短編小説『例の宿泊客』
私は地方の出張先でトラブルがあり、思わぬ足止めを食って仕事が遅くなってしまった。あれほど報連相を徹底しろと言っていたはずなのに、営業に伝わっていなかったのがそもそもの原因だった。
かといって当人に怒鳴って済む問題でもなく、あちこちに気を回しまくり、事は収まったものの、疲れているのは自分だけのような気がして、思わず気が滅入ってしまった。
そして誤算だったのが、地方の電車は終電が早かったのだ。
帰る電車も無いことから、小さな駅の構内で慌てて近くのホテルを探した。しかし、悪い時に悪いことは重なるもので、今日に限ってビジネスホテルも温泉宿も全て満室だった。
「何だよもう……」
日が暮れてもこの時期の暑さはさほど変わらなかった。ましてやクーラーも無い薄暗い木造の駅舎内はサウナのようだった。
暑さでますます滅入ってしまうも、汗ばむワイシャツのネクタイを緩めながら、タブレットを開いた。
仕方なく検索範囲を広げると、一件の宿がヒットした。それは、市街地から少し山の方へ入った、古びた民宿だった。
「なんだかもう疲れた……ここでいいや」
——夜の山道をタクシーに揺られながら走っていると、白髪交じりの運転手が「この先……あまり人が来ない宿なんだよなあ」とぼそりと言った。
……今日はこんなのばっかりだ。
それさあ、今から向かう客に言わないほうが良くないか? そう喉まで出かかったが、それを言ってしまうと会社と同じだ——そう思ってしまった私は、無理やり目を閉じて聞こえないふりをした。
民宿に着いたのは午後十時を回った頃。木造の建物はまるで時代劇のセットのように古び、軒先の提灯が風に揺れてぼんやりと赤く灯っている。
「なかなか雰囲気あるなあ……」
ガラガラと重い引き戸を開け、薄暗い蛍光灯の明かりが灯った玄関に顔を突っ込み「こんばんは……」と挨拶をするも、誰も出てこない。
嘘だろ……と革靴を脱ぎ、ビニールの薄いスリッパに履き替えているとフロントから老人が顔を出し、無言で鍵を差し出した。
「ああ、木村さんだね? 二階の突き当たり、二〇三です」
「あ……ありがとうございます」
「朝食は朝の六時半から食堂で、ではごゆっくり……」
それだけ言うと、老人はフロントの小窓を閉じた。
「はい……」
私は小さく礼を言って階段へ向かった。
——その瞬間、ねばつくような視線を感じた。
階段横のロビーの隅、煤けたテーブルを囲む三人の中年男たちが……カードゲームだろうか? 各々、手札を広げてニヤニヤとこちらを眺めていた。
年齢は四十代後半から五十代前半だろうか。皆、くたびれたシャツに無精髭を蓄え、脂ぎってはいるが、目だけが異様に光っている。
そのうちの一人がゆっくりと手札をめくりながら、隣の男に何か囁いた。すると三人は揃って、こっちを見ながら低い笑い声を漏らした。
——何か、嫌だな……
ギシギシと板が軋む階段を上る間、他の宿にするべきだったかなと、少し後悔していると私の背中に嫌な汗が伝っていた。
廊下も床板が軋み、他に宿泊客がいないのだろうか、自分の足音だけが妙に響いた。
二〇三と斜めになった札が掛かった部屋に入ると、もわっとした暑さに混じって湿ったカビ臭さと古い布団の匂いがした。さすがに換気をしようと窓を開けると、網戸越しに少しだけ涼しい風が、暗い森の木々がざわめく音と虫の鳴き声を六畳の部屋に運んで来てくれた。
「ふう……とんでもないところに来ちゃったな……とりあえずいろいろあったけど、今日はもう寝るだけだ」
疲れ切った体でワイシャツやスーツを観音開きのクローゼットのハンガーにかけ、洗濯糊がパリパリにきいた浴衣に袖を通した。そして浴衣の帯が異様に長かった。
「なんだこれ? サイズ間違えてんじゃないのか? なんだよもう……」
ブツブツ言いながらも、ぐるぐるとそれを腰に巻いた。
夜が更けた。温泉に入って少しさっぱりし、布団に横になっていると、階下から談笑する声が聞こえてきた。あの三人の声だ。
……地元客なのだろうか。
ここの宿の集客の悪さの原因のひとつに、彼らの存在が一枚噛んでそうな気もしてクチコミに書き込もうと思い、ノートパソコンを開いた。
『例の宿泊客の件で——』と文字を打ち始めたが、キーボードの上で指が止まった。……またやってしまうところだった。こういうところが元の妻にも嫌われるところなのだろう。
ふと、連絡も取れなくなって久しい妻の顔が浮かんだ。
いけない、少し落ち着かなくては……と、目を閉じると瞼にモヤモヤした模様が広がり、それが次第に形を変えていった。すると、不思議と階下の笑い声も遠くなっていった。
——書き込むのはやめておこう。
……ただでさえ宿泊客が極端に少ない現状で、そんな書き込みがあったら一発で私だとバレてしまうことは明白だ。
そもそも、私がここの宿のことをどうこう言ったところで改善されるような状態でもないか、そう思いながらノートパソコンを閉じ、テーブルに置いてあった夕刊をぼんやりと眺めていた。
明日もまた朝からやることが山のようだ……明日も、明後日も、か……
活字を眺めていると次第にウトウトとしてきた私は、そのまま煎餅布団にどさりと倒れ込んだ。
——午前二時頃、廊下を誰かが歩く音がした。
ゆっくり、引きずるような足音。私の部屋の前で止まり、ノブがガチャガチャと鳴った。鍵はかけているはず……。
「……やっぱり来たか、仕方ねえなあ」
低い声は三人分、重なるように聞こえた。
ゾッとした私は飛び起きて窓際に駆け寄った。擦り切れた畳に自分の影が伸びた。……あれ? さっきはあんなに暗かったのに、何でこんなに明るいんだ……?
……ふと、振り返って外を見ると、月明かりが大きな照明のように森を照らしていて、木々の間まで見えていた。そして目を凝らすと、その奥のほうに古い墓石のようなものが並んでいた。あんなところに墓場が……?
気が付くと、廊下の気配も声もしなくなっていた。
やはり、あの三人だったのだろうか……私はしばらく窓際から動けずにいた。彼らに警戒していたのもあったが、それ以上に深夜の夜風が涼しくて心地よかったのだ。何故だろうか……今日一番、心地いい時間だった。
——そして朝。
フロントにいた老人は目を細めて言った。
「さあ、そろそろ朝飯にしますか?」
「おう、疲れたから納豆が良いな」
「やっぱり焼き鮭だろう?」
「……茄子の漬物、まだあるか?」
各々が好みを言い出すので、老人はまあまあといつもの朝食セットを食堂のテーブルに並べた。それはご飯に納豆、焼き鮭に漬物、味噌汁と定番のもので、皆の意見が全て入っているものだった。
「例の宿泊客、この時期には必ず来るなあ」
「仕方ねえよ、本人がよくわかってねえみてえだからな」
「可哀そうと言えば可哀そうなことだ」
各々が咀嚼しながら、飲み込みながら、ワイワイと賑やかな食卓で三人は昨日の男性客の事を話していた。そこへ、二〇三の部屋を片付けた老人が、部屋に置いてあった夕刊を持ってきていた。
「おお、その新聞まだあるんだな。どれ、俺にも見せてくれ」
男の一人が老人から古い夕刊を受け取った。
『宿で自殺か——県北部の山間部の民宿で、宿泊中の木村充さん(42)が死亡しているのが見つかった。警察によると、男性は前夜に同民宿に一人でチェックイン。翌朝、従業員が部屋を訪ねたところ、室内で意識のない状態で発見し、通報した。死因は自殺とみられ、事件性はないとしている』
それ以来、お盆の時期が近くなると彼——木村がこの宿にやってくるようになった。
——霊の宿泊客として。
最初は民宿の老人もさすがに驚いたが、それが毎年続くようになると、さすがに慣れてきた。
——いちおう、御札を持った霊媒師を三人も用意してはいるが、もう保険のようなものだった。恐らく、彼には必要ないだろう。
せめて民宿らしく、糊の効いた浴衣でも用意してあげよう——
