いつか、巡礼の地で(最終話)
2013年7月15日
絵梨 直央 巡礼の地で
眼下には山麓の田園地帯と蛇行する豊かな川が鮮やかに広がっている。あまりの高さに足先が竦み、山頂に視線を移した。
ロープウェイから降り、古木に囲われた広大な境内は寒さを覚えるほどの霊気が漂っている。石段を上りきると本堂に巡礼者が集まっていた。その後ろに並んで参拝を待った。
境内を出て本堂と反対方面に進んでいった。舎心嶽へと繋がる参道の右手には小形の本尊が並び、舗装された坂道から次第に足場が悪くなっていった。
地面に転がる大きな岩を避け、急な坂を登り続ける。やがて石碑が見え、しばらく進み、登りきったところで岩場に座る大師像の背中が見えた。若き日にこの場所で修行したという背中に手を合わせ、岩場の先に広がる雄大な山々を見つめた。
翌日、平等寺からバスに乗り、阿波最後の霊場 薬王寺へと到着した。河口付近にほど近い場所だからか、辺りは開けているように思えた。
厄坂を登り、本堂と大師堂で参拝を済ませ、更に続く厄坂を上り瑜祇塔まで行こうとした。するとリュックのポケットから振動が伝わってきた。携帯を取り出し、画面を開いた。
高山直央の表示でメールが受信されている。
目を見開き、急いでメールを見た。
絵梨ちゃん 久しぶり。連絡くれてありがとう。俺は今、室戸岬におるよ。もし近くにいるなら最御崎寺の先にある灯台で待ってます。俺も会いたい―。
喜びで小さく指が震えた。わたしは境内から坂を下って、駆け出した。
何年かの時を経て、もう一度、会える。
十五年以上前、初めて出会った日のことが脳裏に映し出される。まだ中学生だった頃の直央が描く絵に引き込まれていった瑞々しい記憶。そこから交わした何通もの手紙、再会したあの日の出来事が、順不同に追いかけてくる。意志をたたえた凛々しさも、無邪気な笑顔も、繊細な心が映す幻想も、本当はずっとずっと好きだったのに。その言葉が光に満ちた泉ように溢れていった。
甲浦港近くでバスに乗り換え、海に沿って南下する車窓を見つめた。海岸に押し寄せる白波が眩しい光に輝いている。
修行の道場―。阿波最後の霊場から岬に立つ最御崎寺までの道のりは果てしなく、その名の通り土佐は難所が続く。差し込む光に目を閉じ、杖を突いて歩く大師が苦行に耐え忍ぶ姿に、思いを馳せた。
標識にようやく室戸岬の名前が表れ、しばらくしてバス停に辿り着いた。
バスを降りて灯台が立つ岬へと向かった。道の堤防に波が押し寄せ、海原が西日に照らされている。
第廿四番霊場最御崎寺と彫られた石柱が見え、木々が密集した石段を痛み出した足に耐えながら上っていく。息を切らし、額に滲む汗がこめかみを伝う。
海風とは違う、春を思わす温かい風が肩に触れたような気がした。その風に背中を押されるように、体は徐々に軽くなっていった。
やがて視界が開け、薄暗い石段を抜け境内に出た。本堂を横切り、門が見え、足を緩める。そこには一人の男性の背中があった。大きなリュックを背負った後ろ姿―。微かに触れていた風は耳元をかすめ、全身を包み込んで通り抜けていった。その風の音に振り返るように、男性が後ろを見た。
その姿に目を見開く。
日焼けした顔にうっすらと髭を生やし、髪を後ろで束ね、ベージュのシャツに黒いズボンの男性が立っている。わたしは一歩近づいた。感情が溢れ、言葉が出てこない。次第に目元が熱くなり、じんわりと鼻が沁みていった。男性は口元を緩め、恥ずかしそうに目を細めて笑った。その表情はどこも変わっていない。
「絵梨ちゃん。」
直央が、そよ風のような声で呼んだ。
白亜の灯台の前で夕陽と重なり合う海を見つめた。緊張のあまり、何を話していいのかわからない。言葉が出ないまま、しばらくして直央から口を開いた。
「絵梨ちゃんから連絡があって、びっくりした。そしてすごく嬉しかった。」
胸がいっぱいになりながら頷き、なんとか言葉を出そうとする。
「わたしも嬉しい。こうして直央君と会えて、本当に嬉しい。」
そう言うと、直央は優しい眼差しを向けて微笑んだ。それから遠くの水平線を見る。潮風に髪が揺れ、鼻筋の通った横顔が夕陽に縁取られている。その表情に引き込まれていきそうだった。彼は目を伏せ、今までのことを話しはじめた。
現実を受け入れることができないまま、本当は絵が描けなくなっていたこと、溝ができた母親と距離を置くため県外に就職し、その職場で酷い仕打ちを受けるようになったこと、最後の望みだと思い、葉月の元に押しかけ、そこで再び光を取り戻したこと。
直央は弱々しく笑ってから、わたしを見た。わたしも話しはじめる。不況によって突然解雇され、同時に恋人に捨てられたこと、就職活動に挫折をし、アルバイトで生計を立てていたこと、そのことを誰にも言えず、一人で抱え込こんできたこと。そして、地元に戻ることを決め、偶然訪れた展覧会で直央の絵を見たこと。
途中、何度も言葉につかえながら話した。それでも直央は真剣な眼差しで見つめながら聞いてくれた。わたしは足元に視線を落とし、小さく口を開いた。
「・・・直央君と連絡が取れなくなって、本当はすごく寂しかったし、心配だった。」
視線を移すと、直央は驚いたように聞き返した。
「連絡をしてくれたの?」
「うん、小豆島の写真を送ってくれたあとに何度か送ったよ。確か四年前の春ぐらいに。」
直央は右手で頭を抱え、考え込むようにした。しばらくして瞳を滲ませながら言った。
「・・・精神的な苦痛を受けてたからか、先生に弟子入りする直前の記憶がうまく思い出せないんだ。欠落した空白な部分があるような気はしてて、でも、それもおぼろげだったから確信が持てなかった。その時に絵梨ちゃんから連絡を受けてたんやね。」
「そうだったんだね、直央君・・・。」
「俺のせいで寂しい思いさせていて、ごめん。」
「ううん、大丈夫だよ。こうして会えたんだから。」
わたしは思わず直央の指に触れていた。初めて触れる、ほんの少しの指先の温かさに、薄闇の荒野が春を告げる雪解けのように淡い光に包まれていった。
夕陽が水平線に伸びはじめ、辺りを照らした。周囲の観光客はその絶景に目を奪われている。その幻想的な光景に目を細め、小さく息を吸い込んだ。そして、手のひらに滲んだ緊張を指先で感じながら、直央を真っ直ぐに見つめた。
「わたし、直央君のことがずっと好きだった。再会したあの日から、
ううん、初めて出会ったときからずっと。」
直央は目を大きくした。
「でも、怖くて言えなかった。ずっと自分に嘘をついていたの。いまやっと伝えることができた。」
そう言い終わると、直央は口元を緩めて微笑んだ。
「俺もずっと好きだった。絵梨ちゃんの手紙にどれだけ救われたかわからない。本当は、俺、東京に行ってしまうのが寂しかった。だけど、未熟で余裕がなくて、自分の本当の気持ちに向き合うことができなかった。」
一筋の光が零れ落ちた。直央は深く息を吸い込んでから一歩近づいて、おそるおそる肩に手を置き、胸に抱き寄せた。
細いはずの腕の中はがっしりとして逞しく、そこから伝わる体の熱に力が解けていく。温かく頬が濡れながら微睡むように目を閉じ、胸元に顔をうずめた。
夢じゃない―。
直央はゆっくりと体を離し、濡れた頬を優しくなぞった。それから両手で包み込み、巡礼の地を照らす夕陽の中で祈るように、額を合わせた。
わたしも目を閉じる。
同じようにこの地を訪れる巡礼者の背負う悲しみ、抱える思いに馳せるように―。
目を開け、わたしたちは恥ずかしそうに顔を見合わせて微笑んだ。
直央はじっと見つめながら言った。
「これからは寂しい思いは絶対にさせない。だから、ずっと一緒にいて欲しい。」
わたしは何度も頷いた。
間もなく日は沈もうとしている。オレンジ色の僅かな光を水平線に残しながら、海は薄暗くなっていった。直央がそっと手を握る。
「絵梨ちゃん、明日から一緒にお遍路しよう。」
「うん。また屋島から瀬戸内の海を見たい。」
「そうやね。・・・そして、いつか一緒に暮らそう。あの海が見える場所で。」
そう言って照れ臭そうにする直央に思わず綻び、愛おしさに目を細める。うん、と明るく微笑み、大きな手を握り返す。
静かな夜を呼ぶ海原に伸びる光を、最後まで二人で見つめていた。
(完)
