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南に新羅、北に渤海――高麗・朝鮮王朝を経て、韓国と北朝鮮ができるまで



前回は、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼした唐(とう)と新羅(しらぎ)が、その直後に争い始めたところまで見ました。

唐の勢力を朝鮮半島から押し戻した新羅は、旧百済領と旧高句麗領の南部に支配を広げます。一方で、高句麗の旧領すべてが新羅に入ったわけではありません。朝鮮半島北部の一部から中国東北部にかけての地域には、のちに渤海(ぼっかい)という国が成立しました。

こうして朝鮮半島とその北方には、南に新羅、北に渤海という新しい構図が生まれます。

では、そこからどのような歴史をたどって、現在の「韓国」と「北朝鮮」という二つの国に行き着いたのでしょうか。

もちろん、古代の新羅と渤海が、そのまま現在の韓国と北朝鮮につながったわけではありません。現代の南北分断は、第二次世界大戦後の米ソによる軍事占領と冷戦の中で始まり、朝鮮戦争によって現在の形へと固定されていったものです。

ただ、朝鮮半島の歴史を大きく眺めると、半島の南北や周辺地域に、異なる政治勢力が並び立つ場面が何度か現れます。その間に何が起きたのか。大まかな流れをたどっていきます。


最初の大きな転換点は、10世紀の高麗(こうらい)の登場です。

新羅は9世紀末になると、王位をめぐる争いや地方勢力の台頭によって、次第に力を失っていきました。中央政府の支配が弱まると、各地の有力者が自立する動きを強めます。その中から現れたのが、後百済(ごくだら)と後高句麗(ごこうくり)でした。

名前だけを見ると、かつて滅びた百済と高句麗が、そのまま復活したように感じるかもしれません。
しかし、昔の王家が戻ってきたわけではありません。地方の有力者たちが、かつての国名を掲げて建てた、新しい政権でした。

古い国名を掲げることには、かつての国家の記憶を利用し、自らの支配の正当性を示す意味があったと考えられます。

こうして、南東部の新羅、南西部の後百済、中部から北部の後高句麗が並び立つ「後三国時代」が始まります。


この争いを最終的に制したのが、王建(ワン・ゴン)でした。王建は、もともと後高句麗の有力な武将でした。918年、ほかの有力者たちとともに後高句麗の支配者を追放し、新たな王に推されます。

国の名前は「高麗」です。
古代の高句麗は、時代によって「高麗」とも呼ばれていました。王建は、その伝統を受け継ぐ姿勢を示すように、この名を国号に選びました。

高句麗の後継を掲げることは、北方の人々や、のちに渤海から逃れてきた人々を自らの側へ取り込むうえでも、政治的な意味を持ったと考えられます。

王建の高麗は935年、新羅王が国を譲って高麗に従うことを受け入れ、翌936年には後百済を滅ぼして、後三国時代を終わらせました。


一方、北方の渤海は、それより少し前の926年に、契丹(きったん)という北方の遊牧国家によって滅ぼされていました。高麗は、渤海から逃れてきた多くの人々も受け入れます。

こうして高麗は、単に高句麗が復活しただけの国ではなく、高句麗の名前と記憶を掲げながら、さまざまな地域の人々をまとめた新しい王朝になりました。

高麗はその後、旧新羅よりも北へ支配を広げ、朝鮮半島の広い範囲を治めていきます。そして、私たちが今使っている英語名「コリア(Korea)」も、この高麗(コリョ)という呼び名に由来しています。


高麗はその後、モンゴル勢力から幾度も侵攻を受けました。やがてモンゴルが中国を支配して元(げん)という王朝を建てると、高麗は長くその強い影響下に置かれました。

やがて、元は中国での支配を失い、北のモンゴル高原へ退いて北元となります。一方、中国では新たに明(みん)が成立しました。高麗では、従来の北元との関係をどこまで維持するか、新しく成立した明とどのような関係を築くかをめぐって、政治的な対立が深まっていきます。

14世紀後半には、中国で元に反乱を起こした勢力である紅巾軍(こうきんぐん)の一部が、高麗にも侵入しました。南の海からは、日本列島周辺を拠点とした海上勢力・倭寇(わこう)が繰り返し襲来します。こうした軍事的危機の中で、武将として頭角を現したのが李成桂(イ・ソンゲ)です。

やがて明が高麗の北方領域に干渉し始めると、高麗朝廷は明の遼東地域への遠征を決定します。

しかし1388年、遠征軍を率いていた李成桂は、国境近くの威化島から軍を引き返させました。これが「威化島回軍(いかとうかいぐん)」です。

李成桂が遠征に反対した背景には、明との国力差がありましたが、それ以外にも、農繁期や悪天候、疫病、倭寇への備えなど、複数の軍事的な事情があったとされます。

ただし、それだけではありません。高麗の国内では、北元との関係を重視する勢力と、明との関係を重視する勢力の対立が深まり、李成桂と遠征を主導した崔瑩(チェ・ヨン)との権力争いも激しくなっていました。

威化島から軍を引き返したことで、李成桂は結果的に高麗の政治の実権を握っていきます。合理的な軍事判断であると同時に、対外遠征が国内の政変へと転じた出来事でもあったのです。

1392年、李成桂は自ら王位に就き、新しい王朝を開きました。

国号を決める際、李成桂側は「朝鮮」と、彼の出身地にちなむ「和寧(わねい)」の二案を明に示し、明の太祖は「朝鮮」を選びました。

「朝鮮」という名は、古代の国名に由来します。新しい王朝にとって、明の了承を得て国号を定めることは、対外的な承認と支配の正当性を固めるうえでも重要でした。

これが、約500年間続く朝鮮王朝、いわゆる李氏朝鮮の始まりです。

1394年には、都を現在のソウルである漢陽へ移しました。朝鮮王朝は、明や清(しん)との関係を保ちながら、儒教を基盤とする官僚制度を整え、国内を長く統治しました。

ハングルが作られたのも、豊臣秀吉の軍が侵攻したのも、清の軍が侵攻したのも、この長い朝鮮王朝の時代です。


19世紀後半になると、西洋列強のアジア進出によって東アジアの秩序が大きく揺らいでいきます。朝鮮半島をめぐって、清、日本、ロシアなどが激しく争うようになります。

朝鮮半島は、清にとっては伝統的な影響圏であり、日本やロシアにとっても、安全保障や東アジア進出のうえで重要な地域でした。そのため、各国はほかの国の影響力が強まることを警戒し、介入を強めていきました。

結果として、朝鮮半島は自らの意思だけでは動かせない、大国間の駆け引きの場になっていくのです。
日清戦争で清の影響力が後退すると、1897年、国王・高宗(こうそう)は皇帝を名乗り、国号を「大韓帝国」としました。

その後、日露戦争を経て最も強い影響力を持つようになった日本は、大韓帝国への支配を段階的に強め、1910年に併合します。その後、1945年まで朝鮮半島を植民地として支配しました。

1945年、日本が第二次世界大戦に敗れると、朝鮮半島は植民地支配から解放されますが、日本軍の武装解除を進めるため、北側にはソ連軍、南側にはアメリカ軍が進駐します。

両軍の担当区域を分ける線として設定されたのが、北緯38度線でした。

この38度線は、歴史的な国境ではありません。朝鮮側が参加しないまま、米ソ両軍の担当区域を分ける暫定的な線として、急いで設定されたものです。

この線は、二つの国家に分断させる国境として引かれたものではなく、当初、朝鮮半島は将来一つの独立国家になることが想定されていました。

しかし、冷戦の激化によって米ソの協議は難航し、南北ではそれぞれ異なる政治勢力が力を持つようになります。さらに、南北それぞれの政治勢力が、自らの体制による統一を目指して争ったため、分断がさらに強固になっていきました。

1948年、南に大韓民国、すなわち韓国が成立し、北には朝鮮民主主義人民共和国、すなわち北朝鮮が成立しました。

そして、緊張関係が続く中、1950年6月、北朝鮮軍が韓国へ侵攻し、朝鮮戦争が勃発。韓国側にはアメリカ軍を中心とする国連軍が加わり、北朝鮮側には中国人民志願軍が直接参戦しました。北朝鮮は、ソ連からも軍事的支援を受けていました。

戦線は激しく動きましたが、やがて膠着します。双方とも決定的な勝利を得られない中で、長い交渉の末に、戦闘を停止する休戦が選ばれました。

しかし、統一や講和といった政治問題は、解決されないまま現在まで残されています。1953年に休戦協定が結ばれて戦闘は止まりましたが、正式な平和条約は結ばれていません。現在の南北を隔てる軍事境界線は、この休戦時の戦線をもとに定められたものです。

こうして振り返ると、古代の「南に新羅、北に渤海」と、現代の「南に韓国、北に北朝鮮」は少し似ているように見えますが、成り立ちはまったく異なるものです。

現在の分断は、第二次世界大戦後の米ソ占領と冷戦の中で始まり、朝鮮戦争によって現在の形へと固定されたものです。

朝鮮半島は、東アジアの力関係が変わるたびに、大きな影響を受ける場所でした。

唐と戦った新羅も、高句麗の後継を掲げた王建も、明への遠征軍を引き返した李成桂も、外からの圧力の中で、生き残るための判断を重ねました。

一方で、近代の植民地支配や戦後の分断のように、現地の人々の意思だけでは動かせない国際政治によって、国家の行方が左右された時代もあります。

そして戦後には、外部の大国だけでなく、朝鮮半島内部の政治勢力も、それぞれ自らの体制による統一を目指して争いました。

朝鮮半島の歴史は、半島の中だけで完結するものではありません。中国、日本、ロシア、アメリカ。周囲の国々との複雑な関係の中で、何度も形を変えてきた歴史そのものなのです。

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