図書館の永遠子さん
※本記事は連作をまとめたものです。
プロローグ 雨の日の邂逅
しとしとと静かな雨が降る日だった。新人司書として配属されたばかりの私は緊張していた。
公立図書館。私は今日から夢だった司書だ。
それは先輩について歩きながら、書架に本を返す作業をしている時だった。
横を誰かが通り過ぎた。
この季節には早すぎるであろうノースリーブの真っ白いワンピース。それと同じくらい白い二の腕に、茶がかった長い黒髪。
目の端に映ったそれらが妙に心に引っかかり、私はその背を追った。はずだった。
曲がり角。書架と書架の間にその女性の姿は無かった。
そうして、その先は…行き止まり。
私が呆然としていると先輩が声をかけてきてくれた。
「井上さん?どうかした?」
振り返った私の顔を見た途端、先輩―五十嵐友紀(ゆき)さんの顔が微苦笑になった。
「井上さん、見ちゃったか…早いな…」
後で説明するよ、と五十嵐先輩は言った。
それが私と〈永遠子さん〉との邂逅だ。
1、依頼
あの雨の日の邂逅から早数年。
事情を教えてくれた五十嵐先輩は異動でいなくなり、私は淡々と日々の業務をこなしていた。
―「あの人はね…人っていうか…いわゆる〈幽霊〉?」
あの初日の昼休み。お弁当を食べながら聞いた話はこうだった。
真っ白いノースリーブワンピースの女性。彼女は雨の日だけ、現れるそうだ。特に悪さをしたりはしない。ただ静かに書架と書架の間を歩いているだけ。
「びっくりしたでしょ?」五十嵐先輩は気遣うように言ってくれた。
「この図書館の公然の秘密、みたいなものなの。―私もいまの井上さんみたく、先輩から教えられたの」最も私は三回くらいしか見た事ないんだけどね。そう言って先輩はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「相性の良い人は何度も見かけるらしいんだけどね。彼女に怯えて退職した人もいるのよ…ここだけの話」先輩は胸の前で両手をだらりとさせ「井上さんは平気な人?怖い人?」と尋ねてきた。
私は正直に「そうですね…正直びっくりしましたけど。―怖くはなかったです」
それを聞くと先輩は破顔した。
「それなら大丈夫」
私は少々不安だったが、五十嵐先輩の快活な笑顔に、気にしてても仕方ない、と開き直りに近い気持ちになって、午後からの業務に向かった。
そうして。今日も静かな雨が降っている。雨の日の図書館は不思議といつもより静かな気がする。
膨大な本達が音を吸い込んでいるような錯覚に見舞われる。
そうして、今日も。
真っ白いノースリーブのワンピース、茶がかった長い黒髪。
すっかり見慣れて、ドキドキしなくなった。最早〈彼女―永遠子さん〉は私の日常の一部だった。
〈永遠子さん〉は私が勝手につけた名前だ。ある時ふと思ったのだ…彼女は永遠に書架をさまよっているのだろうか?と。
そのイメージは物悲しくも美しかった。悲観的なものではなく、不思議なカラリとしたものだった。
今日もいるな。何か読みたい本があるのかしら?どうしていなくなってしまうの? 泡のように疑問は浮かんで消え、やがて〈慣れ〉になった。雨の日の今日も、彼女は。
午後一番の事だった。
カウンター内で、返却図書の整理を行っていると、電話が鳴った。素早く、受話器に手が伸びる。
「井上さん、電話です。市役所の地域振興課の方からです」
呼ばれて、私は少々ドキドキしながら受話器を受け取って、言った。
「はい、お電話代わりました。司書の井上です」
それは地元史の写真展を行うカメラマンの案内をして欲しい、という依頼だった。
私は了承し、日程などは後にメールで送る、という事で電話を切った。
2、出会いと出会い
そうして約束の日がやってきた。
梅雨の走りのしとしと降りだった。
今回、個人で地元史の写真展を行うというカメラマン、呉崎祐希さん。地域振興課の担当者と共に現れた彼は丁寧に名刺をくれた。
私は口頭で自己紹介した。
「○○公立図書館司書の井上心陽(みひろ)です。この度はよろしくお願いします」
お互いに挨拶を終え、地域振興課の担当者が「では、井上さん、よろしくお願いします」と帰ると、早速、館内を案内する事になった。
郷土資料室より先に開架の方を案内する事にした。
慣れない男性に少々緊張しつつ、先導する。と。目の前をすうっと女性が横切った。〈永遠子さん〉だ。
すっかり見慣れている私は、
先に進もうとしたが、背後から息を飲む音が聞こえてきて、後ろの呉崎さんを振り返った。
彼は信じられないものを見た、という風に愕然としているようだった。「呉崎さん?大丈夫ですか?」その様子に不安になり、声をかけた。
彼ははっとしたような顔になり、「はい、大丈夫です…」一拍間を置いてから「井上さん、いまの女性は…利用者さんですか?」
その言葉に私は目を見開いた。
〈永遠子さん〉が見えた…?
「…急にこんな事を言うとあれなんですが、いまの女性にそっくりな方を、直接の知り合いではないのですが、知っていまして」
その言葉に私は心臓が飛び跳ねた。〈永遠子さん〉を知ってる…?
応接室に戻り、対面する形で座り直す。私はお茶を淹れながら、ごく簡単に彼女―〈永遠子さん〉の事を話した。
呉崎さんは、実は、と言ってから「僕は今回の写真展の為に地元の名士達を調べています。こちらだけではなく、隣の町の公立図書館でもお世話になりました」そこで、と言って、お茶を一口飲んだ。
「先程見かけた女性にそっくりな方が映ってる写真を見たんですよ」
私は内心驚きつつ、静かに彼の話に耳を傾けた。
地元の名士にCという人物がいた。彼はとても有能な政治家だったが、好色で、複数のお妾さんを侍らせていて、そのうちの一人の女性に産ませた子供―その子供が、先程の〈永遠子〉さんにそっくりだったと云う。
「…こんな事を言うと引かれるかもしれませんが、僕はいわゆる〈視える〉体質でして。先程の女性がこの世の者ではないのはすぐにわかりました。それでも念の為、『利用者さんですか』と訊いたんです」その言葉に私はコクンとうなづいていた。嘘を言ってるようには見えなかったからだ。
「写真には裏に記名がありましてね、灰田十和子(はいだとわこ)とありました―何でも病気でかなり若い頃に亡くなったそうで…」
―灰田十和子。偶然だろうが私は息が止まるかと思った。その様子が引っかかったのか、「井上さん?」と呉崎さんが顔をのぞきこんでくるようにする。
「実は…」私は心の中で彼女の事を〈永遠子さん〉と呼んでいる、と話した。
「そうだったんですね…」
沈黙が落ちた。
外からは相変わらず雨の音。しとしと。鼓膜を揺らす。
「…もっと彼女の事が知りたいですね。改めて案内をお願い出来ますか?」
呉崎さんが言った。
私は「はい」と答えて、立ち上がった。
3、発見
その日、帰宅した私は、簡単に食事を済ませ、お風呂に浸かった。
「ふぅ…」思わず、息が漏れる。
―まさか、〈永遠子さん〉の事がこんな風にわかるなんて…。
「…灰田十和子」その名を呟いてみる。
外の雨音は昼と変わらず、聞こえていた。
あの後、呉崎さんと共に、まずは郷土資料室へ赴いた。
有益な情報は無かったようだった。
その後、閉架へ。
呉崎さんは数冊の本に興味を示した。
本来、閉架の本は貸し出し厳禁だ。
しかし、それらは保存用ではなかった。ので、特例ではあるが、貸し出しを許可した。
呉崎さんならば、本を粗末に扱わないだろう、という奇妙な信頼も生まれていた。
お風呂からあがり、スマホを手に取ると、呉崎さんからチャットが届いていた。
連絡先を交換していたのだ。
果たしてそこには「奇妙な記述を発見しました」とあった。
「いまはもう廃村になっている、十和子の母親の生家があった場所に〈姫神様信仰〉というのがありまして…」
4、現地へ
次の私の休みの火曜日。
私達―私と呉崎さんのコンビは、〈灰田十和子〉の母親の生家があったという、廃村に向かう事になった。
誰も来ないような山奥に、その廃村はあった。
道中、車の中で呉崎さんは〈姫神様信仰〉について、発見した事実を語ってくれた。
それは世にもおぞましく―悲しい話だった。
その村では数年に一度、〈姫神様〉に生贄を捧げる。
生贄に選ばれた娘達は、炎でその身を骨も残らないように焼き尽くされる―〈浄化〉の為だ。
清らかになった魂だけが〈姫神様〉に仕えられる、と信じられていたそうだ。
ある年、十和子の母親―名を灰田楓(はいだかえで)という―が選ばれた。ここで出てくるのがCである。彼はこの時、村に視察に訪れていた。そうして、楓の美貌に惹かれ、己が妾にすべく、半ば誘拐同然に連れ去ったそうだ。楓本人の意思は謎だ。
困り果てた村人達は別の生贄を立てたが―その山奥の村は様々な災害に見舞われ、少しづつ、少しづつ、けれど、確実に人口を減らしていった。
やがて、廃村が決定される頃、楓が十和子を産んだらしい。
山奥に苔むした階段。その奥には儀式用と思われる広場とお社。
〈姫神様信仰〉の本拠地だ。
ジャリっと足元で砂が音を立てる。梅雨の晴れ間の今日は、空気がじとっと重く、肌にまとわりつくようだった。
私と呉崎さんはどちらからともなく、その場で合掌した。
呉崎さんが持参した懐中電灯の明かりを頼りに、二人でお社に入ってみた。
けれど。
そこには何もなかった。
石碑や何か手がかりになるものがあると思っていた私達は拍子抜けしつつも、奥まで探索した。
やはり、何もなかった。
「…戻りますか」呉崎さんが言った。
「はい」
踵を返しかけたその時だ。
―バサッ
というような音が聞こえた。
二人で同時に振り返る。
光で照らされた輪の中には、果たして、古びたノートが―周囲に棚などないのに―落ちていた。
二人でそっと近寄る。
呉崎さんが手を伸ばした。
古ぼけていて、いまにも風にバラバラと吹き飛ばされそうな、それの表紙にはただ〈記録〉とだけ、書かれていた―。
5、夢と唄と
あの廃村へ赴いてから、三日が経った。
今日も外はそぼ降る雨だ。
私は淡々と作業をこなしていた。
それは午後の事だった。
見覚えのある、茶がかった長い黒髪、白いワンピース。〈永遠子さん〉もとい灰田十和子さんだ。
なんだか久しぶりに見かける気がする。
いつもの彼女はこちらに背を向けていて、追いかけると消えているのだが―今日は違った。
「えっ?」私は思わず、声をあげてしまった。
〈永遠子さん〉がまっすぐにこちらを見て、佇んでいたのだ。
その整った顔立ちにドキドキする。
茶色い瞳に私が映っているのが見えた。
『…れを』
それは耳に聞こえる、というより、脳に響く、という感じだった。
『これを見て…』
〈永遠子さん〉の色白の指先が一冊の古ぼけた本を指していた。
―あんな本、あったかしら?
私は魅入られたかのように、ふらふらとそちらに近付き、その本を手に取った。棚から抜き出す。
表紙には『○○村史』とあった。
あの廃村の名だ。
ぎょっとなり、振り返ると〈永遠子さん〉はいなくなっていた。
夜。帰宅した私は早々に食事とお風呂を済ませ、古ぼけた本と対峙していた。あの『○○村史』だ。
そっとページをめくる。
古い本特有の香りが鼻をつく。
時折、印刷が掠れている。
これはどうやら、個人が作った物のようだ。
村の成り立ち、歴史年表、そして―〈姫神様〉の文字を見つけ、心臓が早鐘のように打つのを感じた。
読んでいく。
〈姫神様〉は土着の信仰である事。その始まりは不明な事などが書かれていた。
パラリとページをめくる。
ふいに目に飛び込んできた。
『とわに とわに
くちびるを
ふれて ふれて
ゆびをとかして
おちて おちて
うまれなおして
とわに とわに
そばにいて』
それを読んだ瞬間、何故か背筋がゾッとした。知らないはずの旋律が耳にこだまする。
―これは唄?
何故か、何も記述がない。
ただ、この唄だけが書かれている。
その夜。夢を見た。
あの廃村の広場。少女達が手に手を取り合って、輪になって、ぐるぐると回っている。
中心で蹲っているのは〈永遠子さん〉だ。
少女達は唄っている―とわに とわに そばにいて―
6、侵食
あの不思議な夢から一夜明け、今日も私は淡々と作業をこなしつつ、考えていた。
―〈永遠子さん〉は何を伝えたかったのだろうか…?
お昼休み。
持参したお弁当を食べ終え、ペットボトルのお茶を飲む。
呉崎さんにチャットメッセージを送ろう、とスマホを手にしたら、彼からメッセージが届いていた。
そこに書かれた一文に、思わず「えっ?」と声が漏れた。
―『記録の生贄の少女達の名前と思しき、記述箇所に〈灰田十和子〉の名がありました』
―どういう事?彼女はあの村の忌まわしき因習とは無関係じゃないの?
鼓膜にあの旋律が流れた。
―とわに とわに そばにいて
「〈姫神様〉…?」思わず小声で呟く。
生贄を求める、黒い手が闇から伸びてくる―そんな気がした。
そうして―唐突に理解した。
戦っていたのだ。〈永遠子さん〉は。
自分を追いかけてくる旋律。
迫り来る魔の手にひとり、対峙していたのだ、と。
―貴女も〈こちらがわへおいで…〉
脳に響く声。スマホから顔をあげる。
ついているテレビの音、談笑する職員達、いつもの休憩室。
それなのに。
背中を汗が伝うのを感じた。
私は焦りにも似た気持ちで、呉崎さんへのメッセージを打った―。
7、灰田十和子について
灰田十和子について―
彼女は地元の名士・Cと灰田楓との間に出来た子供である。
いわゆる妾腹だ。
彼女は記録によれば、十七歳という若さで、生まれつきの持病(詳細不明)により、この世を去っている。
前後、彼女が不思議な旋律の唄をうたう姿が看護師数人に目撃されている。
また彼女は意識が昏倒した際、「行かなくちゃ…行かなくちゃ…」と繰り返していた、という。
迫り来る死の影の中、少女は何に抗い、何を伝えようとしていたのかは、謎である。
8、導かれる
夢を見るようになった。
あの廃村。広場。燃え盛る炎。それとは真逆の湿った水の音。
私は為す術もなく、ただ闇の中をぐるぐると逃げ惑っている。
夢は静かに、だが着実に、私の身体と精神を侵してきつつあった―。
「井上さん、何か良い事でもあったんですか?」
同僚に声をかけられ、私は現実に引き戻された。
ここは図書館。私の勤務先。
外は梅雨の終わりのざぁざぁ降り…。
同僚は、ふふ、と笑い、
「井上さん、最近よく唄ってるから、何かあったのかな?って思って」と言った。
その言葉に怖気が走る。
無意識にあの旋律に身を委ねている…。
脳裏に燃え盛る炎と湿った水の音が蘇る。
―逃げなくちゃ。
焦りに似た気持ち。
―逃げなくちゃ。
何処へ?
―手の届かない場所へ―
呉崎祐希は件の〈記録〉をいま再び、見返していた。
古ぼけたノートは不明瞭で要領を得なかったが、唯一読解可能なページをめくる。
彼はそこに信じられないものを見た。
それとほぼ同時に、彼のスマホが音を立て、チャットメッセージの受信を報せた―。
9、終わりの雨
「…上さん!心晴(みひろ)!!」
バシン、という衝撃を感じて、意識が急激に浮上する。
えっ?
「心晴、しっかりしろ!!」
身体を揺さぶってくるのは―呉崎さんだ。
何故、彼がここに?
ここは私の家のはず…。と、ジャリっという触感を手に感じた。
これは土?
それに周囲が薄ら明るい。これは…。
紙製の灯篭が広場をぐるり、取り囲むように無数に灯っていた。
ここは…あの廃村じゃないか。
そうして身体を見下ろすと、何と私は白装束に身を包んでいた。
―私は混乱した。尋ねる。
「呉崎さん…私はいったい…」
呉崎さんはため息をついた。それは安堵のようだった。
「それは僕が聞きたい。君からチャットメッセージで『たすけて』と来た。他にもおかしな事があって、まさか、と思って、ここに来たら、君が灯篭の真ん中で、自分に火を放とうとしていた。まるで何かに操られているようだった」
間に合って良かった…と、呉崎さんは呟くように言った。
私の混乱は解消されず、混迷は深まる。
と。ポツリ。
頬が濡れた。
雨だ。
見る見るうちに、灯篭に灯った火が消えていく。と。
それらが青白い光に変わっていく。
無数の輝き。
その中心にまるで踊るように〈永遠子さん〉が現れた。
ふわりと空中で静止する。
―ありがとう、これで連れて行けるわ。
そう、聞こえた。
私も呉崎さんも呆然と天に昇っていく〈永遠子さん〉と無数の青白い光をいつまでも眺めていた。
やがて、夜が明けた。
私は呉崎さんに手を引かれ、呉崎さんの車が停めてある場所まで歩いた。ご丁寧な事に足元は草履だったので歩きにくい事、この上ない。
「いったい、何があったんですか?」と私は問うた。
「さっきも言ったが…君から『たすけて』とチャットメッセージが来た。それから…」
言い淀む呉崎さん。
「それから?」私は先を促す。
「信じられない事なんだが…例の〈記録〉のノートの、おそらく生贄となった娘さん達の名前の一番下に…君の…〈井上心晴〉の名前が書かれていた」
だから、ここに来たんだ、と彼は続けた。
車に辿り着いた。
「どうぞ」と呉崎さんが助手席の扉を開けてくれる。
「ありがとうございます」と言って、乗り込む。
呉崎さんは「間に合わせで済まないけど、どうぞ」とタオルを渡してくれた。雨で濡れた髪などを拭く。
呉崎さんが自分のスマホを操作して、チャット画面を見せてくれた。
確かに、私の名前で、私のスマホから『たすけて』とあった。
しかし、いま手元にスマホはない。
いったい、どういう事だろうか…。
ダッシュボードに置かれていた、〈記録〉を開く。
しかし、そこには私の名前などなかった。
「そんな馬鹿な…確かに見たのに…」
呉崎さんが呆然と呟く。
私は言った。
「〈永遠子さん〉が…」
「えっ?」
「〈永遠子さん〉が助けてくれたのかも、しれません」
外はそぼ降る雨。
天に昇っていった光達。〈永遠子さん〉。
あるいはこれが―。
「彼女なりの決着の付け方、だったのかもしれませんね…」
沈黙が落ちた。
雨音だけが世界に響いていた。
私は車の窓を開け、空を見上げた。
「ありがとう、十和子さん」
10、夏へ
呉崎さんの写真展は無事、盛況で幕を閉じた。
あの不思議な日―私を家まで送り届けてくれた日。
私のスマホはリビングのテーブルの上にポツンと置かれていた。
チャットを確認すると、確かに呉崎さん宛に『たすけて』と送信されていた。
スマホからのメッセージ、ノートに現れた私の名前…すべては〈永遠子さん〉…十和子さんが私を助ける為にしてくれたんだと思う。
あの日以降、雨の日でも、図書館に〈永遠子さん〉が現れる事はなくなった。代わりに、といってはなんだが、私は呉崎さんと友人になった。
チャットでメッセージのやりとりをして、時折一緒にご飯を食べに行くようになった。もちろん、割り勘だ。
時々、十和子さんの話をする。
彼女の美しさや眼差し、助けてくれた事…。
彼女はきっと、産まれた時から、あの土地に縛られていたんだろう。
母の代わりとして〈姫神様〉にその身を求められていた。
彼女は余命幾ばくもない身で、それに抗ったのだ。
生贄にされた無数の魂と共に、あの日、彼女は天に昇った、と私は信じている。
これで本当に〈永遠子さん〉と〈姫神様信仰〉にまつわる話は幕を閉じただろう、と思う。
夏の始まりのある日。
呉崎さんから「海へ行かないか」と誘われた。
泳ぐにはまだまだ早いが、その分、人気がなかった。
私は久しぶりの海に、少々はしゃいだ。
ビーチサンダルで波打ち際を歩く。
ざぶんざぶん、と波が足元の砂をさらっていく。
楽しい。
そんな私の後ろを、呉崎さんが静かについてくる。
彼が口を開いた。
「井上さん―いえ、心晴さん」
その声の調子に、心臓がドキリと跳ねた。しかしそれは不愉快なものではなかった。
「僕は貴女の事が―」
波の音と呉崎さんの声だけが、鼓膜に響いた。
〈了〉
※扉の裏側
この物語は、中学生の頃に原型を考えたものです。
雨の図書館に現れる幽霊。
楽しんで頂けたなら幸いです。
