【逮捕勾留体験記77】善意100%、結果0%
◆このシリーズについて
202X年夏、実際に逮捕・勾留された自分の体験を、記憶の限り時系列でリアルに記録しています。
この体験記は、突然逮捕された日の朝から、留置場での生活、取り調べ、そして釈放までを描いています。
※各話の見出し画像は、内容をもとに生成AIで制作したイメージ画像です。実際の人物・場所・状況を描いたものではありません。
◆地検前夜の崩壊
明日が我が身の地検調べだと告げられてからの6番は、まるで、糸をハサミで断ち切られた操り人形のように、精気を失ってガックリと下を向いたまま、微動だにしなくなってしまった。
さっきまで、この四畳半の檻を丸の内のオフィスに変えるほどの熱量で、キラキラした未来のビジネスプランを語り倒していたのが、完全に悪い冗談のようだ。
――思えば、俺だってこの地獄に放り込まれた初日は、こんな風に世界の終わりみたいな顔をして丸まっていたのだろうか。
初めて冷酷な鉄格子と剥き出しの便器を見たあの日の、恐怖でカラカラに干からびた喉の痛みと、心臓を万力でギリギリと締め付けられるようなあの絶望的な感覚が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
◆善意100%の質問
あまりにも魂が抜け落ちてカタツムリのように縮こまっている6番の姿が、同じ被疑者としてちょっとばかり不憫に思えてきた。
そこで、ほんの気付け薬のつもりで、さっき彼が連発していたあの呪文のような『意味不明な横文字ビジネス用語』について、あえて「それってどういう意味なんですか?」と話を振ってみることにした。
自分の得意分野を喋らせてやれば、少しは脳内にセロトニンが分泌されて元気を取り戻すんじゃないか。
そんな、神様も微笑むような100%ピュアな善意からのアプローチだった。
ところが、だ。
◆講義、始まります。
質問を耳にした瞬間、6番はピクッと眉を動かすと、それまでの絶望の表情をどこかへ脱ぎ捨て、
「えっ、マジでそんな基本中の基本の言葉も知らないの……?」
と言わんばかりの、信じられないものを見るような憐れみの目をこちらに向けてきた。
そして、待ってましたとばかりに、顎をツンと上に向けて、水を得た魚のように嬉々としてドヤ顔での解説を始めやがった。
完全に裏目に出た。
「いいですか、バリュエーションというのは企業の経済的価値を評価するプロセスのことで、特にシード期のスタートアップにおいてはですね――」
せっかくの機会なので、もし俺が今回の件でめでたく会社をクビになり、シャバに放り出されてフリーランスとして生きていく羽目になった際、いつか何かの役に立つかもしれない。
そう思い直した俺は、自前の薄っぺらい官給品の便箋を広げ、芯が先っちょしか出てない留置場特製ボールペンを握りしめて、彼の講義内容を必死に書き留めることにした。
しかし、復活を遂げた彼のトークスピードは新幹線の如く超早口で、俺の貧弱なタイピングならぬ手書きの速度では到底ついていけない。
便箋の上には、文字というよりはミミズがのたくったような謎の線が描かれるばかりだった。
それにしても、だ。
解説を続ける6番の細められた目元をじっと観察していると、どう贔屓目に見ても、明らかな「知識層としてのカースト上位の優越感」がビンビンに滲み出ている気がしてならない。
気のせいか? いや、絶対に気のせいじゃない。
確実に今、この男は鉄格子の中で、俺のことを「可哀想な知的弱者」として見下している。
◆俺の反撃(心の中)
……おい、ちょっと待て新入り。
お前を励まそうと思って、こっちはわざわざプライドを捨ててバカのフリして聞いてやってるんだぞ。
何がバリュエーションだ。
何がシード期だ。
どれだけ高尚なビジネス用語を並べ立てようが、お前も俺も、今着ているのは量販店で買えそうな上下灰色一色のトレーナーで、明日の朝には同じ護送バスに詰め込まれて検事の前に引きずり回される「ただの留置場の住人」同士じゃねえか。
さっきまでの哀れみの感情は一瞬で雲散霧消し、俺の胸の中には、じわじわと煮え立つような理不尽なムカつきだけが残った。
なんだその目は。
釈放されたら絶対に用語ググってやるからなw
◆シーツ袋という最初の試練
就寝前になって、6番はすっかり糸の切れた凧のようになってしまい、口を閉ざしたまま動かなくなった。
布団の配給時間がやってきたが、そんな悠長なことは言ってられない。
40番と二人、重い扉の先にある薄暗い倉庫まで、埃の舞う廊下をゾロゾロと取りに向かう。
倉庫独特の、古いコンクリートと鉄の錆が混ざったような、喉の奥がヒリつく匂いが鼻腔を突き刺す。
部屋に戻ると、40番がまたしても手慣れた手つきで、新入り6番にシーツの入れ方をレクチャーし始めた。
「こうやって、四隅を合わせながらシーツ袋にねじ込むんだよ」
と教える姿は、もはや留置場専属の教育係だ。
6番は、昨日まであの強烈だった22番が寝食を共にしていたエリアに恐る恐る布団を敷いた。
薄汚れた絨毯の床には、22番が残した「居た証」のような、得体の知れない染みが黒ずんで広がっている。
シーツ袋という、どう見ても物理法則を無視した狭い布袋に、布団を押し込もうと四苦八苦してジタバタする6番の姿を見ていると、さっきまでのビジネスマンとしての威厳はどこへやら、妙な滑稽さが込み上げてきて、思わず口元が緩んだ。
◆初見殺しの洗面所
「2人、洗面所へ出て」
担当さんの乾いた声に促された。
6番はまだシーツと格闘していたが、有無を言わさず俺たちは放り出された。
先に洗面を済ませて戻ると、入れ違いで6番が洗面に行き、しばらくして顔面を真っ青にして戻ってきた。
どうやら、洗面所で「あのマフィアの親分」とバッティングしてしまったらしい。
「……ねえ、何ですかあの人。ムキムキの……全身に刺青が入ったおじいさん。マジで心臓止まるかと思いました」
ガタガタと震える彼の声は、もはやビジネスコンサルの面影は微塵もない。
そりゃあ、初見で親分遭遇は刺激が強すぎるわな。
俺もつい最近、同じ目に遭ったばかりだから痛いほど分かる。
風呂場で裸という無防備な状態で、目の前に不動明王の刺青を背負った筋肉の塊(親分)が現れた時のあの絶望的な圧。
蛇に睨まれたカエルどころか、巨大な岩石に押し潰されるような、あの命の危険を感じる威圧感。
まさに任侠映画のワンシーンを、最前列で観させられている気分だ。
◆留置場フルコース
やがて、重苦しい空気を切り裂くように、就寝前の点呼が始まった。
「40番!」 「ハイ」
「23番!」 「はい」
「6番!」 「……ハイ」
やる気のない俺の返事のあと、続いて名前を呼ばれた6番の返事は、蚊の鳴くような、今にも消えてしまいそうな掠れた声だった。
大丈夫か6番。
明日からの検事調べ、あの冷徹なラスボス検事の尋問に耐えられるのだろうか。
今の様子じゃ、魂が半分くらいどこかの洗面所に置き去りになっているみたいだぞ。
シーツ袋にすら勝てず。
親分に震え上がり。
明日の地検を前に魂が霧散する。
俺たちの新入りは、今日も順調に
『留置場の洗礼』
をフルコースで堪能しているらしい。
つづく
自由だと思っていた最後の"当たり前"まで、この場所には存在しなかった。
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