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東海道五十七次 徒歩の旅⑫吉田宿~岡崎宿

こんにちは。26歳女です。

2024年11月から12月に、18日間かけて東海道五十七次を歩きました。
この記事では、東海道五十七次を歩いた記録を書いていこうと思いますので、これから歩く人にとって参考になればと思います。

これまでの記事一覧はこちら↓

今回の内容

今回は、出発して11日目に歩いた吉田宿~岡崎宿について書きます。
岡崎宿周辺で、安いホテルがなかなか見つからず、吉田宿に続きここでも東海道を逸れる形となりました。
そのため、この日はかなりアバウトに東海道を歩く形となっています。

吉田宿出発

12月5日(木)、天気は晴れ。
前日に宿泊したホテルはこちら↓

宿泊をしたコンフォートホテルは、朝食バイキングが無料でついていました。
6時半ごろに食べに行ったところ、ほとんどの人が男性で、出張ぽい方や、土木系の方が多い印象でした。
7時半ごろになると、女性もちらほら。

前日、べそをかきながら歩いていた私は、3回おかわりをして、のんびりしました。

8時半前に出発。

↑大社神社。戦勝を祈願して、徳川家茂の短刀が奉納されました。

↑姫街道の追分。この常夜燈は、1774年に造られたものです。

↑御油橋を渡って、日本橋から数えて35番目の宿場、御油宿に到着です。
ここは、城下町の吉田宿の堅苦しさを避ける人や、姫街道に行く人たちでにぎわった宿場町です。

吉田宿に続いて、ここにも昔は飯盛女が多くいました。
飯盛女は、本来、旅籠屋で泊り客の食事の給仕をする人たちのことを指していたもので、次第に寝床を相手するようになっていった人たちです。

留女(とめおんな)と呼ばれる客引きも盛んで、歌川広重が描いた東海道五十三次の御油宿では、留女が描かれています。

吉田宿の飯盛女についてはこちら↓

↑御関札立掛場。ここにその日御油宿に宿泊をする大名たちの情報が立てかけられていました。
権威を示す目的と、大名に無礼がないよう、通行人に注意を促す目的がありました。

↑御油の松並木を進んでいきます。
1604年に植えられた松の木600本のうち、350本が残っています。
東海道を示すために、松の木の根本は土が高く盛られています。

400年もここを通る人を見守ってくれていると思うと、エモい。
松並木を抜けてすぐ、赤坂宿に到着です。
御油宿と赤坂宿の間は1.7㎞しかなく、宿場間が短い特徴があります。

↑本陣跡。本陣とは参勤交代の大名や幕府の役人・公家などの偉い人たちが宿泊をする場所です。
本陣が埋まったり、その次に偉い人たちが宿泊をするのが脇本陣。
そして一般人が宿泊するのが旅籠屋です。

↑1711年の街並みが描かれていました。
百姓や商人、水呑など当時の役職も書かれています。
水呑とは、田畑を所有せず、小作地(こさくち)という地主から借りた農地で耕作をして生計を立てていた農民を指します。

ちなみに私のご先祖は、源平合戦に敗れた源氏側の落ち武者だと聞いています。

↑高札場の復元。
高札場とは、幕府や宿場のお触れ書きが書かれている場所を指します。

「親子兄弟夫婦を始め請親類にしたしく下人事
に至る迄これをあはれむべし、主人ある輩は
をのをの其奉行に精を出すべき事」

「火を付る者をしらば、早々申出べし、
かくし置ニおいては其罪科たるべし、
たとひ同類たりといふとも申出るにおいてハ
其罪をゆるされ急度御褒美下さるべき事」

などが書かれています。

赤坂宿では、10月に大名行列、8月に雨乞い祭りという歴史あるお祭りが開催されます。
この看板の近くで花壇を手入れしていた地元の方が、赤坂宿の見どころについて教えてくださいました。

生まれてからずっと宿場町に住んでいて当たり前になっているからこそ、興味を持ってもらえると嬉しいと話してくれました。

↑その方がお薦めしてくださった、大橋屋という旅籠屋にきました。

1809年の赤坂宿の大火事の後に建てられたと考えられている建物で、2015年まで旅館として営業を続けていました。

現在は見学をすることができます。

写真を撮っていたら、この施設のボランティアガイドの方が手招きしてくださって、じっくり歴史について伺うことができました。

↑和小屋組という立派な天井。約8メートルが吹き抜けになっています。

↑奥の階段から、二階に上がることができます。

↑入り口の梁には、唐草文が彫刻されています。入り口の扉が2か所あるのですが、身分によって入り口が異なっていたそうです。

この大橋屋は、歌川広重の東海道五十三次にも描かれていると言われています。

実際に中庭には、このソテツを再現したものが置かれていました。

他にも、この近くで起こった大規模な一揆で捕らえられた人たちの首が、現在の学校の門のところにさらされていたということや、奉公に出されて飯盛女として働いていた女性が自殺をし、当時の飯盛女たちが酷い弔われ方をするのを見ていられなかった人が、お寺に丁寧に供養をした話などを教えて下さりました。

↑浮世絵のマグネットもいただきました。たくさんこの地域の歴史について教えて頂き、大満足でした。社会科見学を独り占めした気分。

解説員の方がいらっしゃらないときもありますが、事前予約が可能とのことです。

訪れる際にはお勧めです。


↑杉森八幡神社。花壇を手入れしていた方が、小さいときによく遊んでいたとおっしゃっていました。境内には樹齢1000年を超える夫婦クスノキがあり、歌舞伎が現在も上演をされているとのことです。

↑一里塚跡。

↑1859年建立の常夜燈。
近くには、落馬によって亡くなった旅人を供養する碑や観音像があります。

↑日本橋から313kmのところにきました。

↑愛知県岡崎市に入りました。

↑この辺りは、赤坂宿と藤川宿の中間に位置する村として栄えた本宿村です。麻細工が盛んで、東海道中膝栗毛にも描かれています。
近くには、法蔵寺という歴史あるお寺があり、歴代の松平家や徳川家康も訪れています。
参勤交代の大名も訪れていて、お寺の近くを通るときには、敬意を払って、馬を降りていました。
法蔵寺の近くでは、醤油の味付けを施した法蔵寺団子が昔は有名でした。

本堂の裏には、新選組の近藤勇の首塚があります。
斬首になった近藤勇の首は、塩漬けにして京都に運ばれ、3日目に同士がこれを盗み、密かに法蔵寺の本堂裏に埋葬したと言われています。

↑日本橋から数えて37番目、藤川宿に到着です。これは、東側の宿場の出入り口を示す「東棒鼻」。
(これまでの宿場だと、出入り口には見付や木戸があったと紹介をしていました)

歌川広重が東海道五十三次に描いていたものを復元していて、藤川宿といったら、棒鼻といわれています。
1872年のこの周辺の写真に、浮世絵のような石垣が写されていました。

↑1795年建立の秋葉山常夜燈。

藤川宿の道は、「曲手(かねんて)」と呼ばれるクランク状になっています。
これは防衛のためや街道の長さを増やして、住む人を増やすためであるともいわれています。

↑格子造りの町屋。

↑問屋場跡。ここで、幕府の公用旅行者や大名などに、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ対応をしていました。
また、幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務を行っていました。

↑本陣跡。隣の岡崎宿が栄えていたため、藤川宿に宿泊する人は一握りでした。本陣・脇本陣はもちろんのこと、藤川宿は全体的に経営難だったそうです。

↑高札場もありました。

↑藤川宿西棒鼻跡。ここが藤川宿の京都側の出入り口です。

↑一里塚跡。
1604年に、東京日本橋を起点として、一里(約4km)ごとに道の両端に塚を造ってエノキを植えました。
人や物を運ぶときの値段の参考になったり、旅人の距離の目安となりました。

この藤川宿の一里塚は、理由はわかりませんが、1804年ごろからすでに片側がなくなっていたそうです。

↑江戸時代の松並木が残っています。
このように、東海道は道の両側に土塁が作られ、そこに松の木が植えられました。東海道の目印だけでなく、夏は木陰を作り、冬は防風林として活躍していました。
これは愛知県の指定文化財に登録されています。

↑西大平藩陣屋跡。
この地域の大名である、大岡越前守忠相のものです。
彼は72歳にして、旗本から1万石の大名となり、3年間藩主を務めました。

↑大平一里塚。これは江戸時代の原型をとどめていますが、もう片方の塚は、1928年に道路改修の際に「破壊されて」います。

今回東海道を歩いていて、ちょこちょこ解説の看板に「破壊されました」というように、当時の道路工事を批判するような書き方があります。
個人的にこの書き方は気になるんだよなあ…。

↑岡崎宿に到着です。
岡崎宿は、岡崎城の城下町として栄え、防衛のために道が何度も屈折しています。私も何度も道を間違え、かなりアバウトに歩きました。
本陣跡やその他歴史的なものは写真に収められていません。

↑徳川家康が生まれたのが、ここ岡崎です。

↑せっかくなので、岡崎城に立ち寄りました。

↑12月なのに、良い感じに紅葉しています。

さて、ここから、私は三河安城というところのホテルに向けて、東海道を大きく逸れました。田舎の田んぼが広がる一本道で、人通りがほぼなく、襲われても気づかれないんじゃないかと思うほどでした。

バスや電車に乗りたくてもない。
足早に歩いたおかげで、宿に着くころには満身創痍。

本日の宿

おなじみのホテルリブマックス系列で、三河安城駅前にやってきました。
6600円。


本日の記録


次回に続く

次回は、岡崎宿~宮宿です。






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