人は吸収したものを放出する
末娘の大切なものが見当たらない。
歩いた道をくまなく探しても見つからない。
そこで、近くの交番に届けを出すことにした。一人では行きにくいというので一緒についていく。
交番には指名手配者や行方不明者の写真が壁一面に貼ってある。娘が言った。「指名手配の人って、何でみんなあんな顔なのかな」
あんな顔、とはもちろん顔立ちではない。
表情というか、人相というか。
わたしの頭を通過せずに口が勝手に答えた。
「子どもの時からずうっとまわりの人に、そういう顔しかしてもらえなかったんじゃない?」
口が勝手に出た言葉は、ゆっくりとわたしの頭と心に返ってきた。「ああ、そうか」
愛情─人は愛情のこもった眼差しを必要とする。小さな時から──小さな赤ちゃんの時も、幼児の時も。わたしはこの数十年でそれをとくと実感していた。
さらに、学生時代の知り合いで社会福祉に関わる人から聞いた、「子どもの心はスポンジが吸った水だけ絞れるように、もらった愛情を吸収して他人を愛することができるのだ、」という言葉が心によみがえる。
報道を目にして、誰かの発言や表情に不快になることもあるし、呆れることも腹の立つこともある。
しかしこの一件ののち、想像力がわたしをいざなう。「この人は生まれてから今までに十分な愛情を、愛情のこもった眼差しを受けなかったのではないか」
誰でも、受けた愛情は十分なはずはない。まわりの人とて人間だし、人間は誰でも不完全なのだし。
そうすると、一方的に呆れたり腹を立てたり非難できなくなる。彼らだけの責任ではないのだから。
ならばせめて、わたしのまわりの、今日すれ違う人、目に入る人たちにそっとあたたかい眼差し─心の眼差しだけでも送ろう。この人たちが行く先々で、誰かにあたたかくできるように。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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