元国家安全保障局長が描く「知」の攻防と日本の生存戦略 : 北村滋著『見えない戦争 インテリジェンス・勢力圏・経済安全保障の地政学』
本書の概要――なぜ「見えない戦争」なのか
本書は、内閣情報官・国家安全保障局長を歴任した北村滋氏が、現代の国際政治と安全保障の最前線を「インテリジェンス」「勢力圏」「経済安全保障」という三つの鍵概念から読み解いた意欲作です。
ミサイルや戦車が火を噴く前に、既に勝敗は「知」の攻防によって決しているという事実。
そして、その戦場は国家の情報機関だけでなく、私たちの掌の中にあるスマートフォンや、企業のサプライチェーン、M&A市場にまで拡がっているという現実を、豊富な事例と冷徹な分析で描き出しています。
副題にある「地政学」という語が示す通り、本書は単なる時事解説ではなく、ニコラス・スパイクマンの「リムランド」理論を軸に据えた、骨太の戦略論として構築されている点が最大の特徴といえます。
第1章:インテリジェンスが戦争を決める時代
第1章では、ウクライナ、ベネズエラ、イスラエル・ハマス、そしてイランという四つの最新の紛争事例が俎上に載せられます。
ウクライナ戦争においては、開戦前に米国が公表した情報がロシアの奇襲効果を削ぎ、緒戦の防衛を可能にしたことを詳述。
一方でイスラエルは、ハマスの「ローテク」と「地下」の戦術に対しインテリジェンスの死角を突かれ、神話的な情報優位が崩壊した経緯が語られます。
さらにイランに対する一連の作戦では、サプライチェーンの兵器化や電磁スペクトラムの支配といった、「撃たずに制圧する」インビジブル・ウォーの到達点が示されます。
読者は、現代戦の勝敗が火力の応酬に先立つ「知」の段階で決まりつつあるという冷厳な事実を突きつけられることになります。
第2章:スパイクマン的リアリズムの復活と米中の勢力圏再編
第2章のテーマは「勢力圏思想の復活」。
著者は、2025年に示された米国の国家安全保障戦略(NSS2025)を「トランプ・コロラリー」と位置づけ、米国がリベラルな国際主義から明確に決別し、スパイクマン的リアリズムへと回帰した過程を跡付けます。
ユーラシア大陸の縁辺部(リムランド)を巡る米中の攻防、そして「一帯一路」に象徴される中国の絶対的勢力圏思想は、まさに歴史のルビコン川を渡った大国間競争の構図を浮き彫りにしています。
加えて、氷解する北極圏における米国のグリーンランド重視戦略にも一章が割かれており、
ミサイル防衛・海洋支配・レアアース確保という多層的な意義から、絶対的勢力圏の「北の極」としてのグリーンランドの戦略的価値が解き明かされます。
第3章:経済安全保障と企業インテリジェンスの新常識
第3章は、企業経営者にとって最も刺激的な章と言っていいでしょう。
世界経済がグローバリゼーションからデリスキングへと不可逆的に転換するなか、安全保障の主体は国家から民間へと拡がっており、
企業はもはや「経済主体」であることに安住できない時代に突入していると著者は説きます。
「グリーン経済安全保障」における脱中国依存の必要性、セブン&アイ買収問題を通じて露呈した日本の外資規制の甘さ、「安い日本」を狙うM&A市場に映る国家の輪郭など、具体的な論点が次々と示されます。
特に、企業に求められるインテリジェンス能力に関する「8つの提言」は、経営戦略の実務に直結する重要な指針となっています。

第4章:テクノロジーが再定義する「主権」
第4章では、サイバー空間とAIが国家と企業の意思決定に及ぼす影響が論じられます。
スマートフォンからガバメントクラウドに至るまで、テクノロジーは私たちの生活基盤であると同時に、最大の脆弱性の源泉ともなっています。
著者は、テクノロジーが「主権」概念そのものを再定義しつつあると指摘し、「決定の自律性」をいかに確保するかという問いを鋭く投げかけます。
特定のプラットフォームや半導体、クラウド基盤への依存が、いかに国家の意思決定の余地を狭めうるのか。
デジタル・リムランドという新たな戦場において、日本が主体的な立ち位置を確保するために何が必要なのかが、具体的な政策論と共に展開されます。
最終章:日本は「戦略国家」として生き残れるか
最終章では、これまでの議論が総括され、「縁辺部(リムランド)における紛争の時代」を日本が生き延びるための戦略が提示されます。
著者の結論は明快です。
すなわち、日本は決定の自律性という「主権」を維持するために、レアルポリティーク(現実政治)に立脚した「戦略国家」への脱皮を迫られているのだ、と。
理念や願望ではなく、勢力圏思想が復活した冷徹な国際政治の現実を直視すること。
そのうえで、インテリジェンス能力、経済安全保障、テクノロジー主権を統合した総合戦略を構築することが不可欠であると、著者は力強く訴えかけます。
本書をおすすめしたい読者
本書は、ニュースの断片的な理解を超え、現代世界を動かす深層のメカニズムを掴みたい方には、これ以上ない座標軸を提供してくれることでしょう。
「見えない戦争」の実相を知ることは、もはや教養ではなく、ビジネスと生活を守るための必須の作法であると、本書を読み終えたときに深く実感させられるはずです。
