いつか、巡礼の地で(5)
2013年 6月
絵梨 東京 *性描写があります。
青い光が浮遊し、手のひらに落ちた。水面の上を歩く足元に微かな風が流れ、草花を揺らした。正面には白い森が広がり、真ん中には生命の躍動に脈打つような巨木が根を張っている。森の密やかな呼吸に合わせ、青い光が淡くなり、強くなり、浮遊しながら導いていった。
水辺に辿り着くと巨木の前に、男性の背中が見えた。振り向くその男性の顔ははっきりとは見えない。少しづつ近づくと手を取られ、胸に抱き寄せられた。
強く腕に抱かれ、胸に顔をうずめた。触れたかった温もりに、溶けていくような懐かしい安らぎを感じ、目を閉じた。すると瞳から温かい光が頬を伝っていった。
明るむ藍色の空に浮かぶ月に照らされ、男性の顔がはっきりと見えた。
わたしは目を見開き、息を呑んだ。その男性を、直央を見つめた。
直央は指で優しく涙を拭い、木々の根を覆う柔らかい草原にゆっくりとわたしの体を倒した。そのまま覆い被さり、おそるおそる唇を重ねた。剃られた髭のざらざらとした肌の感触も、筋の通った鼻が頬に当たる温もりも、まるで本物のようだった。
彼の手が乳房に触れると思わず声が漏れ、森の中で木霊した。首筋へ舌を這わせ、乳頭を唇でなぞり、口に含んだ。開かれた太ももの奥の茂みが濡れていく。直央の指先が滴る茂みを探り、突起に触れた。溢れ落ちていく快楽を指先が拾い上げる度に、地面で膝を揺らし、腰を浮かせた。
次第に腕や足から力が抜け、触れられた箇所から痺れるような快感が下腹部まで広がった。わたしは直央のすべすべとした背中にしがみついて、何度も声を漏らした。いつからか、ぽたぽたと涙が溢れていた。首元に引き寄せた直央の唇が再び重なり、口をこじ開け、互いに激しく絡み合う。そして果てへと達したような溶けていく意識の中で、目の前が白く覆われ、見えなくなった。
目が覚めると、朝陽が差し込み、鳥のさえずりが聞こえた。絡みつくような違和感を覚え、下を見るとズボンを穿いていない恰好で下着が湿っていた。小刻みに震えている指先は体液に濡れていた。恥ずかしさのあまり布団から起き上がり、洗面所で手を洗い、勢いよく顔を洗った。
どうして、どうして、どうして―。
どうしてこんな夢を見たの。
洗い終えた顔をタオルにうずめた。いまだ直央のことを忘れらないことと空しい快楽に溺れていた惨めさに胸が締め付けられた。
早めにバイト先に到着し、更衣室に入ると深夜勤務を終えた由衣が座っていた。彼女は手を上げ、おはよーと言って微笑んだ。金髪のボブカットが白い肌を際立たせ、カラコンをつけた瞳がきらきらと輝いている。おはようと返し、制服に着替えはじめる。彼女の本業はフリーのイラストレーターで、足りない収入をコンビニのシフトで埋めていた。彼女が入ったばかりの時に教育係になり、また同い年でもあって顔を合わせるとよく話をした。掴みどころのないマイペースな由衣の性格は気を遣わず、自然体でいられた。
「ねぇ、絵梨ちゃん。辞めるって本当?さっき店長が言ってたよ。」
「もう聞いてたんだね。あと一か月勤めて、地元に戻ることにしたんだ。もう、年も三十手前だし、このままだと不安だったからね。」
ふーん、と聞き流すような口ぶりで由衣は寂しそうな表情をした。それからぱっと明るい笑顔を向ける。
「じゃあさ、今度二人で出かけようよ。そういえば、絵梨ちゃんと出かけたことなかったよね。」
「そういえばそうだね。」
「美術館って好き?」
「・・・うん。好きだよ。最近は行ってなかったけど。」
昔から絵を見るのは好きだった。しかし、直央と連絡が取れなくなってからは、なんとなく足を運ぶこともなくなっていた。
「行きたい展覧会のチケットあるから行かない?その後、美味しいものでも食べようよ。」
そう言って、由衣ははしゃいだ。
駅で由衣と待ち合わせをし、上野公園を歩きながら美術館へ向かった。そういえば、上野に来るのは初めてだった。谷中でメンチカツ食べようーとはしゃぐ由衣に答えながら、藝大や美術館が集まる雰囲気と木々の緑葉が心地良く感じた。
美術館に到着すると「天日展」と大きく掲げられ、大勢の長い列ができていた。はいと言って、由衣からチケットを渡された。画家の登竜門として知られる天日展は全国から出品される公募展であることは知っていた。しかし、こうして展覧会に訪れるのは初めてだった。
受付を済ませ、館内に入ると大勢の人々に圧倒されながら順番に回っていった。全国から入選した作品の前で一つ一つ止まりながら、じっくりと眺めていった。鑑賞に夢中になっているうちに由衣と離れていたことに気がついた。来た道を振り返り、人込みの中から探そうとしたが、見当たらない。先に行ったのかもしれないと思い、順路を進んでいった。
展示は特選へと移った。その中で人々が集まる巨大なキャンバスを後ろから眺めようとした。全体が見えないが、緑葉をつけた太い枝が天に伸びているのがわかる。前方にいた人々がいなくなり、作品の全体像が現れると、息を呑んだ。
青い光が蛍のように浮遊し、水辺に立つ木々を背に一本の巨木が群青の空へと伸びている。咄嗟に作品名と入選者を見た。
「弥終 京都府 高山直央」
目を大きく見開き、そのまま呼吸も忘れたように立ち尽くした。直央君、そう何度も何度も心の中で呼び、その名前が唇から零れ落ちた。
肩を叩かれ、我に返ると由衣の笑顔があった。わたしの表情に気がつくと笑顔が消えていき、心配そうに顔を覗き込んだ。
「絵梨ちゃん、大丈夫?泣きそうな顔してるよ・・・?」
ごめん、そう言ってわたしは走り出し、展示室を出た。入口近くのロビーまで来て、追いかける由衣の気配を感じ、立ち止まった。
「急にごめんね。」
振り返らず、背を向けたまま口を開いた。うん、と答えながら由衣が歩み寄る。
「絵梨、ちゃん・・・?」
涙をこらえようと弱々しく笑いながら、由衣に向き直り、おさまらない鼓動の速さに手を当てた。
「・・・こんなことってあるのかな。」
同姓同名の可能性だってある。でも、もし本当に直央だとしたら―。高山直央と入力し、検索をした。天日展での入賞者名簿の何件か下に「アートサークルGION」と表示され、クリックした。
それは京都を拠点とする画家や陶芸家などで構成され、ホームページ上で作品を紹介し、個展告知や活動報告をしているサークルであった。そのメンバーの中には直央の名前があり、紹介欄には京都在住 葉月崇に師事しているとあった。
翌日、バイトの最終出勤日を迎えた。寂しさを感じながら出勤し、更衣室に入ると由衣が椅子から立ち上がった。
「絵梨ちゃん、これ見て。」
そう言って、由衣は「美術の泉」と書かれた雑誌を机に広げて見せた。そのページを手に取った。天日展で特選に選ばれた何名かの若い画家が紹介され、その中に高山直央の名前と写真があった。髪を後ろで束ね、うっすらと口髭を生やした凛々しい表情を指でなぞる。ホームページの通り、直央は四年ほど前から葉月崇に師事し、京都に移り住んでいた。そして、今後の個展について書かれた文章に目をとめた。
巡礼の地。今後、京都で開催する個展のテーマです。七月から四国の霊場を訪れ、風景画の制作を行っていく予定です。
目を通し終え、思わずそのページを胸に抱えた。いつか、直央から初めて手紙をもらった時のことが蘇る―。
「高山直央さん、素敵な人だね。」
「間違いない。直央君だ。・・・由衣ちゃん、ありがとう。」
「役に立ててよかったあ。行くんだよね?四国に。」
「・・・でも、会えるかなんてわからない。それに、もう年齢的に家族がいるかもしれない。」
「それでもいいじゃん!会えても会えなくても、その人の幸せを祈り続ければいい。そして、絵梨ちゃん自身が本当に幸せになるために行くんだよ。」
熱くなる目元を押さえ、由衣の真剣な眼差しを見つめた。
「・・・そっか。そうだよね。ありがとう、本当にありがとう。」
鼓膜が割れるような蝉の鳴き声に目を開けた。巨大な杉に一匹の蝉が止まっている。しばらくして蝉は羽音を立てながら、上空へと飛んでいった。
極楽寺から三番、四番と進むうちに札所間の距離は長くなっていった。
香川との県境へと山道を進むうちに民家は疎らになり、だんだんと人気はなくなっていった。山が深まるに連れ、からりと晴れた青空は薄暗い雲で覆われ、この先に札所があるのだろうか、と不安が募っていった。ようやく、朱塗りの門が立つ大日寺が見えると安堵に息をついた。
回廊に安置された三十三観音を眺め、鎮座する大日如来を拝んで本堂を後にした。すると向こうから白衣を着た年配の女性が杖を突き、本堂の前で手を合わせた。女性を横切り、長い間拝み続ける丸い背中の「南無大師遍照金剛」が目に焼きついた。
バス停の前まで来て、足を止めた。安楽寺の宿坊に向かうためベンチに腰掛け、バスを待った。遠くの空で日が傾き、県道を走る車が夕陽に照らされている。その光に目を細め、リュックから携帯を取り出した。何年か前、最後となった直央からのメールをしばらく見つめたまま、オレンジ色の光に満ちた海の記憶が蘇る。心を決め、返信画面を開いた。
どうか直央君に届きますように
そう願いながら、おそるおそるメールを送信した。
