開いた。
「あ……三〇四の浜田さまですね、もしかして押入れ、開けました?」
「あ……はい、貼り紙があったんですけれど気になってしまって」
「やっぱり……それですね。実は以前、そこの部屋なんですが……」
そう話しだした女性は、辺りを気にしながら声を少し低くした。
おいおい……令和の時代にまさか心霊現象の類とでもいうんじゃないだろうな……? 死に際に最後のタバコを吸った霊がまだ押し入れに……だなんて、そんなベタなわけはないか。そう思いつつも、俺はゴクリと生唾を飲み込んでいた。
「……喫煙部屋だったんです!」
「えっ?」
「だから、そこの部屋が、以前は喫煙部屋だったんです。最近、綺麗にリノベーションしたんですよ? でも、施工業者が押し入れの中のことを忘れてたらしくて、そこに強烈なタバコの臭いが残っちゃてるんです」
「お、押入れにタバコの臭いが……?」
——俺は気づいた。さっき押入れの襖を開けたまま、エアコンのスイッチを入れてしまったことに。
押入れから漏れ出たタバコの臭いが、エアコンの気流と共に一気に部屋に充満する……それで急に臭く感じたのか。
「こうなると、もう丸一日あそこの部屋は使えませんので、申し訳ございませんが別のお部屋に移っていただくことになります」
「……わかりました、俺の身勝手な行動で……すみません」
俺は頭を下げると、フロントの女性から新しいルームキーを貰った。
深夜のホテルの廊下、赤いカーペットの上をビニールのスリッパでペタペタと歩く。廊下の窓に当たる雨の音だけが、いつまでも続いていた。
新しく用意された部屋は二〇七。
その部屋に入ると、こちらも和洋室だった。……が、さっきの部屋より少し狭い。完全に一人用の部屋だろうか。ただ、準備の良いことに布団がもう敷かれていた。
……まあいいか、寝てしまおう。
俺はその布団にごろりと寝転がった。……が、あんなことがあった直後だけあって、すぐには寝付けなかった。
顔を上げると、テーブルの上にはお茶のセットと和菓子一つが置かれ、床の間には掛け軸が掛かり、小さな薄型テレビが置かれていた。クローゼットの横には、——押入れもあった。
そこには貼り紙が貼ってあった。
『押入れには何も入っていません。開けないでください』
