短編小説『百聞は一見に如かず』
近くの公園にある古いトイレに、午前二時、一番奥の個室を利用すると幽霊が出るという噂を聞いた。
さんざん擦り尽くされたような都市伝説に少々興ざめしていたが、それをまるで初めて聞いたかのような顔で話して聞かせてくる琴美。
男子だったら「うるせえ、知ってるわ」とばっさり斬り捨てるところだが、友達として、それなりのリアクションをしながら聞いていた。
「なにそれこっわw アタシ、夜トイレ行けなくなりそう」
「だよね~、私もそれ聞いた時あんまり怖くてトイレ我慢しちゃったもん」
——琴美よ、我慢は良くない。
そんな彼女の膀胱炎の心配をしながら私は話を聞いていた。
それから一週間後。
その日は推しのボーイズグループ『MILKY』のライブがあって、広いホール会場は黄色い歓声と色とりどりのペンライトに埋め尽くされた。ライブは盛り上がり、汗だくになったその帰りには興奮冷めやらぬ推し仲間たちとカラオケになだれ込んで、そこからまた楽しく騒いだ。結局、解散したのは終電がなくなった頃だった。
「じゃあね、また」
皆と別れて外に出ると、空気が少しだけぬるく感じた。深夜の繁華街を一人でとぼとぼと歩きだした。
その道中でどうしてもトイレに行きたくなった。カラオケ店でドリンクバー飲み過ぎたか……少し後悔しながら近所のコンビニを思い浮かべたが、ここからはどこも微妙に遠い。
さて、どうするかと思案しながら歩いていると、公園が見えた。
あれ? この公園確か……数日前に琴美から聞いた、あの公園だった。しかも今の時間は深夜一時五十分。なんというおあつらえ向きのタイミングだろうか。
都市伝説なんて創作だよな、誰かが考えた作り話で、現実にはどれもありえない。令和に幽霊だとか、即AI認定されてプチ炎上するのがいいところだ。私はそう言い聞かせながら古いトイレに入った。
中はじめっとしていて個室は四つあった。一番手前に入ろうと思ったが、紙がない。ウソでしょ……? その隣を覗くと、そこも紙がない。
せめてその隣に……とドアに手をかけたが、空かなかった。使用中?と思い、ノックしてみたが返事はなかった。
仕方なく一番奥の個室を覗くと、紙がしっかり残っていた。
ここまでお膳立てが整えられていると逆に気持ち悪いくらいだが、アタシの膀胱は破裂寸前の風船の如くパンパンで、それどころではなかった。
致し方ない!とそこに入り、便座に座る。ホッとしたせいなのか貯まっていたのか、思いのほかトイレは長くなってしまった。
「ふうう……」
大きく息を吐きながらふと腕時計を見ると、午前二時だった。
——ウソでしょ? いや、ないない。そんなことあるわけない。そう思った直後、少し足元が冷えてきた気がした。個室の扉の下、僅かな隙間から冷たい空気が流れ込んできていたのだ。
この冷たさはエアコン……?そう感じるほど冷たかったが、まさかそんなわけないか。そう思いながらトイレットペーパーに手を伸ばすと、蛍光灯の明かりが急に暗くなった。
接触でも悪くなったかと思い、ふと天井を見上げた瞬間、私は悲鳴を上げた。個室の上の隙間から、髪の長い女性の顔がこちらを覗いていたのだ。
もはやズボンを上げるのもそこそこに、呼吸困難になりながら個室から慌てて飛び出した。その際、履きかけのズボンの裾が引っかかり、派手に転んでしまった。
「痛っ……」
膝を打ち付けたまま振り返ると、上の隙間から髪の長い女性がまだこちらを覗いている。すっかり腰が抜けてしまったアタシは、口をパクパクさせながら後ずさりするのが精一杯だった。
髪の長い女性はぐいっとこちらに首を伸ばし、眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「紙……ちょうだい!」
「えっ?」
「ここさ、なんで紙無いわけ? そっちにはあったんでしょ?」
「え? ええ……ちょっと待って」
私は這いずりながら個室に戻り、トイレットペーパーを手にぐるぐる巻いて髪の長い女に差し出した。
「あー助かる、ありがとう……」
紙を受け取るとその女性は引っ込み、しばらくすると水が流れる音が聞こえた。アタシは出てくるのかどうか見守っていたが、ドアが開く様子はない。
「ねえ……終わった?」
個室の女性に小さく聞いてみた。しかし返事はなかった。
アタシは気になり、恐る恐るそのドアに手をかけた。すると、向こうからグイっと開いた。
「あ……ごめん、ちょっと友達とLINEしてて」
アタシはそう話す彼女の腰に目が行った。というのも、そこにぶら下がっていたのは見覚えのあるペンライト。
「もしかして……あなた、MILKYのライブ帰り?」
「え?そうだけど……どうして?」
アタシはバッグから同じペンライトを得意げに取り出して見せた。
「あ!なんだ、ミルキーズじゃん!良かったよねー!今日のライブ!」
「新曲も盛り上がったよね!ねえ誰推し? アタシRyuくんなんだー」
「えー!私TETSU!良かったらグッズとか交換しない?」「いいねー!」
そこから二人はMILKYの話で盛り上がり、公園を後にした。ちなみにミルキーズとはMILKYを推してくれるファンの呼び名である。
誰も居なくなった静かな公園のトイレ。蛍光灯の薄明かりに照らされた一番奥の個室で、少し姿が透けている女性が途方に暮れていた。
「ショックだわ……ぜんぜん気づいてもらえなかった……」
